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読書日記系 2002/11/02 |
ミステリーというジャンルを殊の外好む人は多くいらっしゃるようだ。ミステリーを書く人の中にもミステリー好きはあたりまえだが沢山いるみたいで、本歌どりとか作中で過去の名作に対する愛の告白などがされている例を時々目にする。 この本にはそういった類の愛が感じられるのだが、それは私にとってはあまり好ましくない。なんだか「関係者以外立ち入り禁止」と言われたような気がするからだ。たとえ、その愛の対象となった作品を知っており、自分が好きだったとしても。 私はそれほど熱心なミステリー読者ではない(ミステリって表記した方がいいのかな)。ジャンルそのものへの愛は持ってないと思う。 それはさておき、この本は面白かった。シリアルキラーを題材にしているのだけれども詳しいストーリーについてはその性質上明らかにできない。この読書日記的文章では書名を書かないことにしているので無駄な心遣いだろうけれども。どんでん返しも鮮やかだったし、それを導く構成も巧みだった。実現可能性についてはちょっと疑問符がつくけれども。 それと、世は不条理、殺人にも理由はない、的な表明がなされているところも気に入った。心の闇とかいってんじゃないよ!誰も誰かを理解できないんだよ!と。それは多くの人が気付いている真実だと思うのだけれども、テレビとか新聞ではあまりはっきりとは言えないことではある。 |
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読書日記系 2002/11/02 |
この作品のタイトルを冠した曲があって、わりと好きだ。それが小説のタイトルであると知ったのはネットの掲示板で。偶然の結びつきに動かされて買ってみた。 読むのが苦痛だったわけではないのだが、読了までものすごく時間がかかった。その理由としては、まず単純に長い。そして、一気に読みたくなるようなものではなかったからだろう。 この作品の構造はかなり変わっている。たくさんの事件が起こるのだが、それが順序どおり語られない。50近い章に分かれているのだが、その章ひとつひとつの中でも順序正しくクロノス的に時間が経過するわけではない。場面はあちこちに飛ぶ。したがって物語の全体像を把握しにくい。当然読みにくいし、ついつい本を閉じてしまいたくなる。 私はこの手の奇矯な試みを愛する性質の持ち主なのでくじけなかったが、それでも一気に読むことはできなかった。耐性のない人は面食らうだろうし、途中で読むのをやめることうけあいだ。 その複雑な構成で語られている内容は、戦争や軍隊についてのかなりユニークな物語。 まず気付くのは敵が出てこないこと。白兵戦が行われるわけではないので生身の敵はだれ一人出てこない。敵国民は出てくるが、抵抗するわけではない。 でも戦闘は行われているので、戦死者は出る。 主人公の友人も一人、また一人と死んでいく。主人公はだんだんとその境遇、「戦わねばならないこと」「殺されるかもしれないこと」という不条理に反発を覚えていく。彼は硬直的な軍規に代表される「AならざるものはB」ときめつける、仮定法を誤用したパラドキシカルな世界を憎むようになる。そして「Aならざるものは非A」というあたりまえの世界へ逃亡を図る。 などと書くとシリアスで息苦しい作品という誤解をされてしまうかもしれないので強調しておきたい。語り口は非常にユーモラスだし、エピソードも馬鹿馬鹿しさてんこもりだ。ひとつひとつが面白い。特に糧食を扱う士官の行動は仰天だ。あちこちですこしづつ重ねてきたペテンが重なり、しまいには敵と結託して味方を攻撃する破目に陥る。それを味方も咎め立てせずに放置している。このあたり、ちょっとラテンアメリカ文学というか、ガルガンチュワ的(読んだことないが)でとても好きだ。 |
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読書日記系 2002/09/24 |
私はわりにスクェアな性格の持ち主だ、と自分では思っている。待ち合わせに遅れたりはしない。終電の時間も気にする。冷蔵庫の中味を腐らせたりしない。家計簿だってつけるし、貯金もする。部屋が散らかっていれば片付ける。 いわば未来のために現在を犠牲にすることを厭わない性情だ。きっとこれからもこの調子で生きていくと思う。 この本は、私とまったく逆といっていい性格の持ち主の体験談だ。すなわち、未来よりも今。明日は明日の風が吹く。見る前に跳ぶのは怖くない。いきあたりばったり。仕事はすっぽかす。質屋で金を作り、何日もぶっとおしで遊び回る。薬をキメる。キメてキメて今この瞬間の快楽を最大化させようとする。 その代償がやがて彼の身にふりかかってきて、シャレにならない事態になる。けれどもそれをもって「因果応報」などと考えることは、私にはできない。 自分には全く欠けている資質に憧れているだけなのかもしれない。でも、彼のことがとても羨ましい。とても楽しそうだ。 刹那的、という表現は未来重視・未来期待派の言葉だ。いくらか軽蔑が混じっている。他の言葉でも同じだ。彼の体験をまともな言葉で表現しようということ自体、スクェア一味の所業だ。本文にあるような、キュンキュン、YEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEAH!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!とかそういう表現しか似合わないのだ。たぶん。 それはそれとして、描かれている状況についての別の角度からの考察。田舎の住民の視点で。 このドラッグ天国みたいな状況は、私が今住んでいる地域では実現不可能だと思う。あくまで巨大都市で人口密度が高いところでのみ、人が人の中に隠れられるところでのみありえる状況だと思う。 面積とか人口比で考えると、日本の大部分はもっとシミったれた状況にあるはずだ。今の不況とは関係ない。過疎化、少ない就業機会、それがもたらす少ない可処分所得、ささやかな通貨の流通量の下ではこんなゴージャスな状況はありえない。まあ、都会に出ればいいだけの話ではあるが。 |
