つれづれなるマンガ感想文8月前半

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「つれづれなるマンガ感想文2005」8月後半
一気に下まで行きたい



【映画】・「妖怪大戦争」 監督:三池崇史、脚本:三池崇史、沢村光彦、板倉剛彦(2005、日本)
【映画】・「魁!!クロマティ高校THE★MOVIE」 監督:山口雄大、脚本:増本庄一郎(2005、日本)
【自主映画】・「クイズバトラーQ」 (2003、チーム・ザ・メンゴ)
【書籍】・「ユリイカ8月臨時増刊号 総特集オタクVSサブカル!」 責任編集:加野瀬未友+ばるぼら(2005、青土社)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
【映画】・「逆境ナイン」 監督:羽住英一郎、脚本:福田雄一(2005、日本)
【映画】・「HINOKIO」 監督:秋山貴彦(2005、日本)
【アニメ映画】・「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」 原作・脚本・絵コンテ・総監督/富野由悠季(2005、日本)
【書籍】・「トンデモUFO入門」 山本弘+皆神龍太郎+志水一夫(2005、洋泉社)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」35号(2005、集英社)
【雑誌】・「コミックバンチ」35号(2005、新潮社)






【映画】・「妖怪大戦争」 監督:三池崇史、脚本:三池崇史、沢村光彦、板倉剛彦(2005、日本)

公式ページ

少年・稲生タダシは、両親の離婚にともない母方の実家である鳥取に暮らしている。
都会から出てきたタダシは学校でもいじめられるし、慣れない田舎暮らしは寂しくてたいして面白くない。
ある日、お守りで「麒麟送子」に選ばれたタダシ。「麒麟送子」は世界を救う存在だというが、もらったのは手ぬぐいとお赤飯だけで実感はない。
その頃、魔人・加藤保憲は蘇り、先住民の復讐のために東京を殲滅せんと動き出した。この目的のために妖怪を捕まえては機械と合体させ、「機怪」に変えていた加藤の所業に妖怪は困り果てて集会を開く。麒麟送子としてのタダシも妖怪たちと出会い、加藤に戦いを挑むことになるのだが……。

いい意味でも悪い意味でも、制作者の妖怪オタク丸出し、「夏休みに少年が冒険してひとつオトナになる」というプロットの皮をかぶった「おれたち妖怪大好き!」宣言映画だねこりゃ。
だいたい、ものすごくたくさんの妖怪が出て来るんだけど、説明がほとんどないんだよ。ダサいのを承知で名前のテロップぐらい入れてやれや、と思ったがそれもない。パンフレット買って読んで、初めてどれがどの妖怪かわかったりしたよ。
重要な伏線(お赤飯の小豆とか)も、民俗的な意味は私も知らないしねえ。

「夏休みに少年が冒険してひとつオトナになる」映画としても、難なしとは言えない。たとえば冒頭、タダシが「初恋をした」的なことを独白するが、これは川姫のことだと思うけどそういう「少年がきれいなおねえさんに憧れて……」という描写はほとんどなかった。
だいたい、場所が鳥取かどうかも映画を観ているだけでは何だかよくわからなかったよ。
あるいは、妖怪雑誌の編集者である宮迫の扱い。子供の頃に川姫を見て以来、妖怪を追い続けているという設定だが、何かこう「目に見えないものを追い続けている」悲壮感みたいのがこの人にはぜんぜんないんだよね(笑)。役者としては上手いと思うけど、設定として何かそういう幻想がどうしても必要なオトナに見えないというか……。個人的にはそういうキャラには悲壮感がないとなあ、と思ったりした。

後はテーマとつくり手とのギャップが笑えるほどズレてて、「妖怪は大人になってしまうと見えなくなる」などと描いておいて、「これ、妖怪大好きな大人たちがつくった映画でしょ!?」とツッコミを入れたくなってしまう。
ま、でも「そういう映画」なんだよね。楽しめる作品ではありますよ。

非常に面白いのが、妖怪役の役者さんたち、顔がメイクでだれがだれだかサッパリ分からない人もいたんだけど、キャストをチェックすると「ああ、あの人か」ってわかるんだよね。明確に顔出ししてたのは川姫役の高橋真唯と、チョイ役の蛍原くらいじゃないかな? でも他の妖怪たちも、演技とか動きとかでちゃんと役者としての個性が出てる。それが面白かった。

「妖怪大戦争」ってあるけど、この映画の妖怪たちは戦争なんかしないんだね。911以降の考えが、こんな娯楽映画にまで入ってきているんですよ。それは形式的ではあれ、やっぱり考えさせられることだとは思うんだな(実は原作読んでないんだけど、それに反戦思想が盛り込まれていたとしても、それが現代、こういうかたちで語り直されているということで意味あいを変えていると思う)。

