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一気に下まで行きたい
「電撃大王」連載(たぶん)。いろんなタイプのカワイイ女の子が出てくる学園4コママンガ。
口コミとかインターネットでの評判とか、そういうのから「面白いかもしれない」と思って読んだ。
で、面白かった。
キャラ重視の4コマって、ハズすと「キャラクターにおんぶにだっこし、4コマが連続してけっきょく続きマンガになってしまう」ってのがあって、さらにそのキャラクターがベタだったりすると心底ウンザリするのだが、本作は微妙〜に目新しかったりパターンだったりってのがあってけっこう面白い。
個人的には「ゆかり先生」の、「美人で婚期を気にしててドライでズボラ」っていう性格設定はあまりにベタすぎると思ったが、これも好みの問題だろうしね。
私が第1巻でいちばん面白かったのは136ページの「のりのりゴー!」というのと「おともだち」っていうのなんだけど、コレが「ねこの着ぐるみを着てすごい早さで暴れ回る」というもので、ギャグの基本は「面白い顔と、ヘンなポーズ」だと言ってはばからない私としては堪能しました。……これだけじゃ意味わかんないと思うけど。
だけど、「ぼのぼの」で「いちばん面白い話」が、私にとっては「ヤマビーバーくん」(「ぼのぼの」最後まで読んでないけど多分主要キャラではない)が、アライグマくんに「面白い顔」をして一生懸命見せるんだけどちっともウケず、それでもまったく意に介さずに面白い顔をし続けるというもので、それをいくらみんなに勧めてもだれも理解してくれなかったから、今回もだれも理解してくれないと思いました。
アフタヌーン連載。2005年、子供達が消える現象が続出。彼らは消えてはまた帰ってくるが、どうやら「平行宇宙」へ行っているらしい。それはリーズル症候群と名づけられた。
この怪生物とともに帰還した少年少女は「ミルク隊」として消えた子供達を救出する義務を負っていた。弱虫の葉菜もまた、ミルク隊のメンバーとしてジャンプすることになる。
「エイリアン9」で話題となった富沢ひとしの、「同系統作品」2作目。「平行宇宙」に棲む怪生物、「宇宙ジャンプ」など、既成の表現からの直接的引用は避け、独自の世界をつくり出そうとする意志を感じる。集中線を使わなかったり、通常のマンガで用いられる時間経過の表現をあえて用いなかったりすることは「エイリアン9」と同様。
しかしちょっと説明不足すぎやしないかと思うところもあり、とくに「しっぽ状の怪生物」の出現が非常に唐突で、その後も何の説明もない。人間が寄生されて共生するのは「エイリアン9」と一緒のようだが、最初他の怪生物の仲間かなんかでワンオブゼムかと思ったら、えんえんと出続けるので、後の方でようやく主役級キャラだと理解した次第。
最初の方から登場している「謎の女の子」が謎のままなので、生物の説明がもう少し欲しいと思った。とマトモすぎる感想を書いて、ご挨拶に代えさせていただきます。
ラブコメについて漠然と考えているときに、ちょうど本稿を目にした。80年代初頭から始まった「少年ラブコメ」についての評論である。
さて、それを認めたうえで、ページ数的に足りなかったか、と思わせる部分もないではないことを指摘したい。
まず「少年ラブコメ」の定義がいささかあいまい。いや、全体を読むと言いたいことはわかる。わかります。80年代サンデーや増刊少年サンデーを評価していたり、どちらかというとマガジンよりも「サンデー寄り」の作品セレクトがなされていることから何となくわかるのだが、どこかにはっきりとした「定義」的なものが欲しかった。
