つれづれなるマンガ感想文11月後半

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一気に下まで行きたい



【雑記】・本格的絶望宣言
・「刃(JIN)」 1月号(2006、小池書院)

・第4回ハロプロ楽曲大賞2005
・ハロプロ楽曲大賞2005、私的選考漏れ作品
・「ロマンティック食堂 尾玉なみえ短編集1」 尾玉なみえ(2005、集英社)
・「スパル・たかし」 尾玉なみえ(2005、集英社)
【映画】・「モーレツ怪獣大決戦」 監督:荒木憲司
【映画】・「惑星大怪獣ネガドン」 監督:粟津順

【雑誌】・「ウォーB組」12月号(2005、マガジンマガジン)
【雑記】・80年代の陰謀論〜悪があるから正義あり、ヒーローものの明日はどっちだ?







【雑記】・本格的絶望宣言

今日本屋に行って、「下流社会」を買ったんですよ。まだ読んでないけど。
で、そのときに新書のコーナーをぐるっと回って、何も読んでないのに天啓のようにひらめきました。

もう日本は自分にとって、未来永劫絶望社会だと。

私は今後、本気でノスタルジーの世界のみに浸ろうと思います。私にとってのノスタルジックワールドだから70年代から80年代前半頃までで、たとえば「オトナ帝国」とか「三丁目の夕日」とかに比べるとだいぶ新しい時代ってことになるけどね。

以下はすべて私の感覚です。事実かどうかは知りません。
本当にまったくの予想なので、信用しないように。

まず、新書のコーナーをざっと見て思ったんですが、「下流社会」もその中のひとつかもしれませんが日本の新たな階級社会化について憂える本が1冊や2冊じゃないですね。
そして、その原因が不景気と「若者が働かないこと」に対する不安から来ている。
でも、この「若者が働かない」不安は、新書なんぞを読むインテリとか知的大衆諸君にとって果たして「憂国」的なところから起因しているんだろうか。
たぶん違うでしょう。自分の老後が心配なだけなんじゃないですか。将来的には現状の若者が日本を支えるわけだから。自分たちが支えられるわけだから。
その打算が、なんかカチンと来るんですよ(繰り返しますが、あくまで私の先走った想像ですよ)。

懐かしいジミーちゃん的に言えば「おまえががんばれよ」って話ですよ。
それは逆に、「働かないとなぜいけないのか」ということに対する、倫理的説明が欠如しているということであり、それは倫理的説明を、意識的、無意識的に忌避しているからではないかと思います。
理由は簡単で、かつて共産主義だとかナントカ主義だとかに振り回された、もしくは振り回されている世代を観てきた層が、現在ものを言う立場にいるからですよね。

この間、テレビに「ニートやフリーターになっちゃいけない」という出張授業を中学を回って行っているという先生が出てきて、
「生涯賃金でニートやフリーターはこんなに損をする」っていう授業をやってんですね。
それは、私は非常にいいことだと思いますよ。学校の授業で、とりあえずおとしどころってそこしかないように思うから。
だけど、「おれは金も何もいらねえよ」って言われたらどう返答するのか、っていうのが、その先生はそれが役割だからいいけど、現在社会的にだれもフォローできる人がいないんじゃないか?という気がするんですよ。
あるいは現在ものを言う立場の人の多くは、フォローの必要を考えていませんね。

そして、なぜフォローの必要を考えていない人が多い(と私が思っている)かというと、かつてはそういう「金だけじゃないだろ?」って言う人がものすごくたくさんいたからですよね。
そういう人に対する反感が、たぶん論者の何人かにはあると思いますよ。

で、それはなぜかというと「金だけじゃない」っていうのが思考停止の呪文みたいになっている、と、その辺のことを言う人が考えているということですね。
それは確かにそういうところはあるんですよね。

だから、最近は何かが唱えられるときでも、(俗な意味での)プラグマティズムがウリ、という場合が非常に多い。
実効性をのみウリにしてる。
私は、もしかしたらその辺の物言いは非常に世代的なものではないかと疑っています。

まあ、はっきり言って「金だけじゃない」っていうのは負け犬の発想ですよ。
でも、そういうのってぜったい必要になってくるんですよ。
実際に階級社会化が来るかどうかはわかりませんが(私は来ると思ってますが)、おそらく階級化した場合、下層の思想というのは、自己満足か成り上がりしかありませんから。
後はギリギリまで追いつめられたらテロですよね。

