written by 吉本 松明
「濃い」とは何か。それは簡単に言えば、ある分野を徹底することである。ある特定の分野に関しては誰にも負けない知識を持つ人、それは「濃い」人である。同様に物についてもいえ、誰にも負けないコレクションを持つ人、それもまた「濃い」人である。もちろん、これに含まれない「濃さ」も存在する。これらの「濃さ」を支えているのは、対象への限りない愛である。そしてその愛は基本的には無償のもので、報われないことが多い。コレクションは永久に完結しないし、知識は無限であるからである。だが、彼ら濃い人たちは自らの愛を満たさんがために活動を続ける。濃い人たち、それは無限の愛を求めて戦う「愛・戦士」なのである。
そしてもう一つ、「濃さ」を支えるのは、鋭いまなざしである。これには二つの意味が含まれる。一つは言う迄もないが、「いいもの/希少なもの」を見抜く審美眼である。もう一つは、今まで誰も見向きもしなかったものを見い出し、そこに含まれる良さ、素晴しさを引き出す視点である。または、消え去ってしまいそうなものを見い出し、忘却の暗黒から引っ張り上げるまなざしと言い替えることもできる。メジャーに背を向け、大いなるマイナー世界へ向かう方向である。そしてそれは、ついには崇高さを持つようになり、人間存在そのものに訴えかけるものになっていく。「濃い」ことは、嫌悪すべきことではない。むしろあるべき人間の姿の一つなのである。
切手愛好家はマニアである。骨董品のコレクターもマニアである。しかしオールドコンピュータのコレクターは濃い人だし、超合金のコレクターも濃い人である。普通の映画好きはマニアであるが、どうしようもないZ級映画好きは濃い人である。違いは曖昧ではあるが、線引きをすることはできる。この違いはどこにあるのか?
一つは対象そのものによる。愛の対象が比較的社会に認知されている場合、そのコレクターの存在も社会に受け入れられる。そして「マニア」という語感のしっかりした言葉でくくられることになる。切手しかり、鉄道しかり、ミリタリーしかり。しかし、対象が社会にとってよくわからないものである場合、あるいはアンダーグラウンドなものである場合、それを愛好する者も一種不気味な存在として受け止められることになる。これは、その人の対象領域が今まで誰も手をつけなかったものである場合、さらに強化されることになる。その場合「マニア」という語感のしっかりした言葉は使われることはない。
もう一つは、対象が広い関連領域を持つ場合である。切手であれ鉄道であれ水石であれ盆栽であれ、既存のマニア的対象は比較的孤立し、関連領域はさほど広くはなかった。もちろんやろうと思えば領域を広げることはできたが、マニア的対象はすでに社会における位置が決まっているので、自らそれを広げていくことはほとんどしなかった。ところが濃い対象の場合は異なる。それは社会の様々な領域にわたり、コレクションや知識の範囲は実に広範である。オールドコンピュータのコレクターは同時にソフトウェアやハードウェアに精通し、技術論や社会背景も押さえている。超合金のコレクターは…アニメや漫画にも深い造詣を持っている。このように濃い人とは、既存のマニア枠にとらわれない愛戦士であることがわかる。
更にもう一つ付け加えるとするなら、濃い人の愛の対象は、世間一般の大人から見ると無価値か、あるいはそれに近いものであることが多い。認知されていないものに愛を注ぐがために、まあ当然といえば当然なのだが、そうであるがために迫害に近い扱いを受けることさえある。だが「濃い」人たちは、逆にそうであるが故に、対象に対する愛を深めることが多い。なぜならそこにはマニアには無いヒロイズムとナルチシズムがあるからだ。そのスタンスは殉教者のそれに近い。「濃い」人とは、対象に対する愛に殉じる覚悟を持った人なのだ。
ここまで読んできて、「何だオタクに近いじゃないか」と思った人もいよう。確かに「濃い」人の対象領域はオタクと大きく重なっている。だがマニアとの間に線引きができるのと同様、「濃い」人とオタクの人々との間にも差を見い出すことができる。例えば同人誌をコミケで買い集め、悦に入っている人や、アニメのパロディのサークルを作り同人誌を作る人はオタクである。対して、同じ同人誌を作る人でも、今の時代に「ダイケンゴー」や「メカンダーロボ」注1の詳細なものを作る人は濃い人である。少女系においては、セーラームーンやCLAMPを取り上げ、そういったコスプレをする人はオタクであるが、「さすらいの少女ネル」や「女王陛下のプティアンジェ」のコスプレをする人は濃い人である(さすがにここまで来るとちょっと危険な領域に入るが)。当然これが「ペリーヌ」や「ララベル」ではいけない。この違いは次のようなところに見い出すことができる。
