日々平常心

つれづれなるマンガ感想文3月後半
日記2001トップに戻る
一気に下まで行きたい

2001年

3月30日(金)

昨日は1日雨が降っていたこともあり、「人生をやり直そうか」と真剣に考えた。
だけど、ピエール瀧がラジオで「人生やり直しがきくっていうけど、ありゃウソだ」と言っていたことにシミジミしてしまうおれは同い年。「豚小屋発犬小屋行き」とはよく言ったもんで、人間ってのはその人の「業」からは抜け出せないものなのかね……と思いながら例によって「ネットウロウロ」していると(もう人生のことは忘れてる)、けっこう有名なんだろうけどここにおいカミングアウトというコーナーが目をひく。

「好きなにおいをカミングアウトする」という投稿コーナーで、一般的にクサイと思われているもの(脇の下、洗ってない頭、肛門)や、好きな人の体臭などがあげられているのは想像がついたのだが、「雨が降り始めた時のほこりのニオイ」ってのが目にとまる。
他にも似たような解答があり、「雨の降る直前のにおい」というものもある。基本的に、湿り気でホコリの臭いが空気中に出ていく際に発生するにおいではないかと思う。類似解答としては「よるのにおい」というものあった。夜、きな臭いにおいが漂うという。これも温度変化などによるホコリの臭いではないかと思うのだが。

私もこのにおいがけっこう好きだ。

人間の五感の中でも、においに言及されることはあまりないように思われる。あっても「臭いか臭くないか」で済まされる。また「一目瞭然」なんて言葉もあるように視覚は共感を得やすいし、音は快・不快の基準がわりと明確である。触感はそれをテーマにした江戸川乱歩の「盲獣」という小説もある(実は未読なのだった。映画は観た)。
しかし「におい」は、まずそのにおいを「感じるか感じないか」というところから始まるのでなかなか意見の一致をみない。だから「雨のときのにおい」が好きだ、と言って共感を得られたことは未だかつてない(そもそも感じない人も多い)。
さらに香水をテーマにした小説やマンガはあるが、まったく微妙なにおいを扱うことは、やはり決してメジャーとは言えまい。

「ソレ」が具体的にホコリのにおいだと知ったのは、今回が初めてだった。私は「空気のにおい」と呼んでいたのだが、まあ空気中のホコリのにおいなんだからほぼ同義だ。コレは雨のときだけでなく、朝、昼、晩とにおいが違う。「朝のにおい」と聞いて朝ご飯のにおいを連想するなんて即物的もいいところで、同じ場所でも1日で形容しがたいにおいの変化があるのだ。

これはおそらく、太陽が昇ったり沈んだりすることによる温度変化が原因だと思う。
また、地面が土の場合とアスファルトの場合でも違う。中学時代、グラウンドが土だったが、学校を出てアスファルトのところに出ると明確ににおいの違いがあった。

ロクに本を読んでいない私だがこうした「におい」に具体的に言及した作品として映画監督・今関あきよしの「夕焼けの似合う女の子」(タイトルうろおぼえ)という短編小説があったことを思い出す。「夕焼けのにおい」というのがある、とその中では言うのだ。たぶん気温が下がっていくことによりアスファルトから出てくるにおいではないかと書いてあった。このことについて書いたというだけで、私は今関あきよしを少し尊敬した(映画監督としては実はよく知らない)。

ところで、同サイトにあるアレな名前というコーナーでは「帽子の似合いそうな人」などをイメージして勝手に名前を付けるという企画で面白いのだが、「巨乳っぽい名前」のところでその名前に付随するイメージのほとんどが「バカなのに巨乳」とか「巨乳で男を誘惑する」などの同質の悪意に満ちているのはどういうわけなのか。みんな、巨乳への嫉妬はほどほどに! 学歴や家柄ほどたいした差じゃないと思うよ!

3月 29日(木)

火曜日は「猫の地球儀 焔の章」秋山瑞人も読了。2巻で完結なんで感想はそれを読んだときに。

午前中に電気屋さんを呼んで、玄関チャイムのスピーカーを2階の踊り場に取り付ける作業をしてもらう。

数年前に玄関チャイムそのものを取り替えたときに、スピーカーが居間に付くようになったら、2階の私の部屋からはまったくチャイムの音が聞こえなくなってしまったから。
それからしばらくして別の電気屋を頼んで直してもらったのだが、なんとコイツが超絶的なボンクラで、まったく別のチャイムをもう一つ取り付けやがったんだよ。
そうするとどうなると思います? 玄関に2つのチャイムのボタンが付くことになるんですよ。

だけど人間心理として2つ両方押す、っていうことはまずないんだよね。だいたいこのボタンってのがまたぞんざいで、玄関から伸ばしたコードの先にボタンがプラプラぶらさがってるんですよ。中学生の工作かよオメー。
オマケに、スピーカー内臓の電池で音が鳴るようになっていた。滅多に私自身への来客などない、というか具体的には宅急便を待つためにわざわざ取り付けたんだよね。だけど電池がいつ切れるかわからないんなら、肝心なときに役に立たないじゃん。

まかせっきりにしてたんで、職場から帰ってできたチャイムを見たときには当時ガクゼンとしましたよ。
その後怒り狂ったんだけど、そうそう頻繁に電気屋さんを呼べるほど私もヒマじゃないし、また別の電気屋ってのがこれまたボンクラで、テレビを直してもらったらビデオとつなぐのを忘れて帰っちゃったりとか、電気屋不信におちいっていた。

このたび信頼できる電気屋さんを呼んで、やっと直してもらいました。
なんでこういうことが起こるかというと、おれが実家に住んでいて、「おれのもの」として家をきちんと管理できないことからくる。おれが業者を管理しているわけじゃないから。だから悪いのは全部おれだ。だから自殺しようと思ったけど、薬害エイズ訴訟でアベナニガシが無罪になったということを、昨日の昼間はテレビで大騒ぎで報道していたくせに、今日の朝になったらニュースとしてまるで取り上げていなかったので、もし朝のニュースしか見ない人がいたらこの事実を知らない場合も出てくるんじゃないか、いやもっとハッキリ言えばあまりにもニュースの寿命が短くなったことに絶望したので今日もまた生きることにする。

でも午前中からずっと雨だった。

3月 27日(火)

・「銀河帝国の弘法も筆の誤り」 田中啓文(2001、ハヤカワ文庫)読了。
最近やたらと本作の話を聞いたような気がするので、読んでみた。
なかなか面白い。「とにかくダジャレが頻発する」ということだったが実際にそうだった。ホラーも書いている作者のせいか、突き放した残酷描写も多い。単なるグロ描写と言うよりは、システムに人間を追従させることによる残酷さ(それがテーマではないところがさらに突き放している)。もうバシバシに人が死ぬ。

「バカバカしい小説」で「ダジャレが頻発」、「落語が好きそう」ということでヨコジュンとか栗本薫の「エイリアン殺人事件」とか平井和正の「超革命的中学生集団」とか想像していたけれど、もっとずっと突き放してますね。筒井康隆とかヴォネガットとかに近いんじゃないでしょうか。もう少しクールになればベイリーとか。
私が知っているかぎりの小説家の名前をあげてますけど。

で、5人もの作家の解説を載せていて「バカバカしい、バカバカしい(けれどそこがいい)」って書いてあるんだけど、私自身は「無意味ということでバカバカしい」と思ったのは5つの収録作品中2つで、残りは「無意味」という意味でバカとはあまり思わなかったんだよね。けっこう感心しちゃうっていうか(笑)。
ダジャレオチに対する批判(=評価?)が解説では繰り返し語られているけど、ダジャレとまではいかずとも小説ってほとんどの場合言葉遊びをしているでしょう。伝奇SFなんかはとくにそうですよね。単純なところで「源」義経だから「元」のジンギスカンになったとか。たぶん作者は充分ワカッてて、それを表しているのが宇宙人が禅問答をしかけてきたために高野山の空海を蘇らせるという表題の「銀河帝国の弘法も筆の誤り」でしょう。
ミステリでも、暗号だのダイイングメッセージにはダジャレ級にくだらないものもけっこうあるしね。

私が収録作品をそれほど無意味とは思わない(「火星のナンシー・ゴードン」でさえ)のは、ダジャレというオチに向かってお話が集束していくということが私にとってはそれなりに「意味」だということなんですけどね。

本書の5つもの解説と、オビに書いてあるむやみにたくさんの非・推薦者に意味がある(「冗談」という意味においても)かどうかは、私としてはちょっとどうかと思います……。どうしてもねー、「SF村」みたいな感じがしちゃうんだよね。あまりに一匹狼をきどっているのもどうかと思うけど。
ぜんぜん関係ない人から推薦文もらってくればよかったのに。沢田亜矢子の元ダンナとか。
それとあまりに推薦者が多いというのは「そんなにバカバカしいものがSFファンは嫌いなのか……」という疑いをも私にいだかせる。考えすぎでしょうか。おれ的にはSFファンというのは総じてホラ話・バカ話が好きな人々だというイメージがあるんですが。よくわからん。

3月 26日(月)

あるライトノベルを読了。
コレがあんまりヒドいんで、名前を出すことができない。
あらすじは「アンドロイド美少女が主人公の少年と出会って……」という超ありきたりなもの。「SFおしかけ女房」コレクターとして、ちょっと小説に手を出してみようと思ったわけなのだが、これがいけなかった。後々の展開まですべてお約束。しかし、ありきたりだからといってそれだけで「ヒドい」などと私が言わないのは、このサイトの設立主旨をわかっている人にはわかっていただけると思う。