あ、それと、上記のオトナたちの悪ノリも、形式的なプロットも、すべては主役の神木隆之介という少年に支えられているということは言える。そういう意味では特殊メイクや特撮もすごいんだけど、役者に支えられている映画であるという点は興味深いな。
(05.0814)


【映画】・「魁!!クロマティ高校THE★MOVIE」 監督:山口雄大、脚本:増本庄一郎(2005、日本)

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キャスティングだけで上映前に一度笑いをとってしまうという、ズルい&頼もしい映画。 こういうギャグの映画ってどうしても評価が分かれて、それもほんっとにただの印象批評にしかならないところがむずかしいんだけど……あんまり気に入らない人がいるとすれば、テンポというかオチに持って行くところの緩急のリズムが監督と合わない人なんじゃないかとは思う。
同じ監督の「地獄甲子園」[amazon]を観たときも思いましたが、この監督の使うテンポというか「間」は、他のコメディ系の人にありがちな、たとえばダウンタウン以降の吉本的な「間」であるとか、アメリカシチュエーションコメディ調の「間」であるとか、そういうのとはちょっと違う気がするんですよね。「間」の話なんて本当に印象批評のきわみなんで書いてて申し訳ないんだけど。

たとえば「スウィング・ガールズ」[amazon]と「下妻物語」[amazon]は、「間」のとり方、笑いへの持って行き方は、もちろん違う人間が撮っているんで違うところもあるけど、でもどこかに同じものをベースにしているんじゃないかな、って思えるところがあるんだけど、どこか山口雄大監督は独特ですね。
「構成」に板尾創路の名前があったから多少は変わるかと思ったけど、そうでもなかったですし。

脚本としては一点だけ、ハイジャック犯が何でマスク・ド・竹之内になったのかだけはもうちょっときちんと説明した方がいいとは思いました。

後は、このマンガで基本的に「絶対出しとかなきゃならない」キャラが多すぎるんだよね。ゴリラとフレディは必須だし。しかもそれぞれ掘り下げがあるから、本当は2時間では足りないくらい。
メカ沢や山口ノボル、プータンのエピソードなんてそれだけやってたら30分くらいかかっちゃうからなー。それのどれを落としてどれを削るかは、これはもうやってる人の趣味とか感性の問題だからしょうがないんですけどね。
それにしてもクロマティ本人にはクレームつけられるわ、渡辺裕之(フレディ)は詐欺の片棒を結果的にかつがされるわ、橋本は亡くなってしまうわ、足を引っ張られたのかむしろ宣伝効果があったのか、いろんないわくが付いた映画になりましたねえ。
映画館では、メカ沢よりもゴリラよりも、フレディがいちばん笑いをとってましたね。
マスク・ド・竹之内、プータンもかなり会場が沸いてたから、今後続編をつくるとしたら、やっぱり「生身の人間がやるから面白い」という方向に、実写版では行くんじゃないかと思いました。
あと、高山が意外と頑張っていた。カツゼツの悪いのが難なんだけど、それを乗り越えてクライマックスを盛り上げていましたよ。ラー(「ゴリとラー」の「ラー」)との殴り合いは良かったなあ。

そういう「現実にやっちゃう面白さ、シュール感」が、マンガやアニメとは違うところなんだよねえ。しみじみ。
(05.0813)


【自主映画】・「クイズバトラーQ」 (2003、チーム・ザ・メンゴ)

自主制作のバカ映画の上映会・シネマ秘宝館で見たのだが、これは大傑作。
ストーリーは……まあ「クイズバトラーQ」というクイズ番組の内容を映すという劇中劇みたいな感じなのだが、そういった説明ではとてもおさまりきれないほどいい意味でメチャクチャなのだ。

こんな思いきりのいい、気持ちのいいメチャクチャを見たのはひさしぶりだ。もちろん内輪ノリの投げっぱなしではない。本当にメチャクチャなのである。
しかも、そういう「わざとメチャクチャなことをして人を驚かしてやろう」という気持ちと「笑わせよう」という気持ちが微妙なバランスでつくられているのではないかな。それがいいというか。
昨今の、「テレビ的お約束を破壊していくのがテレビ的」な電波少年的ノリを小馬鹿にしている(と私は受け取った)のも実に気持ちいいです。

