最近の根本敬の漫画は、すっかりオートマティズムの域に達しているようで、今まで貯め込んできた濃いいものや、人間の有象無象のカルマといったものを、無意識に任せて出てくるままに描きつけているように思える。無意識過剰、という点では、このやり方は蛭子能収の製作姿勢に通じている。蛭子化する根本。
根本敬の漫画は、漫画が「そこにある」「生み出されている」ことに意義があるのであって、漫画としての面白さ/つまらなさとは位相の違うところにある。人間が持ち続けていながら、さまざまな力によって「見えなくされて」いるものが描かれているからである。根本敬本人も言うように、「解毒」のための戦いなのだ。そしてもうひとつ、根本敬の描く漫画を読むことは、根本敬の抱える無意識の構造を目の当たりにすることである。この点も蛭子漫画と共通する。他人の持つ無意識の構造を覗き、それに戦慄する/共感する。これは通常の(「特殊」ではない)漫画ではなかなかできることではない。この点でも根本敬の漫画は独特の位置を占め、力を持ちつづけている。
しかし、漫画としてみたときはこの作品集はどうか。これが実にしょうもなく、つまらないのだ。ここでも忠実に蛭子漫画をトレースしてしまっている。「FRONT」に連載された「黒寿司」26ページくらいを「例の手品」で100ページにしちゃってるんだものなあ。4倍希釈だものなあ。単行本になるだけのページ数を稼げないのは分かるが、あんまり薄めすぎるのもなあ…というわけで、ちょっと損をした気分になる作品集。根本ファンは絶対に買うべきだが、根本敬の「入門」には適さない。