なぜなら、80年代は青年誌が複数創刊され、そこに恋愛をテーマにした作品を載せようという意図が雑誌側に明確に見られた点、「コメディ」よりも「ラブ」寄り、つまり少女マンガ的要素が濃く、いわゆる「ラブコメ」とはちょっと言い難い作品があること、ラブコメが本文中にもあるように既存の価値観に対するカウンター的意味合いがあったことは確かだが、それに対し根強い反発・批判(たとえば少年ジャンプ的マッチョ主義のような)があったことなどから、論者の漠然とした「ラブコメ感」をどこかではっきりさせてもよかったのではないかということ。
もうひとつは、事例として挙げられている作品が少ないこと。それとその発表年度が明記されていない。これは私自身が知りたい(要するに知らない)から思うのだが、70年代終わりから80年代初めにかけて、少女マンガ分野で活躍してきた作家が少年誌にも描くようになった(弓月光、あだち充など)。だが元祖ラブコメとして非常に印象が強い「翔んだカップル」の柳沢きみおは、たぶん少女マンガとは無縁だっただろうし、村生ミオも同様である。つまり、「少女マンガ的手法の導入」と、「少年ラブコメ台頭」はパラレルなのか連続したものなのかの検証が必要なのだ。それは、女性作家でありながら少年ギャグマンガ家として一世を風靡した(現在もしている)高橋留美子の登場などとも重なっている。すなわち少年マンガと少女マンガの相互乗り入れ現象の部分なんですけど。
だからこそ、少年誌における「プレラブコメ」的な作品、恋愛も取り入れた「青春もの」、当時少年誌に描いた女性作家などの作品事例が多数欲しいのだ。
「80年代的ラブコメの構造」についてはほとんど異論はない。すなわち思いっきり大雑把に言えば、地縁・地域社会からも、都市型社会からも隔離された「聖域(モラトリアム)」の中で、大人になりきれいない少年が「何も決定されないまま」の恋愛ドタバタを繰り広げるのがラブコメだ、という考え方。
「90年代的ラブコメ(ポストラブコメ)」については、私自身が門外漢だし勉強になった。すなわちヒロインを代理母とした、80年代ラブコメより強固に隔離された世界の物語ということになるが、これが90年代的類型だとすれば、「ああっ女神さまっ」の(私にとって)不可解なロングヒットの理由がわかるというものだ。
余談になるが、本稿にはコラム的に「このマンガのここはラブコメだ!」というコーナーが設けられている。ラブコメではない作品の「ラブコメ部分」を指摘するというもので、論者のラブコメに対する「萌え」度が表されていてとてもイイと思うし、カタログ的に作品を挙げていくコーナーではないので別に出てこなくてもいいのだが、私が思い出したのが「湘南爆走族」(吉田聡)である。
「湘南爆走族」は、「族マンガ」としてカテゴライズされることの多い作品だが、主人公江口洋介とガールフレンドの関係が思いっきりラブコメしていたことを忘れてはならない(厳密に言えば本稿で挙げられている狭義のラブコメとはちょっと違うけどね)。考えてみれば、あのヒロインの女の子(名前忘れた)はめがねっ娘ではないか!(笑)
……と、話がそれた。
従来の感覚からすれば「モラトリアム」、「反競争主義」、「反マッチョ主義」、「しかもそれが徹底されていない」こと、物語の形式化・類型化、女性キャラクターの形式化・類型化、きわめてコンセプトの甘い「男女性役割の単純化」など、少年ラブコメは批判のタネには事欠かない。
少年マンガの大衆性を論じるときに避けて通れないジャンル、少年ラブコメはいまだに充分読み解かれたとはいいがたい未踏の土地なのだ。
少年宝島連載。女生徒の権力が圧倒的に強い中学・乙満湖学園(スゴイ名前だ)にやってきた新任教師・江楽乱坊(えらく・らんぼう、通称ランボーセンセー)が、数少ない男子生徒の味方になって大暴れ、の学園Hコメディー。
