吉本 松明
水色時代、水色時代。ああ、水色時代。本放送が終了し、かなりの期間が経過するものの、この作品はいまだに少女主義の頂点にあり続けている。また、最近(98年第二四半期)再放送が始まり、そのことはさらに強固に証明されつつある。それでは、何故この作品がいまだに少女主義の頂点を極めることができているのか。少女主義の頂点に君臨し続けることが出来ているのは、いったい何故なのか。
まず言えることは、水色時代を超えるような作品が、今に至るまで作られてこなかったことである。これほどまでに素晴らしい前例がありながら、なぜアニメ製作者はさらなる少女主義の探究をしないのだろう?アニメ製作者たちの良識を疑わざるを得ない。だがしかし、作られてこなかったものについて云々しても仕方がない。そこで、水色時代が持つ「純粋性」について語ることにしよう。
第一に、その心理描写について語られなくてはならない。ユウちゃんは、何かあるごとにいちいち思い悩む。いや、いちいちという言い方は良くない。そのたびごとに立ち止まって、心理的なショックをかみしめるのだ。ああ、この「繊細」さ。そこには大きな「思い」が入り込んでいるのだ。ユウちゃんが立ち止まるようなことは、「少女性」を失ってしまった、堕落した「大人」の目から見れば、まったく大したことではない。が、ユウちゃんにとっては大問題となる。このようにユウちゃんが立ち止まるのは何故というと、ユウちゃんの持っている崇高かつ純粋で、たとえようもなく美しい「思い」と、現実のあり方が異なっているからだ。
ユウちゃんにおいて、世界はすでに完成されている。少女は、その「思い」によって、世界を完璧なまでに作りあげるのだ。その世界には嫌なものや自分を傷つけるものは存在しない。存在するのは自分にとって優しい存在、自分の夢、そして自分を愛してくれる「すてきな人」。何とも…えもいわれぬほど…美しく、素晴らしい世界ではないか!当然、その世界と、「現実」の世界はリンクしない。多くの凡庸な考えによると…特に教育心理学や発達心理学のような唾棄すべき学問によると…人は自らの世界と「現実」とを比較対照し、両者のバランスをとって、成長していくのだという。しかしそれは真実を見誤った考えである。真実は少女の思いのなかにこそあるのだ。
ユウちゃんの「立ち止まり」は、「現実」とされている世界の虚偽を暴き出すだけにとどまらない。それは、現実を、少女のなかにいまでも確固として存在し続けている「真実の世界」に引き戻そうとする、素晴らしい心の働きなのだ。現在社会の危機的状況を回復せんとする、現代人に対する福音なのだ。
第一の事柄と関連するが、第二の「純粋さ」の顕れとして、徹底的なモノローグで物語が成り立っていることを挙げることができる。ユウちゃんが何かというと発するモノローグはこうだ。「何故?どうして?」。これはユウちゃんの世界がほかの世界と「異なっている」から発せられているわけだが、このことはユウちゃんが実に真摯に自分の世界に対面し、しっかりとその世界に立脚していることを示している。
また、ここでもう一つ注目するべきは、「他者」の存在が介在してこないことである。確かに、たまにヒロシくんやタカちゃんに相談したりすることもあるが、それより圧倒的に結末はモノローグの果てに訪れる。ユウちゃんの世界は完結しているのだ。ユウちゃんのもっている内的世界が「真実」にあふれ、微動だにしない「正しさ」をもっていることは、ここからも明らかになる。最も「たいせつな人」であるはずのヒロシくんの存在さえも必要としない*、完璧な内面世界がここにあるのだ。これを「思いこみ」という人、そのような人はもう死んでも構わないような無価値な人である。「文化」を理解することのできない愚かな人である。本当はこういう単純化されたもの言いはされるべきではないのだが、あえてそういう人のために言っておこう。低能な人よ、君たちの言う「思いこみ」の中にこそ、真実はあるのだ。
そして最後に挙げられる「純粋さ」は、こうした世界を徹底的に「澄んだ」ものとするため、きわめて注意深く番組が作りあげられていることである。あえて精緻さを追及しない作画、背景。ユウちゃんの心理描写がすべてだから作画に手が回らない、というのではない。ユウちゃんの心理描写を生かすために、あえてざっくり、さっぱりとした作画&背景が選択されているのだ。
これはユウちゃんの声にも当てはまる。ユウちゃん以外の声優の下手さ(すべてがそうだとはいわないが)は、明らかに手が回らないせいであろうと想像できるが、ユウちゃんの場合はそうではない。あえて流暢な、「技」をもっている声優をあてないことによって、ユウちゃんのもつ「世界」をリアリティ溢れるものとしているのだ。それは次のような派生的な効果ももっている。すなわちユウちゃんの完璧な「世界」を親しみやすいものとし、そうした「世界」をもたない人にも「世界」を広める、という。
あまりに美しく、あまりに完璧なユウちゃん=少女の「内面」世界。程度の低い君たちのために、あえて分かりやすい表現を使おう。少女の「思い込み」世界。水色時代という作品は、それを描くために、きわめて注意が払われており、表現技法も妥協のないものとなっている。そう、それはあたかも「奇跡」であった。
再び奇跡を起こそうとすることは大変なことである。だから水色時代に匹敵しうる少女主義に充ち溢れた作品がなかなか出現しないことも、まあ理解できないことではない。だが、そこで「もう奇跡は起きない」と諦めてはいけない。水色時代にしても、神の手ではなく、人の手によって作られたものである。二度目がないわけがあろうや。それに、愛さえあれば、想いさえあれば、たいていのことは何とかなり、それが強ければ強いほど、作られたものは凄いものとなる。かててくわえて水色時代と、それが描き出す少女世界には「真実」がある。真実こそ、人が必死に追い求める価値のあるものではないだろうか。「愛」を注げるものではないだろうか。
没入せよ!少女世界に。そして再び純粋な少女世界を表現した作品を作りあげるのだ。それは真実に対して献身することであり、「愛の王国」に近づくことだ。まずは朝の再放送を欠かさず見るのだ。そしてユウちゃんになりきるのだ…ではなく、ユウちゃんになるのだ。なれ。これは腐りきった現代に残された最後の道である。
*正確にはヒロシ君のような存在は、内的世界を形成し、維持するために不可欠である。その存在に思いを寄せるために、世界が生み出されるのだ。が、ひとたび世界が形成された後は、それは完璧で非のうちどころがないものであるため、そのほかの要素は不要となる。