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読書日記系 2002/09/23 |
日刊新聞の書評に惹かれてこの短篇集を読んだ。ほんの数行だったが、表題作の内容に触れており、それがたいへんロマンティックだったから。 私はロマンに弱い。しかし、それ以上にハードSFに弱い。こっちの弱いは「太刀打ちできない」「ついていけない」という意味だ。 本書には7つの短篇が収められているのだが、うち4つはどこに面白みがあるのかよくわからなかった。単に目で字を追っただけに過ぎない。まずまず理解できたのは3つにしても、無論全ての設定を消化できたとはとてもいえない。そんなわけで私はこの本を十全に楽しんだとは言い難い。設定を抜いた部分、キャラクターのドラマだけを味わっただけのような気はする。 楽しめた作品はいずれも、時間が重要な役割を果たしている。 一つには語りの時点がトリックになっているもの。これはなにもSFでなくても出来るな、と思った。実際、トリックとしては使っていないものの、これに類する技術を使った現代文学の大作があったことを思い出した。 もう一つ、これはまさにSF的、タイムパラドックスもの。結末は途中で分かってしまったが。なお、この作品では量子論が出てきた。どうも最近の私の読書傾向は量子論につかまり易いらしい。 そして表題作。申し分なくロマンティックだった。前提となる理屈はともかく、その設定が生み出すドラマはよく理解できるし、非SF作品ではありえないワンダーがある。 時間の流れる早さが場所によって異なる世界での切ないラブストーリー。物理的な時間と、年齢という意味での時間とが絡み合って、稀有なロマンを醸し出している。 表紙イラストもこの作品を題材にしている。私が昔から好きなマンガ家の手になるもので、たいへん美しい。この人もそういえばタイムマシンものの短篇を描いていた。古式ゆかしい感じの。あのくらいなら存分に楽しめるのだが。 ハードSFへの恐怖を抱きつつ読了。 |
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読書日記系 2002/09/22 |
本書は老人と青年の対話だけで成立している。 人間は機械同然であり、自由意志など存在しない、人間の尊厳などない、と老人は主張する。青年は様々な事例を持ち出してはそれに反駁するのだが、どうしても老人の主張を覆すことができない。 老人の唱える主張は非常に単純だ。人間は、己の欲することをしているにすぎない。その行動は自分の心の内なる主人に絶対服従であり、本能に従う動物たちとなんら変わりはない。良心などの介在する余地はない。 全ての行動は利己的な動機によって説明ができる。それが一見当人にとって不利益であるかのように見えるときですら、実はその一見不利益な行動によってより多くの満足を得ている。 このくらいの理屈は、小学生でも考えつく。 私は実際に考えた。それに関連してちょっとした事件があったため覚えている。 文集かなにかを作るため、作文を提出しなければならなかった。そこで私は、当時クラスの中にあったイジメ問題についての一考察を文章にしてみた。それほど深刻ではない問題ではあったのだが、それは結局解決不能であると考え、そう書いた。解決不能であると考えた論拠は本書で老人が語っている思想とほぼ同様である。本人以外誰もそれを真剣に望んでいないからである。「仲良くしよう」などときれいごとをぬかしていても人間なんてそんなもんだろ、と。 今にして思えばなんでわざわざそんな作文を提出してしまったのか、理解に苦しむところだ。 作文は担任教師によってチェックされ、再提出を要求された。「あまりにも変わっているから」とかなんとか説明になっていない理由で。私はまぁそれもそうだな、とあっさり諦めた。文章の出来がよくないという自覚もあったし、先生は徳育を尊重しなければならない立場があり、それをないがしろにするような思想は容れられないというくらいのことは理解していたから。 そして学校行事かなんかを題材にした毒にも薬にもならない文章を再提出し、事態は丸くおさまった。 なお、作文の題材となった生徒というか同級生は後に転校した。理由は知らない。 大人しく引き下がった私だったが、考え方を改めたわけではなかった。それどころか、その考えは今に至るまで数十年間私を呪縛し続けている。 善意とか良心とか正義などというものはない。心からの愛などない。全ては打算に裏打ちされているッチャッチャッチャッチャ。そんな考え方をしていると世界を見る目は猜疑心に満ちたものになり、一瞬一瞬が心安まらない。触れるものすべてがひどく怖ろしい思えてきた。 他の事情もあって私は今で言う引きこもりのような状態になった。学校にもロクに行かず、マンガばかり読み、スナック菓子ばかり食べて過ごした。運動は好きではなかったので、たちまち肥満した。 マンガに描かれたブタのように太った私にはしっぽまで生えてきた。肥満する前から尾てい骨がちょっと長かったのだが、蓄積された脂肪とか発達しない筋肉の塩梅で、尻の先に突起ができてしまった。一時は15cmほども飛び出ていて、仰向けに寝るためには腰のところに枕を置かねばならないほどだった。今ではそれほど太ってはいないので若干縮んだが、それでも椅子には浅くしか腰かけられないし、パンツも2サイズ大きめのものを穿き、盛夏であっても外出するときには腰が隠れるくらいの上着が必要だ。 不便きわまりないが、その突起がたまらないといってむしゃぼりついてくれる方もいらっしゃるのだから世の中何が幸せで何が不幸かわからない。 だいぶ話がそれたが、この本を手に取った理由の一つは、もしかするとその人間機械論を打ち破る考えが示されているかもしれないと思ったからだ。しかしそんなことは全然書かれていなかった。したがって今だにこの思想は私にとっては絶対のものだ。 ただ、絶対のものについてはいくら考えてもしょうがない。それは引きこもり生活の中でようやく気付いた数少ない成果だ。物理の法則について明るくなくても普通に生活していけるのと同じように、人間機械論についても考える必要は無いのだ。オッケーだ。 |
