みすてないでデイジーForever(1,2)

永野のりこ
アスキー

 

 なんでもアニメは不評ですなあ。私はあのオープニングはアニメっぽくなくて好きですが。中身も「ナガノ色」が弱いようには感じますが。まあアレは例のナニとして見りゃ良いんじゃないでしょうかね。今まで延々と繰り広げられてきた「アニメと原作のナニ」としてね。

 とまあ漫画は漫画で評価しよう。永野漫画でしつこいように繰り広げられる孤独、寂しさ、屈折、ディスコミュニケーション。それはこうした初期の段階からすでに中心テーマとして展開されてきたことに、「ナガノ世界」の一貫性を感じる。それは現代社会においては普遍的な問題だ。いや、今我々が直面する、もっとも重大で、厄介な問題かもしれない。

 だが永野のりこは、もうひとつ一貫して、それに対抗しつづける。「大丈夫、ディスコミュニケーションは必ず癒される」という前向きな姿勢で。それは彼女自身の深い実感から生まれている。単にあらまほしき姿を提示するのではなく、実際の経験に基づいた、信念として。

 現状世界において、辛いことはいくらでもあるし、コミュニケーションが取れず悲しい思いをすることもいくらでもある。ゆえに絶望に陥ってしまうこともまた多い。現在、そうしたことは、比較的わかりやすい形で社会問題として現れている。いじめ、青少年の自殺、都市における孤独、個人情報誌の流行…等々。が、そうした問題は、問題が普遍的になっているせいもあってか、あっけないほど簡単に解決することが多い。まさに「求めよ。さらば与えられん」なのであって、自らのATフィールドをちょっと乗り越え、他人とコンタクトを取り、コミュニケーションを取れば、そうしたディスコミ状況は解決されるのだ。それは、孤独を感じている人が増えているため、ディスコミを癒そうとしている人が増えているため、他者を求める人が増えているため、容易なものになっている。そしてそのためのメディアも増えてきている。WWW然り。Eメール然り。ポケベル、PHS、携帯電話然り。ただ、ATフィールドの厚さは依然として問題となりはするが、それは個々の問題となるので、ここでは触れない。社会には神も仏もなかったりするが、自分でちょっと探せば意外なところにあったりもする。永野のりこはそれを乗り越えてきたのであろう、そして探し出してきたのであろう、自分にとっての神や仏、すなわちコミュニケーションを、自分の居場所を。永野のりこの漫画が多くの人に受け入れられ、一種カルト的な人気を誇っているのは、それを裏付けるし、それを強化する。結果、永野のりこの漫画は、肯定的な自信のあるものになり、同じような悩みを持つ人の心に訴える。

 「電波オデッセイ」で、そのスタンスは確信に満ちたものになるが、それより10年も前野この作品でも、揺らぎはしながらも、永野のりこは同じ結論にたどり着く。ハッピーエンドで終わらせづらいこの世の中でも、永野のりこは(難渋しながらも)ハッピーエンドにこぎつける。その背後にある人間への信頼と「愛」に、私は打たれて止まない。

 

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