なお、後半は男子VS女子の相撲対決にページ数がさかれ、柔道部のエースにして美少女の姿しず香が「イヤ〜ン」とか「バカバカ」とかいいながら男子と相撲を取るさまがエンエンと描かれ(しかし豪ちゃんの描く「バカバカ」ってのは実にイイ)、「どうしてもしず香と相撲が取りたい」と思ったランボーセンセーが、「男の少ないこの学園の女子は男の区別が付かない」という強引な理由により自分とは似ても似つかない男子生徒に変装、しず香と対戦して乳首をなめたり吸ったりしているところでマンガはオワリ。いくらなんでも少年誌のわりには過激だな、と思い「成年コミック規制以前だから」などとピシッと結論を出せればカッコいいが、正直よくわからん。ちなみに本誌連載が86年頃で、成年コミック騒動が93年か94年だったと思う。
作品としては、ドクロ番長が「けっこう仮面」みたいに変装しているのではなくドクロのマスクをかぶったかっこうで登校しているとか、花乳首桃子の謎とか伏線はいろいろあったし、ランボーセンセーに裸にされてから「女の裸は美しいゆえに見せるものだ」と言って化粧回しひとつで土俵入りする白士里可愛とかいろいろ面白いところはあって、「おいら女蛮」か、作者のノリ如何では「ガクエン退屈男」のような作品になったかもしれず惜しいかぎりであった。
週刊プレイボーイ連載。勝手にタイトルを付ければ「西遊記編」。中国人の悪人によって、チンポに「断煩環」というワッカを取り付けられてしまったソラ。これは、密教の修行僧がおのれの性欲を断つために使ったという秘宝で、勃起するとチンポをすごい勢いで締め付けてくる。まあ孫悟空のワッカのようなもの。
これを取り外すには天竺に行くしかないことがわかり、三蔵法師の子孫・三蔵法師(やっぱり同じ名前)のところを訪ねるソラ。三蔵法師は、「一度西遊記のような旅をしてみたかった」という理由でソラとの旅を快諾、「相撲編」でのライバルだった豪快丸(猪八戒役)、麻薬密売組織・EXPの基地だった孤島に戦中からずっと住んでいたジイサン(沙悟浄役)とともに、天竺へ行くことになる。
思いっきり荒唐無稽な方が宮下あきらの真価を発揮するのか、ただ私が好きなだけかもしれないけどこの西遊記編はけっこうイイ。次々と出てくる化け物や仙人もイイ味で、「だれにでも顔を変えられる怪人」が出たり入ったりして顔をクルクル変えていくうちに混ざったような顔になって出てくるとか(昔のコント! もちろんいい意味で)、「竜宮城」の乙姫が無意味にセーラームーンのコスプレをしているとか(ただ当時流行っていたという理由だけで)、そのダンナの怪人が顔の下半分をトックリのセーターで覆っているとか(このシリーズ連載当時やたら週プレに載っていた包茎手術の広告のパロディ)、そいつが変身すると口の部分がチンポの大ダコになるとか、しかもそいつはタコなのに湖に住んでいるとか、宮下ファンタジー炸裂。
スキャンしたカットは、ジミヘンの熱狂的なファンである地魅辺仙人とすごく仲が悪いという「ジャイアントパンダ」(文字どおりデカい化け物じみたパンダ。これも「カワイイパンダ」がたくさんいるところに、ものすごくデカいオヤジのパンダが現れるという王道的展開の果て)が孫悟空コスプレのソラを追いかけ回しているところ。ナイス。
週刊ビッグコミックスピリッツ連載。元陸上部のシュウジと、かわいいが気が弱くてドジっ子のちせは、つきあいはじめてはみたもののお互い男女交際には慣れていない様子。少しずつ気持ちを確かめ合っていく二人だったが、戦争がはじまり、突如自衛隊によりちせが「最終兵器」となったことによって事態は少しずつ変わりはじめていく。
……連載読んでません。だからこの単行本までの筋しか知らない。
男は純粋なモノ、イノセントなものが大好きだ。女もたぶんそうだと思うが、自分が女じゃないので断言はしない。