だから、現状でのニート、フリーター対策としての実戦主義というのは、自己矛盾を抱えているということですよ。
実戦主義は「負けたくなかったら働け」とアジるわけでしょ。
でも階級社会って、簡単には勝ち進んでいけない層が出るから階級化、階層化するわけですよね。
じゃあ最終的に社会が階級化するとして、現状のニート、フリーターへのアジり思想をそこに援用していけるかというと、ぜんぜんダメでしょう。
「今、中学生にニートやフリーターについてどう教えるか」っていうのが、実戦主義でもいいですよ。
個別具体的にというか、TPOでいろんな教え方があっていい。何も、いつでも哲学や天下国家を語る必要はないかもしれない。
でも、実戦主義ってたやすく単純きわまりない「強者の論理」に墜ちると思いますよ。

そこをすくい取っていく繊細さを、現状ではぜんぜん感じませんね。

おまえそれちょっとわかってんのかよ、という。

受験戦争、今はどうなってるのかわからないけど、私の学生時代も激しかったですよ。
そして、当時から「ドロップアウトしても、日本はそれをフォローする体制が整ってない」とも言われてたんですよね。
不良ばっかり集まる高校の先生が、「やめても寿司屋か美容師になるしかない、それくらいしか中退者は職業選択の幅がないからやめるな」みたいなことを昔言っていて、
実際はどうかわからんし、寿司屋や美容師にもやや失礼な物言いかなとも思うけど、もっともミもフタもない言い方としてはそういうことはありました。

でも、今の方が雰囲気的にはもっとずっとひどい。それは何でか、というと、単純に言って昔の方が景気がよかったから。
バブル崩壊前までの学歴社会とか受験戦争って、何が支えていたかが今こそ見えてくると思うんですが、それは「景気」ですよ。
厳密に言うと違うかもしれないけど、「将来的にそう悪くはならないだろう」っていう見込みも、その時点での「豊かさ」に含んだとして、そういうことになると思う。
あるいは、受験の負け組(受験戦争に参画しなかった人たちも含めて)がどの程度、生涯を通して「負けないか」ということだったんではないかと。
バブル崩壊前の受験戦争は、受験勝ち組の成功を約束していたと同時に、負け組もそうそう悲惨になることはない、という感覚に支えられていたのではないかと、今にして思いますね。

今、もし階級化が進んでいくとすれば、それはバブル崩壊前より確実に、「負け組」の負けっぷりがすさまじいということでしょう。
巻き返しができないから階級化していくわけだから。
その現状にあって、「負けたくなかったら受験で勝て、あるいは働け」っていうのは、
若者の尻を叩く、という方便としては正しいかもしれないけど、あまりに閉じた系でしか通用しない発想という気はする。

とりとめなく行きます。
あと、今の日本人ってすごい管理されたがってますよね。
「管理社会」とか言われていた頃よりずっと管理されたがってますよ。
それで、それが「日本がまたファシズムへの道を歩んでいる」とかの前兆だったら、「歴史は繰り返す」という意味でまだわかりやすい。
でも、たぶんそうはならないんですよ。
ファシズムってよくわかんないけど、最終的に戦争に突入してみんな死んじゃうなら、そういうカタストロフが来るということで警戒や警告ができるけど、
たぶん今後そうはなりませんね。
非常にまったりした感じで管理化が進むでしょう。
もう、それに対して当人が愉快か不愉快かも感じないようなかたちになっていくと思います。
それは社会が階級化していくことと合わせて。
まあ、それが幸せという人もたくさんいるんでしょうね。

いちおう断っておくけど、管理そのものが絶対悪というわけではないと思いますけどね。
ただ、多くの人が自分の考えがないままに他人に思考をゆだねているような気がする。

「何が幸せか」ということですよ。考えるべきなのは。
形而下の案件ではどんどん交渉上手になってるでしょ、一般庶民は。
それが実戦主義ということなんだし。
でもそうじゃないんだよなーという気がする。
現状、あまりにも「これこれをこういうふうにすれば効果があります」っていう、それをウリにしている考えが多すぎるね。

そればっかり考えてると、たとえば「こうすると金が儲かる」という考えがあったとして、そりゃ結構なことですが、「じゃあ金って何だ?」とか「金が儲かることによってどうなる?」とかが考えられないことになります。
ふだんはそれでも困らないんだけど、いざっていう、一生のうちに数回あるかないかかもしれないけど、そういうときにものすごく困ると思う。

「過渡期」っていう言い方も思考停止に導かれやすいのであまりしたくはないんだけど、あらゆるところで、まったく這い上がる見込みのない(あるいは見込みがないと思いこんでいる)、社会に対するものすごい怨念を、親の代から溜め込んだ人間を社会的にワインでも寝かせるように、じっくり醸成しているような気がしてならないですよ。

あるいはそういう対立構造にはならずに、人々の心の中に少しずつ怨念が蓄積されてお互いに足引っ張り合うような感じになるんじゃないかと。

よく「世界にひとつだけの花」の「ナンバーワンとオンリーワン」っていう歌詞が取り沙汰されて批判されたりしますが、
なんで「ナンバーワンとオンリーワン」のくだりがあれだけ支持されたかっていうと、

それは「負け組」の思想だったからに決まってるじゃないですか!

