道満は次のステージに向かいつつある。デビュー期、下積み期を抜け出し、自らの作家性をストレートに発揮する時期にきている。すでに前作「くぢら」でもそうした面は発揮されていたが、今作ではより鮮明になっている。
道満の向かう方向は大きく二つに分かれている。一つは人を食ったギャグ要素の強い作品を描くという方向である。この作品集では「ジゴロ」に明らかである。自称世界一のジゴロ同士が、世界一の座を争って、家出少女をハメまくる…という内容なのだが、ここではオハナシはどんどん加速し、読者を完全に置いてゆく。普通ならあるであろう男と女のコミュニケーションは一切無く、最後にジゴロどうしが和解して終わる。普通なら単にワケのわからない作品、で終わりなのだが、ここでは絶妙のバランス感覚で上手くまとめている。もちろん既存のギャグ文法とは異なっているわけだが、空虚/「人食い」が作り出す乾いたギャグが、ここに成立している。
もう一つは、登場人物同士のこころのふれあいを描くという方向である。ここでは「はらいそ」の連作にそれを見ることができる。おもちゃの世界を題材とした作品で、主人公は片足が最初から無かった衛兵人形のルク。かれは頭がからっぽで、この世界の有力者に囲われている少女・ゆえと出会う。無垢なゆえは、ルクの失われた足を一緒に探してくれる。そしてはるか天上の世界、「はらいそ」に行けば、足が見つかるかもしれないという。ゆえは有力者の座を狙う連中に幽閉されもてあそばれる。一方ルクはセットになっていた天使の少女と再会し、一緒にはらいそに行こうと誘われる。結局ルクは…というものだ。道満のこの方向の作品に共通することは、登場人物が皆欠落や異形を持っているという点である。ルクは足を、ゆえは頭の回転を失っている。「ホットミルク」に掲載された『トゲトゲ』でも同様だ。この作品の主人公の少女は両手が刃物になっており、他者にやさしく触れることができない。だが彼ら/彼女らは、そうである分別の徳目も兼ね備えている。それは無垢さであったり、素直さであったり、献身であったり。
お分かりのように、この構造は、ティム・バートンの『シザーハンズ』と同様のものである。無論「はらいそ」も、『シザーハンズ』同様ハッピーエンドで終わる。道満がバートンと同じところも目指していることは間違いないであろう。しかしかれの目指すところは、別にもあるように思われる。それは、絵柄なりオハナシなりを抽象化した果てに見出されるポエジイとでもいうものである。詳細な姿も、全体像もまだ見えてこないものの、既存の「わかりやすい」大きなオハナシとは違った形の感動が、ここから生まれているように思うのだ。絵柄を抽象化することによって、感動を回り道して描くことによって。
面白いことに、TAGROも同じ方法をとっている。二人が目指すものは完全には重ならないものの、「抽象化の先にあるもの」「抽象化されなければ描けないもの」を目指している点では共通しているように思われる。そしてそうした方法論をとるのは二人だけではない。それは我々のこの時代における「リアル」の姿を反映して、つよく我々に訴える可能性を持っている。
そう、実はこの作品集は、この先の「まんが表現」の進む方向を指し示しているといえるのだ。変化はそう明らかな形では現れないものだが、ここでの変化は比較的顕著で、象徴的である。新しい漫画の可能性が、ここにはあるのだ。
Last-Update: Monday, 15-Aug-2016 09:52:38 JST