漫画の鬼アックス9号

東京ゾンビ

花くまゆうさく

吉本 予想したエンディングを一歩も出ていないものの、最後に人々が解放されるという終わり方はやはりカタルシスが高い。そして最後にフジオが旅立つ、というところも泣かせる。少々ヒネていたが、ビルドゥングスロマンとして良くできていたのではなかろうか。
久遠    
ジンバルロック

古泉智浩

吉本 これまた田舎の情景がにじみ出まくっていて実に微笑ましい。そして教養のない人々が変にニューエイジにかぶれちゃったりするところもありそうで良い。この人の良いところは事実に即してオハナシを紡ぎだしているところ。それが強いリアリティと共感を生むのだ。
久遠    
日本崩壊食

花輪和一

吉本 相変わらずこころの暗黒面を全開にしているところが実によい。花輪は刑務所でいっそう世の中に対する「冥い」気持ちを募らせてきたようで。その暗さこそが、一連の作品を魅力的に、かつ現代性の高いものにしているのだ。よい。
久遠    
須磨で

鈴木翁二

吉本 漫画5/態度2 微妙なところ。私自身翁二は大好きなのだが、「アックス」という場にある、と考えると、この作品はきわめて違和感の高いものになっている。具体的な、または架空のノスタルジアこそが最近の翁二作品のカギになっているのだが、それは先鋭的な方向にも進んでいるこの雑誌の足を引っ張りかねない要素を持っている。内容的にひとりよがりになりすぎているのもやや辛い。「アックス」という雑誌から切り離して考えると評価できる作品だが、雑誌の中にあると考えると低い評価にならざるを得ない。
久遠    
灯明

三橋乙揶

吉本 そして続けてシバか。旧「ガロ」から読み続けている人には懐かしいかもしれないが、上記と同じ理由で現状ではかなり辛いものとなっている。温故知新はいいのだが、ただのロートルのひとりよがりでは読者も辛い。菅野修もそうだが、「旧ガロでしか描けなかったような人」は一掃すべきだったのだ。いみりや津野などの例外を除き。なぜかというとそうした漫画の存在こそが、旧ガロを自家中毒状態に追い込んでいったのだから。編集者たちも自らの置かれていた閉塞状況を思い出すべきだ。作家をとるのか、雑誌をとるのか。読者の関心の多くは後者にあるだろう。
久遠    
双子のオヤジ

しりあがり寿

吉本 実は深い、深ーいオハナシなのだが、それをさらっと描いている。しりあがりのこのバランス感覚には感心する。
久遠    

河井克夫

吉本 字面そのまんまのキャットファイト。オハナシ自体がかなり阿呆らしいのに加え、その「字面そのまんま」性が更に阿呆らしさを加えている。二重に脱力するナイス漫画。
久遠    
たまご

友沢ミミヨ

吉本 ボルドーに渡ってもそのまんまであることは好ましい。できることならおフランス風にソフィスティケートされた作品も読みたいところ。
久遠    
ワシらの愛のあかし

東陽片岡

吉本 愛の形は百人百様であるというが、その極端な形を描くのはエンターテイメントとして優れている。
久遠    
黒寿司十八番

根本敬

吉本 原稿のつぎはぎじゃあねぇ…。だがこれも意図的なのだから仕方ない。もう少し根本の漫画実験につきあってみようかと思う。
久遠    
達磨さん達磨さんにらめっこしましょ

楠勝平

吉本 漫画6/態度0 一つの漫画として見たときに優れているのは間違いないのだが、ここで「楠を載せる」という政治性が鼻について仕方ない。旧ガロの作家論を載せ、作品を再録するのは、明らかに「長井青林堂」の正統性を主張しようという行為。故人の作品を政治的に利用するのは許し難い行為であると思う(同様の文脈に山田花子がある)。昔の作家を再評価するなら文字での連載で十分なはず。読者をなめきった掲載である。
久遠    
ノンレム睡眠の夜

鷹羽正臣

吉本 一見すると単なる手抜きの様に見えるのだが、以外と読めてしまう。それは第一に画面構成に細心の注意が払われているため。だがそれだけではなく漫画と読み物(文字による)の微妙な接点が、この作品の上にあらわれているからではなかろうか。新たな漫画表現の可能性が、何気なくあらわれている作品。
久遠    
満月子さんのはなしのはなし

あらいあき

吉本 漫画3/態度0 …やれやれ。いまだに「旧ガロ」テイストを持っている人がいたとは。そしてそれを安易に載せるとは。オハナシ的には悪いものではないのだが、表現技法があまりにも古くさく、一方で饒舌にすぎる。翁二、シバの描線が完全に時代遅れになっている(もちろん両者ともそれを知った上でその路線を維持し続けているわけだが)のと同様に、こうしたつげ的描線も20年前に死んでいる。作者がそれをあえて選択するのはいいのだが、問題なのはそれを取りあげてしまう編集サイド。以前載った新人もそうだったが、あまりにも旧ガロ(それも休刊前の90年代前半のガロ)的テイストにとらわれすぎている。旧ガロが「死んだ」理由を本当に考えたことがあるのだろうか?このままではアックスも遠からず以前のような自家中毒に陥るであろう。大切なのは作家や形式を継承するのではなく、長井青林堂が持っていた前衛性を継承することではなかろうか。
久遠    
くるくるきいきい

キクチヒロノリ

吉本 この人の場合は「アックスに載る」という政治性やらなにやらから一切無縁なところで作品を成立させている。何とも潔いことよ。内容もふるっている。
久遠    
美男葛

鳩山郁子

吉本 10 暁の茶事というイマジナシオンを強く喚起する題材を、きわめて、きわめて繊細に描いてゆこうという姿勢には本当に頭が下がる。それはオハナシだけでなく、表象された様々なもの…コーヒー、灯籠、着衣など…にも「充満」している。すべてが一つのコスモスをなし、そのコスモスが読者を強く惹きつける。そしてそのコスモスに無粋なものを忍び込ませることによって、漫画的ドラマトゥルギーも高めることに成功している。近年まれにみる奇跡的作品。後編も楽しみ。
久遠    
色事泡形

アヤ井アキコ

吉本 すがる女、という切ない精神状況を描くのは良いのだが、実はそれも最後にすべて吹っ飛ばされるので唖然とする。今までの描写が全部「ウソだよーん」とひっくり返されるのだ。何とも読者を突き放した漫画であることよ。これを評価できる人はよっぽど鈍感な人であろう。
久遠    

<総評>

吉本 すでにそれぞれの作品で触れたとおり。昔の作品や昔の作家を載せるのはきわめて慎重でなければならないはずだ。なんといってもこの雑誌は「ガロ」ではないのだし、読者も、一部の旧ガロからの熱心な読者を除けば、「ガロ」であることを期待してはいないのだから。大切なのは今、この時代に訴えかけるような雑誌を作ることではなかろうか。それができないのならおやじたちのノスタルジーにのみ訴えるような停滞した雑誌づくりをすべきだ。中途半端は一番良くない。
久遠  

<ベスト>

吉本 それでもこの雑誌を読み続けるのは、時代性を強く持った作品も載せているし、優れた作品も載っているから。ここは鳩山郁子先生「美男葛」にしたい。この繊細さはまさに才能、いや天才である。この繊細さこそ我々が失ってしまっているものである。
久遠  

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