だれもがどこかで「負けてきた」という感覚があり、地上最強をあきらめてきたわけでしょう。そこを突いたからあの歌詞が、まともに聞いたことがない私が知ってるくらいに有名になったわけで、
負け組のための歌詞を「負け組のための歌詞だから」って批判するのは、「雨が降ったら天気が悪い」と言っているのと同じことですよ。

ま、現状の混迷というのは、たとえば宮台眞司とかが「まったり」とか何とか言っていたのは「いかにうまく負けるか」という負け方の模索でもあったと思うんだけど、
敗因はその参考を、自分が負けたとはとうてい思える年代じゃない女子高生に求めたことと、宮台本人が知的にも階級的にもエリートだったから、その本質をよく理解してなかったからでしょうね。

で、95年から現在までの10年間で「よい負け方」をだれも提唱しなかったもんだから、現状のような思想的無風状態みたいな感じになってしまったんですよ。

そもそもが、「マスコミに登場してきて人々に耳を傾けてもらえるような発言をする人はほとんどが才能があって上昇志向」というのがあって、そういう人が「よい負け方」とかいっても自己矛盾になるという部分はあるんですけどね。

今後、日本はもっと悲惨な状況になると思うけど、それをみんながだまって待っている(あるいはスポーツ的に「勝ち」に走るだけ)ような現在は非常に気持ちが悪く、居心地が悪いです。

でも、自分には何の力もないし、他の人たちはどうやら現状で満足(思想的貧困でもかまわない)のようなので、
もうカンペキに絶望しました。
だいたい地球上で60億人が幸せだって私が不幸だったら何の意味もないからね。
(05.1129)


・「刃(JIN)」 1月号(2006、小池書院)

21日発売なので、まだ売ってるかも。
新連載が黒鉄ヒロシ、原案・寺内桃代「伝説・日本チャンバラ狂」。第2話「驚異のお化け視聴率番組『てなもんや三度笠』(以下略)」。第1話のときも書いたが、黒鉄ヒロシの「大人まんが」な絵柄がいい感じ。昭和37年から43年の足かけ7年やったという大人気番組だが、VTRが残ってないとかで、おおざっぱに言って同時期にやってた映画や「ウルトラマン」なんかの特撮モノに比べてリアルタイムを逃した世代で知っている人があまりいない(当たり前と言えば当たり前だが)。
あらためてテレビの場合、一般人がムリしてようやっとビデオデッキが手に入れられるようになった70年代後半以降と以前では記憶の残り方がぜんぜん違うなと思った。お笑い番組ならなおさらである。
杉浦日向子「風流江戸雀」。実は杉浦日向子のマンガをきちんと読んだことがないのだが、好きな人には悪いがこのシリーズはぜんぜんピンと来ない。それは作品の底流に作者のモテ自慢が含まれているからだろうね。似たような感触として吉田秋生の「ハナコ月記」がある。同棲カップルのイチャイチャを描いた短編連作だが、吉田秋生も無意識に彼氏の自慢とかするようなタイプだよなぁとか思ってた。
ま、もっともっとヒドイのは他にもたくさんあるだろうけどね。

読み切りは谷崎潤一郎、池上遼一「刺青(SHISEI)」。自分が刺青を入れる相手が痛みに苦しむのを見ることに快感を覚える彫り師が、自分のオリジナルな刺青を入れてもらうために魔性の素質を持った少女に頼み込む。 体調が悪いときに読んだせいか、「なーにかっこつけてやんだ変態の谷崎のヤロー」と思っただけだった。なに、これがブンガクなの? サドマゾの世界じゃないスか。しかも谷崎ってMだから感情移入できないんだよ(私がSというわけではありません)。

小池一夫、伊賀和洋「レイザー ー剃刀ー」。どんどんお話がバカバカしい方向に向かっていってます。この雑誌、主要読者は40〜50代らしいけど、面白いのでみんな読んだ方がいいです。
(05.1125)