だから少年マンガでは多くの場合、少女はイノセントなものとして描かれ、憧れの対象であり庇護の対象であった。少女がピュアだからこそ、男の子もまた立ち上がり戦ったのである。
あるいは「現実は改変不可能である」と「シラケた」場合には、価値相対主義に走ってバカ騒ぎしていればよかった。まあ私の個人的感想では、そこまで深刻に現実の不可解さに絶望したあげくのバカ騒ぎを描いたものは、そうはない。そんなから騒ぎも、実はけっこう楽しかったり浪花節だったりしたのである。
おそらく、「現実が改変可能である」と信じる根拠は、多くの場合は60〜70年代の学生運動にあるだろう。フィクションの世界で再戦しようとした人もいるだろうし、挫折した人はまた違うものと戦ったような印象だ。完全敗北した人も、自分が何に負けたかは認識していたと思う。
このような「現実の改変可能性に対する信頼」は、案外団塊の世代よりもその下、さらにその下にも具体性を欠きつつ受け継がれてきた感が私にはある。
すなわち、「外敵」の存在が大きく後退して日常の浮遊感がクローズアップされつつも、なんとなく浮かれていたのが80年代。したがって「外敵」との戦闘はときにまったくの浮き世ばなれした話として、あるいは敵が日常では見えにくくなったことによってコメディ調に描かれることが少なくなかった。
話は飛んで90年代のエヴァンゲリオン。同作の敵=使徒の不明瞭性は指摘するまでもないこと、というかソレがミソだった。最後まで「使徒」ってのは何がなんだかわからない。しかしそのわりには街を破壊したりしてやることが具体的。「セカンドインパクト」以来現在は過去からぶったぎられつつも、どう考えても旧世界のアイテムを集めてあるシンジたちの日常は、村上春樹とは比較にならないほどの浮遊感を伴っていた。
その後そうした不明瞭な世界観と、主人公の内面世界とが最後まで合致しないで終わってしまうという破綻を見せ、私は個人的にこの破綻はどうかとは思っているが、まぁ結果的に「現実の改変不可能性」を表現したと言えなくもない。
「現実の改変不可能性」についてはその表現方法やなんとはなしの「ノリ」などから明らかに「エヴァ以降」の作品と思われる「エイリアン9」も同様で、「エイリアン係」の戦い、アクションは描かれるが「エイリアンに寄生される」ことは絶対に逃れられない前提として描かれていた。コレが昔の山田正紀(たぶん団塊の世代)だったら、間違いなくエイリアンVS人間の戦いを描いただろう。しかしそんなことは最初から「考えられもしない」のが同作の世界だった。
そして本作。本作では少なくとも1巻では戦争の理由も、外敵の存在も、なぜそれらを迎撃するためにちせが「最終兵器」に改造されたのかも何も語られない。ただし、敵による「危機」は死者が何名、という具体性と「どうしてそういうことになったのかは作品内で説明がない」という不明瞭性を同時に持っている。コレはほぼストレートに「悪い権力者」として規定されていた60〜70年代の「敵」とも、イメージはボヤけてはきたがやっぱり「悪いヤツ」だったり、存在もやることも同時に不明瞭だったりした80年代の「敵」とも違う。
「存在は不明瞭だが、やることは具体的」という新しいタイプの外敵である。
こうした描き方は、「どこかで戦争がやってる」的感覚の湾岸戦争を体験した後、キレたやつに道端で刺されてしまうようになってしまった今の世の中をよく表していると思う。
「パターン」から言えば、多くのマンガ・アニメでは男の方が上か男女同等の戦闘能力を持たされていたわけだが、イノセントの権化のように見える女の子・ちせ側が「最終兵器」となってしまったことによって、「庇護欲がままならない」という男性読者の騎士道精神をせつなくもチクチクする展開になっているのだった。これはたまらん人にはたまらん状況である。もうドキドキハラハラ、って感じですか?