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読書日記系 2002/09/15 |
ベルリンの壁崩壊によって決定的にリアリティを失った、「懐かしい未来」ともいうべき世界を描いた作品。書かれた当時は未来予測的な意義もあったのかもしれないが、その意味はもはや相当に薄れてしまっている。 ただ、そうした極端な設定を置くことによって浮かび上がってくる人間のネガティヴな一面についての言及は古びていないと思う。 この世界では人間は将来属するべき階級に即した遺伝的操作を施され、壜の中から生まれる。だから家族などというものはない。そして壜から出ると、条件反射教育により、この社会にふさわしい道徳を徹底的に植え付けられる。 こうした措置は安定した大量生産・大量消費を行うために仕組まれている。人々は分相応の欲望を持ち、それを完全に充足できる。苦痛は排除されている。克己は望まれない。孤独な営みは批判される。薬品によってもたらされる心の平安や宗教的興奮。 恋愛も否定されている。特定のパートナーと関係を持ち続けるのはみだらな行為だとして非難される。できるだけいろんな人々と関係を持つことが幼いうちから推奨される。 いうなれば家畜のように生きる人間の社会なのだが、それはそれでうまくまわっている。 こうしたきっちりした舞台で話を動かしていくのは、いわば「できそこない」の「変わり者」。彼はシャイなので、他人に心を開こうとせず、一人の娘に夢中になり、薬を拒む。そして奇をてらって出かけた旅行先から、野蛮人を連れてきてしまう。 野蛮人は自分を産んだ母を愛し、死者を悼む心を持ち、この社会では不必要なために禁止されている文学に傾倒している。 野蛮人は文明社会の娘に恋をする。娘も野蛮人を欲する。しかしながら、その表現の仕方に相当の開きがある。文学青年然とした野蛮人氏と体裁のいい淫売だ。当然すれ違う。 彼の存在が結局はなにも変えることなく、そのありさまがこの社会によって消費され尽くすところでこの作品は終わる。 野蛮人の社会に迷い込んだ文明社会の女が、欲求に忠実なるがゆえに野蛮人とつぎつぎに寝てしまい、その妻たちに抗議されるくだりがある。ちょっとお気に入りだ。 文明社会の女の方は、なんの悪意もない。妻たちにいくら責められても何が悪いのだかさっぱりわからない。これを裏返してみると、現代社会のモラルを成立させているのは意味不明の禁止事項だけであると言うことも出来る。 作中ではさらに敷衍した主張も行われている。 英雄的な行為も、素晴らしい発明も、なにか克服すべき困難がある状況でしか成立しえない。そんなことが起こらない満ち足りた状況の方がよっぽど素晴らしいのではないか、と。 実際にはこのようなユートピア(見方によっては反ユートピア)が現実のものとなる可能性はほとんどない。人間は、こうした差異のない平均化された世界が出来ることを好まないからだ。けれども、一度こうした社会が成立してしまえば受け入れてしまいそうな気もする。 人間なんてそんな程度のもんだ。人間の尊厳なんてチンケなもんだ。ということを確認したい時に読むといいのかも。 |
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浜辺にて 2002/09/08 |
「それはテレビ番組なのだ」 そのテレビ番組を、ぜひとも観ようと思って観たことはこれまで一度もない。これからもないだろう。何かをしながらテレビをつけっぱなしにしていて、たまたま観るのだ。 「人々が踊っているのだ」 その番組においてはダンスが最も重要な構成要素である。規則正しい4拍子にのって人々が踊っている様が画面に映し出されている。音楽についてはさほど重要ではないようだ。 「海辺の建物なのだ」 建物は、砂浜にある木造三階建て程度のものである。DJブースに屋根があったと思うが、吹きっさらしのベランダやウッドデッキ状の部分がほとんどで、居住に供することは難しいだろう。 「巨乳がいると嬉しいのだ」 踊っている人々は皆水着を着ている。ほぼ全員が肉体美を誇っていいレベルである。その中で乳の大きな女性がいると観ていて得した気分になる。 「Sの字を書くのだ」 踊っている人を審査する人がおり、いい感じに踊っている人のむき出しの腹部にスプレーでSの字を書いていく。それが合格の印だ。 「スキームがあるに違いないのだ」 合格の条件はよくわからないのだが、派手な振り付けを繰り返す、パターンにはまっている踊り手はたいがい落選するようである。合格者はだいたい似たような感じ踊るので、あまり面白くない。 「その先は知らないのだ」 選抜された者はさらに別のルールに従って勝ち抜きを目指すのだが、なぜかその人々は魅力に欠けるため、その先を観たことがない。 |
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読書日記系 2002/09/08 |
