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「つれづれなるマンガ感想文」10月前半
「つれづれなるマンガ感想文」11月前半
一気に下まで行きたい
一見、コアマガジンの本かと思ったら洋泉社だった。要するに、テレビのワイドショーネタのマンガで1冊つくったのである。
青林堂や青林工藝舎系の作家が多くて、作品のツブが揃っている。
まずはワイドショーに登場しそうなタレント、スポーツ選手などで「愛」という名前の人々が殺し合う駕籠真太郎「バトル・ロ愛ヤル」が面白い。主役が福原愛で、しかもにくったらしく描かれているところなんか、おおいに共感できる。
かわかずお「ビビルマン」は、映画「デビルマン」のひどさを原作風の絵柄でやっちまおうという企画で、内容自体は面白い。その子供っぽく、ガキ大将的な態度は大きく買うものの、ペキンバー田野辺とギンティ小林の最後の解説は映画へのマジな批判になってしまっていて「ワイドショー」という下世話な観点からはややはずれてしまっていると思う。
根本敬はおそらく大得意ネタで風格すら漂うが、私が衝撃を受けたのはまず大久保ニュー「From Girl's Room」。フツーのOLが主人公。彼女には、あきらかにさとう珠緒がモデルの先輩OLがいる。もちろん同性には嫌われまくり。しかし、その「さとう先輩」を嫌っているグループにも違和感を感じる主人公は、その「反さとう先輩グループ」に嫌気がさしてとうとうひと言申してしまう……という内容。
「さとう先輩」のあり方を完全否定しない姿勢に深く感動した。知性って、こういうもんだ(誉めすぎか)。
もうひとつは服部元信「ワイドショー無間地獄」。ワイドショー好きな、徹底して下世話なおばはんが、上から落ちてきたクボヅカに激突、クボヅカとともにワイドショーネタの怨念のタマリ「ワイドショー無間地獄」に落ちてしまう。果たして帰れるのか……という内容。
「徹底して下世話なアイテムだけで、人間に救済はあるのか!?」にせまった内容ですらあると思う(これも誉めすぎか)。
(04.1029)
矢追純一の著作をベースにしたマンガを複数のマンガ家が描いている、コンビニペーパーバック本。
amazonの感想を読むと、宇宙開発やUFOに詳しいとかなりトンデモ本的に笑える内容らしいが、哀しいかな知識不足でよくわかりませんでした。
どうも、私は矢追純一はもともとあまり楽しめなくて、理由はねえ、あまりにもテキトーすぎるから。最初から信じられないから、「だまされる興奮」もないんですよ。
マンガとしては、どうしても内容が内容だけに説明的になりがちな作品が多かったと思います。
実は「ケネス・アーノルドが軍のパイロットとして描かれている」、「1947年当時の話なのにヘリコプターの『アパッチ』が出てくる」という指摘につられてネット通販で古書として買ったんですが、読んでみたらそこんところの描写は前田俊夫じゃないですか。
そりゃ大いなる間違いかもしれないが、こうした「矢追氏」という顔が全面に出ている企画で唯一記憶に残るのはやっぱり前田俊夫なんだよなあ。グレイでない宇宙人や、ぜんぜん資料を見てなさそうな宇宙船を描いているのも彼でした(「ロズウェル事件」のUFOに、わざとなんだろうけどイマ風のデザインをした木ノ花さくやの気の遣いようとは正反対)。
それと、四国の中学生が小さい小さいUFOをつかまえて中に水を入れたりかなり乱暴なことをしたら消えちゃった「介良事件」がマンガ化されているのは良かった。いや、この事件、なんだか好きなんですよ。
(04.1029)
矢追純一の著作をベースにしたマンガを複数のマンガ家が描いている、コンビニペーパーバック本第2弾。
前田俊夫御大がラインナップされていない時点でかなり興味をそがれるが、吠夢「人々に夜空を見上げさせた男・矢追純一物語」は、わりと良かった。
矢追氏が「UFOはあくまでも『釣り』であって、本当はもっと人々に視野を広く持ってもらいたい」というあまりにも胡散臭い動機で「11PM」のUFO特番を始めたことなどが描いてあります。
それと、本書全体において矢追氏自身のコメントがマンガ作品の間に頻繁に入るのですが、
「矢追 そうそう。だからじつは宇宙人やUFOのことを考えるのは無意味かもしれないんですよ。」(p254)
……というコメントには笑ってしまった。無意味なことを熟考した果てに一回転してしまった発言というか……。まあでも公平に見るならば、後に続く文を読んでみても矢追氏の無意識化には「UFO、宇宙人=神、絶対者」というイメージがあるのではないかとは思ったよ。それがいいか悪いかは別にして。
(04.1029)
W(ダブルユー)の曲「ロボキッス」に関しては、【CD】・「ロボキッス」 W(ダブルユー)(2004、zetima)(以下、ロボット娘ソングを適当に羅列していきます)に感想を書いたんですが、歌詞があまりにもロボソングらしくないので、勝手に変えてみました。
すごい あのこは ロビンちゃん
やばい あいつは ウォーズマン
誰も彼もが ヒューマノイド?
