雨宮雪氷

津野裕子

青林堂

 ずいぶん前に買った漫画なのだが、最近のガロでの津野裕子の「連打」に打たれまくっているので、取り上げてみようと思う。

 村上知彦の解説にも書かれているように、まず顕著に感じられるのが、姉と弟の関係である。弟を守ろうと愛で包み込む姉。弟はその愛の中で漂う。  その愛のかたちは、きわめて近く、そしてきわめて遠いかたち。異性への愛、同胞(はらから)への愛、そのほか諸々の愛がない交ぜになった、きわめて不安定なかたち。姉と弟の気持ちは、常に禁断と正常の間を、時には距離を置きながら、時にはきわめて接近しながら、漂うことになる。そしてそれ故に、非常に高い緊張感が作品に漂う。両親を亡くし、姉と弟で親類に預けられている姉弟を描いた『喜見城』、雪の日、流雪溝に落ちて行方不明になった近所のお姉さんを捜しにゆく少年を描いた『雨宮雪氷』は、その緊張感を見事に描ききっている。

 注意すべきは、安易に近親相姦的な「わかりやすい」モチーフに頼ることなく、この緊張感を描いていることである。各所にちりばめられた記号で、少しずつ心の交感を示してゆく、という方法を採っている訳だが、この「奥ゆかしい」、アリャマタ先生風に言えば「趣味の良い」方法には、二重に感嘆させられる。その方法が難しいものであるにもかかわらず、臆すことなく自家薬籠中のものとし、さらにそれを洗練させているからだ。

 この趣味の良い方法を身につけたせいであろうか、津野裕子の良さは姉弟ものにとどまらない。現実のしがらみを離れ作り上げられてゆくファンタジイの世界も、非常に見るべきものを持っている。例えば海神への生け贄に捧げられようとする彼女を救いに行く話『岩波くんの夢』とか、『Taste of Honey』の連作など。これらの作品に共通する要素は、一見日常生活の中で起こることを題材とし、リアリティを持っているように見えるが、いつしか--気取られぬうちに--「異界」へとシフトしているということである。これらの作品は、現在のガロの連載(夢日記もの)のプロトタイプとでもいえるものであるが、すでにかなり以前からみずからのファンタジイに自覚的になっていたことが見受けられる。そしてそのファンタジイは、リアリティと微妙な関係を保ちつつ、かすかな波動を読み手に与える。それはたしかにかすかではあるのだが、まさにそれ故に、独特なのだ。

 こうしたオハナシの良さを支えているのが、流麗、としか形容することのできない、描線とトーンワークである。描線は基本的に強弱を持たないが、それ故に強い透明感を持っている。そして、それは描線が洗練されればされるほど、トーンワークが上手くなればなるほど、強くなっている。それは世界を作り上げ、津野裕子の描く微妙なオハナシに深く結びつき、それを尋常ならざるほどまでに深めている。

 まだ書かねばならないことはいくらでもある。例えば「日本海の空気」。あるいはノスタルジーとの関係。女性的な視点、等々。これらについては次の機会に回すことにしよう。短いレヴュでは語りきれない世界が、津野裕子にはある。

 願わくば次の機会がありますように。ここで青林堂様にお願い。私一人で最低5冊は買いますから、原稿が溜まり次第単行本を出して下さい!

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*日本海と太平洋は決定的に異なる。冬の姿が異なることは周知のことであろうと思うが、実はほかの季節も違うのだ。殊に違うのは夏である。フェーンの吹き下ろす日本海の海岸は、その透明感において、決定的に太平洋の夏と異なっているのだ。津野裕子の描く海岸の風景は、実に日本海の情景を写し取っているといえよう。同様に日本海の空気をビビッドに伝える作家には、魚喃キリコがいる。対照的に太平洋の夏を上手く描く作家には、鶴田謙二御大と逆柱いみりがいる。