「少女革命」を分析する!
〜少女革命ウテナ
吉本 松明
少女革命ウテナ、である。水曜日6時から、テレビ東京である。まずはそのタイトルに惹かれるではないか。こんなにタイトルだけでイメージを喚起されるのはずいぶん久しぶりである。少女革命…。何と、甘美な響きを持つ言葉であろうか。少女が革命を起こす。少女の革命を起こす。この腐りきった世界を、少女がひっくり返すのだ。実に素晴らしいではないか。
残念ながら、時間の都合上、私はこのアニメを見たことがない。が、このような言葉に触発されてしまった以上、私は書かずにはおられない。読者諸君は、これからの記述には、私の想像が存分に含まれていることを承知して頂きたい。論としては破綻するやもしれない。が、私は今非常に感動している。ゆえに書かねばならない。今、この瞬間に、少女革命については書かれねばならんのだ。ならんのだ!
ここでいう少女革命は、どのような形で進んでいくのか。少女は、どのような形で、世界を革命するのか。それは、変革主体である少女が、すなわち番組がターゲットとしている層が、どのような存在であるかによって決まってこよう。どのような年頃の、どのような層の女子をして、ここでいう少女としているのだろうか。まずはそこから考えられなければなるまい。
一般にコギャルと呼ばれるような層ではないことは明らかである。先ずコギャルはアニメを見ない。夢を見るより先に現実に聡い、それがコギャルである。それに単純化こそ彼女たちの得意技である。一見、素晴らしく作り込まれている(=難しそうに見える)このアニメは、彼女らによって楽しまれはすまい。
「セーラームーン」がターゲットとしていたような、まだ「少女」になる前の、幼女でもないであろう。この作品は、セーラームーンやその他の幼女向けアニメに比べて、キャラクターデザインを見るかぎり、非常に複雑であるように見受けられる。また、そこに存在する宝塚的−「ベルばら」的な様式性も、ある程度大きくならないと理解できないものであろう。
また、年代的に上の女性層、具体的には女子大生以上の女性層でもないだろう。年齢を重ねた女性は、戦略的に子供っぽさを残しはするものの、一面でリアルに密接に関わる。幻想的な世界に逃れることができないというつらい社会的側面もその背後にはあるが、いつしか女性はリアルを積極的・あるいは・肯定的に受け入れていくようになる。リアルに関わる以上、アニメや少女漫画は必然的に棄却されていくことになる。もちろん、これには多くの例外を含んでおり、一元的に言うことはできないが、そうした傾向を持ちがちな年代をターゲットとしているとは考えにくい。
そこで考えられることは一つ。このアニメは、私が言うところの「少女」をターゲットに作られているのだ。それは、14歳という登場人物の設定、男装の美少女、一人称「ぼく」、掲載誌「ちゃお」といった、さまざまなアイコンから明らかになる。恋に恋する世代、小学校高学年から中学2年くらいまでの、思い込みの激しい世代を狙っているのだ。
まさに、「少女革命」は、私がいうところの、そして愛して止まないところの「少女」をターゲットとしていることが、ここで明らかになった。では、今の社会において、「少女」たちが革命したいと思っていることは何なのだろうか。「少女」たちが望む革命後の世界とは、いったいどのようなものなのだろうか。
「少女」たちが、この世界で直面するもっとも重要で、苦しい問題とは、「想い」が伝わらないことである。当然のことながら、「少女」たちの最大の関心事とは、「想う」ことである。多くは恋であるが、「あの人のことが好き」「あの人と友達になりたい」「私の気持ちを分かって欲しい」などなど、「少女」たちの世界は、表に出すことのできない気持ちの動き、すなわち「想い」に満ち溢れている。そしてその「想い」は、「相手の存在に無関係である」という点において重要である。相手の内面的な存在や、相手の気持ちなどには一切関係なくどんどん高まっていく想い。「どうして私のことを分かってくれないの?」という問いかけ。相手の存在がすでにエポケーされてしまっているがゆえに、この「想い」は、あまりに美しく、あまりに純粋なものとなっている。まさに「真実の愛」である。この「想い」こそ、少女を「少女」足らしめているものである。
が、この「想い」は、現実世界において、基本的に相手には通じないようになっている。実に嘆かわしいことではあるし、この状況を改善するために私は日夜戦っているのではあるが、とりあえず現実は踏まえねばなるまい。原因は、「相手の存在の不在」では決してない。世を覆う巨大なディスコミュニケーションの嵐、誰とも喋らずとも生きてゆける恐るべき社会の到来によるコミュニケーション能力の低下、即物的なものに走りがちな世の中の風潮、セックスをすべてとする風俗の堕落…などにより、「想い」はきわめて伝わりづらいものになってしまっているのだ。伝わらないからこそ少女は「想う」ことを選択してしまっているのだ、思い込むあまり手段と目的が逆転してしまっているのだ、などという大馬鹿者がいるが、これは全くの間違いである。とにかく、少女の「想い」は、非常に厳しい状況に立たされているのだ。
一方、そのような厳しい状況にありながらも、「想いを伝えたい」という「少女」たちの気持ちは、決して弱まることはない。伝わらぬことを前提としている想い(例えばすでに彼女がいる憧れの先輩への想い…など)さえ、伝わって欲しいという気持ちが含まれないということはありえない。この気持ちは、いくら社会が変わっても、決して滅ぶことはないだろう。それは人間の欲求の深いところから発生するものだからだ。そしてここに重大なコンフリクトが発生する。
このように、少女を「少女」足らしめている「想い」は、いまや非常に抑圧されている。その原因は、既に書いたように、社会によるものだ。少女が世界を革命するとしたなら、この部分がもっとも争点となるだろう。少女が革命する世界とは、「想い」の通じない世界・社会なのだ。
ここまで来たら、どのような革命が成されるかは、もはや多くを語る必要もないだろう。革命後、樹立されるのは、「少女」の「想い」がすべて伝わる世界となろう。世界は、これまでのむさ苦しい、美しくない男性原理に代わって、「少女」原理で動いていくものになろう。当然、これは女性原理とは、一部重なる部分はあるが、異なったものである。
具体的には、これまでの資本主義社会における基本原理であった「強さ」、「数の多さ」に代わって、「可愛さ」「美しさ」が基本原理となろう。「少女」の「想い」は、無条件で、しかもおまけまでつけてかなうものになろう。いや、「想い」は、かなえられなければならないものになろう。新たに権力を握った少女たちによって、それは強制的に執行されることになるのだ。あらゆる国家の憲法の根本理念が「想い」の成就へと変わるのだ。
ああ、何と素晴らしい近代個人主義の超克。このように、私の考える少女革命が達成され、想い込みが真の実体を持つようになった暁には、近代の諸問題さえ解決されることになるのだ。少女革命の末に訪れる社会とは、私の究極目標である「愛の帝国」と等しいものなのだ。
私の予想がいかに外れていようと、実際のアニメがどのような内容であろうと、あるいはどのようにマニアたちに受け入れられていようと、私はこのアニメを絶対的に支持する。このアニメは、図らずも訪れた少女主義に対する福音だからだ。そして、私も、少女主義の立場から、ここで進められていく(であろう)革命に参加していきたいと思う。