ダメダメ
何使ってんの ポケコン
デートのプレゼント ファミコン
嗜好重なる ロリコン
などなど
合体も
できてて当然
好き好きっす キスをください
好き好きっす 挑発無限大
好き好きっす 心は変わるわ
好き好きっす ロボットだっても
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
ロボガキ
これで あの子と 戦闘
それで 彼氏が フェード・イン
ジムが弱いよ 連邦
ダメダメ
計算じゃなく 哀しい!
なぜか両目から 冷却水
空山基の絵は ありがたく
いただけ
プログラム 「心」を学習
好き好きっす キスをください
好き好きっす 薬はポーションね
好き好きっす 「萌え」はわかるわ
好き好きっす ロボットだっても
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
ロボデキ
(調子ン乗って本当はないけど三番)
すごい あのこは ウランちゃん
やばい あいつは 28号
手先が不器用 コバルト?
ダメダメ
何買ってんの AIBO
トコトコ 歩く ASIMO
スカート 長い テムザック
などなど
三原則
わかって当然
好き好きっす キスをください
好き好きっす スキス スキスキスー
好き好きっす 人間なら友達だけど
好き好きっす ロボットだからロボダッチ
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
シャバラ ラン ラン ラン ラン ラーラ
ロボガリ
(04.1027)
作詞・作曲:つんく、編曲:高橋諭一。「ゴロッキーズ」という番組で「どれだけ目を開けたままにしていられるか」という実に他愛ないゲームをしていたとき、おそらくスタジオのライトの強さからだろうが藤本美貴が両目から涙をポロポロこぼしていた。
そんときに、「天の声」のキー坊が「初めて涙を流したアンドロイドみたい」というようなことを言ったような言わなかったような(この辺曖昧)。
とにかくまあ、「ロボット(アンドロイド)が涙を流す」というシチュエーションは実によく使われるんです。ロボット=感情がない、だけどそれを揺り動かすものがあるんだよ、というね。
考えてみると、影の大物みたいなのに主人公が楯突いて殺されそうになったとき、その大物が「おまえのようなやつはひさしぶりじゃ」とか言って助けてくれたりするのと近いよね。まあ何が近いかはみんなへの宿題だ(便利な書き方)。
さて、顔も背格好も揃っていてダンスもできるW(ダブルユー)の二人がロボットの歌を歌うのは歴史の必然とさえいえるのだが、「ロボキッス」というタイトルを聞いたときにそれが完璧に遂行されるかどうかが不安だった。
とにかく最近のハロプロ仕事は不安が多すぎるし、その欠落を脳内補完したりこうしたテキスト上でレトリックで埋めるほど私はヒマではない(「うたばん」での、後浦なつみへの石橋&中居のつっこみはそのまま視聴者の意見と考えるべき)。
結果は、まあ音楽的なことはわからないんだけど「歌詞はちっともロボットっぽくない(むしろ適当)のに、曲とアレンジとダンスでみごとにロボットっぽく見せている」という、珍しいと言えば珍しい曲となった。
まず、つんくにロボットがらみの歌詞を書かせてうまくできるとは思っていなかった。この人は「男の子の妄想する理想の女の子の心理・行動」を、旧来の……たとえば「デュオU&U」からなら「好きよキャプテン」(松本隆)のような少女マンガチックなものを実にうまい具合に現代風にアレンジするか、あるいはまったくの意味不明な歌詞が得意。「あなたにとって、私は○○」みたいな比喩的な歌詞は得意じゃないから。
というわけで、「♪ロボロボ」といかにも付け焼き刃なフレーズが入ったり、「好き好きっす キスはわかるわ 好き好きっす ロボットだっても」と言いつつ「いつまでも子供じゃないのね」とまったくもって矛盾する歌詞になっていたりと(ロボットも成長するのかよ! おい!)、いつもどおりのメチャクチャ歌詞ぶりではある。
