Comic Piazza98

発行/フーコー

発売/星雲社

 いやあやっちまった。これは本当に大失敗。

 体裁は、「新人を登用する雑誌」。2本の作品を除いてすべてが新人のもの。まずそこで読んでみたくなるというものではないか。それに、新人のものではない作品の1本は、恐るべき女流・園山二美。私この人が物凄く好きなのよ。それに、「ビーム」誌上で名作になりそうな予感ばりばりの怪作、「女の花道」が切られて以来だから(新編集長とケンカしたためと見たが如何)、実に久しぶりの作品となる。そこで一も二もなく買ってみたのだ。そしたら…

 何のことはない、代々木アニメーション学院の漫画科の生徒を、「デビューしたことにさせる」ための雑誌だったのだ。おそらくは卒業制作のうち、見るに耐えるものを集めたものなのであろう。まあ……初々しさだけは……見ることができる。

 で、レベルが高いかといえば、決してそんなことはない。絵はまあ描けているといえば描けている。しかしその絵も、ありきたりの域を出ることはない。どの絵もこの絵も、どこかで見たようなものばかりで、個性や才能のほとばしりを感じさせるようなものは、園山の絵を除けば皆無(もう一人の非・新人、小石川圭でさえも)である。

 そして何よりも深刻なのは、オハナシや表現技法がテッテ的に「閉じて」いることである。描き手が触れている世界が手に取るように分かるのだ。見る映像はアニメのみ(それも「天地無用」とかの「やれん」ような奴)。聴く音楽はアニメのBGM。読む漫画はドラゴンマガジンやウルトラジャンプ、電撃大王、そして週刊ジャンプ。いいとこ「ああっ女神さま」「ヨコハマ買い出し紀行」。読む活字は富士見ファンタジア文庫。ゲームはFFと格闘。多少の差異はあろうが、この雑誌に描いている人はほとんどこの範囲を外れてはいないだろう。一般的にいわれる「おたく」世界にとどまり、そこから一歩も参照の枝を伸ばそうとしていない描き手がほとんどなのだ。彼らは、「世界の外」を知らないのだ。卵の殻を破らないと死んでしまうというのに!

 無論、こうした描き手のオハナシが面白いはずが全然ない。ピンとくるような作品は、園山の作品も含めて、ああ、皆無なのである。園山の作品はさすがに他のものより頭二つほど抜きんでてはいるのだが。また、表現技法も陳腐の極み、野暮の極みで、洗練という言葉とはまったく無縁である。これには経験が必要なのでしょうがないのだが、コマ割、構図、視線の運び、どれもこれも以前の誰かの、それも凡庸な作品の、焼き直しなのである。

 「閉じ」の傾向は、他にも枠の外に書かれた、「製作者コメント」とやらにも見て取ることができる。靴を履くところの絵が描いてあって、「私、この靴持ってるんです。」
………開いた口がふさがらん。描写力の不足を欄外の書き言葉で補うという、士郎正宗が始めた言い訳めいた傾向よりさらにたちが悪い。描き手の多くは、「この漫画は商業誌に載るのだ」ということを理解していないのだ。

 絵の鍛練こそ一応やってはいるようだが、それもまったく没個性な絵。プロとしてオハナシを作っていく教育が、個性的な画面構成を教えて行く教育が、成されている様子は絶無である。例外はあろうが、表現を志すものは、一般人の四倍も五倍も、他者の表現を、それもいい表現を摂取するべきものではないのか。そして自分の表現を、オハナシを磨いてゆくものではないのか。しかし彼らのオハナシからは、彼らが富士見ファンタジア文庫以外の小説を読んだ痕跡を見出すことができない。表現技法やコマ割りも、重要な様式・個性の要素となるため、他者と異なってゆくように鍛練されている必要があると思うのだが、それもなされた様子がない。彼らの表現からは、アニメ以外の映画一本、見た形跡が見られないのだ。「そういう世界」の人であればとりあえずは見たであろう「エヴァ」でさえも、彼らにはまったく理解された様子がないのだ。

 まったく恐るべき「教育」である。とり・みきもいうように、これではまったく金をドブに捨てるに等しい。しかもその教育とやらの結果を、それもひどいものを、売りつけるというのであるから。また、それぞれの作品のひどさを勘案するに、「金を積んだ奴を載せた」節もある。因業指数炸裂である。地獄にいくべきである。

 が、考えさせられるところもある。ひょっとしたら、このような雑誌が存在してしまうことに、それを許容するマーケットがあることに、庵野秀明が「エヴァ」で指摘したような「閉じた世界」の本当の問題点があるのかもしれない。この雑誌は、問題の根深さを知る上では非常に良い、生きた題材である。漫画について何か書こうとするなら、逆の意味で必読である。

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士郎正宗の場合、欄外の書き文字が読み物となっているため、ひとつの「芸」となっている。また書き込みが不足していると言うことはない。しかし、書き言葉というサブテキストなしには、漫画を頭に入れることすらままならないというのは問題なのではないか。ひとつの漫画の可能性の拡大を示すのは間違いないのだが。また、これは士郎正宗の罪ではないように思えるのだが、欄外の書き込みが許容されたことは、絵を描かずして字を書くことによって誤魔化すという傾向を助長したことは間違いないだろう。6ページも字ばっかり読みたくはないぜ、「神風」!萩原を真似てどうする!字を書くってのは唐沢が「カスミ伝」でやったみたいにギャグにするもんだ!