設定がありきたりで後々の展開もお約束、でもすてきな作品というものは存在する。私はパターン破りをしているからといって過剰に持ち上げたりするのは好きではないし、むしろお約束を愛する者なのだが、この作品はつまらない。ではこのつまらなさとはいったい何だろうと、ハタと考え込んでしまった。
「お約束だから、つまらない」のではなく「お約束なのに、つまらない」ということだ。手堅いアイテムを入れてダメなんだから。

同じような経験は過去にもあって、こういう作品に出くわすとお約束フォロー派の私としては本当に困ってしまう。しかし、こうしたタイプの作品の「つまらなさの源泉」がいまだにつきとめられずにいる。

考えられるのは、キャラクターが立っていないということ。キャラクターの個性をどうするかというのは「お約束」に抵触するなかなかむずかしい問題だ。ただまあキャラづくりは小池一夫が最も重要視している(らしい)ことからも明らかなように、お約束だろうが型破りだろうが、結果的に読者にキャラクターの魅力が響いてこなければダメだと思う。

もうひとつは、「展開に意外性がない」ということ。「意外性」は、お約束を守るということと両立できると思う。これはお約束を理解したうえでそれにヒネリを加えるとかそういうことではなく、読者の予測に追いついたり離れたり、というようなことかな。説明がむずかしいけど。ハリウッドのアクションものなんて意外性のある展開ってのはほとんどないんじゃないかと思う。しかし、見ていくうちに「こうくるかー」ってのが必ずあるのね。
たとえばどこかのお嬢様がお屋敷から逃げ出してきて、主人公に助けを求めるとする。これはカンペキに「パターン」だと思うけど、その後世間知らずのお嬢様が俗世間のどんなことを珍しいと思ったり、どんなことに失敗するか、といった部分には目新しさを入れることができる。そんな意味。

まあ自分にとっての宿題として考えておきますよ。それにしてもつまらなかったな。あの小説。

3月 25日(日)

昨日と今日、なかのZEROホールで開催されたギャグ系の自主映画の上映会、バカンヌ映画祭に行っていました。ちなみにこの人が主催しているらしい。初日である昨日が昨年の受賞作品上映、今日が映画祭。

驚いたのが、普通上映会というと、進行自体は淡々としているというか色気のないものなんだけど、この映画祭って司会進行自体が寸劇になっているのね。初日が「次の日のリハーサル」という設定の、一種の監督コントになっていたし、映画祭当日は映画祭自体のパロディみたいになっている。
上映作品を見てみると「モンティパイソン」の影響がある作品が散見されました。上映会自体のつくり込み具合から察するに、たぶん主催者側もものすごく好きなんじゃないかと思います。
で、ノリで突っ走るイベントもきらいじゃないんですけど、そのつくり込み具合に強い感動を覚えました。繰り返し書きますが広義のイベントを成功させる人を最近尊敬します。

上映作品は前年につくられたものに限らず、わりと幅広いところから集めてきている感じ。河崎実の「キリヤマ」(たぶん15年くらい前の作品)も上映してました。

終了後、カレー屋で連れてきてくれた人々とカレーを食べて、解散しました。

3月 24日(土)

・「放談の王道」 呉智英、宮崎哲弥(1999、時事通信社)読了。
買ってから結構時間が経っちゃったな。これは2人がえんえんとしゃべっているのをまとめた対談集ですね。テーマは世相とか思想とか。まあこの2人なんで。
同じ対談本としては「不可視なものの世界」と同様、いまいちまとまりにかけた印象はある。たぶんトークライブだったとすれば気にならなかったというかむしろ面白いと感じられたであろう部分が、拡散としか受け取れない面もある。っていうかそれが対談本の宿命かもしれない。

内容としては7割くらいは首肯できる。けれども、初期ゴーマニズム宣言や、呉智英を支持する人たちの間ではよく提唱される「共同体の復権」とかソレのための「徒弟制の復活」とか、10年前ならわりとナットクしていたし総論賛成だけど、あまりに頻繁に唱えられるのでだんだん一抹の疑問が出てくるようになってきた。
地域共同体がどうの徒弟制がどうのと言っても、理想ばかりでなくやっぱり死ぬほどめんどうくさいことってのがあると思うんだよ。泥臭いドロドロとした面が出てくると思う。そういうのをどうするかとか。
そういうことを唱えている人ほど、なぜか一匹狼みたいなヒトが多いのも矛盾だし。

あとは、対談者が「何に生理的にムカツクか、嫌いか」ってのを探っていくとこの手の本は面白い。何でも評論ってのはクールなほどいいと思われているからね。呉智英が「飛び降り自殺して、下に歩いていたヒトにぶつかって死んじゃうやつは許せない」とか言っていたのが興味深かった。宮崎哲弥は話題をコントロールする側にまわっていたから、ここではあまりそういう面が見えなかったけど。

それと「戦艦大和ノ最期」を「本の雑誌」の編集部がだれも知らなかった、ということを問題にしていた。教養が足りないとか言って。昔はこういうのもわりと信じていたけど、最近では何を読んでいないとか読んでいるとかっていう体系の違いなんじゃないかと思う。その体系自体が問題だとするならそれなりのまとまった批判をしなければいけないんであって。

3月 23日(金)

・「不可視なものの世界」 東浩紀(2000、朝日新聞社)読了。
対談集。東浩紀は最近良きにつけ悪しきにつけ名前を聞く哲学者だったので読んだ。
対談者は斎藤環、山形浩生、法月綸太郎、阿部和重など。

で、正直な感想は、よくわからなかった(笑)。
素朴な疑問として、フランス現代思想ってのがそもそもよくわからん。学生時代に現代思想がブームみたいになっていたからカッパブックスレベルの簡単なものは何冊か読んだけど、当時は「マルクス主義の否定あるいは相対化」というような意味あいがまだあると思っていたが、現在ではその必要性もないみたいだし。現代思想系の知識人が必ず参照せねばならないらしい、この中ではラカンであるとかデリダであるとか、そういうのの必然性がわからない。
現代思想に限らず、フロイトだのキリスト教だのに立ち戻られたりするともうわからなくなる。もともと西洋の学問なんだから当然なんだが、じゃあなんで西洋の学問をやらないといけないのか、さらにそれをマンガやアニメや映画を語るときに用いなければならないのかの理由が書いてない。この本にかぎらず、それ以外の本にもあんまり書いてない。

学問の領域では重要なことってのはあるんだろうけど、それを私が知る必要がわからん(まあまったくそんな必要性などないのかもしれんが)。たとえば本書では、愛国心とアイドルを好きになる気持ちを同一視することに強い疑念を抱いているが、じゃあなぜそこを峻別しなければならないのか。「アイドルに夢中になっていて愛国心どころじゃない」とか、その逆とか、まあ日常ではそういうことはあるだろうが、そこまで説明が行き届いていない。だから何気ないものをどんどんある種の尺度で「刻んでいく」という印象があって、読めば読むほどわからなくなる。統合されない。

それとミステリの作家で評論家の法月綸太郎との対談についても、摩耶雄高と清涼院流水を比較していたけど、そこに京極夏彦が入っていないのはなんでかなあ。これは素朴に疑問だ。

まあダラダラ書いたけど、けっきょく私に現代思想的な興味があんまりないということなんだと思う。自分の物事の把握の仕方にそういうのは入ってないというか。「何が問題なのか」という設定自体に私がピンと来てないんだと思う。

最後の阿部和重の対談に出てくる映画「ミッション・トゥ・マーズ」の見方とかが、ちょっとだけ面白かったかな。そのことについては後に何か書くかもしれないし、書かないかもしれん。






最初映画を見に行こうと支度をしていたんだが、鏡を見たらあまりにも髪の毛がボサボサなんで床屋に切り替えた。床屋に行ったらテレビがつけてあって、そこでは妹尾河童とかいう人の「少年H」というドラマの予告編をやっていた。

この妹尾河童とかいう人について。
むかし私がサラリーマン時代に、カメラマンの人と成田へ行くことになって東京駅で待ち合わせたんだが、私は遅れてしまった。
そしてこのカメラマンにえらい怒られたときに「時間はちゃんと守れ! 妹尾河童は一分でも早く来ると怒るんだぞ!」と言われたので、妹尾河童がどんな仕事をしているのか、本当に河童なのかをすべて棚上げにして、いっぺんで嫌いになった。
だって遅く来ると、じゃなくて早く来ると怒るんだよ。参るよなあ。

待ち合わせたカメラマンの話に戻ると、写真にシュミのない私が首を傾げるほど写真のヘタな人で、上司の知り合いというだけで仕事をもらっていた。
しかも、その上司自体が「やつは写真がヘタだ」と言っていた。

でもそんなこともみな過去になった。そいつの名前も忘れた。

3月 22日(木)

昨年の今頃の日記を読み返してみる。話題は「爆笑オンエアバトル」、「バーチャルガール」、「はなまるマーケット殺人事件」、「熊切あさ美(メタモ)」だってさ。
それと「おはスタ」の「おはメモリーズ」がつまらないって去年も書いてた。

