なぜこういった作品が?と不思議に思った人もいようが、まったく必然性がないわけではない。作者は喜国雅彦の奥さん(元アシ)。キクニ−クニキって案配なのだ。
オハナシは、超潔癖症の主人公・中嶋(後ろにいる方)が、わんぱくで、元気で、かわいい、やんちゃな小犬みたいな転校生・遊太(前にいる方)に好かれ、その可愛らしさに振り回されながらも、いつしか心を開いていく、というもの。この遊太くんが可愛いのよ。たとえが古くて悪いが、言うなれば魔法の少女ペルシャを男にして、5倍くらい美形にした感じかな。
中身はもう、これでもか、という程の様式の嵐。また、女の子に受けそうな、いかにも、って感じの要素もてんこ盛りとなっている。主人公・中嶋は長身の美形だし、遊太の父親はまだ若く、しかも遊太たちの同居人は「そんなのありかよ」っていうような美形のオトコ。オトコ二人が両親だって言うのだから…。またサービスカットも満載。遊太くんの胸チラ、入浴シーン、涙などなど。まずはこうしたオヤクソクをこれでもか、というくらい見せられる。これにうんざりする人もいようが、「こういうものだ」とあらかじめ納得して見るのであれば、実に楽しいことである。様式が様式通りに行われることは、かなりの快感を伴うものだ。ドリフのコントやよしもと新喜劇が、水戸黄門が、パターンから外れていたら気持ち悪いだろう?
この作品がイイのはそれだけにとどまらない。まずは、てらいや打算のない、見返りを求めない好意が描かれているという点である。遊太が中嶋に寄せる好意はまさにそれで、たとえるなら「トーマの心臓」でエーリクがユーリに寄せたような「ぜいたくな感情」である。それは文句なく無邪気で、純粋だ。そのために凄く心洗われるものとなっている。
もうひとつは、主人公が遊太の好意によって、潔癖症という自分で張り巡らしたATフィールドを乗り越え、人々の中に「戻ってくる」という点である。無償の好意は、寄せる思いは、現在もっとも切ない問題の一つとなっているATフィールドを中和する効果を持っている。まあありがちなプロットではあるのだが、下手にひねっていない分、強く訴えるものを持っている。
見た目で「何じゃコリャ」という勿れ。こうしたあこぎに見える作品にもイイものは隠れている。