この作品は失敗している。 この作品の中心となる事件は、他の人には感じられない雨が、数人の少年少女達にだけ感じられるようになってしまった、という現象である。雨の謎とか、少年少女の人間関係を巡って話は進んでいく。 叙述形態に趣向がこらされていて、作者とほぼ同一人物である主人公の語り、主人公が出会った人物による長々とした語り、そしてその話をもとに主人公が書いた小説その他といろいろ取りそろえてある。 事件をいくつかの異なった目線から描くことによってディテールは多少なりとも豊かになっているかもしれない。だが、その必要があったかどうか疑問に感じる。 物語とは事実を解釈して真実にする行為であり、それゆえ一つの事件について置かれた立場によって様々な語りがありうる。それを鮮明にするために叙述形態をいろいろ用意したのだと思うのだが、ちょっと構造がお粗末すぎる。もうちょっとシンプルにした方が効果的だと思う。 特に最後の部分、作者が前面に出てくるところについて蛇足だと感じる。雨の正体についての謎解きがほとんどないにもかかわらず仕掛けばかりがいっぱいあるので余計にそう感じるのかもしれない。途中まではなかなか面白かっただけに残念だ。 |
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読書日記系 2002/09/05 |
この作品の主人公はある特殊な職業についています。彼はその職について誇りをもち、優れた職業人であろうと、長年心がけているのです。 なぜ彼がこの仕事を選んだかについての言及は作中にはありません。しかしあえてその理由を探るとすれば、彼の父もまた同じ仕事を生業としていたことが挙げられるでしょう。 彼の父も大層熱心な職業人でした。その血をうけついだ彼は生まれる以前からプロフェッショナルだったと言っていいのかもしれません。 彼は自身のキャリアを誇りに思っています。素晴らしい職場で、充実した仕事をしたこと。その仕事を通して類まれな人々と接したこと。 作品は全体としては旅行記の体裁をとっていますが、中心をしめるのは旅行それ自体ではありません。その間中に彼が浸る黄金時代の記憶です。 黄金時代はもう過去のことです。今では彼はその職業もろとも時代遅れになっている、と申し上げても差し支えありますまい。職場にもかつての賑わいはありません。 旅の目的は、彼の職業的な向上心に一応は沿ったものですが、実現可能なものとは思われません。彼自身そのことを悟っていながら自分で自分を欺いているフシがあります。彼はやはり自分の個人的な動機から旅に出たのだというべきでしょう。 目的地が近づくにつれ、彼の心は乱れます。 そこで彼はある女性に会うつもりなのですが、彼女にまつわる記憶が甦って彼を苦しめるのです。 職業的な倫理を何より尊ぶ彼は、彼女と接するにあたり、不適切な態度をとっていたように思われます。ありていにいえば、あまりにも無関心を装い、距離を置こうとしすぎていました。 彼女は彼を慕っていたのですが、彼はそれに応じることなく、プロフェッショナルという名の殻に閉じこもり続けたのです。当時は彼のキャリアのなかでももっとも重要な時期であったことは疑いのないところであり、彼女に対する配慮に欠けたのも無理はないことです。 しかし振り返ってみれば、別の選択があったのではないか、自分の人生は間違っていたのではないかと思えてくるのです。 いよいよ彼女に会ってみると、彼女もまた自分が彼のもとを去ったのは間違いだったかもしれないし、別の人生がありえたかもしれないと考えることがある、と告白します。ただし、彼女はその後悔だらけの地点から一歩前に進み、あるがままの人生を肯定的に捉えています。 これまでの文中でほとんど触れていませんが、この作品にはそうした個人的な人生の選択といった問題以外に、例えば社会全体に対する示唆に富んだ考察が随所にちりばめられていますし、一種の歴史小説として楽しめる部分もあります。 そうした要素とも複雑に絡まりあってたどり着く最後の場面は、とても納得がいき、かつ美しいものに感じられました。 |
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読書日記系 2002/08/27 |
題名だけは知っているが、実際読んだことのない本というのはいっぱいあるが、これはその一冊。 タイトルと作者から勝手に内容を想像していた。想像していた、というか、本当は別の本に関する言及であったことをこの本についてのものだと思い込んでいた。 隣家の住人にさんざんひどい目に遭わされていた家族が、相手の一族が弱くなるのを100年くらい待って復讐を果たすというえらくねちっこくて陰惨な話、というのがその、何か別の本の内容だった。この作家ならばその不自然なまでの執拗さくらい書いてみせるだろうから、それがこの作家の別の作品であるという可能性はいまだ捨てきれない。 ともあれ、この本にはそうした陰惨さはない。勝手に想像しておいてなんだが、肩透かしを食らった気分だ。それとこの作家お得意の、少しずつ大げさな描写の果てにとんでもない地点へ到達してしまうファンタジーが発揮されていないので不満は残る。あれが大好きだからだ。 もっとも、技術的には見るべきところは多い。一つの事件をいろんな視点からきめ細かく追いかけて立体的に浮き上がらせているところ。事件に至るまでの経緯は当然として事件から相当に時間が経った時点における登場人物の様子まで描いている。 一つ一つのエピソードは面白いし、読むのにかけた労力に見合う対価は得た、といっていい。ただ、いかんせん地味なので、スペクタクルなものを期待しない方が無難ではある。 |
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読書日記系 2002/08/19 |