・第4回ハロプロ楽曲大賞2005

第4回ハロプロ楽曲大賞2005の投票をやっております。受付は今日まで。

私が選んだ今年の楽曲部門。

1位 Missラブ探偵(W(ダブルユー)):8点
2位 THE マンパワー!!!(モーニング娘。):0.5点
3位 なんちゅう恋をやってるぅ YOU KNOW?(Berryz工房):0.5点
4位 ALL FOR ONE & ONE FOR ALL! (H.P.オールスターズ):0.5点
5位 カッチョイイゼ! JAPAN(美勇伝):0.5点

・選考理由
総評としては、今年下半期あたりから個人的に急速にハロプロに対する熱がなくなってきて、ハロモニ。レビューもやめてしまい、「5曲も選べねェよ」と思っていたんだけど、並びを見るとぜんぜん選べるんですよね。
やろうと思えば10位まで選べる。どういう製作工程かとかぜんぜんわからないけど、私みたいなミーハーがぜんぜん選べるということは、量産体制が整っているということなのかもね。
いやいろいろ外注問題などあるにしろ。
あと、ライバルがいないですよねこの分野で。アイドル楽曲というかそういうので。マジで、Perfumeくらいしかいない。たとえば時東あみが「メロンのためいき」や「21世紀まで愛して」を歌うって聞いたら「あーそうきたかー」って思うけど、同時にそれはすでに来た道、って思わざるを得ないところもあって。ハロプロはブランドとして確立されているところが強い。

それと、下半期に興味を持ったのは、コアになる層が今後どれだけ残っていくかということ。それが1万人か3万人かわからないけど、どれだけ世間というか外に向かっての知名度が落ちていっても、その特別にコアな層が残っていれば、たぶんハロプロはとうぶんは続きますね。
それはテレビの露出が減ったのと、それとはあまり関係がないネット上での盛り上がりとの温度差から感じた。世間的に落ち目って言われるけど、たぶんつくり手はギリギリのコア層がどのくらいいるかをわかっているとは思うんだよねえ。

あ、ぜんぜん選考理由じゃないや。

・Missラブ探偵(W(ダブルユー))
曲は「カッコよすぎる」と頭の悪いことしか書けない。歌詞が非常に面白い。つんくとはまったく違った感じで。辻加護のパフォーマンスもコミで、あくまで私見だが今年突出していた。だから相対評価でたくさん点、入れたった。
つんく先生もそれなりにいい仕事をしているとは思うが、この曲のようにもっと外部の人を使ってほしいという意味も込めて。

・THE マンパワー!!!(モーニング娘。)
むずかしいことはわからんが、面白い曲だと思った。印象批評で申し訳ないですがパワーをどんどん溜め込んでいく感じが面白い。かめはめ波出す直前で終わるみたいな。

・なんちゅう恋をやってるぅ YOU KNOW?( Berryz工房)
詞・曲ともにベタベタのアイドル曲のように感じ、それでいてメジャー感もあるように思う。
Jラップが流行ってから、ヒップホップ以外でも詞に韻を踏む人がいるが、あれは個人的にダサいと思ってた。この曲はダジャレに大きくブレることで、まねっこのダサさから逃れている。

・ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!(H.P.オールスターズ)
おっさん世代なら「デビルマン対マジンガーZ」、もう少し下なら「スーパーロボット大戦」を思わせる夢の集合モノ。何となく学校で歌ってもおかしくないような(そういえばみんな制服だった)楽曲で、そのお行儀の良さからも何となく「卒業式」を連想してしまった。この曲で大団円を迎え、このままみんな「卒業」してしまってもいいかもと思ったのは内緒。

・カッチョイイゼ! JAPAN(美勇伝)
この曲と同水準のものは今年何曲もあったと思うが、「美勇伝」というユニットの可能性、3人であることによる化学変化を大いに期待して入れた。歌詞のキャッチーさと内容的な見事なまでの無意味さ、それでいて何か元気が出る感じも評価したい。




路線変更したあややにまったく興味がなくなってしまったなー。編曲者では平田祥一郎が好きだな。好きなの選んで、後から見たらたいていこの人がやってた。あと田中直、それと「Missラブ探偵」や美勇伝の「曖昧ミーMIND」をやったMOTO G3っていうの? その人。

PV部門
そういえば選考できるほど見てないや。でもシングルVって本当に見たいものしか買わないでしょ普通。「いちおう観ておくか」っていう概念はないよね。楽曲以上に。ポスターとかトレカを買う感覚に近いんじゃないかなあ。