画像は同作が収録されているDVDの表紙。えーと、どうやったら買えるのかなあ? イベント会場で購入したからその辺はわかりません……。

チーム・ザ・メンゴの作品がいくつか納められているこのDVD「ゲンコツシネマ」では、「宇宙人の主張」、「ものってばか」、「ポペラ」が良かった。いや〜こういう人たちがまだまだ世の中にはいるんだねえ。世の中ってすげえわ。

クイズバトラーQゲンコツ映画祭グー・チョキ・パー
(05.0810)



【書籍】・「ユリイカ8月臨時増刊号 総特集オタクVSサブカル!」 責任編集:加野瀬未友+ばるぼら(2005、青土社) [amazon]

タイトルどおりの本。こういう本って出たときに買っておかないと後で入手したいと思ってもたいへんに苦労することになるので、「後でいいや」とか思わないで速攻買ったというのはある。それと、アクセス解析するとオタク/サブカルって当サイトを読んでくれる人の食いつきがいいんですよね。90年代に青春を過ごした若い人には気になるところなのだろうと思う。
で、総合的には面白いし大幅に間違ったことは書いてないとは思うんだけど、頭から読んでいくと3人のインタビューから責任編集者二人の「対談」くらいまでで総論的なことは提示できてないといけないと思うんですよ。違うのかな? 雑誌の構成ってよくわからんけど。

で、そこまで読んでも、どの辺を最も訴えたいかというのが、まあ、なんだかよくわからなかった。「ユリイカ」という雑誌の雰囲気からして、「サブカル」側、しかも90年代以降のモノを特権化というかものすごい持ち上げようというのでもいいかな、と読む前には見込みで思ったんだけどそういうわけでもない。
もしかして(あまりに論の展開が感覚的に終始するという意味で)スカをつかまされたのか? と思ったけど、対談部分を読むと通史としては非常によく調べてあると思うんですよね。たとえば「まんがの森」新宿店が84年7月オープン(正確にはその前の店をリニューアルしてオープン)だとか「とらのあな」1号店は94年に開店だとか、「オタク」っていうカタカナ表記はいつ頃から始まったんだとか、「サブカル」っていう四文字の短縮はいつから始まったのかとかね。

となると、これはもう読者である私と本書全体との「史観」の違いの問題だとは思った。対談の中であるように、「エヴァ」がそれ以前のオタクの歴史認識をリセットしたというのは同意するけど、同じデンで行くなら「サブカル」という略称がどこかで使われていたということも調べるべきだとは思うけど、やっぱり最初に広めたのは「中森文化新聞」やその周辺だと思わざるを得ないし。現状では。
どうも、中森明夫や大塚英志や岡田斗司夫の史観とは違うアプローチをしようというのはわかるんだけど、でもなんか今ひとつピリッとしないというか……。「オタク」っていうカタカナ表記を広めたのも、オタク第一世代とそれに対するカウンター的な言動をしてきた人たちだと思うけどなー。まあそういうのを証明するのはむずかしいけど、感覚的にはやっぱりそう。

個々人の「論考」の方がうなずける部分はあった。でもそれが総論ではなくて個々の「論考」としておさまっていることに「あれれ?」と思うし、意図的なものも感じる。
本書では近藤正高は、90年代以前以後の日本のサブカルチャー状況を「通史」として見たものとしては私としては非常に納得のいくものだったし、堀越英美の「旧制高校生の教養」という観点から男オタクの価値観を見るというのにもうなずける(ただ、「萌え」が「解放された少女性」という観点のみで語れるかどうかは、私個人は留保する必要があるとは思うが)。また「アングラ」を、いわゆる鬼畜系と寺山修司などの昭和アングラと分けて論じた屋根裏、「大衆」という言葉を論考の中では確か唯一出してる更級修一郎にも同意できる。

だから「論」の公平性としては個々の「論考」の部分の方があるように感じた。それは他の自分語り的な原稿でも同じ。面白いし、それほどすっとんきょうなものはない。

ところが、(私にとっては)重要な部分が本書の前半部分ではスルーされている。たとえば「モンド・ブーム」からはリスナー側の、蔑みの視点の一般化しか残らなかったので憤りを感じたという岸野雄一の発言、「サブカル」というカテゴリ以前に大塚英志と中森明夫の「Mの世代」が89年に出てたとか、情報センター出版局が出してた「スーパーエッセイ」シリーズがその後の「サブカル」カテゴリになっていったんじゃないかという赤田祐一の指摘とか。
そういうのは私にとっては重要なんだけど、発言として拾われているだけでそこでふみとどまって掘り下げてるわけじゃないんだよなあ(まあ、「リスナー優位」の問題に関しては本当にむずかしいんだけど)。