なんか超絶的にクダラナイ人生を送ってますね私。しかもなんか虚構世界に生きてるっつーか。これが学生とかならまだシャレになるんだけど、そうじゃないからね。もういいオッサンですよ。
どうだ、可笑しいだろ、みんな嗤ってろ! 勝手にな! ちくしょう……ちくしょう……。

3月 20日(火)

緊急寄稿!! アンパンマンマーチについて考えろ
NHKの「爆笑オンエアバトル」を見てますよ最近。ってまたテレビの話だな。
でもなー、私は太平洋戦争や全共闘運動などの共通体験を持つ世代とか、ぜんぜんうらやましくありません。どうせその時代に青春時代を送ったとしても、私は死んでますよ。爆弾かゲバ棒にやられて。だからテレビが共通言語ならそれでいいじゃないの。

「爆笑オンエアバトル」って、若手芸人が芸を披露する番組なんですが、内容にけっこうアニメネタが多い。「鉄拳」とかが代表的かな。でもその他、ほとんどの芸人がやってます。コレをウスいと憤るか、なかなかやるなと思うか、ここまで一般人でも理解できるようになったと喜ぶか、自分の領域に入ってきて欲しくないとムッとするか、それはあなたの自由。フリー&フリー。

私もけっこう楽しんでいるが、コレだけはどういうものかというネタがある。

それが「アンパンマンマーチ」に対するツッコミである。

「愛と〜勇気だけ〜が〜と〜もだ〜ち〜さ〜」という歌詞について、「寂しすぎる」、「意外とクール」などの批判続出。っていうかネタにされている。

でもなあ、「ぼくらはみんな生きている」の作詞者であるやなせたかし氏は、やたらに哀しい物語や、うらさびしい詞を書くのがもともと得意な人なんだよ。
(以下、私もアニメマニアってわけではないので間違ってたらごめん)
やなせたかし原作の「チリンの鈴」というアニメは、狼に母親を惨殺されたカワイイ子羊が復讐を誓う話だし、パステルかなんかで描かれたえらくものさびしいやなせ氏のイラストを見た人も……いないんか!?

実際、「アンパンマンマーチ」についても、「人間、しょせん孤独なもの、ということを言いたかった」みたいなマジバナ(まじめな話)をやなせ氏がトークしているのを見たことがありますよ。

外見がカワイイけど中身は皮肉っぽいものとして、チャーリーブラウンとかパワーパフガールズとか、もっと毒があるものとしてねこぢるとか、そういうのは認識されているけど「外見はカワイイけど中身はひどく寂しいものが多い」のがやなせたかし作品だということはあまり気づかれていないのではないか(まあアンパンマンの絵本そのものは、たわいないかわいらしいものだが)。
だからアンパンマンマーチの内容は、フシギでも何でもないのよ。「ニャンダー仮面」見て安心してる場合じゃないっスよ。

繰り返すが、荒川稔久と大地丙太郎の読み方もわからなかった私にアニメ知識に関するツッコミをしないようにね。それと青くて「MS07」と描かれたパーカーを着ていたんだけど、どうも「グフ」(ガンダムのね)の意味があるらしいんだよね。ヒトに指摘されてはじめて気づいた。こういうことがあるからオタク界は恐い。知ったかぶりはできん。

3月 19日(月)

最近、私が覗いている別々のHPで話題になって教えてもらった侍魂は、確かに面白いテキストページですな。

何日か見ててスゴイと思ったのは、毎日更新なんだよね。

インターネットを始めて思ったのは、アマチュアのテキストの価値みたいのが認められるようになってきたということです。
コミケがあれだけ発達してても、やっぱり「絵」中心という気がする。小説とか評論分野でも、それなりの部数をさばいているところはあるけど、ちょっとしたテキストの面白さ、上手さってのは認められにくかったと思う(それは、ウェブ上のテキストをそのまま同人誌としてまとめたとしても、アクセスカウント以上の部数が稼げるかどうかは別問題ということでもわかる)。

それともうひとつは、HPってそのヒトの文章を描く速さがけっこうわかるのね。
まあウソをつこうと思えば簡単だけど。
たとえばプロフィルで「どこそこの営業マンです」とか「赤ちゃんがいます」とか書いてあれば、仕事の大変さ、時間のとれなさはだいたいわかる。
そこから、テキストを書く速さが類推できてしまう。
コレはけっこうショッキングなことですよ。「速くて正確」は現代社会の生存競争に勝ち抜いていく必須条件ですから。

人生勝ち負けだと思っている私は「あ、負けた」、「あ、やっぱり負けた」と日々思っては泣いています。二段ベッドのいちばん下(つまり下のベッドの下)で……。

で、「テレビに興味がなくなった」と書いたそばから書くのもアレなんですが、たまたまテレビをつけたら横山やすしの一生をやっていました。
このヒトは私の一兆倍くらい、人生を「勝ち負け」で考えていた人だと思うんです。
なんかねー、そのイケイケ感が見ていて恐かった。
私は評伝である「横山やすし天才伝説」も読んでないんで、全部テレビ見ただけの想像なんだけど。

何が恐かったって、やはり長男の暴力事件以降の転落具合。まあ栄光から転落していった人は少なくないと思うんだけど、横山やすしの場合、「イケイケ」→「(失敗したけど)まだ大丈夫だろう」→「完全にダメだ」→「もうゼロ……」っていう顔の表情の変化がすごくて、あれって普通の人間ならひとつの案件に対する、数日の変化じゃないだろうか。それを何年もかけてやってる。
それと、「何者かに暴行を受けた」って事件も私は忘れてたんだけど、退院してからは老け込んで、目がうつろになっちゃってた。あれが気になって。打ち所が悪いとか外的な要因なのか、内的な要因なのか。

たとえば挫折と肉体的苦痛が一緒に来た人って言ったら梶原一騎とか思い出すわけですよ。でも退院したときも、まあ老け込んではいたけど生気は失われていなかった。
その後も作家活動を続けるわけだし。作品から見ても枯れた感じはなかったな。
しかも、梶原一騎の場合、なんというかニヤニヤしながら「まあそういうこともあるんだよ」的なやせ我慢かもしれないけど余裕みたいなものはあったと思う。この人も人生勝ち負けで勘定してたと思うけど、現実のプロレスのストーリーを考えたりしていたこともあって、「勝ち負け」ってのをもう少し複雑に考えていたんじゃないかと。

でも横山やすしって、本当に数字とか収入とか、「勝ち負け」を純粋にルールにのっとったゲーム内での「勝ち負け」としか考えていなかったんじゃないかという、そういうあやうさがある。それはいつかはぜったい挫折するよ。長男暴行事件を聞いたときの超強気具合と、ぶん殴られた人のケガの具合を見た後の号泣、あの落差が恐い。
だって普通、「自分の子供が暴行した」って段階で最悪のことまで考えるでしょ。それがないように思った。これは周囲の人間はたまらんでしょうたぶん。

3月18日(日)

ここの管理者が主催するDJイベント「ココピノ」に行ってきた。

高円寺にあるこじゃれたカフェの2階にスペースがあり、80年代ニューウェイヴから今テクノまで、選曲はμ-ziq、lektrogirl、felix da housecat、squarepusher、Der Plan、Holger Hiller、Telex、AFX、DMX Krew、Silicon Teens、Stereo Total、The Residents、Andreas Dorau、mouse on mars、DEPTH CHARGE、ANIMALS ON WHEEL、yoshinori sunahara and more !!
……ということで、わかる人にはわかると思うけどわかんない人にはまったくわかんないですね。だけど、かけた曲が何かっていうのは私もそんなに詳しくないんでわからないんですよ。

椅子に座ってくつろいで聞くという感じで、こじんまりしていてなかなかよかったですよ。やっぱりひとつのイベントを成功させる人っていうのは何でも尊敬しますね。

一緒に行ったヒトが「高円寺にはやめた会社があるんでなんとなく行きにくい」って言ってたけど、私なんか「くつろうごうかな〜」と思って「ミニスカポリス」を見ていても、アレの主要ロケ地ってやめた会社のすぐそばの公園なんだよな。
「ミニスカ綱引き」とかやっててバカバカしくって、見ていてけっこうくつろげるんだけど、バックに映っているのがおれが会社になじめなくて、昼休みにトボトボ行ってた図書館だからねー。それが番組中ずーっと映ってるんですよ。

ずーっと。

高円寺でふと立ち寄った古本屋で、コブリン森口「スラッシャー」(すでに持ってるが200円だったので買い)と、矢野健太郎の単行本未収録差品が載っている美少女格闘アンソロジー「バトルエンジェルス」(ラポート)をゲットした。ラッキー。

あと、高円寺の喫茶店「七つの森」ってメシがかなりうまいです。ひさしぶりに外でうまいメシ食えました。

3月17日(土)

私が巡回しているサイト等で妙に話題になっているアニメ・地球少女アルジュナを、10話あたりから録画しておいたので見た。

3〜4話目から話題になっていたのだけどあんまり見る気がしなかったのは、書き込まれた感想の中で、いわゆるひとつの偏向したエコロジー的内容に対するツッコミが多かったからです。ドラマ的にはエコロジーとかフェミニズム(逆に男権主義)ってもっともつっこみやすいもののひとつだから。……っていうかイデオロギーそのものがつっこみやすいからね。共産主義、社会主義的なテーマが失速しまくってから、現在盛り上がってるイデオロギーってエコロジーとフェミニズムでしょ。