だが、つんくの無意味歌詞はさらにひどいと「GET UP! ラッパー」[amazon]みたいにほんっっとうにわけのわからないところまで解体してしまうので、今回はOK。まあ阿久悠だったら許さないでしょうけどね。
今回はむしろ、振り付けとのトータル的な曲である要素が非常に強い。とくに、曲の出だしの、加護の背中のネジを巻いた辻がめまいを起こし、あわてた加護が自転車の空気入れみたいな仕草で空気を入れると瞬時に辻が復活してから曲がドンッ、と始まるタイミングがものすごくカッコいい。この出だしの数秒だけで、「ロボット」を表現してる。だから歌詞がそんなにロボットと関係なくても許される。
そしてさんざん激しいダンスをやっておきながら、オルゴールの人形の動きが止まるようなイメージで静かに動きを止める二人。この振り付けは本当に傑作。だれがやってるんだろ?
こうして見事にロボットデビューを果たしたダブルユーに対し、スタンディングオベーションしたい私だったが、世間はどう思ってるんですかね。いまだに「どっちがどっちかわかんな~い」とか「加護ちゃん太ったな~」とか言ってるだけなんでしょ。
そりゃ日本にカクメイなんか起きるわけないですよ。みんな細木和子とか「万引きGメン」のテレビとかだけ観てりゃいいんでしょどうせさー。
っつーことで、実に手持ちのコマが少ないながら「ロボット女の子もの」の曲を以下に紹介したいですよ。なんかAbout Japan [テクノポップ] の企画みたいだけど、当然あっちの方が千億倍くらいちゃんとしているので、テクノ関係で気になることがあったらそっちを観た方がいいです。
(以下に続く)
(04.1023)
「郁恵自身-25th Anniversary edition」[amazon]や「ベスト・セレクション 榊原郁恵」[amazon]などに収録されているので、今でも聞けると思います。
作詞:松本 隆、作曲:筒美京平、編曲:船山基紀。1980年6月1日リリースだそうです。曲紹介の前に、まずジャケットのぞんざいさを観ていただきたい。ちっともロボットっぽくないばかりか、「夢みるマイ・ボーイ」(下部参照)という曲のジャケとほとんど変わんないじゃんかヨ! 昔のレコードってジャケ写が本当にテキトーなんだよなァ。
これはもう本当にロボット・ソングの傑作です。私が決めた。まあ松本隆にすりゃ、これくらいのレベルの歌詞は鼻ほじってても書けただろうしね。「月だけが夜の空を 彩り ため息のほうき星が 流れる」という微妙にSF&ファンタジックな歌詞に続き、「胸の歯車が錆びつく」、「胸のスイッチ押してね」といったロボットっぽい歌詞を散りばめる。
で、内容は「私は愛するあなたの言いなりよ」というのが、微妙に示唆されています。ロボットだから。要するに「恋の奴隷」みたいな歌詞を、テクノポップっぽい曲調と歌詞でコーティングしてある。
まあフェミニズムの人は難色を示すかもしれないがけっきょく、この「恋の奴隷+テクノロジー」っていう感性はいまでもアニメやゲームの「メイド型ロボット」なんかに引き継がれてるってコトですね。やっぱり日本にカクメイは起きないですね。
いや起きてるか。「おにいさま、私の『シモベ』になりなさい!」だもんね。ロボットじゃないけどね。
アレンジにもシンセとか使ってますし、衣装もロボットっぽかったんですよ。記憶を頼りに書いてますが、真四角の布を張り合わせたみたいな衣装で「ロボットっぽい真四角さ」を表していたと思う。
この曲の白眉は、そうしたテクノポップ的展開の後に「♪あな~た~が~ 好き~なの~」と急に人間に戻ったようなやわらかい振り付けになって榊原郁恵が歌うところ。当時、中学生だった私もあまりにベタな展開にちょっと笑ってしまったんだけど、最後までロボットだとこの当時のメジャーシーンでは納得されなかった、のかな。やっぱり人間的な部分が必要だったということで、そういう「オチ」みたいのが付いてます。
(以下に続く)