それともうひとつは若者の政治への関わり方、というそれまでのサブカルチャー論にあった問題があまりにも後退しすぎているという点も気になった。サブカルが劣勢、って思われてる最大の理由って、そういう政治参加みたいなアプローチができなくなってるからじゃないかと思うんだけど。本書でも、サブカルがテーマとするものが反権力みたいなところから90年代あたりで「自分探し」へと以降したというようなことは指摘されてるけど、指摘されるのみにとどまってる。
でもまあ、私も極端に政治に興味のない人間だけど、サブカルって「反権力」とか「反主流」っていうところにパワーがあったんだから、それがなくなっちゃったらそりゃ元気もなくなるよって思うんだけど。

ここから先は完全に私の私見になるけど、「サブカル」っていう文化的カテゴリとは別に、「論」というか「視点」で言えば「論壇」とか「社会評論系」みたいなジャンルがあって、それはサブカルとはつかず離れずで90年代半ばまでずっと来ていたわけでしょう。そっちの元気がいまぜんっぜんなくて、それは「サブカル」というカテゴリでいろいろなものを見ても元気がないのと理由は同根という気がするんだけど。

そういう「政治、社会問題に関わる」という観点で見ると、有害コミック規制問題や、音楽だと90年代初頭にはクラブの営業に関わって風営法に反対するというのがあったし、それと最近ではCCCD問題(に対する反発)がそうでしょう。CCCDに関しては本書にも触れられているんだけどそれはインタビュー記事の中で、やっぱりそれがどうこうってのが通史として位置づけられているわけではない。CCCDに対する反対表明が、まあ問題自体の特殊性もあるけどそれほど盛り上がらなかった(あるいは冷めている人、無知な人とそうでない人との温度差がすごかった)ということも、サブカルの元気のなさを表していると思うんだけど。

で、「カウンターカルチャー」だとか「反権力」、「反主流」ということの意味に関してはやっぱり総論的な部分(「対談」はひとまず総論でなくちゃならないと思うんだけど)では語られてなくて、後の方の「論考」の中にまぎれこむようなかたちで入ってる。それが不思議。知識として書いてる人が知らないわけがないのに、たぶんわざと出してないんじゃないかな。

それともうひとつ「社会評論」観点だと、それにともなうインテリの自意識、大衆蔑視みたいな感覚からのアプローチが若干深くてもいいと思った。「趣味」とか「感性」ってだけじゃなくて「教養」としてのオタク、サブカル知識に言及してるのって前述の堀越英美だけだったのでは。あ、今までのぜんぶ敬称略です。すいません。

オタク論に関して、過去にあまりに極論が横行したという意識から慎重だったのかもしれないけど……、連続性がないならないで「連続性がない」けど「そういうものが断続的に出てくる」っていうのもひとつの連続性だから、そこをふまえつつもうちょっと「90年代サブカル、いいじゃん、良かったじゃん」って強く打ち出してもよかったような気がするけど。
(05.0809)


【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)

8月7日放送分。

公式ページ

ちょっと前までは、この番組を見ることはそのまま「モーニング娘。」とかハロプロの「テレビにおけるポジション」みたいなものを、番組が完全ホームとは言え多少は占えるようにできていたんだけど、最近は完全にここだけが別世界になってしまってる。
ハロプロのトピックはあいかわらず引きも切らずにあるみたいだが、それらは総じていわゆる「現場系」の話であって、在宅系の自分にとっては娘。の役割は、テレビにおいてはひとつ終えたな、というのが以前から書いているここのところの感想でもある。

ASAYAN的なスリルやカッコいい楽曲などに引かれた人は、もはや現状の娘。(正確に言うなら、四期加入によって決定づけられたであろう五期、六期の選定や「萌え路線」)は似ても似つかぬものかもしれん。だが、それは時代の流れだとはどうしようもなく思う。
これは、私が四期から興味を持ちだしたミーハー、「多数派」としての自負から思うんだけど、テレビにおける女性アイドルの役割っていうのはもう終わっているのではないかと思う。
萌えアニメは別にして、テレビはもう青年・おっさんの見るものではなくなってひさしいので、女性のきれいどころの置き場所がなくなってる。
司会として納めたければ女子アナがいるし、深夜枠でお色気で行くならグラビアアイドルやAV女優がいる。あとは「梨花」みたいなぶっちゃけ系の人がいればいいので、その後に女性アイドルの枠はない。