主人公は元警察官。あるテロ事件に関わって妻を亡くした。 退職後は、探偵みたいな仕事をしている。その彼に行方不明の女を探す依頼が舞い込む。手がかりをつかんだ彼だったが、女を奪還することに失敗する。そして逆に女をさらった側について、ある研究施設の警備をすることになる。だが、その職務を忠実に遂行するうちに、彼はその研究の成果を自ら占有すべきであると考えるようになる。 と、途中までのあらすじを書いただけで、この小説の筋がギクシャクしていることはわかると思う。主人公は裏切ってばかりだ。いったい何をしたいのかよくわからない。 読み進めていく内にそれもありなのかな、と思えないこともない。 職務を遂行するために、彼は脳神経を結合して特殊な精神状態を維持し続けている。それが高じて、自分の雇い主の利益に反するかもしれない行動を招いている。それは納得できる。 また、この作品には一貫した人格などというものと相反するような基本設定が仕組まれている。 確率論的?に無数の可能性拡散する世界を、今ここにある姿に収縮させているのは、実は人間の脳だった、というのがそれ。時間軸やら因果律に沿ってリニアーに展開する世界があってはじめて人格などというものはそれらしく成立するのであって、拡散する世界を前提にはできない。 主人公が警備をつとめる研究機関は、世界を収縮させる脳の仕組みの解明に取り組み、世界を自在に操る方法を手に入れようとしている。この力を手に入れれば、およそかなえられないことはない。そう、時間の遡行さえも。 ところが主人公は力を得ても、恣にそれを行使したりはしない。妻が死ななかった世界を作り出すでもない。研究機関の面白そうな女とねんごろになるわけでもない。富を求めるでもない。テロ組織に復讐するでもない。なんのために生き長らえているかまったくわからない。奇妙だ。 部分的にはかなり興味深いところはある。脳神経の結線を変えることで、感情や身体の状態をコントロールするテクノロジーであるとか。または、拡散した世界の中での自分の存在を考えるくだりであるとか。 私は「この作品は人間が描けていない」というすごく古めかしい批判をしているのかもしれない。でも、この作品にのめりこめないのは本当にそれゆえだと思う。 これ以上は思いつけないくらいユニークな設定を用意しておきながらそれをドライヴさせる推進力には欠けていると感じた。 |
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読書日記系 2002/08/06 |
この小説には異本があり、私は昔、そちらの方を読もうとして最初の数頁で挫折した。時間がなかったか気力が衰えていたのか、理由は覚えていない。読み切れなかった本はハードカバーの装丁で、タイトルも今回読み終えた文庫版とはちょっと違う。 巻末の解説によれば、この作品にはいくつかの稿が存在した。ハードカバーの方は、どうも大幅に内容の異なる別の稿から起こしたものであるらしい。しかもいずれも未完であり、満足な形で小説として刊行するため、作者の没後にさまざまな編集が施されたのだという。 たしかに言われてみれば回収されなかった伏線もあるし、結末の部分はいかにもドタバタしている。が、読んでいる最中には全然気にならなかった。 舞台はとある村。主人公とその友人の前に天使が現れる。天使は驚くべき力を持ち、たまらなく魅力的だった。主人公たちは天使に心奪われ、彼と過ごすことを何よりの楽しみとする。 知らないことなどなく、できないこともない彼だったが、その内面は全く人間とは違っていた。無から有を生み出すことのできる彼は、生み出したものになにも興味を持たなかった。そんなものはいくらでも替わりがきくからだ。 粘土から小人たちを生み出し、美しい城を建設させる。その素晴らしさに感嘆する主人公の前で小人たちを鏖殺。事件を起こしてはひどい方法で合理的に解決する。不幸な生を生きながらえるよりは、と簡単に人を殺す。完全な幸せを与えてやるといっては、人を基地外にする。そして全く悪びれない。 天使に言わせれば人間は堕落しきっている。それは良心などというもののせいだ。良心を振りかざして狭い了見で不完全に善悪を判断するから人間は腐っていく。残虐になり、人殺しだけがうまくなっていく。いつまでたっても愚かで、ほんの少しのきっかけで掴める幸せを自らフイにしている。獣以下である。 背景では魔女狩りが行われており、彼の主張には相当の説得力がある。 全く人間って最低だ。人間は機械と同じだ。決して進歩も成長もしない。運命は決定ずみで、自由意思などない。考える余地などない。 天使の舌鋒はしまいには、神や天使自身にまで及ぶ。神は不公平極まりない。本当は天国も地獄もない。この世ははかない幻にすぎない。 主人公は最後まで相手の理を覆すことはできない。天使は去り、主人公は自らが愚かさや過ちの中に取り残されていることを感じて呆然とする。救いはない。 作者の心境に思いを馳せる、とか意図を汲む、いうのはあまり好きではない。けれどもこの作品はたまらずそうしてしまいたくなるくらいに、作者の思想が透けて見える。寓話といってもいい。作者は晩年、この人間不信の思想に浸り、それを克服できないままに死んだ、らしい。 たしかに、この陰鬱な思想には一定の吸引力がある。作品を読んでいるうちに、ひきこまれて大変嫌な気分にさせられた。 また、これまでの自分の人生を振り返ってみればこの類の考え方にはまっていた時期もあった。今となっては、身の丈にあわないことを真剣に考えていたなぁ、間抜けだったなぁなどと懐かしく思い返すばかりだが。 ペシミズムは居直りで打破してしまえる、ような気がする。 本当にどうでもいいことだが、この小説には、"A Romance"というサブタイトルがつけられている。作品の成立の経過に照らすと作者がつけたのかどうかも疑わしいが、とてもふさわしいように感じられる。 というのは、巨大すぎるテーマも、それをおとぎ話じみた設定で語ろうとするところも、現代ではなかなかできない懐かしい"A Romance"だと思うから。 |
