前略山本夜羽様。あなたの新作「共犯妄想」を読ませていただきました。そこで率直な感想を書かせて頂きます。
あなたは、何を焦ってらっしゃるのですか。最初の連作「終わらない歌をうたおう」に顕著ですが、あなたの筆からは「何かを訴えよう」という焦りが感じられてなりません。
「現在」における「闘争」のあり方は、いくつもあると思います。例えば政党に加わってみたり、市民運動をしたり。あるいは自らの主張を含んだ独自の文化を発信してみたり。その方法は様々で、それぞれの間には優劣はないと思います。闘争を行うこと、すなわち自らの意見を述べてゆくことは、それはそれで尊いことだと思います。
ですが今の時代に共感を呼ばなくなっている闘争の形もあります。それは、60〜70年代的な意味での政治的闘争、すなわち「一見純粋に自らの政治性を声高に訴える」というものです。
たしかに、その方法は現在でも手っ取り早い、いやもっとも手っ取り早い方法であるといえます。自らの主張を直接伝えることができますし、それに共感した人を「動員」することもできます。上手く「動員」することができれば、結構強い勢力になることもできます。例えば「ゴーマニズム宣言」に動員された人々のように。
ですが、今のこの時代と「斬り結んで」ゆく力を、この方法はどれだけ持っているでしょうか。二つの側面からそれは疑問です。第一に、今の時代に人々の性向を一つにまとめることは難しく、もしまとめようとした場合には必然的に反感を生むと考えられるからです。第二に、もし動員することができたとしても、そこにどれだけの実効性があるか疑問だからです。確かに現在の状況は分節化が進んでいるため、人々の間に共通の理念を求める傾向があることは否めません。歴史修正主義=自由主義史観や「ゴーマニズム宣言」が受け入れられる背景はまさしくそれでしょう。ですがそこで動員された人々はどうでしょうか。分節化の圧力に耐えかね、自分の意見を持つことができず、そのために自由主義史観を「借りている」だけの状況なのではないでしょうか。これは右翼的な文化状況に限らず、他の文化にも見ることができます。例えば「叫ぶ詩人の会」など。単なるフォロワを作り出すだけでは、何の効果もないのではないでしょうか。
現在必要なのは、「直接的でないゆっくりとした文化的闘争」なのだと思います。自らの直接的目的を持つのは構わないと思いますが、それを決して表現のうえに出さず、状況を描写してゆくなかで、すなわち現状と斬り結んでゆくなかで、行動としてあらわしてゆく。決して焦ることなく、地道な、地に足のついた、等身大の文化を倦むことなく作り出してゆく。そうした行動こそが、単なるフォロワでない、「ものを自分の尺度で考えることのできる」受け手を作り出してゆくのではないでしょうか。また、そうした努力が見られるものにこそ、本当の共感が生まれるのではないでしょうか。イデオロギーに対抗するのにイデオロギーを以てするのは現在では賢明な考えではないでしょう。単にイデオロギーの異なるものを打倒して、それで終わりかといえば、そうではないはずです。同様にマルクス=レーニン的な「革命」も現在では有効ではないと考えます。マルクスの思想には多くの見るべきものがあるとは思いますが、現在は結果を急ぐ「機動戦・電撃戦」=「革命」ではいけないと思います。現在の闘争は、じわじわと、そして倦むことなく表現してゆくという「陣地戦」であるべきだと私は考えています。スチュワート・ホールが強調するように。
あなたがある政治集団に狙われ、暴力沙汰になったことは良く存じ上げております。表現の自由のために共同宣言を出したこともまた。あなたが差し迫った闘争をしなければならない状況にあったということは十分に理解できるのです。ですが、その方法に、あまりにも手っ取り早すぎる方法を選択なさっているのではないでしょうか。私は、あなたのいちファンとして、非常に憂慮しています。どうか初期の頃の「党派性に回収されないオルタナティブ」を提示するというスタンスに戻って頂けないでしょうか。私は切に切にそれを願っています。良い可能性を持った作家が時代おくれの考え方に吸収されてしまうのが惜しく、悔しく思うものですから。
厳しい意見になりましたが失礼いたしました。これからもお体を気遣い良い作品をお描きになって下さい。
敬具
吉本 松明