トップに戻る
「つれづれなるマンガ感想文2006」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文2006」2月
一気に下まで行きたい
とあるクロスレビューのサイトで、「失踪日記」[amazon]が取り上げられ、話題になったことを受けてふと思いついたことを書いてみる。
「失踪日記」は、「最強伝説黒沢」において黒沢が考えると絶望的な気分になる部分、地獄の深淵のような部分をバッサリ捨象しつつ、なおかつその手ざわりがしっかりと読者に伝わるところに醍醐味がある作品である。
【雑記その6】・ニフティのワープロ・パソコン通信サービスが終了
【雑記その5】・「ダッシュ四駆郎」の徳田ザウルス氏逝去
【雑記その4】・「笑い」って本当に人生を「生きやすく」させてくれるんだろうか?
【雑記その3】・村上春樹を勝手にフォローする
【雑記その2】・芸人じゃなくてタレントで忘れられた人2
【雑記】・芸人じゃなくてタレントで忘れられた人
【雑記その6】・ニフティのワープロ・パソコン通信サービスが終了
今日でニフティのワープロ・パソコン通信サービスが終了。
実際には、フォーラム・会議室などはとっくに閉鎖しているそうだが、やはり歴史的な日には違いない。
自分はいつ頃からパソコン通信を始めたかすっかり忘れてしまったが(最初はワープロでやってた)、私のパソコン通信ライフにおいて、初期に最も力を入れていたのが特撮番組・有言実行三姉妹シュシュトリアンを通してコミニュケーションを取るということであった。
ということで、自分語り開始。
シュシュトリアンの放映が93年だから、自分は92年頃にはすでにニフティに入会していたことになるな。
当時は特撮関連でまったく知り合いがおらず、しかし「シュシュトリアンはもっと見られていい番組だ」と思っていたので、当時LDの画質がどうのとかの技術的な話題(こういうことを実に細密に書いていたのはロトさん=氷川竜介氏だと思う)、あるいは既存の特撮コミュニティに乗っかった発言が多い中、レスをつけやすいように毎回放映が終わるとあらすじをアップしていた。
よく考えると、今のHPやブログの活動とそう変わらないことをやっていたわけだ。
アニメのフォーラムも見ていたけど、結果的に特撮だった、というのは自分にとっては不思議な縁である。私、今でもそうだがことさらに特撮にこだわりがあるわけではなかったので。
しかし東映不思議コメディが、トクサツと美少女アイドルとギャグのクロスした「場」に存在していることの面白さを味わい尽くしたかったというのはある。
マンガの創作館に出入りを始めた(というか、創作館自体が後からできたと記憶しているが)のが、95年頃じゃないかと思う。ここには下にも書いたようにマンガ家の徳田ザウルス氏も出入りしておられた。
他にもすがやみつるさんや須賀原洋行さん、海明寺裕さんといったプロのマンガ家さんたちがアクティブに活動していた。
みんなで同人誌をつくったことが思い出される。
あとオフ会に1回、玉置勉強氏が来てた(まあいつだれが来た、なんていちいち書いたってしょうがないのではあるが)。
創作じゃないところでは弓月光氏の名前をよく見たな。急に思い出したけど。
インターネットも同時期に存在していたがまだマイナーで、パソコン通信の利便性幻想みたいなものが95年から数年間は強かったように思う。
「オウム情報を得るために石野卓球がニフティに入会」というようなこともこの時期あった。
卓球がニフティに入会する前後の、洋楽フォーラムのダンス会議室はすごいことになってた。たったひとつの会議室を、ほとんどすべてのテクノ関係者が見ていたんじゃないか?