・THE マンパワー!!!(モーニング娘。) 2点
なんかフレームにおさまろうとしてちょっとヨロヨロしてたりしたけど、ギリシャ神話みたいな感じで良かった。

・Missラブ探偵 (Dance Shot Ver.)(W(ダブルユー)) 2点
「ヘッドロック」のところでちゃんと苦しそうな顔したりしているところがいい。
……って書いて送信しちゃったけど、あれって「ロボキッス」だった。間違えた(笑)。

・Missラブ探偵(W(ダブルユー)) 2点
内容的に当たりさわりない感じだが、曲がいいのと衣装がかわいいので。

推しメン:辻希美
なんで激痩せしたか、異常に気になってます。

(05.1124)


・ハロプロ楽曲大賞2005、私的選考漏れ作品

以下、簡単に。

・直感 〜時として恋は〜(モーニング娘。)
・女子かしまし物語2(モーニング娘。)
・愛〜スイートルーム(美勇伝)
これらはどれも、歌詞が面白い。つんくの作詞家ワークスとしてはかなりいい出来なのでは。「女の子実はちゃっかりしてます系」を、実にかわいくまるめてある。

・エキゾなDISCO(後藤真希)
・18 〜My Happy Birthday Comes!〜(W(ダブルユー))
・十七の夏(W(ダブルユー))
「エキゾなDISCO」も「十七の夏」もアレンジが平田祥一郎。「エキゾなDISCO」は、後藤真希のつくった甘え声が本来の意味で大傑作なんですよ。よくこんなことやらせたなと。

・Tea Break(美勇伝)
・唇から愛をちょうだい(美勇伝)
・曖昧ミーMIND(美勇伝)
「唇から愛をちょうだい」、石川梨華の歌い出しのカン高い声がスゴイ。美勇伝のアルバムはけっこういい曲入ってましたよ。「曖昧ミーMIND」は、シングル「紫陽花アイ愛物語」のカップリングの曲。「Missラブ探偵」と同じ森村メラ、JOEY CARBONE、STEVEN LEE、MOTO G3。

【参考】
新田の投票した第3回ハロプロ楽曲大賞2004

ハロプロ楽曲大賞2004、私的選考漏れ作品

(05.1124)


・「ロマンティック食堂 尾玉なみえ短編集1」 尾玉なみえ(2005、集英社) [amazon]

「アイドル地獄変」(→感想)が面白すぎた人の短編集。
感想は、面白いんだけど出来不出来の差が激しいというか、完全な私の趣味なんだけど、「指折り姫」、「まま子とトシロー」、「くの一児童 あこがれちゃん」、「マコちゃんのリップクリーム 耳が出てる編」、「プロゼクトX」は間違いなく傑作だと思う。

後はあれだね、ねこぢるや山田花子や、永野のりことかもそうだけど女性のギャグマンガ家の方が生理に訴える気持ち悪い描写をすることが多くて、それを面白いと思えるかどうかだろうね。
ヌル〜い4コマとかで「実はちゃっかりしてました」とか「ホンネを言いました〜」とか、そういうくだらんのは「ふざけんな」って思うけど、それと逆ベクトルで「こんなに残酷なんです」っていう流れも、私にとってはたいして面白くない。それは意外性がないから。
でも、困ったことに「どういうことが残酷か」がわからないと、面白いギャグが描けないという部分も確実にあるんだけど。
(05.1119)


・「スパル・たかし」 尾玉なみえ(2005、集英社) [amazon]

ビジネスジャンプ連載。ローマ時代の少年剣闘士・たかしが主人公のギャグマンガ。「少年剣闘士」といっても、時代考証はゼロで、たかしがインチキ商売をやってる少女・鷺巣(さぎす)あきなに毎回だまされるというのが基本設定。
私は最近、トンがった素材を「いかにまるめるか」を評価対象としているので、方向性がバラバラな短編集よりこちらを押します。
で、少年ジャンプ時代はどうしても少年マンガ的にお話を進めなくてはいけないのが辛そうだったけど、青年誌ということもあってかまるめ方はこっちの方が自然。おもしろキャラも続出し、エンターテインメントとしての完成度は高い(メチャクチャ度が若干減ったぶん、尾玉なみえをはじめて読む人は本作がいいかも)。

特異なネームで、キャラクターのかけ合いで笑わせるというところにこの人の真骨頂があるような気がしていて、それは漫才的でもある。で、漫才というのはどこまでも会話が解体していく性質を持っているので、それに似ている尾玉マンガはお話としては破綻している方が面白い……というウマイ説明を思いついたんですがいかがでしょうか。