まず、オタクという人々の特徴として、対象領域に閉じ籠る傾向があるということが挙げられる。アニメならアニメといった風にである。マニアの人々とは異なり、オタクの人々は関連する漫画、小説、ゲーム、音楽などには手を出すが、それ以外の領域にはなかなか手を出すことはない。結果、クリシェがはびこり、笑いの感覚や音楽の感覚も閉ざされた進歩のないものになる。ところが「濃い」人は前述したとおり基本的に博識であり、自分の愛好する領域以外にも広く参照の手を延ばす。極言すれば、全ての趣味領域は必ず他の領域と関連を持っている。そこで「濃い」人々はこの関連を見逃すことはない、いや、見逃すことができない。これは一種の性、業のようなものである。結果「濃い」人々はオタクの人々より広い見地から対象を愛することになり、そのセンスや諧虐精神もある程度ではあるが一般に通じるものになる。ただ、この境界はやや曖昧で、オタクの人々が修行と経験を積むことによって「濃い」人々へと深化することは良くあることである。
次に、「濃い」人は右へならえ的なオタクの人々とは異なって、あまり他人が注目しないものに注目し、人がしないような方法で対象を愛する。コミケを見れば明らかであろう。そこで売られる同人誌の多くがその時点で一番人気のあるアニメのものであるし、コスプレも同様である。言う迄もなくこうしたものはオタクの人々の手によるものである。オタクのサークルの成立理由が「居場所」を求めることであることと、同人誌の売上が馬鹿にならないこと、すなわち需要と供給の関係を考えると、当然のことなのであるが、「濃い」人々はこうした状況に決して満足することはない。そこで彼らはメインストリームを離れ、あまり注目されないものに目を向ける。例えば絵も内容も本当にどうしようもない作品である「トランスフォーマー」を熱烈に愛する人がいる。(しかも、シリーズ後半の純日本製の「良くなった」ものではなく、前半の脳がとろけてしまうようなものを!)また、フェティシズム的にロボットのドリル(当然三角錐で螺旋状の刻みが付いている現実世界には絶対無いようなもの)だけを愛する人もいる注2。他人と違う方向性を常に求めること、この部分において「濃い」人はオタクの人々と区別される。そしてこの「偏愛」とも言える愛し方こそ、「濃い」人々の誇りの最大の源なのである。
第三に、「濃い」人の知識はオタクの人々のそれを遥かに凌駕するということが挙げられる。コレクションの量もまた同様である。例えばSFであれば、◯ペや◯グ注3を一冊の欠けもなく全て揃えることは、オタクやマニアにとっては努力目標であるが、「濃い」人にとっては当然以外の何物でもなく、「濃く」あることの前提にすらならない。アニメであれば「ガンダム」の第1話と最終話の台詞を全てそらで言えるといったことがこれに当たる。知識量に関してはオタクの人々もかなりのものがあろうが、そうしたオタクの人々さえもうならせ、平伏させる知識量の持ち主、それが「濃い」人なのである。
さて、これまでは、「濃い」という場合には、ある特定の分野を徹底的に極めた人のことを指してきた。これは「質的な濃さ」ということができる。その分野に対する極めて高いレベルの知識を持っているためである。だが、この「質的な濃さ」以外にも「濃さ」は存在しうる。それが「量的な濃さ」である。
これはどういうものか。簡単に言えば、ひとつひとつの分野については「物凄く濃い」とまでは言えないもののそこそこのものを持っていて、加えてあきれるほど広範な分野を押さえているという人のことである。もちろんそれぞれの分野の知識が「人並み」程度ではだめで、普通の人より深いものを押さえている必要がある。たとえば、今はやりのヒップホップをたいてい押さえ、そこをベースにしながらも、NYアヴァンギャルドや日本のインディーズ、復活目覚しいジャーマンプログレにも深い造詣を持ち、加えてなぜかアニメやポストモダンについても非常に良く知っている…という人だ。具体的には唐沢俊一といった人がこれに当たるだろう。一つ一つの知識や入れ込みはそれほどではないと感じられても、それが極めて広範にわたる、ということになると、人は強い衝撃を受ける。そこに、新たなタイプの「濃さ」が生じるのだ。