(04.1023)
この「パンチの嵐」に入っていた「サイボーグ純情派」という曲が、私のお気に入りロボットソングです。
作詞:MIYA、作曲・編曲:DJ TAKAWO。
「♪存在の意義をさがして 今あなたにたどりついた 心がリズムを刻み出す 私サイボーグ」という出だしで始まる。「ハニーパンチ」ってのはクラブ中心に活動してた女の子二人ヴォーカルのユニットだったらしいんだけど、実物は見てません。
DJ TAKAWOは、確か「ビートマニア」の曲とかつくってる人じゃなかったかな。
「慎吾ママ」のコスプレで「おはスタ」に出たことがあるのが記憶に新しいですね(だれも知らない)。
「サイボーグ」ってことになってますが、歌詞を読むと完全に「ロボット」ですね。
歌詞全体がサイボーグの比喩になっていて、これはそうとうよくでてきます。
「ちょっぴりだけね 教えてあげる な・い・しょ・好きな人くらい守れる乙女」っつって、完全に「戦闘美少女」だねこりゃ。榊原郁恵の「ロボット」と比べるとポジティヴになっています。
インディーズなんだけど、とってもイイ曲なんでだれかにカバーしてほしいという妄想にかられる。ハロプロならダブルユー、高橋愛、メロン記念日あたりでどうでしょうか。どうでしょうかって言われてもね。わかってますよ。
ところで、同じCDに収録されている曲「いい事に気づいちゃった!!」も歌詞は衝撃でした。
「いい事に 気づいちゃった そこには何にもないってね いいことに 気づいたら 何から何までいい感じ」
って明るく歌う。こういう虚無感を越えて明るく生きていこう、という方向性はどことなく有頂天の「GUN」に通じるものがある。手に入りにくいかもしれませんが、オススメです。
(以下に続く)
(04.1023)
ミニモニ。のラストシングル、「ラッキーチャチャチャ!」については、発売当時ここに感想を書いたんですが、こっちはシングルVです。PVなのに、リリース前にはほとんど流れないという不思議なものです。
歌詞はロボットとまるで関係ありませんが、このシングルVのストーリーは桃のパフェみたいなやつの工場に忍び込んだミニモニ。の4人が、パフェ食べたさに機械を勝手に作動、工場内のロボット(4人が演じている)が暴走してメチャクチャになるというものです。
「ロボキッス」の振り付けに小悪魔的演出があるのに対し、このシングルVのロボットは完全にツナギを着た作業用です。
ま、もしかしてコレが「ロボキッス」のヒントになってるのかも、とかは少しだけ思います。
ミニモニ。のPVは、どれもよくできてます。
(以下に続く)
(04.1023)
実はキチンと聞いたことないんですよね。スイマセン。しかし、セクサロイドを87年の時点で歌詞にするなんて、やるなァと思いますよ。80年段階での郁恵ちゃんロボットが「恋のドレイ」ですからね。そこら辺を挑発してんですよね。
(以下に続く)
(04.1023)
このアルバムの中の「メカニカル娘」。
作詞・作曲:石野卓球。やっぱり女の子の「属性」をメカとかエレクトロニクスとかにたとえるという王道的なやり方で、たとえも榊原郁恵の「ROBOT」みたいに一般視聴者には合わせてなくて、ほとんどぜんぶの表現を「みんなのうた」的にというか、童謡的にメカでたとえちゃってます。
この曲、確かライブで見たときは他の曲と同様、激しいアレンジでがなってたような記憶があるが、アルバム全体の緩急のためかささやくような声で歌っている。
けっこうカッコいいんだけど、女の子にカバーしてもらおうと思うとなかなかむずかしいですねこれは。「♪右手がドリルで穴を掘る~」ですから(笑)。それこそ篠原ともえくらいしか思い浮かばない。
新プッチとかがコンサートで突然やったらメチャクチャカッコいいんじゃないかと思うが、私の妄想ですね。ハイ。
・女の子ロボットソングまとめ
まあ、他にもアニメとかゲームとか声優ソングでありそうなんですがよく知らないんです。すいません。まあそのテのやつは「巫女みこナース」だけで自分にとっては100曲ぶん聞いた気がしますので。