思わず笑ってしまったフレーズとしては、デブ剣闘士・ホット太郎のおっかけに対してたかしが言った言葉「よさないか!!!! 日常生活から満足を得られない生き下手どもめ」。ひでえなあ(笑)。だいたい、その人たちからお金もらってんのが剣闘士のたかしじゃん。こういう微妙な意味のつながりがないと、フレーズが生きてこなかったりもする。むずかしい世界だ。
(05.1119)


【映画】・「モーレツ怪獣大決戦」 監督:荒木憲司
【映画】・「惑星大怪獣ネガドン」 監督:粟津順


2つの、ものすごく対照的な怪獣映画を観る。

まずは「モーレツ怪獣大決戦」

Mac以外の人はここで見られるらしいです

パチモン怪獣カルタの怪獣を着ぐるみ化して「ウルトラファイト」風に撮ってしまおうという企画。上映時間は30分くらい。
「ウルトラファイト」、「ゴッドマン」などの怪獣ブーム末期的低予算モノのパロディでありつつ、怪獣同士の戦いを逆光で撮ったり、ジェット機の出動シーンが(単にプラモを撮影しているだけなのに)妙にカッコよかったりして、随所にコダワリが見られる。
「怪獣おじさん21(ツーワン)」として、唐沢なをきが出演。
怪獣に混じって水着の巨大女の子が宇宙から飛来するという設定があるが、これは「巨大グラビアクイーンのなんちゃら」とか、そういうののオマージュなんですかね? 怪獣おじさん21がその画面を見ながら「親は泣いてるよ!」と言ったのに爆笑してしまいました。

一緒に観ていた怪獣マニアの人がすごい褒めていた。

次に、「惑星大怪獣ネガドン」

公式ページ

オールCG。上映時間は25分くらい。
昭和百年、火星へのテラフォーミングのために眠っていた怪獣が呼び覚まされ、地球で暴れ回るという内容で、近未来という設定だがアドバルーン、テープが回るコンピュータ、黒電話を使う人などの「昭和」への愛着が感じ取れる。
が、作者は確か現在31歳で、東宝特撮などを後から観た世代。だから、映画全体としてはスーパーロボット、リアルロボット、あるいは「エイリアン」やエヴァンゲリオンなどの影響が見られる。「ネガドン」の無生物性は、東宝特撮の黒目と白目がある怪獣とはまたちょっと違ったリアル感も感じたし。
要するに、2005年までのオタク史をたどってもう一度昭和に戻ってそこから100年経った世界、といった趣で楽しめます。

個人的には怪獣やロボットそのものの動きよりも、むしろそれらが出現する前の博士の顔のアップで写る無精ひげやタバコを吸ったときに吐き出す煙、ひらひら舞う蝶(蛾だったかな?)の造形や動きなどに心奪われた。
肝心のロボットと怪獣の戦闘シーンが時間的に少ないというのはあるんだけれども、もしかしたらプロモーション的な計算があるのかもしれないですね。前半に(おそらく)技術的にすごいシーンを持ってきたというのは。

で、興味深いのはこの2つの映画って、同じ自主映画で怪獣大好きな人がつくっているんだろうけど、見事なまでに対照的なんですよね。
私自身が怪獣マニアではないのであまり出しゃばったことは書けないのだけど、それでも怪獣映画の中にある「安さに対する愛着」とか「安さの中にあるリアルさ」とか、「安くても模型で撮る手づくり感」というものと(「モーレツ怪獣大決戦」)、一方で「実写を使わずに特撮テイストを出す」という試みやそれ抜きにしても超絶的なハイクォリティ映像の追究というふうに(「ネガドン」)、求めるものが180度違う、同じ怪獣映画をインプットしてアウトプットされるものがここまで違うという面白さ。
この2つが近い時期に公開されたっていうのは、偶然にしても何か意味があるのかもしれないですね。
「創作の中に含まれた、過去作品に対する批評性」みたいな部分で。
(05.1118)


【雑誌】・「ウォーB組」12月号(2005、マガジンマガジン)

公式ページ

巻頭は井上ゆりな[amazon]。あと、滝ありさとか。

野田ゆうじ「ぼくとすずなのいた夏」は、第41話「ロストワールド」。
いい感じになっていた美果にメス犬・すずなの存在を知られ、ドン引きされたケンイチは放心状態。しかも、「メス犬」がいかに淫らな存在であるかもまったく理解していない。クラスの男子からは羨望のまなざしで、女子からは軽蔑の対象として見られる(しかもその理由が理解できない)ケンイチは学校を休んでしまう。

あいかわらずのシュール展開。なんでケンイチはすずながエロいということを認識していないんだ? コレがまた、伝奇的な伏線になっているかもしれないからあなどれないんだけど。

他にはマンガとしては児島未生、尾山泰水、杉友カヅヒロ。

次号は12月9日発売。

先月号の感想

(05.1103)


【雑記】・80年代の陰謀論〜悪があるから正義あり、ヒーローものの明日はどっちだ?