それは逆に「恋愛ドラマは障害がなければ盛り上がらない」という命題について、きわめてイマドキな舞台を設定したと言える。
現代の日常と大きな世界観を、上手い具合につなげて描くことができる作品なのではないか。「エヴァンゲリオン」で破綻し、「エイリアン9」で「描かないことによって描いた(と私が考える)」状況を、本作はもうちょっと具体的表現として描くのかもしれない。
週刊プレイボーイ連載。魔界の大魔王に「理想の大和撫子を(自分の女にするから)連れてこい」と言われた息子・ソラが、今度は麻薬捜査官になる。
男塾塾生・剣桃太郎は現在総理大臣となっており、世界的麻薬密売組織・EXP殲滅のために、自分が見込んだソラを麻薬捜査官に任命したのだ。
その驚くべきご都合主義は、ほとんど芸術の域に達していると言えよう。惜しむらくはそれがけっこう洗練されていて、「ぶっとび」な感じに結びつかないことなのだが(それにしても「アトランタ五輪編」の陸上のシーンで、「ロバ選手」が走っているはずのところで動物のロバが走っていたり、なんだかよくわからないところはある)。
編集部の要請かいちおう毎回美女が話にからんでは来ているが、「大和撫子探し」はどこかへ行ってしまっている。
・「ネコじゃないモン!」(1)のところに書いた「青春マンガ」についての補足。
書いてからいろいろ考えたが、「青春もの」と言える作品は現在でも気づかなかっただけでけっこう書かれていて、私が読んだ中では未来のゆくえ、神戸在住、TOKYO TRIBE2などが「青春」をテーマにしていると言える。
咄嗟に思い出せなかったのは、これらの作品を面白いとは思っても、自分の青春時代と完全にシンクロできないからで、「グッと来る」ということがないから。その理由は単に私がトシとったからというよりも、やっぱりお話のつくり方が違うからなんじゃないかと思うけど、どうも明確な答えが出ません。
とりあえず言えるのは、「出てくる女の子がカワイイこと」、「若いってことだけが可能性の、無根拠な希望を描いていること」が個人的条件かなあ。この「希望」をどう描くかってのはむずかしい問題だと思うけど。要するに「青春時代=その年頃に抱く希望」ってモノを、実体があると前提にしている作品、ってことになるのかな。それがなければ、ただの「ワカモノが主人公の話」。
週刊プレイボーイ連載。魔界の大魔王の息子、ソラとヨミ。彼らは、大魔王にふさわしい大和撫子を見つけるためにほとんどの魔力を封じられて日本に降り立つ。これは魔王の後継者試験でもあった。魔王の座に興味のないスケベ男・ソラは動物と話をする能力、魔王の座に着きたい男・ヨミには金(札束)をいくらでもつくり出す能力のみが与えられる。
「理想の女を探すことが後継者としての資格につながる」という話で有名なのは本宮ひろ志の「俺の空」。タイトル「天(そら)より高く」は師匠(……なのかな? 憧れていたことは間違いないと思うが)を越えんとする作者の意気込みの表れか? ……というある意味おさだまりのコメントはともかく、「自分の理想の女性」ではない、間接的なところが初期設定からしてあまり女を出したくないのかなー、と勘ぐってしまう。まあ面白ければいいわけだが。
ソラは理想の女性探しにさまざまな冒険をするが、5巻までで勝手にタイトルを付けると「地上降臨編」、「女子校教師編」、「ヨミ編」、「相撲編」、「アトランタ五輪編」といったラインナップ。
「女子校教師編」は文字どおり女子校の教師になる話、「ヨミ編」はヨミサイドの「理想の女性探し」の話でソラは登場せず、「相撲編」になると女はほとんど関係なくなり(いちおう出ることは出るが)、「アトランタ五輪編」に至っては元男塾塾長・江田島平八が登場。どんどん「男」色が強くなっていくのは予想どおり。