とにかく、ロボットではなくてもいいけどテクノ歌謡を女の子アイドルが歌わなくなったら、この世は終わりなんです。現在、完全に女の子が歌うテクノ歌謡日照りです。
「宇宙人ソング」についても考えてみたいが、とりあえずピンク・レディーの「UFO」と、キララとウララの「センチ・メタル・ボーイ」しか思い浮かばなかった。ファンタジーソング? う~ん、「リサの妖精伝説」。
(ロボット女の子ソング・終わり)
(04.1023)
巷説寛永御前試合は虚構である。事実は、秀忠の次子・駿河大納言忠長の御前で行われた十一番の真剣試合が、その下敷きとなっている……。
実兄・将軍家光に反発し続け、最終的には切腹を申しつけられた忠長の、その狂気のうちに行われた真剣勝負の御前試合。その凄惨な行方を描いた連作短編集。山口貴由のマンガ「シグルイ」(→感想)の原案。
「シグルイ」がけっこう話題になっているので、連動して増刷でもしているんじゃないかと思ったら絶版らしい(不況は厳しい)。アマゾンでも古書扱いで、このテキスト執筆時点では品切れ。
で、図書館にあったので借りて読んでみた。これがなかなか面白い。
巻末の石井富士弥氏解説によると、本作は小説誌に、昭和31~38年(1956~63年)に断続的に発表された作品であるという。奇妙な剣技が連続する「忍法帖」的な1対1の対決を基本としているが、団体戦が主な山田風太郎と異なるのは、全11試合がお互いの因縁は何もなく、ただ対戦相手とのみ、凄惨な宿命というべきものがあるという点である。
晴れの試合がクライマックスになるのは映画「ロッキー」などが超有名だが、乱暴な言い方をすれば本作は11の物語のクライマックスがすべて同日の「駿河城御前試合」で行われる試合となる、と考えればよい。それだからこそ、7年間という長期の断続的な発表が可能だったのだろう。
それともうひとつ、風太郎忍法や「バキ」などと違う点は、ほとんどの試合が「勝てば万事OK」というたぐいのものではない、ということである。そもそも真剣で立ち会わねばならなくなったこと自体が不幸の結末である場合が多い。
たとえば風太郎忍法帖の、一作の中のバトルの中には「自分の力を試したい」とか「敵を倒したい」といった単純なものも盛り込まれ、それがチーム戦としてプロットを練り上げていき、最終的には虚無的な結末へ至るという形式が多い。あるいは格闘技モノにおける戦いの勝利は自己実現であって、それ以上でもそれ以下でもない。
だが本作においては、戦い合う斬り合うことそのことが宿命であって、ほとんどの試合が終わっても物事は何も解決せず、むしろ不幸になる者が出たりしてそれが腕が飛んだり胴体がちぎれたりという以上の「残酷」になっている。
だがまあ残酷にもいろいろあって、おそらく南條範夫という作家の作品にもいろいろなタイプの残酷があるとは思うが、1話1話が短く筆致もアッサリしているので、当時はともかく現在読んでもそれほど凄惨な感じはしない。
また、運命のいたずらとしか思えないやりきれぬエピソードの合間に、フリークスの復讐譚(「がま剣法」)、仇討ち的なもの(「身替り試合」)や、勝敗とは関係ないレベルの奇妙なエピソード(「被虐の受太刀」)、あるいはほぼ技の掛け合いの興味だけで話を進めたもの(「飛竜剣敗れたり」、「疾風陣幕突き」)など緩急を付けてある。「読者をイヤな気持ちにさせるためだけの残酷」を目指していないところ、虚無的な展開の中にわずかに勧善懲悪、因果応報的エピソードが混ざっているところが、エンターテインメントとしてうまいところだと思う。
・作品発表当時の時代背景(自分メモ)
石井富士弥氏の解説によると、吉川英治の「宮本武蔵」に代表される、剣技に対するきれいごとの修養的理解に対する反発が爆発し、単なる人斬りの凶器としての剣の技を描いた作品が出た。それが中山義秀「新剣豪伝」昭和29年(1954)、五味康祐の「秘剣」昭和29年、「柳生武芸帳」昭和31年(1956)、柴田練三郎「眠狂四郎シリーズ」昭和31年、「赤い影法師」昭和35年(1960)などであるという。