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読書日記系 2002/08/03 |
しがない市井の官吏が長い年月をかけて驚嘆に値する奇怪な建造物を造りあげた、というノンフィクション。この本の内容は、その建造者の男についての解説、建物自体に関する詳細な解説、彼と同時代の芸術家たちとの比較が主なところである。 この建造物、というか宮殿は完成までに三十三年の年月を要した。建造者は、彼の住んでいた地方から多く産出される奇石を拾い集めてこれを築き上げた。誰の力も借りずにただ一人で。しかも本業を別に持ちながらのことである。彼の時代には自動車も自転車もなかったことを考えれば、これは凄いというより異常な所業とさえ言える。 でき上がった宮殿は、他に類のない、全くオリジナルなものだ。ボロブドゥールやサグラダファミリア教会に表面的に似てはいるが、細部についての解説を読めば、それらと同列に片付けるわけにはいかないとわかる。 ところで、私はかの建造物について何も知らなかった。それゆえに、たいへんな誤解をしていた。 私は彼が実際に宮殿を建立したとは思っていなかった。ただ空想のなかでそれをもてあそび、文字や図として記録しつづけ、日に日にディテールを深めていったのだと思い込んでいた。 この本を実際に手に取ってはじめてそれが私の勝手な想像だったことに気付いた。 なぜこのような誤解をしてしまったのかといえば、それが、私の好きなタイプの話だからだ。……頭の中で妄想をこねくりまわし、それを記録する。頭の中の王国、夢の中の宮殿、紙の上の人物。真のフロンティアは脳髄の中に存在する……。 実際には彼は汗水垂らしてセメントをこねくりまわし、坦々と建築し続けた。壁に警句を堀り刻み、愛するものすべてを折衷せしめんとして細部に過剰な執着をしたりなどはしたが、作業としてはあくまで坦々と、と形容する他ない。 したがって伝記の部分は全然おもしろくない。彼が何を考えていたかを示す手記などがほとんど残っていないためだ。 同時代の芸術家たちとの比較も行われているのだが、これも説得力があるとはいえない。なぜなら、取り上げた人物たち全ては、たまたま同時代人であるというだけのことで時流と無縁の活動をしているからだ。むしろ、同時代に限らず広く比較した方がいいのではないかと考えた。 |
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読書日記系 2002/07/28 |
新聞に載っていた書評に興味をそそられて読んでみたのだが、正直なところ期待外れだった。書評が的確でなかったのかもしれないし、書評を読む私の方に読解力が欠けていたのかもしれないが。 物語の舞台は伝統のある高校で、主人公はその学校の女生徒。わりに控えめな性格の彼女だったが、友達の頼みで生徒会の仕事に関わるようになる。 進学校ゆえ、勉強に追われながら生徒会の面々は合唱祭、体育祭、文化祭などのイヴェントを運営していく。催し事をこなしていく過程で、クラスがひとつにまとまったり、学校全体の空気が変わってきたりする。そんな中で主人公は、自分たちもまた伝統の一頁となっていくことを確認する。 だが一方で、あくまで個人の思惑でその流れに棹さす者がいる。それは誰なのか、何を考えて逆らうのか、というのが本編の屋台骨。それを彩るのが、初々しい恋愛に関するエピソード。 平易な文章で、読みやすくて結構。ちょっとおぼこっぽい感じがするのも、主人公の設定がそうなんだから、と納得はできる。 しかしながら、どうしても我慢できないところがある。 書かれていない部分について難癖をつけるのもどうかと思うのだが、学校としてのリアリティに欠けている。主だった登場人物は皆さんなにかしら一芸に秀でているし、憎めないいい人ばかりだ。それ自体は、彼らの置かれた生徒会という優等生ポジションからしてしょうがないのかもしれない。だが、それ以外の人物に対する視点が欠けているのは間違いないし、それが作品の奥行きを失わせていると思う。 なんでそんなことを考えるかといえば、私自身がこの作品の登場人物になりえないと思えたからだ。 高校生くらいになればニヒリストは当然いる。中学生や小学生だって珍しくはない。学校の催し事に、私のような人種は全く興味を持てない。参加しないわけではないけれども、それほどの情熱を燃やすわけではない。運営する側の苦労もわからないではないが、自分が引き受けようとまでは思わない。でも彼らと対立したりはしない。そんなことしても何の得にもならないから。口は達者で、言い訳に長けている。「みんなで」という言葉は好きじゃない。ファシストか!と思う。ニヒリストと言うかわりに個人主義者であると主張する智慧だってある。 おそらくこの小説の想定される読者の何人かもそう考えているだろう。その考えを変えさせるほどの力は感じられない。読み進めるにつれて疎外感を覚え、それは全くおさまることはなかった。 主人公が自分たちのやっていることに違和感を覚える場面もあるにはある。しかし、それは性差の観点からそう思うだけだ。だが性差の問題は、男子校としての長い歴史から理解できるものであり、共学になった以上は時間が解決してくれる問題にすぎない。普遍的とはいえない。上っ面の問題に過ぎないと、私は考えた。 |
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読書日記系 2002/7/23 |
