半分少女
流星ひかる
久保書店



 著者の処女作品集。さまざまな雑誌やアンソロジーに収録された作品を集めている。たとえばこんなオハナシがある。小夜子は、母親が失踪したため主人公の家に引き取られ、以来ずっと主人公の姉として振舞っていた。「たーくんいます?」と教室に様子を見に来たり、肉弾戦のケンカをしたりと、まわりから仲の良いきょうだいと思われていた。しかし弟は、小さくてかわいい姉にずっと言えない思いを抱いている。そして姉にも転機が訪れる。失踪していた母と再会したのだ。そして彼女は告げる。「あんたのお姉ちゃんでいる自信がないの」と。そして一線を超えるふたり…。

 ここで面白いのは、できるかぎり気丈であろうとしている小夜子が、「ちいさい女の子」として描かれているところである。弟をかばい、見つめる姉は、小さくて童顔である。そしてそのちいさな女の子が、丁寧に美しく描かれたセックスをこなすのである。「うひゃー!」という感じである。

 このほかにも流星はラブラブな展開もお得意としている。ため息の出るようなラブ。赤面してしまうようなラブ。たまらないところである。こうしたラブラブ/センシティブな展開だけでなく、流星は少女漫画的に登場人物たちのこころの変化を繊細に描くこと、毒抜きのきわみにあるとも言えるすっきりした線、そしてそれなのに、本来は排除されなければならないであろうエロシーンが破綻なく盛り込まれる、という徳目を持っている。きわめてトータルバランスに優れた作品の数々に、読者は完全に骨抜きになり、ごろごろと転げまわることになる。「きゃーん▽」と。

 注目すべきは、作者の「少女性」へのこだわりである。きたなくない女子中学生の徳目とでもいおうか。第二次性徴を迎え、幼女から女へと移ろいゆく時期の微妙な「少女」。言い方を変えれば「水色時代」。少年も同様であるが、この時期の少女は特有の危うさと美しさを兼ね備えている。その魅力は非常に移ろいやすく、失われやすい。作者流星の目論見は、それを紙の上に刻みつけることにあるように思われる。
 作者の本領は制服を描いたときに最大限に発揮される。基本的にエロまんがなので、少女は制服を脱ぐのであるが、その脱ぎ方が非常に注意深いのだ。セーラー服のスカーフを取る瞬間。ブラウスの隙間からのぞく肌。幼いデザインの水着からのぞく細い足。「女子学生しか持ち得ないはっとする視覚刺激」が、実に丁寧に、かつ下品にならないように描かれているのだ。それは原理的に危うさを持っているために読み手に強い感興を与え、そして「その瞬間しか存在しない」少女のありさまを鮮明にする。読者はまさに身悶える。ノスタルジアか、それとももっと原理的なレベルでか。

 アプローチとしては紺野キタ『ひみつの階段』などと非常に近いところにある。ただ発表の場がエロであるか否かの違いでしかない。また、ここでのエロもハードで即物的なエロではなく、きわめて観念的なものである。
 そう。流星は単に表層的なもだえ系の骨抜きでわれわれを魅了するのではない。その背後にある繊細な少女に対する視点が、そして少女の徳目を魅力的に描き出す「少女主義」が、多重的に我々の骨を抜きさるのである。

 故「レモンピープル」の末期や、各種アンソロにおいて、流星はきわめてお馬鹿な変身ヒロインもの(貧乳)を発表している。すでにこの単行本でもほの見えているところであるが、流星は「バカスキル」も持っているのである。センシティブなだけでなく、お馬鹿で可愛い作品も描ける。全くもって恐るべき作家である。絶対に注目されねばならない。

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Last-Update: Monday, 15-Aug-2016 09:52:36 JST