で、偏向したエコロジーってのは「科学文明イコール必ずしも絶対悪ではない」というツッコミのひとことで済んじゃうから(もちろん現実的には諸問題ありますが)、キョーミなかったわけです。

でも途中からだけど、実際見ると「退屈しない」だけの流れは持ってますねこのアニメ。「早送りしないで見てしまう」という程度には面白い。
……というか、だからこそ多くのツッコミが寄せられるんだろうね。内容自体退屈だったら発言する気もなくなるワケで。

私はアニメ版「風の谷のナウシカ」ですらもそのオプティミズム(私にとってはオプティミズム)に嫌気がさしているクチなので10話、11話あたりの「アルジュナ」の主張にはまったく賛同できない。あんなにCGバリバリ使って、よくしゃあしゃあと……という気はする。
だけど、なんだっけ宇宙刑事モノだったかな? 「この美しい地球を守る」とかいうシーンで、必ず緑の野山や、そこにいる小鳥なんかのカットが入るでしょ。あれすらもイヤだったからね。最近だと「重甲ビーファイター」がそんな感じだった。

私にとっては「アルジュナ」も、特撮とかでお約束に出てくる形式的な自然保護志向も同じなの。まあ「モノをやたらと捨てない」、「動物をいじめてはいけない」というような素朴な描き方までするなとは言わないけど。……でもふりかけ程度にエコな感じってのも、実はかなりイライラしてんですけどね。そんなの「おせちもイイけどカレーもね」って言ってるだけだしね。

3月16日(金)

・「本朝無双格闘家列伝」 夢枕獏(1996、新潮社)読了。
日本書紀や今昔物語、古今著文集などにある格闘家(昔の話だから当然「相撲人」)のエピソードを解説しつつ、著者独自の想像をまじえて綴った本。 日本の相撲の起源であると言われるのみのすくねたいまのけはや(本当は漢字だけど出ないのでひらがなですいません)の戦いや、今昔物語にあるちょっとした相撲人のエピソードなどを紹介している。

本書が面白いのは、さすがに神話時代ともなるとエピソードにまったく別の意味(個人の戦いのように書いてあるが実は国同士の戦いだったかもしれないとか)があるのだが、それをあくまでも「個人の戦い」として、さらに技の解説までしてしまっているところにある。

私は乏しい知識から、たとえば宮本武蔵などの、人殺しの手段でしかない剣術というテクニックを「道」としてきわめていくという考えは、けっきょくは集団戦である合戦から個人技を救い出していくため。あるいは平安な世の中に剣術というテクニックをそれなりのアイデンティティを持たせて残していくための方便であると思っていた。それが他の格闘技にも敷衍されて今に至る、というような流れで。それが武道の成り立ちであると思ってた。

しかしもっとシンプルに、「単純に力比べをしたい」、「ルールのもとで力比べをしたい」という素朴な欲望はずっと前からあったのだなあとちょっと感慨深くなった。

それが「相撲」っていうわけですね。

「柔(やわら)」は、合戦で素手になった場合を想定しているから、どこまでも現実の戦いとのつながりを断ち切れない(だからいまだに「実戦的かどうか」が問われる)んだけど、最初っからルールありで素手、という前提がある相撲は、ずっとシンプルで思想的にもめんどうがない。「相撲が実戦的か」を問う人なんていないと思うしね。

そういうものなのか、と勉強になりました。

3月14日(水)

ロフトプラスワンで行われた鶴岡法斎氏の、マンガに関するトークライブに行って来た。
今回は「劇画編」ということだったので「行かねば……」と思っていたのだ。

会場では微妙に「顔だけ知ってる」、「1、2回話したことはあるけど向こうはたぶんおれの顔を忘れちゃってる」、「挨拶した方がいいのかな? でも覚えてないだろうなァ」という人がけっこういて、そういう状況にいるとビビってしまうのだけどいい塩梅に薄暗かったし酒を飲んでいたので比較的気にならずに済んだ。

内容は、「漫画ゴラク」の話や現在氏がマンガ原作を担当しているパチスロマンガ「ヤマアラシ」の話、「マンガの原作」の話から小池一夫の話へと続く。あと山上たつひことか。

ネタ的なというか飛び道具的なマンガの紹介もあったけど、それはあくまでツカミという感じで、漫画ゴラクやパチスロマンガ雑誌のような「部数は出ているんだけど評論家があまり取り上げない作品」を記憶していくことはけっこう大切、という主旨。
そういうことには強く賛同する。また、氏が最近原作を執筆していることもあって「原作としてはどういうアプローチが可能か」という観点からのトークが多かったかな。
トークに慣れているというか、けっこうお客をツカむ話し方という印象でした。なんかやっぱり最近のトレンドはいろんな意味で「小池一夫再評価」という気がしますな。

カンケイないが回転寿司屋に入ったら(しかし回転寿司ばっかり食ってるな私も)、隣のギャルギャルした女がテーブルの上に携帯電話乗っけて食ってるんだよ! 危ないんだよ醤油たらしちゃうじゃないかよ。

3月13日(火)

今日はウツです、とか落ち込んでます、とかサイトの日記にやたらと書くヤツは露悪趣味だし自己陶酔的。

心の病を自慢したりする人間も同様。

まったくそのとおりだ。そのとおりであるがゆえに、それをわかっている人間はあらかじめそうした物言いを圧殺されている(どうでもいいと言う人もいると思うが、私はそこに整合性を求めるタチなの)。

それでも開き直ってダラダラおちこみ具合を書くか、顔で笑って心で泣いて、カンケイないことを書くか。
カンケイないことを書いて「コイツおちこんでるなー」とか見透かされたらますます最悪だが。

最近、急速にテレビに対する興味が失われた。ほとんどテレビ日記と言ってよかったこの日記にとって大きな変化だ。
「趣味のマンガ執筆日記」というのを一昨年書いていたのだが、過去にそれもさりげなく削除している。同じことを繰り返しやっているようでいて、そりゃ私にだって心境の微妙な変化はありまさあな。

困るのはサー、つれづれなるマンガ感想文とここを両方読んでいる人があまりいないんで、告知的なことをどっちに書いていいかわからないことなんだよね。……と言いつつここに書くけど。

もうひとつの変化としては今後「つれづれマンガ」は急激に失速すると思います。
さすがに雑誌の発売に読むのが追いつけなくなりました。マンガを読んでいると本がまったく読めないんだよ。いつの間にか朝日が昇って、日が暮れて、まったくそれの繰り返し。

もういいんだよ、ホントは「井川遥っていい女だよなあ、うへへへへへ」とか言って、日々の仕事に汗水たらして邁進していればよかったんだ。
IT革命だかフロントホックブラだか知らないが、ホームページなんて立ち上げたのが間違いだったんだ。

それでアロエリーナのCMに出てくるオンナを千倍ブサイクにしたような女(思想的には現在の森口博子)と結婚して「ロケットボーイってまだ再会しないのかなぁ〜」とか「松たか子のお姉さんってブサイクねえ〜」とか言ってればよかったんだ。 何もかも私の思い上がりでした、すいません、すーいーまーせーんー。

本は「チーズはどこへ消えた?」とか「金持ち父さん、貧乏長屋」とかだけ読んで、 マンガは「とことんトシコ」とかだけ読んでいればよかったんだ。

それで仕事場でヒゲの濃い同僚(後輩なのに態度デカい)に「井川遥っていい女だよなあ、うへへへへへ」って言ったら「バカヤロウ! 井川遥はおれのモンだ、おまえは千秋で充分だ!」とか言われて、そいつをすごく憎く思うんだけど何も言えなくて、ビデオ屋でエロビデオと竹内力主演のVシネマを借りて家で見る。

エロメインだったんだけど、竹内力の方に見ていて力が入ってくる。

ちくしょう……ちくしょう……「もうひとつの人生」もロクなことがなさそうだ。

出口、なし。

3月12日(月)

最近テレビがつまらない。
「最近テレビがつまらなく感じる。」という大学の健康診断のアンケート項目のような心境に達していることは確かだ。「仮面ライダーアギト」「鉄甲機ミカズキ」を見るのが苦痛で苦痛でしょうがない。脚本家の井上敏樹、「シャンゼリオン」のときは尊敬してたのにどうしちまったんだ。シリアス話が苦手なのか、井上敏樹以外のせいなのかあのつまらなさは。
「パワーパフガールズ」も、あまりに皮肉な話だったりすると笑う前におちこんでしまう。ちょっと異常ですね。私が。

その他のよく見ている番組に関しては、ひととおり見たんで大きな変化はここんとこ、ないと思う(4月の改変でどうなるかだが)。
「おはスタ」は「ありがとうなんとか」という卒業式にまつわる企画が続いていて、コレがすでに学業を終えた私にとっては異常に退屈。だいたい「学校を卒業して悲しい」なんて、人生でいちばんムダな感情。その後、離婚、単身赴任、リストラ、死別など、辛い別れがヒトには待っているというのに。卒業なんかでいちいち悲しんでられるかよ。あと何度卒業しても、本当の自分になんか辿りつけねえよ。