まあ現在の2ちゃんねるも似たようなものと言えば言えるが、当然勝手にスレを立てるなんてこともできないわけで、「ダンス会議室(正式名称忘れた)」という限られた空間が、地元のみんなが集まる喫茶店みたいな異様な熱気を帯びていた印象がある。
確か、シスオペをダブマスターXとかがやってたんですよ。
また、間接コミニュケーションの嫌いな卓球が一度だけ書き込んだことも覚えている。彼の「何でも一度はいちおうやってみる」精神を見た気がしたものだった。
そうそう、それとエヴァ論争ね。あれもパソコン通信が無かったらあそこまでいったかどうか。
FCOMEDYの「オタクアミーゴス」、「裏モノ会議室」も思い出されますね。基本的に自分の巡回先としては、ダンスミュージック以外は、通信を通じて今でもおつきあいのある方々が多いんです。
パソコン通信は、93年頃から5年間くらいは、現状のインターネットとはまた違った熱気を帯びていた。今考えるとボッタクリじゃねえかと思えるほど通信費が高かったとか、どこにいってもいさかいが絶えないということもあったが、現在のインターネットよりも微妙に敷居が高かったことが原因となって、どこのフォーラムに行っても「パソコン通信をする人々」というくくりでの独特な雰囲気があった。
だから、たぶん現在の「出会い系でダマされる」とか「出会い系で殺人」とか、そういう事件は無かったかずっと少なかっただろうし、「知らないだれとでもコミニュケーションがとれる」という建前とは違い、パソコンに詳しい人、SEなんかが実際の利用者では多かったのではないかと思う。
検索機能も無かったから、「だれかに聞くよりしょうがない」部分があって、どこの会議室でも必ず物知り仙人みたいな人がいたりした。で、そういう人がまたSEだったりして。
だから、90年代後半にはふざけて「パソコン通信上でやりとりされている情報というのは、もしかしてSEの人たちの持っている情報であり、パソ通ってもしかして『SEの人たちの知識をデータベース化する』ことなんじゃないか」と言ったこともある。
逆に言うと、パソコン通信というのはなじめないと使えないものでもあった。
電話の嫌いな私は、通信手段をメールにしたいがためにいろいろな人にパソコン通信を勧めたが、けっきょく最初から違和感を持っている人は最後までパソコン通信には慣れなかったと思う(しかし、なぜかインターネットには慣れた)。
そしてある日、パソコン通信を勧めてもいっこうに興味を持たない人から、さっき私がふざけて言った言葉を受けて「おれにもSEのデータベースを使わせてくれよ」と言われて、そうとうカチンと来たこともある。
今でも教えて君とかクレクレ君などというと決して好かれないが、情報は自分から発信しないと返ってこないし、またそうでなければならないという思いが検索機能のないパソ通において私には強くあって、何も情報を発しない人間がパソ通から情報を得ようとする行為はタダ乗りのような気がしたのを覚えている。
大げさな、と思う人がいるかもしれないが、パソコン通信というのはその独自性、特異性を抜きにしても現在のインターネットで起こりうる諸問題をできるだけ表出させた、一種の実験場だったのではないかと思っている。
インターネットで起こった問題は、ほぼ間違いなくパソコン通信でも起こっていたと思う。
だから、ネット論を展開するにしても、自分の座標軸はパソコン通信にある。
一部の人間のものだったパソコン通信を大衆化したのがインターネットだと考えているということだ。
電車男、原作も映画も見ていないが、もしもエルメスが「インターネットをまったくやらない女性」として描かれていたとしたら、「電車男」とは「ネットをやる人間たち」と「やらない、もしくは意識してはやらない人間たち」とのコミニュケーションを描いていると思う。
それは、ネットの中で、あるいはリアルで「そういうことをやる人種、やらない人種」が明確に分かれたことを意味する。
パソコン通信時代は、「電車男」のような設定はできなかった。なぜなら、パソコン通信とはそれをテーマにした際「みんながやるべきもの」だったからだ。あるいは「やる人はやるし、やらない人はやらない。」
そこにはナントカ系なんて違いも無かったし、通信をやればコミニュケーションがよりスムースに行くという幻想があった(逆に、やらない者にとっては人間を疎外すると思われていたが)。お互いが発信者であり、受信者だったのだ。
だからこそ、「情報を発信しないで読むだけ」の人はROMと呼ばれた(そこには非難のニュアンスは無かったことは、老婆心ながらつけくわえておくが)。
今は、ROMとかそれに近い言葉ってないんじゃないか? 通信が、何もしないでも情報を提供してくれる存在になったということでもあるし、ネットを通して情報を発信するものとしないものとが分かれるのは自明になっている、ということでもある。