次回へのヒキばかりが異様に強く、「男塾」に比べるとどうしても大味な感は否めないが、相撲編での宿敵・豪快丸が性欲をまぎらわすために「ミミズを千匹入れた壺」や「コイの口」や「ニワトリの肛門」で豪快にオナニーするシーンがストーリー展開上随所に挟み込まれるなど、宮下あきらのギャグ世界が堪能できる。それとなぜかホモネタが多いんだよな……。
おすすめコーナー「矢野健太郎」のここを参照のこと。
(00.0616、02.0823)
・「あずまんが大王」(1) あずまきよひこ(2000、メディアワークス)
・「ミルククローゼット」(1) 富沢ひとし(2000、講談社)
・「特集 これがラブコメだ!」(コミック・ファン 第9号)」(2000、雑草社)
・「ランボーセンセー」 永井豪(1988、角川書店)
・「天より高く」(9)〜(10) 宮下あきら(1997〜98、集英社)
・「最終兵器彼女」(1) 高橋しん(2000、小学館)
・「天より高く」(6)〜(8) 宮下あきら(1997、集英社)
・「青春マンガについて」補足
・「天より高く」(1)〜(5) 宮下あきら(1995〜96、集英社)
・「ネコじゃないモン!」(1) 矢野健太郎(1983、2000、リイド社)
・「あずまんが大王」(1) あずまきよひこ(2000、メディアワークス)
このマンガ、表紙でもタイトルでもどんな内容なのかサッパリわからなかったので、オススメがなかったら一生読まなかったかもしれない。教えてくれた人々に感謝。
まあ興味のある人は読んでみてください。
(00.0629、滑川)
・「ミルククローゼット」(1) 富沢ひとし(2000、講談社)
小学三年生のやまぐち葉菜も、数百回の「宇宙ジャンプ」を経験し、それを「治療」するために病院へ通っている。ある日、葉菜の前に謎の少女が現れる。少女は彼女にジャンプのコツを教えるが、それにしたがってジャンプした葉菜は戻って来れなくなる。自由に平行宇宙を行き来できる少年・立花たろうが救出に向かい、葉菜は彼とともに冒険し、オタマジャクシみたいな謎の怪生物をしっぽとして付けることによって帰還する。
それがもっとも成功していると個人的に思うのは、この巻では葉菜が決意のジャンプから帰って来れなくなり複数の平行宇宙を行き過ぎていくところ、および葉菜の「しっぽ」である怪生物「みみ」が蟻型怪生物に食われそうになるところで葉菜の「超能力(?)」が発現するところである。とくに後者は「イヤボーンの法則」(女の子がいじめられて「イヤーッ!」と叫ぶと潜在的な超能力が発現するというパターン)の、知るかぎりもっとも洗練された再構築であるように思う。いい意味で、トリハダ立つぜ。
(00.0628、滑川)
・「特集 これがラブコメだ!」(コミック・ファン 第9号)」(2000、雑草社)
少年ラブコメを、ここでは「80年代型ラブコメ」、「90年代型ラブコメ」(ポスト・ラブコメ)に分け、その特徴や登場する女性キャラクターを分類・整理したりしている。
力作であり、何よりもマンガとして商業的成功を収めていながらほとんど評論の対象とならなかった(少なくとも私の知るかぎりは)ジャンルについて、肯定的にとらえ、総論的にまとめた点は素直に評価したい(偉そうですいません。なんか私の文章堅いね)。
そうでないと少年ラブコメ生成の過程がはっきりしない。
ただしここでも、「何も決定されないドタバタコメディ」が果たして80年代が要請した特別なものだったのか、もしそうだとしたらそれはそれまでのコメディとどう違うのか、という掘り下げが可能である。
たとえば、本文中にもある「都市型ヒロイン(主人公が上京して出会うヒロイン)」と「地縁型ヒロイン(幼なじみなど)」の類型は、70年代にも「いなかっぺ大将」のキクちゃんハナちゃんに見られるものだし、「何も決定されないドタバタ」ということで言えば、マンガではないが岡崎友紀主演のドラマシリーズ「おくさまは18歳」や「なんたって18歳」などが70年代にヒットしている(おそらくこれらの類型は、もっと以前のアメリカのコメディ映画などにさかのぼれるのだろう)。