いつだったか「笑っていいとも!」で「不適切な発言があったことをお詫びします」というテロップを初めて見た。それが何だったかは途中から見たんでわからなかったんだけど、たぶんテレホンショッキングでのゲスト側の発言。タモリが「顔ちっちゃいね〜」と言うのは有名になってしまったが、テレホンショッキングでの会話はほとんどが顔とか外見の話題から入っていくことが多い。タモリがゲストのことをよく知らない場合の回避策であると同時に、うわっつらだけの会話で放送禁止用語が出てくるのを防止する意味もあったんだろう。

テレビ東京で火曜の午後3時という奇怪な時間帯にやっている「あかたのげん」という柳沢慎吾司会のバラエティー情報番組は、よほどのシンゴファンでなければ一週おきに見ればいいやって感じだし、「王様のブランチ」は最近ブランコがよく変わるのでだんだん見る気がなくなってきた。それと、えなりかずきは恵のボケをちゃんと受けろ! 恵の隣にいたはなちゃんもやめてしまったために、ボケとも本気ともつかない恵の「キザな感じ」が宙ぶらりんになっている。
「アイドル刑事魂(スピリット)」は、乙葉が出てるからオッパイの話ばかりしないで見とけっつうのにだれも見ないし、どうでもいい番組で比較的面白いものは「モーニング娘。」が席巻してしまっている(ちなみに私は「どうでもいい」ものでも、エセドキュメンタリー形式のものは大嫌いなのですべて除外する)。

あ、あとキムタクと放送作家の三木聡で深夜に何かやっているらしいが、そういうのを見逃して荻野目慶子の「女優・杏子」だっけ? あんなのちらっと見ちゃっておちこんでいる、おれ。

3月11日(日)

前に書いたかもしんないけど、お笑い番組についてあんまり文句とかいいたくないです。だってそれを好きな人が傷つくし、真剣に語れば語るほど「笑う」というところからかけ離れていってしまうし。
私はヘラヘラ笑っていたいんですよ(ゲラゲラ、とかではなくヘラヘラ)。
でも朗らかにね。人をバカにしたような感じではなく。どういう笑い方だろう。

昨日書き忘れたこと。けっきょく、「みんながバラエティは関西仕事だと思っている間、私たちがアイドルコントを独占させていただきます」とやったのがSMAPだった。
この間、ひさしぶりにスマスマを見てたらそれに気がついた。遅れているおれ。

「明石家マンション物語」「スマスマ」は、発言テロップ(話し言葉を大きな字で画面下に出してくること)がないのね。今頃気がついた。

で、「スマスマ」ではちゃんとしたコントをやっていた。別にものすごく面白いってわけではないけど、たとえるならライトノベル全盛の中にたまたまロバート・シェクリィみたいな軽くひねったプロットの小説を読んでしみじみしちゃった感じ。

それと、これは前に書いたかもしれないけど「あのねのね」が以前出演していたこと自体がかつての「アイドル」に対するオマージュになってんのね。SMAPが一流芸能人なだけに、なんか小賢しいとかしゃらくさいって感じも否めないんだけど。
んで気づいたのが、コントの演者が自分で自分の言っていることで笑ったり、笑うのをこらえたりしない。なんかそれだけで「いいなぁ」と思ってしまう自分が哀しい。

演者が笑ってしまう、というのは「真剣に演じている者ですら笑ってしまう」というツッコミの一種だと思う。これを最初にやったのはだれだ? ハプニング的には過去にいくつもあっただろうが。かつての「全員集合」のような、半ば開かれているというか半バラエティの状態の場合はイイんだよ。あるいは「ヤンヤン歌うスタジオ」で頻繁に「監督コント」をやっていたのも、半ば開かれた状態にして、「演者が笑う」ことを合法化っつーか組み入れることに意味のひとつがあったのかもしれん。

たぶん「演者が笑っちゃう」の最初はダウンタウンとやってた頃の篠原涼子かYOUだと思うがどうでしょう? でもそんときはまだハプニング的な意味があったと思うけど。それを形骸化させたのが「笑う犬」だと個人的に思ってます。
でも「笑う犬」ってホント賛否あるよな〜。けっこう微妙な番組。
とにかくオセロの黒い方とか、笑いすぎだよ。見ててしらけるもん。コントの流れを疎外している。
「笑う犬」ってよく見たことないけど「ハンサム侍」ってどっちかというと「ドリフ」的なコントでしょ。だからある程度グダグダになっていいはずなのに、何かもう本当に真の意味でグダグダなのな。でも好きで見ている方も確実にいるから全否定はしません(後フォロー)。

それと「明石家マンション物語」は、ひさしぶりに見たら「マンション」という設定はなくなっていた。オープニングで米倉涼子がラムちゃんのコスプレをしていたのにはかなりムカついた。さんま、明らかに「うる星」の世代じゃないし。ツッコミようがなかったように思う(毎回アニメキャラに扮装するという企画なのか?)。

後は完全にさんまが若手に対して「指導者」的な立場になっているのを面白いと思えるかどうか。3、4人ならともかく、あれだけの人数をしきるというのはどうなんでしょうか。例の「スタッフの笑い声」も頻繁に入って盛り上げようとするんだけど、さんまの番組を見ていてはじめてその笑い声と自分の感覚に乖離を感じた。「パーでんねん」をやってスタッフから拍手が来るようじゃもう終わってんなァとか思う。

そういう私はモンティ・パイソンもぜんぶ見てない。だれかビデオ貸してください。そんな平田裕香似の女の子、探してます。

3月10日(土)

アイドルの憂鬱

・マキシシングル「アイドルの憂鬱」 メタモ(ビクター)
どうもCDレビューのときのデータの表記がよくわかんないですな。ビクターでいいのか。ユニバーサルミュージックでいいのか。トライスクルエンタテインメントでいいのか。

まあそんなことよりメタモである。
日本的アイドルはきわめて日本内でしか通用しない娯楽、すなわちどうでもいい歌、どうでもいい踊り、どうでもいい芝居、どうでもいいコントなどを売り物にしてきた。とにかくある意味「伝統芸」のようなものなので、「そういうものだ」と思ってくれない海外に通用するハズがない。ピンクレディーも、松田聖子も通用しなかった。文化の差異だとか海外プロモーションの限界だとかもささやかれているけれど、アイドルが不完全な「アイドル」であるかぎり、それを受け入れてくれる土壌が向こうさんにないかぎり、通用することはない。

(以下は全部想像だが)したがって、洋楽志向、ロック畑の人々が大量に音楽業界に流入した昨今、「アイドル」というスタイルは呆れられたり憎まれたり、あるいは一回転して小泉今日子や森高千里や宍戸留美をパンキッシュな存在としてとらえるなどの屈折を経て、最終的にSPEEDや宇多田ヒカルや小柳ゆきを生み出したのだと、私は勝手に解釈している。

ところが、日本人のダサさとかベタさとかダメさとかを把握し、しかもそういうのが「好き」であるつんくによって結成されたモーニング娘。は、SPEEDや宇多田ヒカル(椎名林檎を含めてもいいが)を好きな人々が捨て去りたい、忘れ去りたい部分を拾っては育ててきた。そういう意味ではモーニング娘。はある意味浪花節。そしてラジカルなものというよりは「ベタ」を極限まで押し進めたカタチだ。当初はおニャン子のパロディにすぎなかった(と私などは思っていた)グループが、日本的ベタさを強い味方につけて、90年代でほうむりさられんとしていた「アイドル」という存在を一気にメジャーへと押し進めてしまった。
この王政復古のため、かつて滅び去った「アイドル的立ち姿」はあらゆるところで復活した。それが「ハロモニ」で行われるつまんないゲームであり、コントであり、小旅行して何かを食べたとしてもそこに「価値」が付随することであり、やれゴマキの姉は風俗嬢だの、石川の盗聴疑惑はヤラセだっただののスキャンダルである。価値が上にあるからこそスキャンダルは成立するものであることを覚えておいていただきたい(コレを捏造し続けているのが、野村夫人やデヴィ夫人である。存在すら捏造しているのが叶姉妹である)。

前置きが長いですな。つまり、現在モーニング娘。がやって許されることは、他のアイドルがやったとしてもいちじるしく盛り上がりに欠けるということなのである。

今、アイドル三国時代が鼎立しようとしている。強固なプロデューサーを軍師として押し立ててきたモーニング娘。、宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、鈴木あみなどの「ミュージシャン寄り」の人々。これを便宜上ひとまとめにして「魏」とする(「天」を味方につけている)。 次に、女性消費者へのアピールはいちじるしく少ないが、これはこれで「ベタ」である男の本能を刺激する方法で強く打ち出していこうとしているイエローキャブほかセクシーグラビアアイドル軍団。これを「呉」とする(「巨乳」という地の利を得ている)。

しかしだ。こんなことでアイドル地図は健全なものとして描かれているのか。後は思い出されるのはせいぜい池脇千鶴後藤理沙くらいではないか。
「蜀」は国としてまだ成立しえず、混沌としているといっていい。とくに広末の人気にかげりが見えだしてから、魏と呉の勢力のみが強まり、中原のバランスは激しく動いている。