ま、いつだって理想は崇高で、予感はわくわくして、常にどこかに回路が開かれていると思い込めるということなんだろうけどね。
結論を言うと、同人誌の奥付にメールアドレスを記載して10年くらいになるが、あれでメールが来たことって1回もないんだよね。
インターネット以上に理念的であったがゆえに、パソコン通信の「開かれたコミニュケーション」という幻想は、当時の小汚い秋葉原のイメージとともに自分を魅了する。
逆に言えば魅了しただけだった、とも言えるのだが。いや、そう書くと自分がパソ通で得たものを低く見積もりすぎなのだが。
(06.0331)
【雑記その5】・「ダッシュ四駆郎」の徳田ザウルス氏逝去
「ダッシュ!四駆郎」の徳田ザウルス氏逝去
ショックとしかいいようがないです。当HPは、コロコロコミック、コミックボンボンのホビーマンガを紹介するコンテンツがあるんですが、氏の代表作である「ダッシュ!四駆郎」を紹介しないままになってました。
インターネットが流行るずっと前、パソコン通信ではマンガ創作関連のフォーラムに出入りされていて、当時はすがやみつるさんや須賀原洋行さんとともに、「プロのマンガ家の、公式ではないコメントが読めるんだ」ということに感慨深かったりしました。
ここで、急いで「ダッシュ!四駆郎」について書きますと、タミヤのミニ四駆というオモチャをテーマにしたホビーマンガです。80年代後半から90年代前半の連載でしたから当時10歳だった人は現在、30歳くらいですか。
ちょっと今、きちんと調べてないですがミニ四駆マンガとしてはもっとも最初の部類に入ると思います。
コロコロ系は、実験的にホビーを流行らすためにいろんな作家に読みきりを描かせたりしますが、最初に貢献したのは「ダッシュ!四駆郎」だと思います。
後に同人的にも話題になるこしたてつひろ氏の「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」において、「一度走り出したミニ四駆をどう制御するか」がきわめて曖昧な描写だったのに対し、「ダッシュ!四駆郎」ではゴルフのパターみたいなスティックを使って方向を変えたりしていて、しっかりしています。
マンガとのメディアミックスにおいては最初にミニ四駆に貢献した作品だと、たぶん言えます。アニメ化もされてます。
ホビーマンガの系譜としては、80年代的熱血路線を踏襲した面白い作品です。
いずれ再読して詳しく書きたいと思います。
ご冥福をお祈りいたします。
(06.0328)
【雑記その4】・「笑い」って本当に人生を「生きやすく」させてくれるんだろうか?
作中、作者がガス配管工時代、いじわるなセンパイにどなられながら、心底イヤな気持ちにはならず、それは「おれは芸術家なんだ」というプライドを持っていたからだという描写がある。
取りようによっては、クリエイター特有の甘えとも開き直りともとられてしまう部分なんだが、私は「失踪日記」が全編を通して、あくまでも「笑い」にこだわり続けているという点において、芸術家かどうかはわからないけれど少なくとも作品においてものすごい自己制御能力を持った人なんだなと感心してしまう。
そこへのプライドは持っていいと思う(もちろん、一般社会人としては底が抜けまくりなんだけど。奥さん子供を捨てて失踪しちゃうんだから)。
えーと何が書きたかったのかな。
要するに、逆に言えば吾妻ひでおの、そこまで自分を「笑い」に関して追い込む姿勢が失踪に駆り立てたりアル中にしてしまったりした、ということでもある。
最近は「笑うと免疫力が高くなる」とか「楽しい気持ちでいると健康になれる」とか言うが、そりゃ本当か? とも私は疑ってしまうわけである。
「笑い」っていうのは正解がない。そんなことを始終考えていたら、アタマがおかしくなってしまうのではないか? とも思ったりするのだ。
こう考えたのは最近に始まったことではなく、おそらく自分の「笑い」に関する原体験が吾妻ひでおから、一部始まっているからということはあるだろう。
基本的に、ギャグマンガの世界というのはあまりに作家の寿命が短くてそれ自体笑えないようなところがあったのだ。
あと、大学時代に仏教哲学の先生が、「修業しすぎておかしくなっちゃう人もいる」と言っていた(コレを読んでる仏教関係の人怒らないでください、その先生が言ってたんだから)。
「鉄鼠の檻」は禅寺の話だったけど、あれだけ読むと「禅問答」ってノイローゼにならずに、いかにそこをすり抜けて解答に達するかみたいな修業のように感じましたよ。
そしてまた、禅問答は「笑い」を追及することに、ちょっと似ているようにも思った。
アタマがおかしくならずに、楽しく生きて行くにはどうしたらいいんですかね?