ただ、こうした「量の濃さ」は、どうしても「質の濃さ」に比べると劣ることは否めない。「質の濃さ」は突き詰めると崇高なものすら感じさせるようになるが、「量の濃さ」においてはそれを達成するのが難しいからである。「質の濃さ」に見られる「突き抜けた感覚」が得られにくいのである。だから、一つ一つの分野における突き詰めかたが尋常でなく、真に「濃い」と言えるようになった上で、そうした分野をいくつも持つ、ということが理想なのである。
「濃い」といわれる境地に達するためには、一つの方法として努力することが挙げられる。受験生が勉強するように、学者が自分の研究対象を徹底的に調べるように、努力をすれば誰でも「濃く」なることは可能である。だが、こうした「濃さ」は付け焼き刃のものになりがちであったり、てらいのあるものになりがちである。事実、無理して「濃く」なった人には、またはそのコレクションには、臭さが目立って仕方の無いものや、ナルチシズムが先に立って一般性が薄いものがまま見受けられる。作られた「濃さ」には、多かれ少なかれ、いやらしさが付きまとうものなのである。ではいやらしくない本当に尊い「濃さ」とは何か。
それは、当人が特に意識することなく獲得された、「天然の」濃さである。
その人にとっては全く当たり前のことを続けてきたに過ぎない。なのにいつのまにか本を100万冊持っていたりとか、今まで放映された特撮番組のタイトルを全て言えたりとかする状況、これが「天然の濃さ」である。「いつのまにか」「知らず知らずの内に」という点が重要なのである。こうした人が依拠するのはその人の深くにあるじつに個人的ななんらかの衝動で、代償を求めて濃くなるのではない。これは多くは単に「知りたい」という純粋で、深い衝動である。こうした人々は基本的に他人の行動やコレクションに関しては無頓着であり、社会的に無害であることが多い。そしてこうした人の行動は逸脱すれば逸脱するほど一般性を持ち、それに対して尊敬が払われるようになる。
対して「作られた=成り上がり的な」濃さ、「無理した」濃さは、好奇心も当然あるだろうが、「物事を覚えて人から尊敬されたい」「気に食わないあいつより物事を覚えて優位に立ちたい」といった差別意識に容易につながる競争意識が元になっていることが多い。そうして達成された「濃さ」は当然、コレクションや知識の少ないものを差別し、軽視する意識を生み出す。それはマスコミなどのさまざまなチャンネルを通じて普通の人に不快感を引き起こす。有害である、と断言することだってできる。こういった人たちは悪い意味での(排他的・利己的)「オタク」に近く、事実線引きはほとんどできない。
天然の「濃さ」は、はっきり言って生得的なもの、または生得的な環境によるもので、後から「天然」になることは事実上出来ない。「濃く」あろうとする人は努力をするほかない。だが、悪しき「濃さ」を知ることによって、天然の濃さに近づくことは出来る。
代償を求めない愛を発揮することが重要なのである。
「濃い」を私は"DEEP"と訳している。だがアングラ系の日本語で「ディープ」というと、ここまで述べてきた「濃い」ということとは異なったニュアンスを持ち、異なった対象を指すようになってくる。これには二つの方向がある。一つはファッショナブルな場所における「ディープ」である。これは普通は「ディープな靴コレクター」「ディープなレコードコレクター」など、物マニアに対して使われる。この方向の「ディープ」は、これまで述べてきた「濃さ」と大きく重なり、単にファッショナブルであるか否か、すなわち世間からかっこいいモノと見られているか否か、といった程度の違いしかないので、さほど問題ではない。だがもう一つの方向はかなりこれまでの「濃い」という概念からは異なっている。それは、「ディープ・コリア」(青林堂刊)の「ディープ」である。「ディープ歌謡」(ペヨトル工房刊)の「ディープ」である。山野一や根本敬といった「特殊漫画家」の描く世界である。蛭子能収の存在そのものである。ミゼットプロレスや女相撲である。山谷や釜崎や寿町である。
これまでの話は分かっても、これらには全く具体的なイメージがわかない人もいよう。そういう人は"DEEP"を半分しか分かっていないと言えるのであるが… 簡単にいえば、こういうことである。