そこで「メタモ」だ(ちょっともったいぶりすぎたが)。メタモはテレビのみの情報では「チェキッ子」の残党というイメージしかない。「モー娘。」がおニャン子のエピゴーネンだったため、本家がやればもっと売れただろうというもくろみに、けっきょく乗れなかったグループ(乗れたのは男の「野猿」だった)。
しかし、そもそものチェキッ子のコンセプト自体が「女の子は相手にしない。血気盛んな男子だけを相手にする」という、ある意味「モー娘。」に対する激しいアンチテーゼだったのである。その意義は決して少なくない。
現に、その他の残党である町田恵やエースファイル、セクシーグループKOMATIに入った鈴木絵美子など、いずれも「バーチャル彼女」を真剣に演じるべく日夜努力しているように見える。それはかつてのアイドルとともに滅びたコンセプトであるはずだった。

そしてこのメタモのニューシングル「アイドルの憂鬱」。ちょっと聞いてみて、すかさず「なんてったってアイドル」〜「非実力派宣言」〜「宍戸留美の何か」に続く、「私はアイドルだからどんなことも許されるのよ」的な曲を思い起こす。「アイドル冬の時代」から「モー娘。以外はアイドル冬の時代」となった現在、こういう曲をヘラリと出せるのは度胸があるというか無謀だというか。
しかし歌詞の内容は、「ライバルを押しのけて前に出ていくのがアイドル」というふうに「人気があるのがアイドル」ではなく、「アイドルだから人気が出なくちゃ!」という展開になっているところが面白い。曲調にもどこかヤケクソ的な雰囲気がかいま見える。ソレがまたいい。

まさに現在のメタモは、「桃園の誓い」をしたばかりの、孔明がいなくて冷や飯食わされている頃の劉備たち3人である。……プロデューサー不在と言っているのではなく、なんかこう、スタンスがそんな感じなんである。
アイドル全盛期ならともかく、今だからこそ私はメタモを、そこそこは支持する。

余談だが同じくチェキッ子出身である chee'sは、公式ページがまったく更新されておらず、関係会社(?)のUNIVERSAL-MUSIC WEB SITE chee'sでようやく新メンバーが加入したことや2月の下旬に新曲が出たことがわかった。こういうのはマメに告知してもらわないと、更新の止まったHPを何度も見させられるはめになって感じよくない。なんとかしてもらいたい。

それにしても、何で大ファンでも何でもないグループについてこれだけ書かなきゃいかんのか。「書かなきゃいかん」なんてだれも言っていないところが私が終わってるっていう証拠ですね。

以下、もう関係ない話。雑談。
最近、ちょい面白系というかモンドっぽいテクノをつくったりイベントしたりしている人のHPを覗いていますよ。
そこで見つけたとあるクラブイベント系のHP。女の子が主催しているらしいんだけど……(以下、イベントの告知文。まったくのコピー&ペーストではない)。

「一人でも来てください。私(主催者)が話し相手になります。」
「あと、人生相談、恋愛相談します!」
「場所はわかりづらいので、当日渋谷の駅まで迎えにいきます!」

それと「ケーキ大会」も別の日にあるんだって……(ケーキ大会……)。
なんだ、メトロポリタンのケーキバイキングじゃないかよ(笑)。
でもいいなあ。なんかかわいいよ。

ケーキ大会はともかく、告知文の文面からするとクラブイベントはオトコ対象じゃぜんぜんない気がするんだけど……。すげえ行って見たい〜(でも、行ったらいたたまれない気持ちになるのは自分自身)。

今日はHP開設2周年でした。見てくれている人、ありがとうございます。
年末にも書いたけど、いろんな人が見てくれて楽しいです。

その反面、こんなに労力をさいてていいんだろうかという気持ちも……(本を読むのも文章書くのも遅いので、一生懸命やらないと維持できないのです)。

3月9日(金)

おおかたが土曜から仕事開始という週のサイクルなので、金曜の夕方くらいからだんだんイヤ〜な気持ちになっていく。月曜から仕事で日曜日休みだったら「サザエさん」を見ている頃に暗くなってくるってヤツね。この日は、少年チャンピオンの「ななか」がいじめられているエピソードを読んでいたら昼くらいからどんよりした気持ちになってきた(私は「ななか」はいいマンガだと思っています。悪いのは勝手に暗くなってる私の方)。

で、やめようやめようと思いつつメシ食いながら酒を飲もうと思っていたら、親が話しかけてきた。
「ご近所の○○さんが、通りを渡ったところの中華料理屋に家族で行ったんだって」
「?」
「そうしたらご主人がトイレに入ったきり出てこないからおかしいと思っていたら倒れていて、病院に行って調べたらオブチさんと同じ病気で、一命はとりとめたけど仕事はやめて静養しているんだって。危なかったらしいよ」
「……」
もう死にたくなった。死にたくなった理由を以下に列挙しておく。

・私はその○○さんというご主人を知らない(近所づきあいのなさ→私がダメ人間)
・人間はみないつか死ぬ。必ず死ぬ!(アサハラ口調で←こういうこと書くこと自体が死)
・酒は血圧とかオブチさん的病気によくないはず。飲もうと思っているときにそういう話をされた

強く言っておきますが、「ぼくはわたしはこういう瞬間にダークになった」などの掲示板への書き込み、メールなどは強くお断りします。ここは私がダーク話をする場であって、私にはヒト(とくにヤロウ)のダーク話を聞く精神的余裕はゼロです。

そういう人は「釈ちゃん人形」でも抱っこして、布団かぶって寝てください。

3月7日(水)

ネットウロウロ(ネットサーフィンの超オシャレなカックイイ呼び名)していたら、「おお、これは!?」というHPにひさしぶりに出会った。日記系というのか、書評系というのか……。なかなかイイこと言っている。いわゆる「毒舌」すらもネットではパターン化されていることを重々自覚している。今しもリンクして紹介しようかな〜と思った。しかし、その後がいまひとつだった。

どうもブンガク寄りの人は評もブンガク的であるように思われる。某作家をこきおろして某作家を持ち上げているのだが、その差異が文章を読むかぎり判然としない。あらゆること(自分の考えが「あらゆること」だと思い込んでいる、視野に限界のあるヤツの世界)を客観的に見る、という姿勢はたいしたもんだ。しかしそれを貫きたいのなら、何かをこきおろすことはあっても絶賛しちゃまずいでしょ、と思う。

ここからそのHPのこととは関係ないことになるが(なんだもう関係ないのかよ)、数年前の凡百のブンガク畑のヒトのエヴァンゲリオン賛美にもそうした傾向が見られた。
たとえ好きでもじっと抑えた筆致でなけりゃ。それがダンディズムというものである。

また、ブンガク的比較論はどのみち「ブンガク」的な差異でしかなく、まあSF論がSF的な差異を、ミステリ論がミステリ的な差異をモンダイにするのと同じことではあるが、もっとね。イデオロギーで斬ってしまえばわかりやすくなるってもんよ。別にブンガク論に(よっぽどの文章の名手とか評論家とか大学教授とかでないかぎり)、レトリックとかいらないんだから。
イデオロギーっつっても右とか左とかでなくて、「もっと日々マジメに働く人が読んで励みになる小説を書いてください」とかさ、「日々マジメに働く人の励みになってこそいい話」って考えはある種の人にとってはサイテーかもしれないけど、ひとつのラインだから。「サイテー」というラインを醸し出すだけでも有意義だと思うんだ。

そういう意味で言ったら(どんどん話はずれるが)、昔むかしのシティロード(「ぴあ」みたいな雑誌)で年間ベストに選ばれた「インディアン・ランナー」という映画は私にそのような感情を抱かせた。ありゃあ26歳・自称ミュージシャンとか、28歳・売れないライターとか、32歳・マンガ家志望とか、そういう人間がグッと来る映画でしょ(と思ったけど)。
あるいは「元不良」みたいな。「元不良」で「おれもうちょっと何とかなると思ってたけどなー」みたいな人々が不覚にも感動してしまうような映画ではないかと思っていた。それは少なくとも私にも、そこら辺の人にも関係のないことだし、別に関係なくてもいいんだけど。それが見切れなかった私が悪いということなのかもしれないんだけどさ。

イデオロギーの話で言うと。さっき「右とか左でない」って書いたそばからまた書くけど、ある人間が何を言ってんだかわかんないときは、乱暴に「右」、「左」と便宜的に分けてしまえばわかりやすくなる。よく「現代は右と左が錯綜して云々」っていうけど、ありゃウソだよ(と、私は思っている)。右だから、左だからってその言論の質が問われるわけではないけど。めんどくさくなるとそうやって自分を納得させることにしている。

重要なのは、論者がその立場や結果的にどちらかに振り分けられる言論にどれだけ自覚的かということなんだけど、もしかしてけっこう気づいていないのかもしれないと思うようにはなってきた。みんな商売でやってると思ってたけど。案外そうでもないのか。かなり深いところでの天然というか。

後半独白になっちまった。でも何かありそうでなかったHPを見ちゃったんだから、「病気の子供はいないんだ……」と思ってカンベンしてね。

3月6日(火)

長い間ご好評をいただきました「今日何を食ったか」の記述ですが、都合により休止ということになりました。なぜなら「どうしてあんな記述ばかりするのか?」と疑問が呈されたこと、毎日かわりばえのしないものを食っていて書いてて飽きてきたということがあります。単行本購入予定記録なども疑問呈されること多しで。私は最初やろうとしてやめちゃったけど。

