断片


職人
1996/08/27
 ぼくの親父はVHF職人だ。
 アンテナ線からテレビにつなぐためのVHFケーブルの先端を切り開くことをなりわいとしている。
 父の仕事は名人の域に達している。テレビの映りが全く違うのだそうだ。わざわざ遠方のお客から名指しで依頼を受けることもそう珍しいことではない。いつだったか仕事を卸してくれる電気屋さんがそう言っていた。
 父のその手練の技を持ってすれば同業の友人たちのように財を築くことも不可能ではなかったかもしれないが真摯に仕事に打ち込むことのできない自堕落さがそれを妨げた。酒を飲んでは放蕩に明け暮れ、金に困ると家に帰ってきてしょうがなく働くという具合だ。
 しかし、ひとたびケーブルに向かうと父は別人のようになる。七つ道具を次々と用いてラバーを切り開き、切りそろえ、ピカピカの銅線を掘り出す。網線をビニールテープでしっかりと止める。
 一心不乱にその作業を繰り返す父の姿はいくら眺めていても飽きない。

時間
1996/08/29
 教えに従うならば時間には限りがある。
 この意味は世界や人間の寿命が限られているということではないし、今のこの瞬間が二度と戻らない一回的なものであるということでもない。
 時間は消費されて減っていくものであり、火を燃やすのに薪を使うよう時間を経過させるためにはなんらかの代償なり資源が必要だということである。
 時は流れなければならない。穀物が実を結び、赤子が成人になるためには時を経過させることが不可欠であり、時を流すのは生け贄にささげられる未通女であり、その儀式が祭りだ。
 祭りが途絶えた場合に時は流れなくなると教えは説く。凍りついた瞬間のまま世界は真実終わることになる。しかしその瞬間世界は終わることすらもできなくなっている。
「祭りが途絶えたことは無いのか」
 僧正は答える。「ない、その証拠に時は流れている」
「祭りを行わなくとも時は流れるのではないのか」
 僧正はためらわず答える。「祭りが途絶えることは無い。時の流れる限り」
 こうして今日も時は流れている。
 時間は彼らによって作られている有限なものであり、そうではないことを証明することは非常に困難である。

覗かれ部屋
1996/08/31
 十畳ほどの部屋の壁には沢山の穴が開いていて、そこからプロの覗き屋が客に視線を向ける。覗き方はさまざまだ。息を弾ませて凝視するものもいれば淡々と冷たい視線を走らせるだけの者もいる。たいていの場合5、6人の覗き屋が客を覗くことになっている。覗き屋の指名は別料金を払えば可能だ。
 覗かれ部屋の中で何をするかは客の自由に任されている。歌を歌ってもいいし寝ころんでじっとしているだけでもいい。覗き屋の視線に真っ向から目を据えて戦いを挑んでも構わない。衆人環視の中で自慰行為にふけってもかまわないし、絡みつく視線の中で自殺を試みてもいい。部屋に放火でもしない限りは規定時間の間しっかり覗いてもらえる。


1997/03/03
 ……愛し合う二人の間に望まれた新生児だけが「愛の結晶」ではない。
 文字どおりの結晶。物質化した「愛」の可能性。
                    ディディエ・デシャン(1997)

 2015年、人類の精神生活に及ぼした彼の業績を賛えるためにノーベル神秘賞が創設された。

 技術の進歩の結果ズート波検出器、通称ラヴ・ガンはキーホルダー程度の大きさにまで小型化された。
 互いの愛を確かめるのに機械に頼るのは、当初こそ論議を呼びはしたが、その正確さの前に反対派は沈黙を余儀なくされた。
 小麦一袋は一デナリ。グラムいくらで豚肉を買うように、愛はデシャンで計られた。

 デートの間に基準値を越えるDは192、188、168の3回計測された。間欠
的にしか基準値をクリアできない二人の前に、200平均の男の登場。
 彼女は私から去った。