本来なら、このまま中間的な「アイドル」はテレビから姿を消して良かったんだけど、「モーニング娘。」が表れて、その流れに竿をさしたというのが私の「史観」であります。
ここで重要なのは、彼女たちにアイドルとしてはかなり高めのパフォーマンス能力が要求されてきたということで、それはまあ「アイドル」としては独自の生き残り方ではあった。本来「もはやない」とすら思われていたポジションだった。
ところが、後が続いて来ない。ハロプロ以外でも続いて来ないのは、そういうパフォーマンス集団がいないのかもしれないが、やはりハロプロ枠はテレビには「ハロプロ枠」1個しかないということなんだろう。

要するに、本来なら広末涼子あたりで(より正確に言うなら、小倉優子のメジャーマイナーな人気程度で)完全にテレビにおける日本のアイドル史には幕が引かれていたところを、結果的にとは言え7、8年は延命させた、その業績には拍手を送りたい。

この後、テレビはアイドルウォッチングとしてはいつ終わるともしれない暗黒時代に突入すると思う。テレ東の深夜にグラビアアイドルが水着でゲームしたりする番組があるんだけど、あれを見てそう思った。自分が見たいのはそういうのではなく、あくまでも憧れられて輝いている「アイドル」。
「アイドル」という形式をなぞっているだけでマイナーというのではなく、ちゃんと人気やCDセールスをともなった「アイドル」なんだけど、もしかしたらそういう人たちはテレビにはもう二度と出てこないかもしれない。

スタジオライブは美勇伝「ひとりじめ」[amazon]。あいかわらずの「昭和歌謡」テイストで攻めていて、振り付けもクネクネした動きで昭和的な色っぽさを出してる。

鎌倉デート。中澤、加護、田中れいな。前編と後編に切って、前編を放送。エスコートするのはコージー冨田。コージーが面白くて、ボーッと20分くらい見ちゃいましたよ。たけしのものまねとかしてけっこうベタなんだけど、彼は自分が「80年代のたけし」のまねをしていることを自覚しているところがすごい。「こんばんは、シャラポワです」とか言って、「80年代のたけしが今いたら言いそうなこと」を言ったりね。

後半がスタジオ収録で、Dr.コパがゲストによる風水特集。

Dr.コパってアレだ、だれかに似てると思ったら、名前は忘れちゃったけど「気の弱い中年男性」の役ばかりやってる役者さんでなんだか似ている人がいるんですよ。いや温水洋一の方じゃなくて。

エリック亀造の毎度ありぃ。藤本、道重、久住、石川。紺野の写真集「なつふく」[amazon]の紹介など。石川と亀井の「風船を何個いっぺんに持ち上げて箱に入れられるか対決」のグダグダ感がすばらしかった。

前回の放送

(05.0808)


【映画】・「逆境ナイン」 監督:羽住英一郎、脚本:福田雄一(2005、日本)

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あまりの弱さに校長から廃部を言い渡された野球部。キャプテンの不屈闘志は、甲子園に出られなかったらそのときは廃部を受け入れると宣言、毎年一回戦敗退の弱小チームの部員にハッパをかけるが、次々と逆境が襲いかかるのであった。

いや〜実は原作読んでないんだよね。すいません。で、見た感想は「惜しい!」って感じなんだよ。いろいろ笑えるところもあったし……(まあ、もしかしてギャグ関連はぜんぶ原作のものなんじゃないかとも思うんだけど)。

マンガを映画にすると、ヘタをするとぜんぶ「映画版ドカベン効果」というのが表れてしまうんだよ。「映画版ドカベン効果」とは、今私が考えた言葉なんだけど、絵で描かれた造型をそのまま実写にしてしまうときに生じるこそばゆさというかね。70年代のマンガの映画化というのは、別にドカベンに限らずともぜんぶそれで失敗しているのね(そこが今見るとすごく味わいがあるんだけど、それはまた別の話で)。

そういうマンガ的演出に負けないためには、藤岡弘、や田中直樹みたいなアクが必要なわけで、野球部のメンツはみんなそこまで行ってないんだよねえ。

でも、そのまま押し通すっていう方法もあるにはあると思うんだよ。マンガが原作ではないけど、「直撃地獄拳・大逆転」とかね。で、その際には、少なくとも見ている最中、脚本で「え? これはどうなったの?」って視聴者に疑問を持たせてしまうとマズい。もうギンギラのデコトラが目の前を走り抜けていくみたいにしていかないといけないんだけど、お話の流れで気になったのは2点、

