最初のレコードが出たのが84年と古いのだが、十二分に紹介の価値はある。一見ミニマルのように聞こえ、静けさが全体を支配するのだが、この静けさは普通の意味の静けさとは違うのだ。普通の「静けさ」は多分に「音の不在」として捉えられるが、ここでの「静けさ」は、次の音を引き出すための呼び水となるものだ。単なる不足ではない。静謐の中に濃密な存在があるのだ。この場合の「静けさ」は、まさに「祈り」のそれだ。祈るものは沈黙しているのではない。神に語り掛け、神の語り掛けを待っているのだ。ここではマルティン・ブーバー言うところの「ダイアローグ」がなされているのであり、マックス・ピカート的な意味の「沈黙」があるのである。このCDでの演奏もまさしく「対話」であり、「沈黙」なのである。
ペルトはエストニア生まれの作曲家である。その背後には熱烈な信仰があるが、それは現代的な熱い形で現れることはない。中世的な静謐の中にかれはその信仰を表現しているのだ。それは一面、痛烈な文明批判として受け取ることも出来る。このCDに入っている曲は、祈りであるがゆえに、現代に対する悲歌−Lamentsなのだ。神に戻る事が出来ない現代への。
我々は神を持たない。しかし、この悲歌はかなりのリアリズムを持って我々の心に染み渡る。現代は悲しみに満ちているからだ。しりあがり寿は「死」を悲しみ、多くの人はディスコミュニケーションを悲しんでいる。アルヴォ・ペルトの悲歌はそうした我々の悲しみを刺激するのだ。そしてその悲しみの根は非常に深い。単に神に戻れば解決するものでもないし、もはや神のもとへ戻ることも我々はできない。「祈り」と、それがもたらす「根源的な」人間のコミュニケーションに戻ればいいというものでもない。だから、なおのこと悲しみは深まるのだし、天罰のメタファーが心に大きな衝撃を与えるのだ。エヴァンゲリオンを見よ。
では我々はどうすればいいのか?神の存在無き今、それは完全に「私」が決めなければならないことである。「私」以外のどんな「存在者」も「私」の方向を決定することはない。それに、「私」自身もデカルト的に確固な存在では今やない。「私」の位置とスタンスは全て相対性によって決まる。他者との関係を把握することによってはじめて自分の位置が分かるのであり、自分が何者か分かるのだ。だからこそ我々は「他者」を知らなくてはならない。そこで、このCDに見られる「祈り」を知ることが重要なのだ。