神様なんか信じていない僕らのために

遠藤浩輝
アフタヌーン1997年4月号掲載


 久しぶりにマンガを読んで泣けてきてしまった。いままでこの人の作品を読んだことはなかったが、絵の美しさ、話の運び方、そして提示するもの、ともにかなりの高水準に達している。恐るべき才能だ。

 きらめくようなモラトリアムの時代。有意義な学生生活。楽しい共同作業。「おとな」になる一歩手前のほんの僅かの残された時間。そういったものが描かれているわけだが、確かにもう失われてしまったそんな瞬間に対するノスタルジーはある。事実、私自身のノスタルジーに妙に符合してしまったがために、過剰に感動してしまったという側面はある。しかし、それ以外にも、この漫画には魂を揺さぶるものが含まれている。

 タイトルの通り、もはや神様はいない。われわれが生き、生活するこの世の中には。一方、一人で生きるのはつらく、さびしく、やりきれない。そこで人は救いを求めるのだが、とっくの昔に神様は死んでしまっている。それに神様は信じられない。いままで何人のうさんくさい神様がいただろうか?歴史を持った神様だって、今さら信じるわけにはいかない。多くの人は、その辺の小さな神様を信じて、救われたと自分を慰める。しかし、最初から神様を信じることができない人は?

 そんな人の救いは、自分の中に、そして人を求めることの中にある。人は、人を求めずにはいられない。人は、自分をみつめずにはいられない。それは、つらく、傷つくことを覚悟しないと進むことのできない道である。しかし、少なくとも現時点で得ることのできる最高の幸せ・満足感は、この道の向こうにしかない。そしてその道は、人が古くから持っていた自分を見つけるための道である。死へと向かいながらも、その中で少しでも何かを見つけ、生に踏みとどまろうとする人の。

 この作品においては、そんなに大上段に構えてテーマを提示しようという方向は取られていない。が、生きて、人とつながりを持って生きることへの信頼は、強く描かれている。どのような生き方をしても、結局人は死ぬまで生きる。圧倒的な、永遠に続いてしまいそうな日常の中で、それでも人は生き続ける。そんな重圧から逃れるために、人は、死を自分に引き受け、それを背景に他人の中に自分という灯をともそうとする。そして自分の中に他人のスペースを作り出す。そして人は生きていく力をその中から紡ぎ出していく。他人の、ことに自分にとって大切な人の「死」を自分に引き受けることから、それは始まる。

 大切なことは、現状の辛さをひらりとかわすテクニックではない。今を生きていく上で大切なのは、そんな中でもあきらめずにあがき、生きていくことにこだわり、ともに生きる人を(男女問わず)見つけることだ。永遠に大して戦いを挑み、「でも、やるんだよ!!」(根本敬)のスタンスを取り続けることだ。現状を受け入れることが両者の前提となるが、質的には大きく異なる。遠藤浩輝のこの漫画は、後者の立場を貫いている。永野のりこや、しりあがり寿、よしもとよしともと同じように。そうしたスタンスに私は打たれてやまない。

 

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