一方で、「お笑い」に関しては、ちょっと出展がわからないのだが、水道橋博士が「他のことは失敗したら終わりだけど、お笑いの場合は失敗は単なる失敗じゃない、そこから始まるものがあるから面白い」的なことを言っていた。
それは私はあると思うんですよね。
段取りだとか順位だとか、精密さだとか、そういったこととは違う価値基準がギャグにはぜったいある。それを生きる糧にしている人もいるはず。
ま、そんなことを思ったわけですよ。
ビートたけしのすごいところはトークの場合、自虐が徹底してた(最近は知らないけど)。
ものすごく自分を突き放して苦労話をしてた。
子供の頃はそれが衝撃だった。
まあ私の場合、それと比較したのが十勝花子だったってこともあるんだけど……。
十勝花子とかミヤコ蝶々の苦労話って、心底悲惨なんですよ。
ミヤコ蝶々はドラッグ反対っていう意図があるからいいとして、
十勝花子は、完全に聞き手を気の毒がらせよう、そういうのに耐えてきた自分は偉いんだ、っていう論調だったんだよね。
テレビに出る芸能人って、私の記憶では昔はほとんどそういう論調で。
まあ、ルサンチマンをバネに育ってきた人がほとんどだから当然と言えば当然かもしれないけど。
でも、たけしの言う苦労話って、本当に笑えたりする。完全に自分を突き放してるから。
あれは自分にとっては目からウロコが落ちた。
杉平助が昔、徹子の部屋に出てきたときもそんな感じだったから、なんかそういう伝統があるのかもしれないけどね。
そんなたけしも、後にフライデー事件は起こすわ、スクーター事故の直前には女性リポーターにブチ切れて泣かすわ、完全に自分を物事から突き放してドライに見よう、っていうわけでもない人なんだな、とは思ったけどね。
ああ、結論の出ない話は書いてて楽しいなあ。
とりとめなく、終了。
(06.0327)
【雑記その3】・村上春樹を勝手にフォローする
やはりブログ更新の手軽さと、コンテンツを切り分けた当HPに関係したマンガを最近まったく読んでいないため、更新が滞ってしまっている。
HPは更新されてナンボと思っているし、肝心の本当に読んでほしいテキストを書いたときにはアンテナからはずされている、なんてのも哀しいのでただ思いついたことを書く。
なお純文学に関してはほとんど知らないのでなんか間違えたことを書いていたらフォローお願いしますだれか。
私の周囲では、なぜか村上春樹が大っ嫌い、という人が多い。
年代や個人のスタンスで「嫌い」の理由もさまざまだが、とりとめもなくフォローしていこう。
あと適当な駄文。
まず村上春樹の外国かぶれに対する反感。
簡単に言うと90年代トレンディドラマ風の、人間くささの感じない描写など。「90年代トレンディドラマ風」と書いたが、村上春樹のデビューは当然それより前。ということは、村上春樹はそういうのを前から志向していたということだ。
しかし、その前には片岡義雄という人がいた。何というかアメリカかぶれ的な小説が多かった気がする。主人公がプレスライダーだったり、プロサーファーを目指してたり。あと広告関係だったりってのもあったんじゃないかな?
両者に直接のつながりはないだろうけど、読者側にそういうのを求める心理が根強くあるのは間違いないようだ。
うーん……まあいいんじゃないの? くらいの感想ですかね私は。
片岡義雄もそうだけど、「個人主義」へのあこがれがいかに強かったか、を見てみないと批判として公平じゃない気がする。
もちろん、「個人主義」が「ミーイズム」というわがままに転化するのはいとも簡単だったわけだけど。
村上春樹とミーイズム、という点においてはすでに的確な批判が行われているのでとくに書くことはない。
しかし、これは数十年も経ってから思ったことだけど、村上春樹の小説の中に出てくる個人主義は、意図的なものというよりもともとそういう人だったんじゃないかと思う。
「女をくどくシーンすらないほどに主人公がモテる」というのも、村上春樹本人が女性に淡泊で、なおかつ結婚が早いことを考えるとまあそんなもんだろうなと(フィクションとしてリアリティがどうとかはおいといて)。
それと、日常に埋没していて大局にコミットしない生き方を描いているように誤解されてるけど、この人は基本的に政治的なヒトだよね。それを寓話で表現しようとしているということと、本音の部分ではあんがい単純な正義感の持ち主だが、それが永久に達成され得ないという不満を持ち続けているという作家だと思う。
この人の書いていることは、言ってみればある時期までその繰り返しなんだよな。
もっとも顕著なのは「パン屋再襲撃」だろう。
「パン屋襲撃に失敗した男が、数年経って、カノジョ(妻だったか?)にそそのかされてもう一度パン屋を襲おうとするが、そこは違うものになっていた」という。
自分は、これは健さん主演の任侠映画的世界観だと思うんですよ。
「なんでおれたちには健さんみたいな花道が用意されてないんだ」っていう叫びだと思う。
他の作品も、そういうところが多い。
「羊をめぐる冒険」は、まるで伝奇SFのように、世界を支配できる力を手に入れた男が、その力を手に入れたがゆえにそれを手放そうとする。
