残念なことに(?)、「闘争の季節」はとうの昔に終わってしまった。既成の権威/権力、エスタブリッシュメントに対して、社会大のレベルで抵抗、あるいは反抗することは、今ではもう「流行らない」ものとなってしまっている。もはや60年代や70年代のように、あるいはパンクやちょっと昔の暴走族のように、「みんなしてコブシをふりあげる(しりあがり寿)」ことはできないのだ。
それは「若者」と社会との間に齟齬が生じなくなった、ということを意味するのではない。依然として若者のあり方と社会のとの間にはひどい摩擦が生じつづけている。現在にしても「闘争」が行われているのは間違いないことだ。しかし、その「闘争」のあり方は、以前のそれとはまったく様相の異なったものとなっている。現在の闘争は、非常に多様な、多重的なものとなっており、「一見迎合しているようでいても、心までは売らない」「戦略的良い子さ」といったごく大まかな傾向*1を見出すことはできるものの、以前のような一枚岩的なものではなくなっている。
こうした闘争の形態は、それぞれの個人にとって最大限に心地よいものである(イデオロギーや大きな準拠体系に献身する必要がないため)が、その反面、共通項を見出すことが難しくなるため、個人同士の連帯のチャンスを低める。孤独と自己不全感が、常に付きまとうことになる。要は、現代の「闘争」は、非常に精神的にきついものなのだ*2。
こうした状況のもと、夜羽が描くものは、きわめて「古典的」な「闘争」であるといえる。孤独感と疎外感を感じる登場人物。気恥ずかしくなるほどの、社会と自己に対する問いかけ。そしてコミュニケーションを通じて(セックスを通じたコミュニケーションであるところがミソ)、登場人物は社会への再進入を果たす。庵野秀明が「エヴァ」でやったのと同じ方法論だ。この本に収録されている作品は、孤独を抜け出して、社会に戻って行くことによって得られる「救い」を描くという点で、一貫している。失われた社会とのつながりを取り戻し、孤独を癒し、社会における自分の位置づけ(=居場所)を確立する、ということは、有力な問題解決の方法のひとつなのだ。そして夜羽の確信に満ちた筆が、この方法がいまだ有効であることを裏付けている。そう、少なくとも今はまだ。
ただ、この方法がいつまで有功か、というと、実に疑問である。夜羽と同世代、または上の世代の人々(私もそうだが)には、実感される、というレベルではないにせよ、「闘争の季節」の記憶・知識がある。そして多かれ少なかれ「自然なもの」として、それをみずからの内にもっている。こうした人々は、社会との間に生じる齟齬に、まず抵抗し、自らを確立し、他者と連帯を結ぶことで対抗することを、実感のレベルで、少なくとも知識として、知っている。夜羽の描く内容、つまり古典的な「闘争」が、問題解決につながるということを「知っている」のである。
しかし現在では、夜羽の描くような行動は、高校生くらいの「若者」の実感のレベルでは、ギャグでしかない。いや、ギャグにもならないといっても良いだろう。前述したとおり現在の闘争は、古典的なそれとはまったく様相を異にしている。夜羽が描くような、問題に正面からぶつかり、相手の内面にまで切り込んで行くような行動は、上の世代のものにとっては、それを「知っている」ために受け入れられることだろう。しかし、ここでいう「若者」にとっては、こうした行動は単なる押し付けがましい、相手の内面に土足で踏み込むようなわがままな自己主張に過ぎない。そうしたことの証明はいみじくも作品の中にさえ現れる。「生まれる時代を間違えたんじゃねーの?」と。
今は、まだ今は、夜羽の描く方法は、有効性を残している。だから「現在」と切り結ぶことができているし、感動を生むのに成功している。しかし、この先についてはどうだろう?
この方法は、「闘争の季節」の記憶がフェイド・アウトしてゆくとともに、ノスタルジーの中にのみ存在するものになってゆくのかもしれない。
確固たる形での代案を出し得ない現在においては、明確なことを語ることはできない。が、こうした方法が、島本和彦がセルフ・パロディをやっているように(あるいは無自覚的にギャグになっているように)、こっけいなものになる可能性を持っている。あるいは、「真摯で」あるゆえに、まさにそのために反感を持って受け入れられる可能性を持っている。この方法が間違っているとはいえない。しかしすでに時代遅れのものとなってきつつある*3ことは間違いないだろう。
*1 私はその背後にある秘密を知ってるけど、ここでは内緒。
*2 この辺の考えは宮台真司と共通する。
*3 何をもって時代遅れとするか、ということは難しい議論であるが、夜羽の漫画はターゲットとしている層の心性と外れる要素を持っている。ゆえに、少なくとも彼らの時代精神と合わなくなっているということはできるだろう。