条件
1997/03/13
 本人は決定的なことを言ったつもりだが、その場にはそぐわない、そんな発言。その発言する様自体は、なにか大層な雰囲気につつまれている。
涙ながらに、でもいいし、鼻腔が開いて鼻息がスピースピー洩れたりしても一向にかまわない。とにかくその発言を行うことには非常に勇気が要るように見受けられる。
 彼または彼女をその切羽詰まった発言に駆り立てる緊張あふれる展開。
発言が行われるのはまさにクライマックスの瞬間。そこへと至る至極自然で説得力のあるきわめて常識的ななりゆき。そこに至る道のりには破綻は全く必要ない。
 彼または彼女のその発言は的外れで意味不明だが、厳粛に受け取められる。その意味不明さ、曖昧さに感づいた者は少なくとも一人以上存在する。
しかし誰も本人に向かって指摘はしない。感づいた者がたとえ複数であったとしても、彼らは目顔で互いの感想を確かめあったりなどしない。
 その発言によって、それまで維持されていた場は、一旦の終結を見ることになる。
 発言者本人を含め、その場にいる人物は全て、もはや付け加えるべき言葉のないことを知っている。あるいは付け加えようにもその機会を逸したことを悟っている。
 その場を維持していた原動力ともいうべき原因、おそらくはなんらかの事件はその重大性のみが注目を浴びたものの、具体的な解決策は講じられない。あるいはそもそも具体的な解決策の存在しない、なりゆきを見守るしかない事件なのかもしれない。
 その後、件の発言者の心情を汲む人物が、発言者に語りかける場面が用意されてもいい。その際、感きわまった状態から醒めつつある彼または彼女に対し、同様の心情を吐露するのであるが、そこでその人物と件の発言者は差し向かいであってもいいし、横並びで、視線を会わせないままに会話するのであってもかまわない。

彼とあなた
1997/06/11
 あなたと彼の関係は決して親密といえるものではない。どちらかといえばあなたは彼のことを好きではないし、尊敬も出来ない。
 彼はいつもあなたに対してとる態度とは明らかに違った様子であなたに近づく。妙に丁寧だ。
 あたりさわりのない雑談が始まり、あなたはあたりさわりのない受け答えを続けながら、彼の意図をはかっている。この類の交流はだれとでも有り得ることであり、それが生じたからといって特に不思議でもないが、それでも表面的なものとは別の意味があるかのように思える。
 あなたは彼とはあまり親しくはないから、彼に向かって伝えたいことなど殆どない。同様に彼もあなたのことをよく知っているわけではないから、あなたの興味を引く話題を切り出して来ることはない。
 彼は最近の天候とか風潮とか、そんな風なことについて一人で話つづけたあとで、あなたについてよく知られていることを話題に選ぶ。
 あなたと知り合いになった人ならばかならず尋ねてみる類の質問をし、あなたはいつものようにそれに答える。答えながら、彼の様子を観察する。彼はあなたの答えをすでに知っていると思われる節がある。彼との関係は最近始まったわけではないから、彼が人づてにあなたに関する知識を得ている可能性は無視出来ない。
 彼の問いかけにあなたが答える度、彼はいかにも興味深く思っているという表情を作ってみせる。当たり前の応答にさも貴重な意見を聞いているかのように何度深くうなづく。
 彼の話す声は知っているそれよりも若干高い調子だ。うわずっているといってしまってもいいかもしれない。また、この会話が始まった時の状況は、思えば非常に作為的だったように感じられる。
 事態はすでに明らかであるように思われる。あなたは彼の描く計画の中にしっかりと組みこまれている。
 決して仲がよいというわけではない彼のことだから、その計画の中であなたが重要な位置を占めるとは考えにくい。そして、へりくだった態度でその計画への参加を求める以上は、あなたに与えられる予定の立場はそれほど気分のいいものではないはずだ。少なくとも自ら進んで買って出ようというほどには。

ルシアンとベレン
1997/06/25
 彼が書いた物語は絵空事であり、多くの人にとってはまさに絵空事にすぎない。しかし、彼は絵空事が現実に容易に変わることを理解していた。
 例えば「煙草を吸いたい」という空想がまさに現実になる瞬間を彼は日に数度体験した。また、逆に現実が忘却によって容易に絵空事に変わることも。
 大勢の読者によって共有されている彼の作品世界と、まったくだれにも知られていない未開の孤島の現実のどちらが虚構だといえるだろう。

 彼は自分自身を創造した。彼は己の創作物の中から自分を掘り出した。
 これまで知っていた自分が偽りの自分であるというわけではないが、掘り出された自分の方がより真実に近いと思われた。
 彼は真実により近い方の自分に名前を与えた。それはまさにそう呼ばれるはずの名前であり、収まるべきところに収まった、という感慨を抱かせるものであり、その感慨は書き進めて行くうちに確信へと変わっていった。