・不屈闘志のような熱血漢がいたのになぜ万年最弱のチームだったのか
・クライマックスの敵チームのキャプテンが、闘志をことさらに敵視する理由がわからない

この2点が、セリフでも何でもクリヤされてれば、自分はそのまま押し通されたかなあ、と思うんだけども。
それと、最後になぜか「透明ランナー制」が採用されたり、一人で100点以上も逆転するという展開になるんだけど、ここら辺も前半部分で、野球の試合の設定上、そういうウソも許されるんだよというエクスキューズが欲しかった。

まあでも堀北真希がすっごいかわいくて、私、最近テレビや映画でかわいい子を見ると鬱になるんですよ。いらないんだよ別に、指一本触れられるわけじゃないんだから。「萌え」とか言っている人たちもみんな早くそれに気づいた方がいい。触らせてくれる女性には「萌え〜」とか言ったら怒られるし、「萌え〜」って言って許されるような存在は絵に描いた餅だということをね(笑)。

あと、いくらタレントが絵に描いた餅だからといって、鬼束ちひろの家に潜入するのもやめようね(時事ネタ)。
(05.0805)


【映画】・「HINOKIO」 監督:秋山貴彦(2005、日本)

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もう公開は終了してしまったのかな? でもDVDが出たら観るといいですよ。

少年・サトルは、事故で母親を亡くし、自らも歩行が困難になってしまい、それ以来引きこもりになってしまった。サトルの父親はロボットの研究者で、自宅から遠隔操作できるロボット・HINOKIOをサトルに与え、それを通して学校に通わせることにする。
珍しがっていじめてくる悪ガキたちとも仲良くなり、次第に打ち解けていくサトルだったが、死んだ母が父を憎んでいると思い込んでいるため、父に対してはなかなか心を開けずにいた……。

ちょっと導入部で「ロボットが学校に生徒として入ってくる」という部分を納得させるギャグが少ないかなと思ったんだけど、障害者向けのサポートメカという設定上、そうムチャもできなかったのだろう。
脚本が非常に面白い。ヴァーチャルなサトルの学校生活と、サトルたちが夢中になっているゲーム(やっぱりヴァーチャルな世界)との関係性なんかが興味深く描かれていた。ちょっとこういうのは考えつかないというか、児童文学の趣があると思いましたね。
(05.0805)


【アニメ映画】・「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」 原作・脚本・絵コンテ・総監督/富野由悠季(2005、日本)

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一年戦争から十年あまり。ジオンの残党を元に組織されたエウーゴと、地球連邦から離れて勇み足的な行動をとりがちなティターンズの戦い。

いや〜実はテレビシリーズを最後まで見てないんだよね。でもこれにははっきりと理由があって、政治情勢とかがむずかしくて子供心についていけなかったんですよ。それと、人間関係もオトナすぎてねえ。それまでのアニメだったら良き先輩として堂々と登場するはず(あるいはマスクを被ってピンチのときだけ助けに来るとか……まあそれは後の「Gガンダム」で似たようなことやってたね)のアムロがニュータイプであることを理由に軟禁されてるとか、フラウがハヤトと結婚しちゃってるとか、正直ぜんぜん理解できなかったんだよねえ。
カミーユも、アムロと比べてそうそう劇的に違うキャラじゃないから。これはもう、ジョジョ第一部と第二部でジョナサンとジョセフの違いと比較すればわかるから。

それともうひとつは、これは私の勘違いだったんじゃないかと思うんだけど「ニュータイプ進化論」ってもうちょっと「ガンダム」という物語の中心にあると思ってたんだよねえ昔は。だから、10年経ってもまだモビルスーツで戦争してるということ自体にガッカリしてしまったというのはある。

で、本作なんだけどすごいわかりやすくて良かった。ティターンズの悪さを心なしか強調して描いていて、その辺もわかりやすさの一因。あと、説明的なセリフも無理なく入っていたと思う(「イデオン」接触編なんて、説明ゼリフがすごかったから)。

戦闘シーンも、正直「スター・ウォーズ エピソード3」よりも迫力ありましたよ。なんつうか印象批評でしかないけど、本来映画として連続していなければならないカットをぶったぎってスピード感を出しているんじゃないですかね? SWの方は、もう戦闘シーン自体が説明的すぎてウザいと思ったりした。

まあ、映画館で、私よりもふた回り太ったデブが前の椅子に足を乗せて大いびきかいて寝てて、すべてぶちこわしになっちゃったんだけどね。映画って恐い。
(05.0805)


【書籍】・「トンデモUFO入門」 山本弘+皆神龍太郎+志水一夫(2005、洋泉社) [amazon]