なんで手放そうとするかというと、それは現実の世界が「健さんの任侠映画みたいじゃなかった」からだと思う。
まあ、村上春樹自身がそんなに任侠映画が好きだとも思えないが、簡単に言うとそんな感じ。
「行動すること」よりも「行動しないこと」の方が物語を動かすカギになる、ということが多いのも、なんかそういう皮肉なんだろうね。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や、「ダンスダンスダンス」がそうだし。
探偵モノのプロットを借りて愚にもつかないものを探し当てる、というのが「1973年のピンボール」。
大ざっぱなくくりだが、「ダンスダンスダンス」までの村上春樹は、長編においては既存のエンターテインメントのパターンを踏襲して、その展開が裏切られたり、スカだったりするということを書いていたように思う。
「ねじまき鳥クロニクル」も、ことさら「健さん」な小説。主人公は確かかみさんの兄貴をものすごい憎んでて、殺したくてしょうがないんだけど殺せない。殺してもしょうがないことがわかっているし、やったら捕まるし。
殺して差し違えたら「健さん」だ。でもそれはできない。どうしようどうしよう……とどうどうめぐりするのが同作の後半、っていうのは乱暴な感想だけど、私の率直な意見だ。
「海辺のカフカ」はまたちょっと違うのでおいておくが、まあそんなふうに案外単純で、今思えば80年代から90年代初めの段階では、騒がれるほど新しいプロットではなかった。
逆に言えば、読者が反感を持ちながらも読了できる程度の「古さ」を保持していたということも言える。
それと、これは別の話だけど、70年代まではまだ、大学生とかの間で「これは読んでおいた方がいい」という定番みたいな純文学があったはず。
たとえば60年代の思い出話で、「資本論とかを読んでないと軟弱だと思われたのでサリンジャーが好きでも隠してた」みたいな文章にときおり出くわすが、
80年代になったら60年代に「硬派」な人たちからバカにされてた純文学すらも定番ではなくなっていく。
そんな中で読まれていた同時代的な作家は村上龍、村上春樹、高橋源一郎、島田雅彦くらいしかおらず、たぶん部数的には(「ノルウェイの森」を除いても)村上春樹がいちばん多かったのではないかと思う。
その理由としては、前述のような90年代トレンディドラマ的とっつきやすさ、ファンタジックな内容、文章のリーダビリティの高さなどさまざまな要因があげられるのだろうけど、
舞城王太郎が文芸誌に書いていたりしている現状を見ると、それが規模的にどれほどのものかはわからんけど、
村上春樹はあまりにも(たぶん)部数的には元気がなかった純文学を、80年代から90年代を通して支えた一翼は担っていたと思う。
話は少しそれて、なんで70年代後半から90年代半ばくらいまで純文学が読まれなくなったかというと、
純文学内部の事情は知らないけど、外部的にはエンタテインメントの復権という反動があまりにも大きかったということは言える。
70年代後半に、アメリカ映画はアメリカンニューシネマの時代が終わり、「エクソシスト」やブルース・リー映画、そして「スター・ウォーズ」が大ブームとなって娯楽映画が盛り返すし、
この件は何度か書いているが、マンガにおいては「COM」、「ガロ」両誌の先鋭的な追及とは別個に少年ジャンプが400万部を記録する。
サンデーでもマガジンでもなく、この時期にジャンプだった、ということはもっと考察されていい出来事だと思う。
このあたりは、70年代的なこむずかしい、暗いテーマとその展開のさせ方に息詰まりが生じたことと表裏一体であり、実は村上春樹はそうした「古い」と捨て去られそうだったテーマを、よりポップな外装で80年代まで持ち越すことができた。
また、村上春樹がそのような方法論でしか小説が書けなかった、という時代の要請もあると思う。
何しろ(あくまでザックリと言えば、だが)80年代というのは、嵐の前の静けさ、エアポケットみたいな時代だったのだからして。静かな世界で嵐を描くにはそれなりのテクニックを必要としたのだと思う(むろん、その展開のさせ方には批判もあるだろうが)。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」以降、村上春樹はサリン事件被害者に取材して「アンダーグラウンド」という本を書いたりしているが、こういうドキュメンタリーに近いものへの接近は個人的には少々ガッカリしたものだった(その仕事の意義とは別に)。
村上春樹は、傍観者でいればいいと思ってたから。
傍観者で、世の中の動きを見て勝手に絶望してしまって、「あんなやつに言われたかねェよ」っつって池袋の沖縄風のツマミを出す居酒屋で飲んでるやつらに毒づかれて、でも書いたものは何十万部も出て真剣に文芸評論の対象になってしまうような、そんなイヤミな存在でいてほしいのにと思っていたが。
近作では、もっと自分の作家的延命をシビアに考えてきっちり小説を書いているようで、クレバーと言えばクレバーだし、読み続けている人間にとっては面白いなと思うんだけど。
(06.0326)
【雑記その2】・芸人じゃなくてタレントで忘れられた人2
昨日の風は、どんなのだっけ?