この小説の組成は、ちょっとばかり特殊かもしれない。地の文が目立って多い。ぱっと見小説というよりはノンフィクションのようである。邦題ではそうでもないが、原題はまるで伝記のようだ。 かぎかっこでくくられる会話文もありはするが少ない。登場人物の発言ではあってもかぎかっこでくくられず、地の文に溶け込んでいるものが散見される。あえて字面を地味にしようという意図が働いている印象をうける。改行も少なめといえるだろう。語り口は基本的に三人称だ。 多めの地の文の中で大部分を占めるのは事物の描写で、それは当然のことなのだが、人や物のアクションすなわちそれがなにをした、とかどうなったか、よりも、それがどういうものなのか、ということに重きが置かれている。 色、形、材質、数量、匂い、肌触り、温度、具体的な名称、さまざまな切り口から、時には比喩のオマケもつけて描写されるものたち。くどいくらいに列挙される構成要素。写真をトレースするように一つの光景を浮き上がらせていく丁寧な筆致。 しかしながら、その描写の総和はリアルではない。 不自然でつくりものめいた感じがする。あまりにも俯瞰的すぎるし、あまりにも微に入り細をうがちすぎる。だから、伝記文学らしさを漂わせてはいても、主人公がまるで夢の中を歩いているように見えるのかもしれない。 主人公の運命がめでたしめでたしで終わらないのは最初の頁から示唆されている。熱心なファンならいきなり結末がわかってしまうだろう。そういえばこの作家の代表的な作品でいわゆるハッピーエンドのものは一つも思いつかない。 主人公たちはたいがいは、自らの愛することゆえに世間的な幸せとはかけはなれたところにいってしまうのだ。それは他人との関係において顕著で、たいがいは孤独になる。というより、いつも孤独だったことに気づくのだ。それまではただ、まわりに人がいたというだけのことで。 私にとってはすっかりおなじみのタイプの話なので、あまり新たな感動はなかったのだけれども、部分部分はすばらしいし、読みごたえもあったので楽しめた。 ただ、次は是非別のタイプの作品を読んでみたい。 この作家は、実験的な手法を用いた短編をいくつか書いているのだが、その中に、事典的な記述だけでもって成立する作品群がある。ある国の特徴的な文物をひとつひとつ取り上げて、詳しく述べるだけで特にドラマティックな展開もなく坦々と終わる作品や、ある建造物の中身を述べているだけの作品など。この路線で長編を書いてくれたら、面白いだろうにな、と思う。読むのはきっと相当疲れるだろうけれど。 |
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読書日記系 2002/06/25 |
読むのにあまり時間はかからなかった。 著者の小説を読むのはこれで三冊目になるから、話の進め方に慣れたのかもしれない。 他の作家の翻訳をとおしてこの訳者の文体に親しんでいるというのもある。しかしなにより、事件らしい事件、というかイベントがたくさん起き、それが目先の興味をつないでくれる。 物語の中心となるのは、行方不明になった友人を探すというイベントだ。 主人公「僕」の友人は未発表の原稿と美しい妻、生まれたばかりの子供を置いてどこかへ行ってしまう。私立探偵の捜索も失敗に終わる。 妻は夫との約束に従い、友人でもあり文筆を業としてもいる「僕」に未発表稿の処分を依頼する。原稿を読んだ「僕」はそれが世に出るべき作品であると判断し、出版されるようとりはからう。 彼の作品は、その難解な内容のわりには十分すぎるほどに受け入れられる。 同時に、生死不明の作家の謎も興味を呼び、「僕」は彼の伝記の執筆を依頼される。 「僕」は幼なじみである彼の生家を訪ねて資料を集め、彼の人生の足跡を追って遙か異国まで旅をする。それはただ伝記を書く仕事のためではなかった。 このあたりまでの展開は時折開陳される人生哲学をのぞけば推理小説風とでもいおうか、とても理解しやすい。だが「僕」の旅の後半からは文学的緊張感がだんだんと増してくる。平たく言うとわけわかんなくなってくる。 行方不明になった男を探す探偵が、いつしか自分を見失っていくという小説をいつか読んだことを思い出す。純文学に出てくる探偵はロクなもんじゃない。たいがい何も探せない。この物語もそうした結末に向かうのかな、などと予想する。 行方不明の彼のプロフィールは、著者のそれと重なる。大学を途中でやめ、タンカーに乗り込み、外国で翻訳や映画脚本関連の仕事をして生活していた。やがて母国に帰ってきて詩や小説を出版する。 この著者の初期作品に、その時期の自身の生活をかなりユニークな構成で描いた中編がある。とても読み難かったその作品の手触りを思い出す。 終盤でメタ化が一気に進む。 「僕」は別の著書の題名を挙げ、「僕」が書いているこの小説がその別の著書に続くものであると表明する。 「僕」が探す彼は、プロフィールをみるかぎりは作者そのもの。そして「僕」はこの小説の作者。すなわち「僕」は彼ということになる。 この本に書かれていること以上の事情を汲まないとしても、そう考えるに足る証拠がある。探索の過程で「僕」が彼と取り違えられる場面がいくつかある。「僕」と彼はとても似ている。「僕」は自分自身を探している。 だからクライマックスは、当然(だと思う)「僕」と彼の遭遇だ。しかし、面と向かってではない。彼は扉ごしにしか話そうとせず、必要なことはノートに書いてあるからと繰り返すばかりだ。 そしてノートの中身は「僕」にとって、予想を裏切るものだった。彼の出奔の理由は、つまびらかにはされない。 「僕」=彼という前提に立つなら、「自分が自分のことを理解できない」ということになる。自分という存在への不安のもとでは、まして他者など理解しえない。そして人生は偶然の連続である、という結論へと結びついていく、ように読めた。 結論部分について今の私には「まぁ、そうとも言えるな」程度の感想しか持てない。是非を問われたら是かもしれないが、それ以上考えを深める気にはならない。 訳者あとがきには、この小説は例外的な異常な状況を扱ったものではないと書かれている。言い換えれば、この孤独は万人に訪れるものだと。同意できない。これは十分に特殊なケースだ。私はこの小説を自分の人生にあてはめて受け止めることができない。 「書く人」を主人公に据えた小説はどちらかといえば好きなのだけれども、自家中毒っぽいので手放しには肯定できない。 同じテーマを別の道具立てで語ることはできないだろうか。小説家とかいわゆるクリエイターと呼ばれる人を登場させないで、できれば物事をつきつめて考える内省的な人物すら表に出さずに同じ内容を語ることは出来ないものかと思う。 |