サラリーマン時代、クリップで留めた書類がめくっているうちにはずれていくのがイヤで、必ずクリップを2個付けておくことにしていたのだが、「どうして新田はクリップを2個留めするのか。狂ってんじゃねえの?」(大意)と言われたことがある。この場合、たとえば松嶋奈々子や広末涼子がやったら何の問題もないことが、私がやったがゆえにエキセントリックに映ったのである。それと同じで、日記に生活のことを書くのは当然だと思うのだが、嫌気がさしたので、メシの記述にかぎって中断。

新田五郎の次回作にご期待ください。

3月5日(月)

まったくどうしようもない日(いつものことか(笑))。
録画しておいた「MUSIX」という音楽番組を見る。プッチモニの新曲の衣装がスカジャンで、懐かしい感じ。
とくにいちばん左の子(吉田某?)は下が赤いミニスカートと赤いスニーカーという合わせで、スカジャン、ミニスカ、スニーカーと言ったら昭和40年代生まれはグッと来るんじゃなかろうか。都立校の私服の女の子がそんなようなかっこうをしていた記憶がある。青春の幻影(byメーテル)。そして都立名門校もそうとう有名大合格率が下がったみたいね。すべては過去になっていく。

とある座敷で面白いイベントがあるというので、見に行く夢を見る。ものすごい仕込みをしたことが感じられるパフォーマンスのようなものをやっていたが、その中の一人が観客席の私に向かって罵詈雑言を投げかけ、いきなり殴りかかってきた。
そいつはパフォーマンスの一貫のつもりで私に対して「コイツなら与し易し」と思ったらしい(繰り返すが、夢の話だ)。

その後、客席に有名な評論家の先生がいて、そのヒトが「近頃の若い者は脱いだ靴も揃えない」と文句を言って、脱ぎ捨ててあった靴を揃えはじめた。この先生がいちばんはじめに手を付けたのが、私の靴だった。夢の話終わり。

2日に行ったイベントの出演者のHPを見て回る。気になってふだんは見ない2ちゃんねるまで見に行ってしまった。むろんHPの掲示板でホンネが書かれているとは思わないが、それでも何となく出演者やスタッフのだれがどう感じているかを察することはできた。
だいたい私の考えていることと同じようだった。

「新ゴーマニズム宣言」についてのマンガ読みとしての見解
「新しい教科書をつくる会」の教科書が新聞で話題になっていたので、「新ゴーマニズム宣言」に対する個人的見解をメモ程度に書いておきます。つれづれなるマンガ感想文でもほとんど言及する機会がなくなってしまったので(最近読んでないから)。

私が多少なりとも読んでいたのは「戦争論」までで(「新ゴーマニズム宣言 戦争論」 小林よしのり(ナナメ読み)(1998、幻冬舎)と「最前線」(1) 望月三起也(1968、少年画報社)と「墨攻」全11巻(1992〜96、小学館)を参照してください)、戦争論がヒドかったので以後読んでいません。現在、台湾の話などをやっているらしいがよく知らない。

私の「新ゴー宣」に関する批判点はいくつか出てきたが、もっとも重要なのは「史実と違う点がある」らしいこと。これは歴史を語るうえで(しかも題材が微妙なモノの場合はとくに)基本中の基本で、少しでも疑問が提示された場合、きちんと答えておく必要がある。それをしない段階で、ちょっとどうかと思う。
さまざまなことをテーマにしているので各回の出来不出来などはあり、現在でもいいと思われる回も存在しているかもしれないが、「間違いを訂正しない」という基本スタンスがあったとして、もう信用できなくなってしまうわけである。

もうひとつは、事実上「プロ仕事」に対して敗北していること。作者の小林よしのりは「プロ主義」というか、プロフェッショナルが自分の領域で仕事をしていく重要性についての意識が強い。それに反し「ゴー宣」は「専門外」であるマンガ以外の領域に、マンガ家が踏み込む矛盾からくる面白さで成り立っていた。言ってしまえば取り上げる題材をその都度「にわか勉強」しているわけで、それがどこまで通用するかの勝負だったわけだ。
私としては、「プロ化」というか専門領域化、極度の細密化が昨今のエンタテインメントの特徴だと考えている。五島勉が「ノストラなんとか」を少ない資料と創作でデッチ上げていた時代とは受け手と送り手の意識は変わっている。そんな中にあって、ゴーマニズム宣言は細密化・専門領域化とは違う流れのマンガという意味で、珍しいとは思っていた。しかし、資料的な意味合いでもそうだが、思想的、マンガの基本スタンスという意味でも専門家に頼らざるを得なくなった。それは西部邁の思想を「借りてきた」あたりにあったと思う。

描いている本人は自分の意志で西部的な考えを取り入れていると思っているのかもしれないが、自分の意志だろうがなんだろうが、「思想家」に頼った時点でマンガとして凡庸化するのは避けられない。きちんとした価値体系を取り入れれば取り入れるほど、物語としてのダイナミズムが薄れるのは当然だ。「薬害エイズ」、「従軍慰安婦問題」といった各論から「戦争論」のような総論へ向かう過程でつまらなくなっていった(私の個人的見解だが)ことも同じ理由で、体系づけようとすればするほど、面白くなくなってくる。だいたいそんなにオリジナリティのある思想体系があるなら、だれかがすでに書いている。

一方で、作家としてのキャリアから言えば再評価が進んでいいはずの過去の作品群までが「ゴー宣の作者だから」という色眼鏡で見られることを私は懸念してもいる。現在、過去の小林よしのり作品をレビューするときに「ゴー宣」についての見解も同時に書かなくては済まされないようなメンドくささも感じる。
まあこういうのは年月の問題で、ゴーマニズム宣言が終わってずっと先になればまた見解も変わってくるだろうが、作者が生きているうちは自分の作品の面倒を見るのは作者の役目だろう。なんとかしてください。

「つくる会」について
同時に「つくる会」についても簡単に言及しておく。
私が「つくる会」の存在を知ったのはいつだったか忘れたが、藤岡某の「自由主義史観」についての本は読んでいる。これは運動として大きく展開する前の、一種の「宣言」だった。理想しか書いていないがそれだけに、大幅に間違ったことは書いていなかったと記憶する。

だが藤岡某の主張にも大きな疑問が生じる。それは、「戦後一貫して、日本国民は自虐史観を植え付けられてきた」という陰謀史観ともとられかねない意見だ。
戦後すぐ、マッカーサーだかなんだかが「ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム」という日本人に戦争の罪悪感を植え付ける洗脳計画を実行したという(私としては真偽がわからないが。まあ「チャンバラ映画はダメ」とかそんな程度のことはあったと思う)。また、70年代中盤以降(すなわち学生運動の影響を受けた人々がたくさん教師になってから)、学校現場で「自虐史観」が教えられてきた可能性はなくはない。しかし、それらが戦後一貫していたかというと大きな疑問が残る。

これは「戦争論」の感想でも書いたことだが、戦後、戦争(とくに第二次世界大戦)を賛美したり、エンタテインメントとして楽しんだりということがまったく行われなかったわけではない。
「戦艦大和」の存在を日本国民が知ったのは戦後からだというし、マンガ史においても「戦記マンガ」は一ジャンルをなし、少年雑誌の口絵では兵器の特集を組み、さらに軍事関係のプラモデルも好調な売れ行きを見せている。
是非は別にして、たとえば「空手バカ一代」のような戦争とは直接関係ないアニメでさえ、「特攻くずれの主人公が目的を失い、空手に新たな道を見出す」過程において、横暴なアメリカ兵をやっつけたりしている。
「横暴なアメリカ兵をやっつける」エピソードは、同工異曲の「空バカ」関係書籍では繰り返し出てくる。これが(繰り返すが是非は別として)第二次大戦の敗北における、庶民感情の反映であったことは容易には否定できないだろう。

だから、たいそうな学者さんたちが集まっているのなら、まず「戦後の戦争教育」がどのように行われたかについての「歴史」をつまびらかにする必要があると思う。あたかも「戦争」が戦後ずっと封印されてきたかのような意見には疑問が残る。

マンガだけにかぎって言えば、「戦争マンガ」で人気だった望月三起也も松本零士も、どこかでそれらを縮小していった時期もあるにはあったと思う。これが移り気な読者のせいなのか、それとも送り手の何らかの「タブー感」から来るものだったのかということも、調べる必要があるだろう。

教科書検定では特攻隊についての記述を削られたりしているみたいだが、個人的には「あんたらに言われんでもいいわい」という気もする。そういったことどもの善し悪しというのは、抽象的なかたちで現在でも残されていっていると思うからだ。
何かに批判点があるのならば、それを徹底的に明らかにすることがまず必要だと思うのだが。

3月4日(日)

数年ぶりに仕事帰りに表参道で下車してみる。表参道にある会社を、かなりヒドい方法(いちばん忙しい時期にズル休みした)でやめてから、社員と顔を合わすのがイヤでこれまで近づいたことがなかった。
何しろ忙しいところで、ほとんど毎日だれかが出社していて、オチオチ日曜日にも行けないのである。

晩飯を食いに立ち寄ったのだが、青学近辺にはロクな店がなかった。地下にある中華屋に入ったが、戸が固い引き戸だった段階で入る気をなくした。しかし戸に手をやってから引き返すわけにもいかない。仕方なく入ってカレーを食った。