>>他の二人はともかく原田伸郎は大阪にいると全く消えていません。
これは失礼しました。「トリビアの泉」で清水国明が、仕事が減ってきたのでブックオフのCMを引き受けたと言っていたこともあり、原田伸郎まで消えたことにしてしまったのはまずかったですね。
当然、今のアイドルともからめないだろうし、当時のアイドルともからめない気がしますが(笑)、それにしても私にとってはドリフ以上にあのねのねのアイドルコントは幼少時の原点なので、「いた〜い、何すんの〜」的なものをね、ムリだとわかっていてももう一度見たいのですよ。
井上順に関してはおおむね同感なんですが、堺正章がいまだに第一線であるのを見ていると、井上順の自己プロデュースとしてどこかでお笑い的なことはリタイヤしたいなみたいのがあったんではないか? とかんぐってしまうんですよね。
それと、たまに以前のようなことをやっていてもなぜか急速に老いた印象もあって。
「かくし芸大会」で「インディ・ジュンズ」とかをやっていた頃、あの時点ですでに往年のパワーはなくなってましたしね。
山城新伍に関してはほぼ同感ですね。
(06.0310)
【雑記】・芸人じゃなくてタレントで忘れられた人
こんにちは。いっこうにマンガ関係の更新ができません。
なんかもうダメです。
(「ダメです。」とか書き続けてもう7年くらいになりますが)
さて、ここ数年、テレビではずっとお笑いブームでした。
で、これはそのまま関西のお笑い感が全国区になったこととつながってます。
1980年代までは、関西のお笑いってほとんど認知されてませんでした。
それがいろいろあって、ここまでの共通了解をつくるに至りました。
それは、「土壌が近い」という意味においてどこでどんなタレントがからんでもある一定の空間をつくり出せるという強みになり、
反面、まったく興味のない人からは「だれのどんなネタを見ても似たように感じる」と思われる理由にもなっていると思います。
それでふと思い出したのが以下の3人です。
関西お笑い勢力が進出してくる前、具体的に言うと70年代から80年代初めくらいまでは一定の人気を保っていたのに、今では忘れられている人たちについて適当に思っていることを書こうと思います。
・山城新伍
「新吾」は間違いだそうです。
近年までテレビにはよく出ていた人であり、なおかつ私自身はたいして思い入れがないのですが、テキスト的に3組揃わないとカッコがつかないので入れたいと思います。
本当は京都出身なのでこの人は関西人です。
しかし、この人の背負っている者は何かというと、当然吉本・松竹的なコミュニティではなく、「芸能界」とか「映画界」といったところでした。
「チョメチョメする」という流行語を生み出し、司会業ではみのもんたがのしてくる前は相当にオバサンたちの支持を得ていたと思います。「ちょっとおしゃれなエロオヤジ」みたいな感じというか。
彼がトークの中でしきりに口にする「古きよき映画界」は、私くらいの世代になるとサッパリわからないし、この人は映画そのものに対するあこがれが強いわりには、司会業ほどには成功してないです(昔のプログラムピクチャーに出ているこの人を見ると、俳優としてコメディリリーフとして本当に好きになりますけどね)。
ただ、司会というある程度人心を掌握しないといけないポジションにおいて、山城新伍が「古きよき映画界」という(まあたいていの人にとっては)謎の地点からやってきた存在、をなにがしかの武器にしていたことは確かでしょう。
和田アキ子とのつながりは忘れましたが、安岡力也なんかとともに、その辺の「なんかつながってそう」な雰囲気を醸し出していたことも、今となっては重要かも。
最近は糖尿病を患ってしまってテレビにはあまり出ていないようですが、「芸人でもないのに人を笑わせる意志があった」という点では記憶にとどめておいていいと思います。
・あのねのね