フェイクも含めたUFOの魅力について、UFOマニアの3人が語り合った本。

呉智英の本で、「空飛ぶ円盤はあると思いますか? あると思ったら乗ってみたいですか?」という質問に対し、どこかの大学の先生か何かが「ない。ないものは飛べない」と書いていたことに関して「偉い」と誉めていたというのがあって、私もその影響を少なからず受けていたわけです。確か80年代後半だった。
呉智英は孔子を研究している人で「怪力乱神を語らず」だからある意味当然のコメントと言えるし、思想とか社会評論のレベルでもオカルトにかぶれた人間が近づいてくることに対して一蹴したいという意味があったんだと思う。

で、その後、と学会の「トンデモ本の世界」が出て、そういう一蹴されるべき本ばっかり読んでツッコミを入れるというスタンスが衝撃を与え、認証され、「トンデモ」という言葉がほぼ一般名詞になるという現象が起きた。
と学会も、オカルトを否定する団体と一時期受け止められていた。あるいは小馬鹿にする団体というかな。
だから、完全なビリーバーはまだしも、オカルト完全否定派からも、あるいは教養もあって虚実ないまぜになっている部分を楽しもうという人からも文句を言われたりしていた。ホントは「楽しむ」っていう要素が強いと思うんだけど……。
この辺のいろんな意見というのは80年代後半から90年代にかけてのオカルトをめぐる言説のもろもろとして興味深いが、それはまた別の話。

本書では、おそらく設立当初のと学会の基調となるスタンスみたいなものがよく表れているのではないかと思う。何というか、調べ尽くした上で味わうというか。
「UFO=プロレス論」って書いてあったけど、まさにそんな感じである。

たとえば「UFOがどのように人々に受け止められてきたか」という変遷を追うだけでも興味深い。一番最初に「空飛ぶ円盤」が大きな話題となった1947年の「ケネス・アーノルド事件」の段階では、それを「宇宙人の乗り物」として認識する人は少なかったとか。
アメリカでは金属製の乗り物に宇宙人が乗っているという考え方が強いが、イギリスではもっともモヤモヤした妖精伝説とかそっち系に近いとか。
もっと細かい部分では呼称として「ユー・エフ・オー」なのか「ユーフォー」なのか、とか。そういう呼び方をだれが提唱したかとか。

SFとの関連も面白い。S-Fマガジンでは当初、戦略的にUFOの話題を取り入れていたが、次第にSFファンとUFOマニアは乖離していくらしい。このあたりは70年代の終わりから80年代くらいにかけて、アニメファンで必ずしもSFファンではないっていう人が出てくる過程に近いと思う。
自分の記憶では、UFOはノストラダムスや「川口浩探検隊」とともに70年代のものという印象が勝手にあったのだが、80年代にも常に新しいトピックが提供されていたらしいという部分も勉強になった。

UFOは20世紀の神話だという。だから21世紀に入ってからはいまいち元気がない、とも。確かに、UFOマニアならぬ私としても、もうUFOに関するエピソードは出そろったかなという感じはする。だからこそ「神話」として振り返って見られるという部分はある。
(05.0804)



【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)

7月31日放送分。

公式ページ

ハロモニ。納涼スペシャル後編。「納涼」ていうか「浴衣スペシャル」みたいなことを言ってたな。

最初にベリーズ工房が新曲披露。

漫才コンビのレギュラーを迎えた企画、パペットマペットをゲストで呼んだ大喜利、双方ともに先週分とまとめて放送したものをぶったぎって今回放送した印象で、ちょっと「う〜ん」だなあ、と。
それと、大喜利において解答を本当に彼女たちが考えているのかとか、つまらないことを思ってしまうようになった。

なんつうか、自分の気持ちがダウナーなときに見たというのもあるのだろうけど、なんかこう視聴者たる私のすべての疑問をぶっちぎるようなパワーのあるキャラがいない、っていうことなんだよね。
もちろん、それはかつては中澤であり、保田であり、矢口であり、安倍さんの無邪気残酷だったりしたわけだけど。

現状、みんなものすごくかわいくて、たぶん娘。史上、美少女率はダントツでしょ。久住ちゃんの画面上のなじみの速さもすごいし。
でも、ものすごい「足りない」感がある。何かもう決定的な。
私は、コアなファンでもない代わりに安易に「もう娘。は終わり」みたいなことも思わないけど、でもテレビ的にはある種の決定的な終焉を迎えたと思わざるを得ないんですわ。

現時点で、じゃあだれがツッコミ役をするかというとミキティは実は違う。あの人は「クラスのいちばん後ろの席に座っている人」だから。今はツッコミ不在。
んだから亀井のボケとかもいまいち活きないんですよ。その点、自分でボケて自分で落としている道重が地味に存在感を放ったりしているんだけど。