ちなみに山田風太郎の「甲賀忍法帖」が昭和34年(1959)。
前述したが、劇画「血だるま剣法」が1962年だから、こうした残酷性を伴った「剣豪小説ブーム」が、貸本劇画に影響を与えたと考えていいだろう。
「残酷時代劇映画」のハシリが「椿三十郎」(1962)だそうで、小説や劇画よりも若干ブームとしては遅いようだ。
それにしても、ラストに突然現れた「思い掛けずも現れた車大膳と称する不敵の剣士」(p471)っていうのの意味がぜんぜんわからなかった。本当に突然現れるんだよ。何だ。私の読みおとしか。伏線はなかったような気がするがなあ……。
(04.1020)
チャンピオンRED連載。
実兄・将軍家光に反発し続け、最終的には切腹を申しつけられた忠長の、その狂気のうちに真剣勝負の御前試合が行われた。出場剣士11組、22名のうち16名までが死に、2名が重傷を負ったというこの凄惨な試合の一番目に登場したのは、片腕の剣士と、盲目で跛足の剣士であった……。
原作は南條範夫の小説「駿河城御前試合」(→感想)。現在やってる藤木源之助と伊良子清玄とのエピソードは、原作の第1話「無明逆流れ」を思いっきり膨らましている。
原作もたぶん、風太郎忍法などの影響を受けたかなり超人的な技が頻出する作品だが、本作ではそれをさらに膨らませたり、ないエピソードをどんどん入れている。
いちばん極端なのが、岩本虎眼のキャラクター造形で、これはほぼ100パーセント、山口貴由の創作として見ていいのでは。それにしてもムチャクチャですねコイツは。
もともとの出自からして、勧善懲悪であったり、ウヨクチックなアイテムであったりを駆使しながら、実はその向こうにある狂気やエロスを描いていた山口貴由だから、この「駿河城御前試合」はピッタリの題材と言える。
ただ、私個人の好悪の判断で言えば、すさまじい迫力を持った惹きつける作品だとは言えるが、自分の好みの作品かどうかはまだわからない。「残酷」とは、常に物語のテーマが要請する場合と、ただ残酷なための残酷がある。これらは渾然一体で、必ずしも片方を否定するものではないが、どちらに重きを置くかは作家の気分次第。
今後、どっちに振れるかの予想がつかないからである。
実は、私は残酷ものは好きじゃないのである(「殺し屋1」とか、怖くていまだにページが開けない)。ただ、そこには私の好みであるしいたげられし者の復讐譚が含まれていることが多いので、まあ仕方なく読むこともある(「殺し屋1」がコワイのは、そういう単純な復讐譚の体裁を取りながらソレを解体してしまっているからだろうと自己分析する。イチの戦いには通常の「劇画」的なカタルシスはほとんどないから。ちょっとしか読んでないけど)。
「何かを失った者が、代わりに何かを得て反撃、もしくは復讐する」というエピソードは何も「残酷であること」とはまったく一致しない。最近、東京MXTVで「ど根性ガエル」を再放送しているが、平面ガエルだってこのパターンである(ひさしぶりに見た、平面ガエルとなったピョン吉がもう別世界の住人になってしまったピョン子をわざと手ひどくふるシーンには泣けたよ)。
別に、山口貴由に「オレの好みに合わせろ」と言っているわけじゃなくって(当たり前だが)、山口貴由は「『残酷』の必要性と不必要性(過剰さ)」をかなり意識していて、師匠筋の小池一夫なんかと比べるとほんの少し「過剰」の方に踏み出している作家だと思うのだ。だから、今後私ごのみの作品になっていくかどうかは、保留としか言いようがない。
最後に。単行本第1巻に「封建社会の完成形は、少数のサディストと多数のマゾヒストによって構成される」とあるが、私はそうは思わない。むしろ「構成人員全員が、サディストでありマゾヒストであることを強要される」と考えた方が正しくはないか。少なくとも原作「被虐の受太刀」はそれを表しているエピソードだと思えるのだが。
(04.1020)