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更級日記 2002/05/27 |
更級日記の主人公というか書き手は、田舎住まいの、物語が好きな少女だった。都に上がり、うわさに聞いて憧れている物語の数々をありったけ読みたいと思っていた。 教科書に載っていて、高校の古文の授業で習うのはたいてい、この冒頭と、それに続く都への出立の部分だけだろう。 日記冒頭の、物語に対する愛の告白は私を強く惹きつけた。フィクションに血道を上げる数百年を隔てた同類への共感ゆえか。 この作品のこの部分が教科書でとりあげられていることについては疑問を感じている。ちょっとばかり趣味的にすぎるのではないかと。 実際、日記の重点は冒頭よりもその後の部分にこそあるようだ。 都での生活によって彼女の中で何かが変わっていき、そうした物語への憧れはいつしか消え去っていった。そして彼女は仏の教えに救いを見いだすようになる。と解説されている。 この結末を私が知ることになった経緯は覚えていない。おそらく、授業を聞き流しながら、教科書に書いてあった解説を読んだのだろう。 最近になって、更級日記の後の方が猛烈に気になってきた。 物語を捨て去る時はどのようにしてやってくるのか。 分別のひとつも欲しい年齢になった者としてはそこが気にかかる。 その答えの一つを探すために講談社学術文庫の全訳本を読んでみた。古文法に詳しくなりたいなどとは全く考えていないので訳文を読むだけのことだが。 菅原孝標女は、都に上がってわりとすぐに念願の物語三昧の生活を体験することができた。学問の家柄である菅原氏の血筋であることがそれを可能にしたのではないかという注釈がつけられている。当時は源氏物語の成立間もないころで、物語の流通も主に音読・口伝に頼っていた。その頃にすでに写本を手に入れ、毎日毎日読みふけった様子。 しかし、仏像まで作って「物語を読ませたまえ」と祈った人にしては、日記の中で物語に触れている部分はそれほど多くはない。どこかへ行った、とか宮仕えに出るようになった、という物理的・社会的に目立つ事件の方に紙幅は多く割かれている。 物語に関係のある部分といえば、物語に耽溺、その素晴らしさを訴える場面よりも、物語世界に比して現実の世界に幻滅する場面の方が印象的だ。光源氏や薫大将みたいないい男は現実にはいないし、もちろん菅原孝標女を訪ねてもくれないのだ。もっとも、これは「物語を捨て去る時」を探して読んでいる私だから抱く感想かもしれない。 孝標女は現代の読者のようにフィクションをフィクションとして愛するのではなく、源氏物語にあるようなドラマティックな生をそのまま生きたかったのではないか。 貴族の子弟に生まれること自体が稀なのではあるが、彼女にはそんな広い視野はない。貴族社会の中でなお特別な人生を送りたいと思っていた。物語を飽きるほど読んだとしてもそれで満足してはいなかった。 さて、父親の菅原孝標は仕官もままならず、やっとありついた遠国の国司の職のさなかに死んでしまう。また、作者は同じような階級の男性と現実的な結婚をするが、彼も思うように出世できないまま死んでしまう。 このあたりで洩れる作者の感想からは、世俗的な成功への渇望が強く感じられる。立身出世がかなわなかったことを嘆く箇所がいくつかある。「ああ、もっとしっかりと出仕していればよかった」などという風に。 そうした反省とともに募るのが「物語にうつつをぬかしていたのは愚かなことだった」という感慨と、仏教への傾倒だ。 当時の仏教、というよりは仏教を受け入れる側には現世利益的な傾向が相当程度あり、孝標女もその例外ではない。もっと信心していればよりいい感じの生活をできたのではないか、といわんばかりの印象がある。心の救済だけを求めているとは到底思えない。 彼女は年老いて、物語への執着は愚かしいことだと考えてこの日記を書く。信心もする。 けれども、本当の意味で物語を捨ててはいなかったのではないか、というのが私の感想だ。現世について書かれた物語についての愛は、現世での成功が見込めなくなった時点で終わり、より大きな物語である宗教への愛にとってかわったのだと思う。 こう結論することは同時に、私の探索の失敗を意味するものである。厳密な意味では、ここには物語を捨て去る時のことが描かれてはいない。 訳本にある解説を読むまで全く知らなかったのだが菅原孝標女、自身物語をものしているらしい。「浜松中納言物語」「寝覚物語」他二篇がその作だと伝えられている。いずれも完本はなく、詳細な成立年代もわからない。日記の中でもこれらの作品については触れられていない。 もし、いずれかの作品が「更級日記」よりも後に書かれていたのだとしたら、それは作者の再度の回心を意味し、日記の意義を根底から覆すものになる。たぶんそんなことはないのだろうが、まだ物語を捨て去ることのできない私は、その想像をもてあそぶ。 |
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