で、そういう意味も含めてのお笑い芸人登用かな、と思うんだけど、ゲストだとどうしても遠慮しちゃうんで、完全にMCとしてのだれかを決めちゃっていいんじゃないかな。番組としてはそれしかないと思う。逆に、今までお笑い芸人のMCを執拗にこばんできた(正確にはコージー、原口あきまさ、磯野貴里子などがちょこちょこ出てたりしていたけど)番組の姿勢が謎なんだけどね。むかーし、いきなり司会をゴマキがやってたけどそりゃ変だろ(笑)、って今考えると感じるけど、当時はぜんぜん変に思わなかったパワーがあったんだよね。

なんか事務所が関連してるっていうから、タイムマシーン3号なんてどうですか。いや彼らは若手だからまだダメだな。彼らがレポーター的な役割で、司会は中堅でキャリア的にも娘。より先輩の方がいい……となると、今度はタレントとして旬すぎてこの時間帯には出てくれないかなあと思ったり。
娘。たちを呼び捨てにして平気なキャラが必要なんだよね。

エリック亀造の毎度ありぃ。中澤がおらず、道重、藤本、新垣という並びでゲストはベリーズ。
台本アリアリのコント的な展開がまんま「めちゃイケ」的だなあ、と思ったけど、そうか、まだベリ工にはしゃべれるキャラがいないための策だったのかあ。
でも、同い年でもう辻加護があれだけやってたというのはあるわな。「しゃべるキャラ」を育てていかないと、少なくともテレビで目立つというのはむずかしいと思う。

ミキティの髪型がすごくいいなあ、と思ったのだが、瞬時にそれに対する自分という存在のあまりの関係のなさ、を思い返して鬱になったりした。
それと、辻がやきそばで泣いたのが5年前だというのもあらためて知って死にたくなった。

この世には元気の出ないものが多すぎる。
正確には、楽しませようとしているものに地雷のように「元気の出ないもの」が含まれている。

前回の放送

(05.0802)


【雑誌】・「週刊少年ジャンプ」35号(2005、集英社)

大亜門「太臓もて王サーガ」が新連載第2回。ヒロインというか、女の子キャラが出てきたが「無表情で、グサッとくることを言う」という点では「銀魂」の中国娘とかぶってるな。
確かに新連載時点でヒロインがいないとどうにもならないということはあるけど、ギャグを展開していくときにこの子がうまく機能していくかどうかはかなり重要だと思う。不良少年の方はツッコミ役としてすでにいるわけだから。
松井 優征「魔人探偵脳噛ネウロ」は、もしかすると最近デスノより面白いかもしれないな。これって個人的に「ジャンプの『ファウスト勢』への挑戦状」だと勝手に思って読んでます。その方がもっと面白く読めるから。
「ファウスト」系の作家たちが小説的リアリティをぐちゃぐちゃにできたのは、「小説におけるマンガ的リアリティ」を読者が容認できるという下地があったからで。
で、そういう部分は新井素子とか夢枕獏とか菊地秀行のデビュー当時にもあったとは思うんだけど、悪い言い方をすれば「マンガ的(あるいはアニメ的)了解」に寄りかかっていたのは90年代半ば以降のエンターテインメント小説(要するにラノベ)の方が比較にならない。
そういうふうな「読者の了解事項」の積み上げを、小説方面にボッたくられてたまるかというのが少年ジャンプ側に……まあなかったとは思うけど、そう考えた方が面白く読める。
それで、「デスノより面白い」などと書いたそばから前言を撤回するようだが、今週の大場つぐみ、小畑健「DEATHNOTE」はひさびさに面白く感じたけどね。要するに親父さんの正義感がライトの読みを裏切っていくという点が。
河下水希「いちご100%」が最終回。確か最終回だったと思う。この作品の感想はと言えば、自主規制だか何だか知らないが大幅にパワーダウンしたHシーンに尽きるだろう。もうみんな死んじゃえ。
(05.0802)


【雑誌】・「コミックバンチ」35号(2005、新潮社)

永井豪「新バイオレンス・ジャック」。新蜀軍にスカルキングが合流。やっぱりおもしろいな。でも他の作品はぜんぶおやじくさいのばっかだな。ただしみたにひつじのマンガだけは面白い。要するにギャグが弱いというか、たぶん編集者に「ギャグを入れよう」っていう気がないんだろうな。あともう1本あれば雑誌全体の印象がかなり変わる気がするんだけど。
(05.0802)

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