またこうした総括をあえて「退行」と断じないところもイイのではないかと思った。
これは単なる「掘り出し」ゲームではない。というのは、江口洋介は「湘南爆走族」のアタマではあるが、途中のエピソードに出てきた男(アメリカに行って砂金を掘りたいと言っている)の夢を認めつつも、日常性から徹底して脱却しないことを信念とした少年だったからだ。砂金を掘りたい男が「毎日の仕事の音やバイクの音がイヤになった(夢がない)」と言うのに対し、「おれにとってはそれが栄養ドリンクみたいなものなんだ」(大意)と言うのだ。
ラブコメがマッチョ主義や競争社会へのカウンターであることは本文にもあるし私も同意するが、そのデンで言えば、「湘爆」の「ツッパること」はまさしくそのような「ラブコメ魂」と相似のものであった。したがって、洋介がラブコメ的恋愛をいつくしんでいたとしても、それが「ツッパリがラブコメ」というギャップを表すギャグでありつつもやはり時代の要請だったということが言えるだろう。
最後にこれも単なる私の連想というか妄想にすぎないのだが、本稿でも触れられているようにラブコメは「ピーターパンシンドローム」と関係している。「ピーターパンシンドローム」に関しては私自身に知識がないので深追いは避けるが、本稿の注釈では背景に「根深い男尊女卑論」があり、ラブコメの女性の類型化とも関係しているそうだ。このことからも論を進めていくことは可能だ。
要するに、ラブコメにおける女性像は「男にとって快楽をもたらす」ことにイメージを特化させているために、キャラクターは過剰な「女らしさ」を求められていることになる(それは「男っぽいところがカワイイ」といった部分も含めての話である)。
私は個人的に物語の中から「男側から見た女らしさ(の押しつけ)をいちいち指摘することだけではたいしたジェンダー論にはならない」と思っているが、「ラブコメ」における「かわいさ」、「萌え」の源泉、「かわいさとは何か」を考えることは、その端緒にはなるだろう。
だが頭ごなしにぶったたいて何かが出てくるとは私も思っていないし、何より私のこの「萌え」心はどこに持っていけばいいのだ!(笑) またそうした「ヌルさ」はラブコメというジャンルのしぶとさをも物語っている。
(00.0626、滑川)
・「ランボーセンセー」 永井豪(1988、角川書店)
ナマイキな男子を追いかけ回す謎のスケバン・ドクロ番長、ファニーフェイスでナイスバディの体育教師・白士里可愛、マジメ音楽教師・花笛やよい(その正体はアダルトビデオ界のアイドル花乳首桃子)などが登場しさまざまな伏線が張られるが、掲載誌の休刊によってすべてをぶっちぎって未完。
(00.0625、滑川)
・「天より高く」(9)〜(10) 宮下あきら(1997〜98、集英社)
(00.0623、滑川)
・「最終兵器彼女」(1) 高橋しん(2000、小学館)
80年代初頭から、ことさらにイノセントな少女像が強調される一方で、「強い女の子」も現れた。だから事情はそんなに単純ではないのだが、少なくとも男の子のダンディズムは保たれていたし、現実も改変可能なものであった(マンガじゃないけどアニメ「天空の城ラピュタ」なんかはその辺イイバランスなんじゃないかと思う)。
団塊の世代である村上春樹の小説は「地に足の付いていない浮遊感」が特徴だとも言われたが、案外仮想敵ははっきりしていた。「羊をめぐる冒険」は最後に「敵」を倒す話だし、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」もけっこう善悪のはっきりした物語である。「ねじまき鳥クロニクル」は、最終的には「耐えて耐えて最終的には殴り込み」をやりたいんだが、それでは「カッコ悪い」ので、何十ページもかけて「敵」に対して迂回するという小説だった(と思う)。