フォークデュオですが、70年代から80年代初頭当たりまで「アイドルいじり」のできる司会といえばあのねのねが突出してました。
この人たちも京都の大学出身です。
ですが、テレビ東京(東京12チャンネル)に出まくっていたので、何となく関東芸人っぽい印象です。
むろん、この人たちも自分で「芸人」という意識はなかったでしょうね。じゃあ何なのかというと、まったくわかりません(笑)。
今だにCDも出しているようですが、「おれたちは実は歌手なんだ」みたいな暑苦しい自己主張を感じたこともないし。
元大学生で歌手で面白いことも言える、という、70年代の若者が憧れそうな要素を強く持っていたことは確かでしょうね。
あとコミック・ソングとかコミック・バンドとかの流れもあるんだろうけど。今純粋なコミック・バンドってテレビに出る人たちとしては、ないですよねたぶん。「ポカスカジャン」くらいかな?
それと、ラジオをどの程度やっていたかわからないけどディスクジョッキー=若者のアイドル、という図式がすごく強固に成立していた時期の人たちですよね。
デビュー曲のメンバーには鶴瓶が入っていたというし。
とにかく個人的には原田伸郎が面白すぎてねえ……。
「ヤンヤン歌うスタジオ」っていう番組があって、その中でアイドルもまじえてコントするんだけど、ほんっとうにいい意味でくだらないんですよ。清水国明は普通のカッコしてても、必ず顔に何か書いてたり、オカマの役だったりとかして、
オチも、原田伸郎の変な顔とか変なフレーズでオワリ、みたいな。
でもなぜかある時期をさかいにそういうことをまったくやらなくなって。
私が過大評価してたのか、何なのかわかりませんけどね。
いったん総括してしまうと、フォーク、コミックソング、ディスクジョッキー、80年代アイドルといった当時の若者文化に支えられていた気はします。
・井上順
昔は堺正章とのコンビでいろんな面白いことをやっていて、「夜のヒットスタジオ」の司会は9年半もやってたそうですよ。
この人は出自はグループサウンズだから、やっぱりお笑い芸人とは何の関係もない。
「軽妙洒脱」っていう表現が合っていた。あとやたらくだらないダジャレを言ってみんながコケる、みたいなのが多かった気がする。同じ「カックラキン大放送」に出ていたこともあって、その辺の芸風は野口五郎に近い。
井上順を見たことない人に想像してもらうには「オースティン・パワーズ」の主演の人が何となく近いと思う。くだらないことをやっているのに、カッコいいところもある人でした。
この人もどういうわけか90年代初めくらいから、ものすごく力の入ったくだらないことはやらなくなってしまった。
まあ、何が言いたいかというと、ふと気が付くと70年代から80年代初めに主流だった笑いのセンスとか、タレント本人までもがいつの間にかテレビから姿を消しちゃっているということですね。
以前、テレビで品川庄司が「関西人と間違えらる」って言っていたけど、彼らは関東弁だから普通間違えられるはずはないのに錯覚されるというのは、ギャグセンスが関西風というか吉本風のものだからという気がする。
逆に、20年くらい前はタレントの口調がみんなビートたけしっぽくなっちゃうという現象もあったんだけど、少年隊の錦織一清(ニッキ)のトークがすごくたけし調だったんだよね。今だと堂本のどっちかがダウンタウンの松本の影響が濃厚なのと同じで。
それで、今ネットで調べたらニッキって江戸川出身なんだって。そりゃ口調も似るわ。
今は不景気でテレビのハイリスクを回避したいのか、お笑い芸人というルートを経ないで人を笑わせようとするタレントが減ったなあ、と思う。
だから死ぬ。
(06.0309)
「つれづれなるマンガ感想文2006」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文2006」2月
ここがいちばん下です
トップに戻る