たまたま、古書店で投げ売りされていた79年刊行の陰謀本を読む。それと90年代初期のものも何冊か。
具体的にレビューを書こうかとも思ったが、私自身が個別具体的な陰謀論に関して詳しくないこと、いろいろとメンドクサイ反応を呼び起こしてもいやだなと思ったことなどから漠然と感想を書いてみる。

それが、昨今自分が考えているヒーローものや広義のエンタテインメントに関連してくると思うからだ。

内容的には、ものすごくおおざっぱに言って事件の背後にユダヤがいてどうのこうの、というものだが、現在から後出しジャンケン的に読んで興味深い部分もある。いや内容は「アイアンマウンテン報告」がホンモノとされていたりしてどうしようもない与太なんだが、それが書かれた(信じる人もいた)政治的背景とか当時の人間の心理とかに、である。

興味深いのは、まず米ソの軍事力が本当にものすごい、どんな人間でも抵抗不可能な超巨大なものとして描かれていること。
これはサイバーパンクが出現したときにも言われたことだが、サイバーパンク以前は米ソの軍事力、スパイ能力などによって高度に管理された窮屈な社会が現出し、それを否定的にとらえるのがエンタテインメントとしては一般的であった。
サイバーパンク以降、「小汚い未来社会」、「当局の管理の行き届かない地域が存在する社会」が「アリ」になった。ネットで検索したら「ブレードランナー」が1982年、「ニューロマンサー」が1984年で意外に早いが、日本で本格的にサイバーパンクが浸透してきたのは80年代後半と考えていいと思う。そしてまた、そういう「個人が組織を出し抜く余地」みたいなものは、一般にはそれほど浸透しなかったようにも思う。

一方で、79年に出た方はその頃のオカルトブームを「唯物論的思考の否定」という表現で批判しているなど、筆者が書かれた陰謀論を打開するのは共産主義的思想、および運動だと暗々裏に考えているようであった。

コレは、「男組」における「影の総理」と主人公の戦いにそのまま引き写すことができる。 簡単に言えば、ものすごく強固で悪で秘密の組織が存在し、それを打開するのはゲリラ戦を行う個人だったりするという図式である。
こうした「闇の組織」がどのくらい強いかに関しては、陰謀論者によってトーンが違うのだろうが、少なくとも80年代半ばくらいまではまだ打開の余地があると考える人が多かったような気がする。
70年代の「ノストラダムスの大予言」はかなり強い無力感を読者に植え付けたようだが、比較論で言えば現状の方がもっと悲観的な感じが、自分にはする。

その後、80年代後半から90年代初頭にかけて陰謀論者の「妄想幻魔大戦」においては、「敵」である「闇の組織」の力はどんどん強くなっていった気がする。私自身はいわゆる陰謀論にハマった時期はないが、それは打開策がまるで用意されていないからだった。だって娯楽としても辛気くさいもん。

これもまた陰謀のトーンによるのだろうが、「アメリカ政府が宇宙人の死体を隠している」ところから始まって「アメリカ政府は宇宙人と密約を交わし、すでに宇宙人は地下基地に住んでおり、それを攻撃しようとした兵士はほとんどが殺されてしまった」というところまで行くと、人類はすでに宇宙人に制圧された後であって、陰謀の告発者にできることは「人類はすでに敗北している」ということを政府に認めさせることしかない(逆に言えば、陰謀の自称告発者は無力感にさいなまれながらも最善を尽くすという孤独なヒロイズムに浸る余地は、まだしもあったということはできる)。

これらをさらにポップ化したのが「MMR」だろうが、実は1、2巻しか読んでいないが少なくともその段階ではやはり陰謀を暴く人々には何の希望も残されていなかった。

流れ的に言えば、そのような「闇の組織」を「フィクションとしても、まだしもありそうな話」と受け止められた感覚は1995年のオウムによる地下鉄サリン事件をもっていったんリセットされた、と個人的には考えている。MMRはその後も続いたけどね。
オウムは陰謀論の実践者であり、さらに被害者だと思いこんでいた(あるいは偽装していた)。「闇の組織」を仮想したあげく、多大なる迷惑をかけて自滅したという印象だが、幻を巨大に見積もりすぎた(世間一般も含めて)帰結という見方もできなくはない。
私個人はそれに対抗するのが(たとえば男組のように)共産主義思想だったとは、少なくとも75年から95年の20年間においては思えないが、世界のとらえ方として、対抗する存在を空位にしたままあまりにマイナスなことばかり考えていると破綻が来る、ということは言えるのではないかと思う。すなわち、健康的ではない。

