バッドテイスト −悪趣味の復権のためにー

荒俣宏

集英社文庫

 快刀乱麻、痛快至極、まさに目から鱗ものの小気味よい一冊。「バッドテイストは美の下半身である。ビフテキであり、刺身である。」後段意味不明かもしれないが、これがまたなるほどとひざを打つような説明がなされている。このあたりの畳み掛けもなかなか味があっていい案配である。きわめて分かりやすい形で、明確に趣味世界(テイスト)と悪趣味世界(バッドテイスト)の関係を提示している。

 基本的な論調は、一貫して「バッドテイストがあるからテイストが生きる」「バッドテイストとテイストは表裏一体のものである」というものである。簡単に言えば、月があるから、夜があるから太陽が生きるのであり、フェイクがあるからオリジナルが生きるのである。いや、この本においては重点は逆だ。バッドテイストこそテイストの母なのである。ゆえにアリャマタ先生はバッドテイストを徹底的に擁護し、その増進を図る。実に小気味よいではないか。成金的似而非「趣味人」にゼヒとも聞かせてやりたいものである。

 ただこの本では、現在のきわめて悪趣味的な状況を説明しているとは言い難い。テレビジョンを見よ。洗練とか複雑さとか高度さといったような、「趣味的なるもの」につながるようなものを見出すことは難しい。一部のアニメやドラマなどにそれはないわけではないが、数としては少なく、大半はまさに「愚にもつかない」刹那的・瞬間的快楽を追求する悪しき「バラエティ番組」である。こうした状況は「悪趣味的」ではあるが、決して「悪趣味=バッドテイスト」ではない。それは「非・趣味的」なものなのだ。 今の文化状況は、テイストとは関係のないところで成り立っているのだ。そう、それは「ただ単に下品」なものなのだ。趣味とは無関係に、文化は消費され、蕩尽されるために、商品として生産されている。そうでない文化の産物が決してなくなってしまったわけではないが、メディアの産業化が過去にないほど進行した現在、その風潮は最高潮に達している。そしてその流れは今後も一層進行してゆくことだろう。生活が豊かになった分、テイストとバッドテイストが受け入れられる余地は増えており、事実それはサブカルチャーとして一般性を帯びつつあるが、普通の人が接するメディアにおいては、趣味的なるもの、悪趣味的なるものはどんどん姿を消しつつある。

 アリャマタ先生の意図は明らかである。先生は、バッドテイストを賛美し、その復権を訴えることによって、テイストの復権を意図しておられるのだ。確かに、テイスト(とそれを支えるバッドテイスト)なしには、生活は実に味気なく、やりきれないものになるだろう。奥の浅い、あっさりとした、突っ込む余地のない「平たい」ものになるだろう。単にむかしのテイストを復活せしむる、という方向に行く可能性もあるので、アリャマタ先生の考えに私は手放しで賛成できるものではないが、大いに支持するところであるのはまちがいない。もっと複雑に!もっと洗練を!文化を「ひねる」のだ!

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