旧「ガロ」に載っていた作品を主に集めたもの。
それは純化された−−タルホ的に純化された−−少年たちである。夢の世界から招じ寄せられたら、そちらに行くことを決してためらわない人々。現実世界の少年のもっともうつくしい部分をさらに再結晶させたような存在である。実際に存在する可能性は無ではないが限りなく無に近い存在。その意味でここに描かれている存在は純粋少年である。
実際、凧とともに自らの心を虚空に飛ばすことができたら?眠ることが出来なかった花たちの、見ることの出来なかった夢を引き受けることができたら?その狂おしいほどの魅力をわたしは理解することは出来る。しかしわたしはそちらに行くことは出来ないだろう。それほどまでにわたしのこころは「こちら側」に繋がれている。だが、ここに描かれている少年たちは、最終的にはそれを拒絶し、こちら側にとどまるものの(だからそれがオハナシとして描かれているわけだが)、「あちら側」の存在を自然のものと感じ、「あちら側」に行くことをまったくためらわない。だからそれはきわめて強いあこがれを、むかし少年だった人に与える。一刷毛の苦い悔恨の情とともに。
近年の郁子先生は、「カストラチュラ」などに見られるように、「少年と肉食」(ここでの肉は自らの肉)のような、少年のもつ身体・肉体性への傾倒を深めていたように見受けられる。それは純粋少年の少年性と現実社会のありさまを重ね合わせようという試みであった。しかし、これは少なくとも「カストラチュラ」ではある程度の成功を見せていたものの、その後の発展性をもたないものであった。何故なら純粋少年の少年性とは現実社会とは接点をもたないところに生じるものであるから。理論を語るときの理想のようなものであるから。両者を無理に重ね合わせようとし続けることは、最終的には両者ともの死を招く。だからこの作品のように、以前の方法に戻ったことは賢明なことであったといえるだろう。
ただ、この作品集でとられている方法が、昔のままであるかというと、必ずしもそうではない。それは、ある種恐ろしいことに、より繊細に、かつ精妙なものとなっている一方、より分かりやすいものとなっている。「結晶化」を急ぎ過ぎ、意図の伝わりにくい作品も少なくなかった過去の作品集に比べて、より一般に受け入れられやすいものとなっている。その結晶のうつくしさを失うことなく。
ああ、それは我々が成長する際に失ってしまったもう一つの姿。なりたくてもなれなかったもう一つの自分。それを思い出させる海からの微風。ノスタルジアとあこがれの境界に咲く鉱物の花。素養のない人にもお勧めできる良質の、かつわかりやすい作品。初版限定の蔵書票が付いているうちに買うべきだ。