「闇の組織」の無効化は2001年のアメリカ同時多発テロ事件により決定的となる。
一般人が「まさかここまではやるまい」と思っていた貿易センタービル破壊が実現してしまったため、エンターテインメントの世界ではそれほど(西部劇のインディアン的な、という意味で)悪役としては重視されていなかった中東の過激派、原理主義者が強く認識される。
このテロ事件におけるアメリカ政府、あるいはある種の集団による陰謀論、またさらに米ソが陰で手を握っている、というのと同じニュアンスでのアメリカと中東との関係を陰謀論的にとらえる考え方もあるが、イスラム過激派は目的の達成点がどこにあるかがまだ一般人に理解しにくい。
このため、「米」の裏返しの「ソ」という単純な図式のようにはとらえられないこと、また脅威がテロリズムであるために、「ヨーイドン」で始まるかのように思われた米ソの第三次世界大戦とは違い、いつ自分が巻き込まれるかもしれない恐怖からネタにもしにくいように思われる。

さらに、「軍事力が天井知らずに上がっていかなければ、戦争はありえない」という固定観念、逆に言えば「軍事力がすごければ、東西のバランスがとれて戦争は起きないのではないか」といった考えが覆されてしまった。 これは軍事力のアップ=科学技術力の向上→社会の進歩、という神話を崩したとも言える。つまり科学技術力の超絶的な発達が秘密にされている、というたぐいの陰謀論も出にくくなった(アメリカだかソ連だかがUFOをつくって飛ばしてる、なんていうのもこの種のやつだった)。

考えてみれば、米ソ対立というのはものすご〜く単純に言って(アメリカ人にとっては)神/悪魔の相似であって、アメリカのエンタテインメントはそういう別次元の対立をシンクロさせて成り立っていたと言える。

現在は米ソ対立は冷戦時代と同じようなものではないが、「神と悪魔の間で揺れ動く人間」という根元的なテーマはそう簡単にはなくならないため、アメリカのヒーローものは日本のものほど911以降、アイデンティティを揺るがされることはなかったようである。

日本の場合は、米ソ対立(あるいは日本/米という対立)に巻き込まれるというか引き裂かれた個人、という裏テーマがヒーローものにおいては支配的だったと思うが、それがなくなってしまったために現在グダグダになっているという印象である。

急に思い出したが日本、伝統、精神主義/アメリカ、近代化、合理主義という対立項は、「空手バカ一代」から「魁! 男塾」あたりまでかなり明確なテーマであった。
ジャンプの系譜で言えば「魁! 男塾」まであった(車田正美とかにもあった)何となくの反米感情、対抗意識は「ドラゴンボール」では完全になくなってしまった。

もう一方で、突出したリーダーシップ、カリスマを胡散臭いと思っているわりに、草の根的な運動をも信用できないナイーヴさが日本のエンターテインメントにはある気がする。しかしどっちにも針が振れなければ落としどころが見つかるはずはない。

ここまで書いて悲観論ばかりになってしまったと思うのでいちおうエンターテインメントにおける「ヒーロー」復活のとっかかりとしては、

まず、もう一度個人主義的な、大義名分にとらわれないヒーロー像を見つめ直すこと。
アメリカンドリーム的なイケイケ勝ち組上昇志向ではない、「今現在、どうするか」を考えて日常をいなしていくヒーローを考えてみること。
次に、それに対抗する「悪」とは何なのかを考えてみること。平穏な日常を台無しにするものは何なんだろうか? 戦争やテロもそうだが、もっと身近には何があるのか?
最後に、それを倒すにはどうしたらいいかを考えること。ここでポイントなのは、あまりに真剣に考えすぎると深刻化した問題はぜったいに解決できないことがわかってしまうので、どの辺に「ウソ」を盛り込んで倒してしまうかということだ。

だれだっていつの時代だってシミュレーションをしてみれば、個人が無力なんてことはわかってしまうのだから、最後の最後にはウソで終わらせていいのだ。それをわかっていないナイーヴなクリエイターが多すぎる気がする。

長くなったが、メモ書き終わり。
(05.1117)

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