瀕死のエッセイスト

しりあがり寿
角川書店


 最近のしりあがり寿は、「真夜中の弥次さん喜多さん」、「ゲロゲロ・プー・スカ」、文章だが「多重人格アワー」などの、もの凄い作品を連発していたが、それにとどめを刺すような作品。しりあがり寿は「死」を想っていたのだ。「メメント・モリ」。この作品を知ることによって、最近のしりあがり作品に共通して流れる悲しみを理解することができる。そう、しりあがり寿は悲しいのだ。

 その悲しみは、現在の社会の底に流れている悲しみと同質のものといえる。社会の底に潜む悲しみは、どのようなものであるか明示されてはおらず、漠然とした形で人に影響を与えている。だがしりあがりはそれをしっかりと認識している。そして多くの人と異なり、そこから逃れることなく、その悲しみをきちんと目前にしている。その悲しみとは、今の自分が変わっていってしまうことへの、今の自分が、自分が暮らしている社会が死んでいってしまうことへの、決して拭い去ることのできない悲しみなのだ。

 現代社会は激変していると、最近ではしつこいぐらい言われている。そして、昔のものは急速に姿を消しつつある。鑑定番組に端を発するアンティークブームも、ものが消えていくことの裏返しであるといえる。そして、人間の内面的「すがた」も、同様に変容している。ネットワークにより、「自我」の境界は崩れていっているし、人を好きになることも、人を嫌うことも、人がいなくなることの悲しみも、変容しつつある。そして、「じぶん」そのものも、大いなるネットワークの海へと溶け込んでいき、次第に他の人との境界があいまいになってきている。ネットワークがわれわれの中に完全に内面化し、すべての人がオンラインでつながれるようになると、「エヴァンゲリオン」に出てきたLCLの海や、第七文明人の「イデ」が現実のものになる。それはとても気持ちよいものであり、新しい進化の段階なのかもしれないが、少なくとも「いまのじぶん」がいなくなってしまうこと、今使われている言葉の中で最も近いものと言い換えると「死んでしまう」ことである。しりあがり寿の悲しみは、おそらくはそこにある。

 こうした動きは、現在の状況を考えるに、止めようのない流れのようにも思われる。少なくとも今までの文明の動きを考えるに、とても簡単には止められないだろう。それは産業システムの中に組み入れられ、政府の政策としても取り入れられ、何といってもそれを内面化している人が既に存在する。しりあがりの感じている悲しみは、どうやっても消せないのだ。われわれはその悲しみを十字架として、既に背負ってしまい、その十字架から逃れることができないのだ。ゆえにこの悲しみの質は、われわれが通常の生活で感じるものとは異なる。これは「透明な悲しみ」ということができよう。誰を恨むこともできず、憎しみも起こらない。受け入れるほかない、浄化された悲しみ。

 だがしりあがりは、そこであきらめることはない。悲しみは世の中に横溢しているが、それでも「いまのじぶん」はまだ生きている。この作品の中では、そのじぶんに即して、死を捉え直している。いくら悲しくても、まだ人は、死ぬまで生きるのだ。なら今のじぶんにとって死とは何かと問う試みが、この作品なのだ。

 

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