当然、不味かった。

「バカミスの世界」 小山正とバカミステリーズ・編(2001、B・S・P)読了。
古今の珍作・怪作ミステリを「バカミステリ」と命名し、ソレについてレビューした本。
この本、珍作・怪作ミステリのガイドとしては個人的にたいへん面白く読んだ(収録されている短編小説も面白い)が、読む前から気になっていた「バカミス」というものの概念が、読後もどうもはっきりしない。
それは、本書の中でも指摘されているとおり、「結果的にバカになってしまったもの」と、「作者が意図して書いた怪作」をゴッチャにしていることに最大にして唯一の原因がある。

「作者の意図せざる部分を面白がる」、「一般的評価の対象外だったものに注目する」というのは、「トンデモ本の世界」であるとか、「超絶! プラモ道」であるとか、幻の名盤解放同盟であるとか、各ジャンルにさまざまなものがあるのでミステリにだってあったっていいのだが、本書はどうもそういう意図ではないらしい。
だって「バカミステリ」としてあげられているのがクイーンとかクリスティとかカーとかフレドリック・ブラウンとかの諸作品かと思えば、しゃれたパロディ作品あり(膨大なホームズもの含む)、ハードボイルドあり、山田風太郎ありで、どう考えてもこれは「バカ」というより優れた小説の名手による作品群だし、かと思えば「結果的にバカになってしまったもの」として大藪春彦の「野獣死すべし・渡米編」(脱力ものの愚作)や「餓狼の弾痕」(酔っぱらって書いたとしか思えない。読むと気が狂うかも)、マイク・ハマーものの「寂しい夜の出来事」(珍作には違いないがコレを探して読もうという人はたぶんいない。私も未読だが読む気はしない)などが含まれている。それでいて「黒豹シリーズ」に一言も言及がなかったり(「国内編」のようなものが準備されていて温存されているのかも知れないが)、優れた作家としてもチェスタートンが取り上げられていないのには何か高度な意図があるのか。

対談やインタビューでも、ミステリにおける「バカなもの」に対しての掘り下げという点では疑問を感じざるを得ない。「意図せざるバカなもの」の生成過程(「小説」としての)を考えることは正直あまり有益なこととは思えないが……それは作者の問題と言うよりむしろ読者の視点の問題だからである。
このように「優れた、名状しがたいバカバカしさをもったミステリ」と、「本当に単なる『バカ』なミステリ」をゴッチャにして論じることに、よほど深いわけがあるのか、深読みしてしまったが正直言ってその辺がサッパリわからない。単行本としてのインパクトとか、売れ行きとか、そういったことまで考えたが、やはりわからないし、本当に面白い小説(「見えないグリーン」とか)と、バカだが読んでもつまらない小説とをごちゃまぜにしてしまうことは、ブックガイドとしてのパワーもダウンさせてしまう。

繰り返すが「珍作・怪作」のガイドとしては面白いが、「バカミス」というカテゴリがはっきりしないためにモヤ〜とした感じになった。個人的には「作者の意図せざるバカな小説」、本当に読んでもしょうもないモノのガイドを望む。

3月3日(土)

飲み会。飲み会について書く場合、酒の席で聞いたことを書くと言った言わないとモメかねないので、できるだけ大ホラを書くことにしている。だけど、後で読み返すとだれと飲んだかわかんなくなっちゃうんだよなー。それじゃ日記の意味ないよ!
今回は「早歩き研究会」の数人と、早歩きについて激論を交わした。早歩きでとくにむずかしいのは、道路の「線」(なんというのか、商店街などでパネルみたいのが敷き詰められている、アレの境界線)をいかに踏まないで歩くかということなのだが、「そもそもなんで線をふんではいけないのか」と若手会員からの鋭い指摘があり、「そもそもなんで早歩きをしないといけないのか」という根本的な問題が持ち上がり、「そもそもなんで飲み会をやっているのか」というさらに根本的な問題にまで立ち戻らなければならなかった。

ここで「何でなのかなあ。ウンウン。あ、カルピスサワーひとつください」というような「酒飲みは酒が飲めれば幸福」的なオチでもつけばまだよかったのだが、そこにいるのは全員下戸ばかり。中には「俺の酒が飲めないのか!」とからんできた上司を殴って以来会社を辞めて私立探偵になったハードボイルドな下戸や、酔ったフリをして「俺の酒が飲めないのか!」とからんで部下に殴られ、それ以来顔が後ろ向きになっちゃったまま戻らないやつ、メグ・ライアンを「のほほん茶」のCMで初めて知ったやつなどが、イヤな酒席にそれぞれ都合をつけて来ていた。
このため会の存在意義が問われた途端、いろんな言い訳を見つけては帰るヤツが続出。最終的にはだれもいなくなり、だれかが座興に持ってきたメトロノームだけが残されて時を刻んでいた(詩的終わり方)。

ところで、ここの日記に暗いことばかり書いているとやはり心配されたり、よっぽど暗い性格なのかと誤解されるので、もう暗いことは書かない、と何度目かの決心をしました(以下、明るい文章)。

ワーイ。みんな元気してるー? おげんこー? なめネコのカード持ってるー? ボクは毎日まいにち明るくて、楽しすぎてふだんから声がうわずったり、「笑う犬」の内容を友達に話して聞かせるときに話す前から自分でふいちゃったりしてます。 こんな世の中だからこそ、みなさん陽気に行きましょうー! あ、「笑う犬」のところはウソなんで、本気にしないでください。見てないし、これからも積極的に見る気ないし。ワーイ。そんなことよりもっと楽しいことを考えようよ! 人生は短いよ。まるで「日本一短い父への手紙」のように。サラリーマン川柳のように。ワーイ。ぼくもサラリーマン川柳を思いついたよ。

サラリーマン サラリーもらって ワーイ

3月2日(金)

映画「ギャラクシー・クエスト」を見に渋谷へ行く。全国ロードショーだと勝手に思い込んでいたら、単館だった。
内容は、「スペースオペラ版サボテンブラザーズ」といったカンジで「ギャラクシー・クエスト」という架空の人気SFテレビドラマの主演格たちが、ホンモノの宇宙人に助けを求められ宇宙へ行くというもの。パロディ的な導入部から最終的にはしっかりスペースオペラになるあたりが実にニクイ。パロディの元である「スター・トレック」の物質転送機がこの映画の世界内では完成していないことが、ストーリー上、2、3の重要な役割を果たしているところなど、アメリカの娯楽映画ってのは「アイアンジャイアント」を見たときもそうだったがツジツマ合わせにおけるアイディアがとてもよくできている。見終わった後、幸福な気分になった。

深夜から吉田等と某イベントへ行く。
我々が気に入っているテクノユニットが出るので。

「某」などともったいぶって書いたのは、ナカナカにイベント的にどうかと思われる部分があったから。とにかく出演者多すぎ。DJが回したり若手お笑い芸人が芸を披露している間にバンドが準備をする、というダンドリだったらしいが、所定の時間内に準備ができるバンドがほとんどなく、機材トラブルが発生したりして全体として1時間近く押してしまったらしい。
さらにCD−JだかDATだかの調子が悪くて音が飛ぶ飛ぶ。時間が押していたせいか、一回飛んだ曲はやり直してはいけないルールがあるらしく、我々が楽しみにしていたユニットもやる曲やる曲すべてが音トビしてしまうという自体に。その他打ち込み系ユニットのほとんどが音トビしていた。
また、出てくるお笑い芸人もまるでつまらないので客のテンションはことごとく下がるし、お互いがぶつかり合いながら踊っている人がいたり(危なくて近づけない)、全体的に「悪ふざけ」感が漂うのがいただけなかった。

バンドと打ち込み系ライブのクォリティ自体は決して低くなかったと思うので、ひたすらに詰め込みすぎがモンダイだったと思う。たくさん出れば出るほど、時間の遅れが加算されていくカンジというのは結婚式の二次会幹事などを1回でもやればわかりそうなもんだが、これが若さゆえのあやまちってヤツかもしれん。

それとテクノ系は、面白いMCができる人間がものすごく少ないなー。まあ電気グルーヴが面白すぎたために、「面白いMCをしなければならない」的雰囲気があるのが大変だと思うけど。でもやっぱり多少のネタは仕込んできた方がいいと思う。

例によって、夜中の3時を過ぎたら異様に疲れてきたが。上着を脱ぐなどして体温調節をするとわりといいようだ。

3月1日(木)

昨日はブックオフ目白店に行く。セールをやっていたので、しょーもないVシネのビデオなどをたくさん買ってしまった。
今日何をしたかはまるで思い出せない。雨が降っていて1日家の中にいた。
あ、録画してそのままにしていた「鉄甲機ミカズキ」を2話ぶん、見たな。この特撮ドラマ、2話ぶん見るかぎりアニメ版「ジャイアントロボ」を含めたここ数年のオタク的ヒット作品の寄せ集めといった感じで、太いゴリッとした物語を読みとれないいらだたしさがあるのだが、まあ雨宮慶太作品は内容より「このシーンをとりたい」ってのが優先する雰囲気があるのでいいとして(そりゃストーリーが面白い方がいいに決まっているが)、おれ的には奈良沙緒里がカワイイからそれだけでいいかな、と。

「建機風の巨大ロボを操縦する女子高生社長」という設定は本来ならアニメにこそふさわしいものだと思うけど、それを実写でやるのがイイんだよな。



ここがいちばん下です
4月の日記
2月の日記
日記トップに戻る
トップに戻る