サイコさんからの手紙

別冊宝島356号

宝島社

 良くも悪くも、というより、悪くも悪くも、といった方が正確か、まさにいつもの別冊宝島

 こうした、精神がイッてしまった人の話は、確かに聞いていて面白い。楽しめる。しかし、その楽しみの裏にあるのは、みずからの「正気」を、既知外の人々の話によって確かめようという、「低めあった安心」である。ここでは、基地外の人々はまさに見世物となっている。

 ところで、ここで描かれているような狂気は、多かれ少なかれ我々の内面にも存在する。恋をすれば誰だって思い込み過剰モードに入るし、ここで触れられている人との違いは、単に「正常」に戻って来れるか、来れないかの違いでしかない。そして、戻ってくる「正常」にしても、きわめて相対的なものでしかない。その基準は人によってまったく異なり、誰にも客観的に線引きすることはできない*1
 現在においては、「正常な社会」を措定し、その公共の利益を破壊しないように、という考えから、一定の線引きが制度面、病理学の面から行われているが、それにしたってスタティックなものでないことは言うまでもない。今日笑っていたものが、明日は笑われる立場にならないとはいえないのだ。

 このムックの記事のすべてがそうだ、とは言えない。が、大半を占める見世物的な視点は、非常に重大な問題をはらんでいる。見世物として面白おかしく書き立てることは、本来は誰もが認識していなくてはならないはずの、線引きの不可能性を隠してしまうため、実に危険であるといえる*2。自分は正常だ−奴らは異常だ、という簡単な構図に陥り、「危地外って面白い」「ああはなりたくないものだ」で終わってしまい、自らが必ずもっているはずの狂気が覆い隠され、抑圧されてしまうのだ。何事もそうだが、抑圧されると、後が恐くなる。揺れ戻しが大きくなるがために。

 やはり別冊宝島は堕落している。それとも読者層が堕落しているというべきか?「きちんと勉強*3した結果、トータルでこんなのになりました」という、真摯な姿勢と一貫性が感じられないのだ。それは書き手のレベルがひどく低いことと*4、それを許容してしまう編集方針からも、また明らかである。単なる悪徳商法を「窺知外」扱いするところなど、怒りさえ覚える。問題はそんなところにはない。狂気はすべての人に潜んでいる。それをみなが自覚し、言うならば「飼って」いかなければならない、ということをまず、認識しなくてはならないのである。偏在する狂気と共存する道を探らねばならないのである。そういう視点からすると、この本はきわめて悪質である。

 まったく。サブカルチャーの旗手だったころの宝島は、JICC出版の心意気はどこへ行ったのだ。悔い改めよ!

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*1 これは制度の面でも同様である。時代によっても、土地によっても、何を持って「機知の外」とするかはまったく異なるのだ。同一の状態でも、あるところでは神として崇められもし、あるところでは石もて打ち払われたりもする。

*2 見世物的視点は、話の枕として必要である面もある。純粋にエンターテイメントにするのなら、それもまた良いだろう。しかし別冊宝島がもっている(と考えられる)「社会派」的視点には、これは決定的/本質的にそぐわない。

*3 ここでの「勉強」は、一般で言う勉強と、いろんなことを知る社会勉強の両方の意味が含まれる。

*4 見沢知廉も所詮この程度であった。想像力のはばたきの感じられない「調律の帝国」ですでに明らかだったが(まあ刑務所の辛さのことを慮るとしょうがないんだろうが)。