根本敬の漫画家生活20周年(かぞえで)を記念した作品集。80年代初頭のまだういういしい作品から最近の作品まで、ほぼ時系列順にたどることができる。また漫画だけに限らず、根本に影響を与えたさまざまな人に対する文章なども収録されている。
表現の場において、得てして人間の生活は振幅の大きいドラマトゥルギーに仮託されて描かれる。出会い、別れ、傷つき、傷つけられ、喜びが生まれ、そして死に出会う。愛が、憎しみが、人生を語る。
それは通常の生活においては、なかなか出会えないものである。我々の多くは日常という圧倒的な均質性にからめ取られ、その経験はのっぺりしたものである。そのため我々は振幅の大きいドラマトゥルギーに焦がれるのであるが…その先にあるものはどうだろう。
ひとつは刺激のインフレーションである。絶叫マシンと呼ばれる遊園地のアトラクションが限りなく刺激を増大させていくように、ドラマトゥルギーは荒唐無稽になるまでに拡大していく。通常のドラマトゥルギーで足りないのであれば、それまで入り込んでくることのなかったセクシャルな要素や、タブーとされていた心身の障害なども持ち出す。この構造は現在の経済構造が無限に大きくなっていかざるを得ないものであるということと関係するのだが、そうであるために薄ら寒いものである。何故ならそれにはゴールがないからである。成長が無限であるために、個人の欲求を満たす満足感の水準も次第に向上していく。結果として人は満足を得ることがなくなる。拡大しつづける経済システムのなかで、人は満足を得ることなくさまようことになる。
もうひとつは、振幅の大きいドラマトゥルギーが支配的になることによる、「日常」の隠蔽である。これはテレビジョンという皮下注射能力の高いメディアと結びつくことにより、多くの人に影響を与える。ドラマトゥルギーの規範で日常を見ることにより、それに適合しないさまざまなもの、特に「退屈なもの」や「キタないもの」は「見えないもの」とされてしまうのである。この二つの要素は「日常を何とかしたい」という欲求と結びつき、どんどん加速していく*。退屈から逃れるための、社会からの逃走。
だが、根本敬は、そうした状況に真っ向からNoを突きつける。くだらないものを見よ、イイ顔を見よ、永遠と戦う人を見よ、と。それはすなわち「刺激のインフレを避け」「隠蔽された日常を見よ」という訴えかけなのである。そして根本はそうした一連の見方を「解毒」と称する。根本は気づいているのだ。現在のエスカレーションと日常の隠蔽工作が、人間にとって毒を含んでいることに。根本が提示している見方は、圧倒的な退屈に対するもうひとつの戦い方なのだ。
路傍の石を一個拾ってみて欲しい。それを十分に観察して欲しい。形、固さ、模様、岩の種類…実に情報に富んでいはしないだろうか。それと同じように、一見のっぺりして見える日常も、細かく見れば面白いことはいくらでもある。平凡なことでも、徹底的に細分化して見れば、そこには実に多くの差異があり、なかなか面白いものである。根本の筆は、そうした日常に対する「感受性」を我々に示す。根本の戦い方は、感受性の戦いであり、「趣味の良さ」につながるものである。その見た目の下品さとはうらはらに。
そうした戦い方で、退屈に抵抗した人々はすでに存在する。衣食足り、豊かな生活を実現した。だが圧倒的な退屈と戦った人々…それは平安朝の貴族たちである。だが彼らの戦いは、国風文化という実に豊穣な遺産を残さなかったか。根本の方法は、社会の底辺を丹念に見るという点で異なっているが、日常を見つめ、その中から心動かすものを抽出していくという点で共通している。そう、根本敬は現代に蘇った貴族なのだ。
考えてみれば、「大河精子ロマン」のシリーズにおいて、いや『ディープ・コリア』において、すでにその方向性は確立していた。だが文章の仕事、あるいは短編集である「黒寿司」などでは、「漫画としてのインパクト」は高いものではなかった。その志向はわかってはいたが、明確にはなりにくかったのだ。しかしこの作品集は未収録作品集ということもあってか、根本の思考の流れ・変遷がどのようなものであったかよくわかるようにできているのだ。くだらなさの中に真実がある、永遠と戦うことこそが人間の徳目である、というテーゼが、明確になっているのだ。もちろん選りすぐられているせいもあってか、作品それぞれのインパクトも強い。根本敬の志向の集大成としてだけではなく、根本の入門書としても適している。長い「不在」をカバーしてくれる力強い作品集。これはイイ。
*無論、すべての人が日常から離れようとしているのではない。日常と折り合いをつけて生きようとしている人も存在する。それについては宮台真司の研究が参考になろう。
Last-Update: Monday, 15-Aug-2016 09:52:34 JST