80年代初頭の少なくないロリコンマンガは、それが直喩であるかどうかはともかく、学生運動の敗北に対する後退戦にも見えた。モロモロのドロドロから、自分の中のイノセントな部分=想像上の美少女を救出する姿のようにも見えたから(これらの話はほんの一時期、「自分はロリコンだ」とカミングアウトすることがカッコよかった時代の話です)。
それにしても、もっと新しい「何か」が生まれてくる嬉しい予感みたいなものをどこかに表していたように、今から考えると思う。
それは同時にちせの「最終兵器」としてのデザインにも現れている。ちせはいわゆる典型的な「空飛ぶメカ美少女」のような造形ではないが、かといって完全な暗喩としての兵器でもない。どうも生体兵器っぽいジェット機って感じに変身するらしい。
またちせの身体の変調も描かれている。
そして繰り返すが男はイノセントなものが大好きなのだ。イノセントなものは守ってやりたいと思う。ところが「最終兵器」なのはそのイノセントな女の子・ちせの方で、シュウジはただの高校生にすぎない。
ちせは自衛隊とつながっていてポケベルが鳴ったら出動しなければならない、というシュウジからはまったくその組織の仕組みがわからない体制で動いている。
いきなり最終兵器になってしまったちせもそれをどうしていいかわからないシュウジも、ムリヤリに「不明瞭な外敵とそれを迎撃する国家」にコミットさせられてしまったことによって、きわめて「イマドキ」風な世界観を獲得していると言えよう。
おそらく2人にはテレビ版「エヴァ」の後期のように内面に引きこもる余裕などありはしない。
陳腐な表現で申し訳ないが1巻の段階では「難病もの」に近いと言えるかもしれない。しかしちせの「兵器のカラダ」はそのまま不明瞭な外の世界へとつながっているから、ただの恋愛ものでは終わらずにイマドキの世界観をかなりせつない語り口で表現することができるのではないかと思う。
・「最終兵器彼女」(2) 高橋しん(2001、小学館)(→感想)
・「最終兵器彼女」(3)〜(4) 高橋しん(2001、小学館)(→感想)
・「最終兵器彼女」(5)〜(7)(完結) 高橋しん(2001、小学館)(→感想)
・「最終兵器彼女」感想追記
(00.0621、滑川)
・「天より高く」(6)〜(8) 宮下あきら(1997、集英社)
最初は国内だけの話だったがどんどん話がデカくなり、男塾OBが総出演。最終的には全員で潜水艦に乗ってEXPの本拠地である孤島へ殴り込む。
(00.0620、滑川)
・「青春マンガについて」補足
未読だけれど「イエスタディをうたって」(冬目景)もあらすじだけ読むと青春ものっぽいし、ちょっと前だが松本大洋の文字どおり「青い春」という短編集もある。
(00.0619、滑川)
・「天より高く」(1)〜(5) 宮下あきら(1995〜96、集英社)
いちばんすっとんでいたのは連載滑り出しの頃の「地上降臨編」。「動物と話ができる」というソラの「いなかっぺ大将」ライクな能力がそのままストーリーを転がしていき、女系家族の企業グループの後継者争いに巻き込まれその会長の女怪とはヤってしまうわ、馬ともヤってしまうわ(馬語を話してその牝馬が性的欲求不満であることを知ったから)、その馬に乗って競馬に出るわ、その馬を背負って走りゴールインするわ、老婆の会長と馬がソラを取り合うわ、なかなかにスバラシイ展開となっている。
しかし宮下あきらも「漢(おとこ)」ってことには一本スジが通っているけど、それ以外は冗談か本気なのかホント、わからない。
(00.0618、滑川)
・「ネコじゃないモン!」(1) 矢野健太郎(1983、2000、リイド社)
「つれづれなるマンガ感想文」6月前半
「つれづれなるマンガ感想文」7月前半
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