 物語の中から、彼は、永遠の伴侶も探し出した。
 彼女は彼の妻の、より真実に近い姿だった。
 いわゆる現実の中の彼は世界を救う大冒険もしていなければ、片腕を失ってもいないが、彼女のためならば命など惜しくはなかった。

 最初は彼女が妻であることに気が付かなかった。物語の上で必要な登場人物の一人、冒険の末に手にいれられるべき報酬としての美女でしかなかった。
 頑強な体躯を持たない彼にとって、冒険の目的を達成するためには頭脳を最大限度まで回転させる必要があったし少なからぬ犠牲を払う必要もあった。
 そして最後の局面ではどうしても彼女の献身が必要だったのだ。

 物語の中の彼女が妻であることに気付いたとき、彼は我が家への帰途にあった。帰りつくなり彼は出迎えた彼女にキスをして、何度も何度も真実の名で呼んだ。

 彼とその妻は現在、真実の名が刻まれた墓碑の下に眠りつつ、頁の上で永遠に愛しあっている。

石蹴り遊び  かなり長いこと信号待ちをして、バイパスを横切る長い横断歩道を渡った。
 ここ五年くらいの間にできた道なので、とても立派な歩道がついている。そんな新しい道でも改修工事はなぜか頻繁に行われていて、今日もそうだった。
 アスファルトの鋪装がひっぺがされたところに砂利が敷いてある。数日のうちには熱せられたアスファルトがその上に重ねられ、ローラーが平らにならすことだろう。
 砂利はわりと大きめだ。小石と言うほうがぴったりくる。見下ろせば、角が立っているのがわかるくらいだから。最近雨が降っていないせいもあってか、埃にまみれた乾いた色をしている。
 そのうちの一つに右足が触れた。
 石は弾け飛び、工事箇所の外の鋪装の上に転げた。転がった場所はちょうど歩幅に合い、石は再び私の足に蹴られることになった。
 石はくるくると回って、だだっ広い歩道の上を素敵に滑る。
 つま先に残った軽い感触が私の心を過去に向けさせる。
 最後にこうやって石を蹴ったのはいつのことだったろうか。思い出せないくらい昔だ。
 石には一つ一つ癖がある。足にあたる感触、進み方、道路との相性、そして私との相性。縁を感じさせる石は、手ごろなところでいい具合に止まり、友達としゃべりながらの帰り道でもずっと蹴り続けていられたものだ。
 ちょっと小刻みに蹴ってみる。いい感じにドリブルされてくれる。これはいい石かもしれない。
 石を蹴りながら帰ったのはたぶん20年以上は昔のことだ。
 バイパスから分かれて国道へとつながる道にさしかかる。歩道はぐっと狭くなる。右手に中古車展示場。ちょっと下り坂。石があまり跳ねないように注意して蹴転がす。
 ほどなくして古びた家が立ち並ぶ昔ながらの住宅街に至る。このあたりは車の往来はそれほどでもないが、道が狭い。
 歩道はなくなり、白線がひかれているだけ。側溝を覆うコンクリートブロックの継ぎ目に弾かれて石は愉快に転がる。
 向こうからハァハァと吐息が聞こえるのは中年の女性に連れられた犬で、転がる石と私にちらっと視線を合わせたが、特に興味はない様子ですれ違う。
 道路ぎりぎりまで意地汚くせり出した門柱に向けて蹴り、跳ね返ってきたところをまちかまえてボレー。ドブ板の穴を華麗に乗り越える。思ったとおりに操れる。いい石だ。
 車がこないことを確かめて、道路を横断。石は一足先に。
 まっすぐ行って右に折れれば家だが、それは味気ない。
 子供の頃、遠回りをして石が見えなくなるまで蹴り続け、親に怒られたことを思い出す。今なら怒られることはあるはずもない。もうそのころの親の歳を越えている。子はない。
 石に名前をつけてやる。シュタイン。
 石に名前をつけてやるのははじめての経験だ。大人になったいまだからこそできることだ。
 シュタインと一緒に直進。旧市街へ。そこは石畳が敷かれた、ちょっと知られた観光名所。けれども平日の夕方には誰も訪れない。凸凹に弾かれて踊るシュタインは、塗り込められた同類をあざ笑うよう。

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