FEEL YOUNG誌の巻末に連載されていた作品。自称・孤高のロッカー、岸と、美学専攻の大学院生、蜜のボーイ・ミーツ・ガールもの。こう書くと陳腐な作品のように思えるが、実は全然そんなことはない。この作品は非常に恐るべき作品である。歴史に残る、とさえいえよう。
まず特筆すべきはその画面構成の巧みさである。前半はまだ漫画の文法に従っているが、後半になるにつれ、漫画というより巧妙にデザインされた一人称小説といった趣を呈してくる。その華麗かつスマートなこと!平面構成はモンドリアン的というだけでは平凡にすぎるほど洗練されている。テクストと絵の高度な結婚。それを支えているのがこれまた巧妙な配色である。ブルーグレーとくすんだ赤。イエローグリーンと葡萄茶。この手の「くふう」は、スカしすぎになってしまいがちだが、この作品においてはそんなことはない。おそらくはデザインそのものが作品に高度に統合されて、作品の前提となっているからであろうが、奇跡的、と言っていいほどバランスが保たれている。明らかなお手本― ゴダール ―は見えるものの、単なるパスティーシュに終わらず、それを意欲的に自家薬籠中のものとし、一回り上回る形で「翻訳」している。
オハナシは文学のごとき。いや、そのままといっていい。特に後半に至るに、岸のモノローグは増え、漫画的文法は影を潜める。そこで語られるオハナシは、もう漫画的なそれとは性質を違え、文学的なものとなっている。悲劇的恋愛小説―それもかなり上等―のといった方がよいのだ。連想されるのはボリス・ヴィアン。フランスの恋愛小説。
結局は蜜を失うことで物語は終わる。ここで力点がおかれているのは「喪失の悲しみ」。まただ。ここでも焦点になるのは悲しみだ。ただ、この悲しみは、しりあがり寿が「うたう」ような、現代に特有のものとは少々異なり、昔からよくあるタイプのものである。たとえばオルフェウスとエウリーディケ。古代ギリシャ悲劇から引き継がれた伝統的な別離の悲しみではある。だが、これは現代になっても癒せるものではない。
加えて残された側の視点、岸の一人称的視点が貫かれているところが切ない。行ってしまったものはまだいいのだ。映画「ソフィーの選択」において、残されたスティンゴが最も切なかったように。
ここではさらに透徹している。スティンゴはソフィーとネイサンの死を成長の糧にすることができたが、岸にはその余裕すら残されていない。後に残るのは空虚ばかり。この苛烈さはとても「現代的」*1だ。
古典悲劇の持つ重い悲しみ。20世紀的--晩期資本主義的悲しみ。そして画面構成。この三つの要素は密接に結びついて「構造」をなしている。悲劇の世界を構成しているのだ。何とも高度な、「重い」トリニティであることよ。そしてこの三位一体は、きわめて重く読者のこころに訴える。比類するものをなかなか見いだせないほど*2。またここにはもう一つのトリニティがある。漫画と文学と映画の合一という。後者の強さは前者ほどではないが、漫画表現の一つの到達点を示していることは間違いない。
繰り返すが、これは本当に恐るべき作品である。読まずに通り過ぎてはいけない、とさえ私は言おう。読んで戦慄せよ!
*1 ここでの「現代的」は、「20世紀末的」というより「20世紀的」とでも言った方が正確である。この苛烈さは、産業化、機械化の進行の中で作られてきたものである。Welcome to the Machine! Money!(フロイド)
*2 私の場合、同程度心を動かされる作品は、「真夜中の弥次さん喜多さん」「神さまなんか信じていない僕らのために」「21世紀の精子ん異常者」といった私の中でのベストクラスの作品である。