メディアの中で、「汚ないもの」「下品なもの」(今のテレビ番組は別の意味でひどく下品だとは思うが)「触れてはいけないもの」といったものはひどく多く存在する。例えばフランス料理のレストランや料亭、あるいはうまいと評判で行列が出来るようなラーメン屋などはテレビの画面によく登場するが、下町の築50年でボケた老夫婦がやっている、メニューも油でギトギトになって判別不可能になっているような、当然ラーメンの中にはゴキブリが泳いでいるような大衆食堂は決してテレビ画面に登場することはない。美男美女が観光名所のようなところで「抱擁」しあうことはよくあるが、地方都市のヤンキーのカップルが、あるいは中卒で町工場で働いているカップルが抱き合っているシーンは決してテレビには登場しない。殺してしまいたくなるほど相手を愛するというドロドロの情念はワイドショーの中でおもしろおかしいもの、または興味本位の野次馬的なもの、あるいは単なる狂気として取り扱われその本当のところは決して報道されない。今でも厳しく存在する差別は「言葉狩り」の前にうやむやにされていく。こうしたものは実際は我々の生活を取り巻き、本来なら一番リアルに感じられなければならないはずのものである。しかし我々の生活は極めて長時間テレビジョンに拘束され、雑誌などの他のメディアの助けもあって、テレビや雑誌などのメディアで取り上げられないものはしだいに「存在しないもの」となっていく。目の前に巌として存在していながら「そこにはないもの」として処理してしまうのだ。雑踏における浮浪者の存在を人々が全く無視するように、テレビや雑誌に出て来ない「下品な」ものや「汚ない」ものは人々の心の中から消えていってしまうのだ。
いうまでもなく、我々の生活のほとんどの領域において、テレビや雑誌に出てくるような出来事は全くといっていいほど起こらない。逆に、我々の生活で起こることのほとんどはメディアが「下品で」「汚ない」ものとして意図的に排除しているものである。我々の生活は基本的に下品で、くだらない。なのにそれが見えないものへと変化してしまっていっている。これは実は非常に危険なことなのではないだろうか。
「ディープ」な人々がこうした危機に気づいているかは分からない(気づいていたらその表現は嫌らしいものになることだろう)。だが、こうした人々の表現は、共通してメディアがいうところの「下品なもの」「汚ないもの」の方向に向かっている。例えば特殊漫画大統領としてアングラ界に多くのファンを持つ、根本敬の漫画のモチーフは、町でキムチ屋を営むアジュマであったり、犬の繁殖業者であったり(愛犬家連続殺人事件を思い出せ)、「イイ顔」のオヤジであったりと、普通絶対にテレビジョンに出ないようなもの、出てもワイドショーで面白おかしく取り上げられるものになっている。もう一人の巨頭、山野一の場合はさらに絶望的で、工業地帯のスラムの6畳間に3世代6人で住まう月給13万円の工場労働者や、継子をいびり倒す継母、金持ちの男を求めあさる貧困層出身の因業女子大生などを徹底して描いている。こうした表現が、「ディープ」な表現である。
こうした表現は、自称「良識ある」人々からは深い嫌悪感を持って迎えられている(特に業の深い人であればあるほど嫌悪感が強いという報告がある)。露悪趣味である、と。しかし、決して彼らは最近の露悪趣味(鬼畜系といわれる人々の活動)とリンクした形でそうした表現を行っているのではない。彼らが持つ人間に対する真摯なまなざしが、それを為さしめているのである。この点は、「濃い」人々とほとんど変わるところはない。彼らは、多少ディフォルメされてはいるものの、人間存在のありのままを描いているに過ぎないのだ。そしてそれは、「濃い」人と同じく、対象の分析を深める方向に向かっている。これは、漫画だけでなく、広い方向に向かっている。たとえば「ディープ・コリア」。一見「韓国人は間抜けだ」と書いてあるようだが、徹底した「金玉の皺の伸び縮みに注目した視点」によって、朝鮮・韓国人の本質をある程度見抜くと同時に、日本人のあり方すら映し出している。帯にもこうある。「マヌケさから目をそらしては真の韓国/朝鮮理解は不可能である。人間とはもともとくだらない。韓国/朝鮮はあからさまにくだらないからこそ人間の本質に真正直で、尊いのである」。たとえば「ディープ歌謡」。「幻の名盤とはどういうものか。あまりに過剰な自己表現がために商業的成功と無縁だったモノ、徹底的な個への執着ゆえに共同性を得られなかったモノだ。しかし、そんな被差別未解放歌謡には、商業ベースに乗った歌謡にはない真理=むき出しの人『性』がきらめいている」、とある。ここまでくるとやや行き過ぎの感もあるが、狙うところは同じである。
このように「濃い」と、「ディープ」は、対象の置き方がやや異なり、使われかたのニュアンスも違っているものの、目指すところにはかなり近いものがある。それは、徹底するという点で共通しているのである。
80年代、「ネクラ」というくくりの中で、「濃い」人々は迫害に近いものを受けていた。90年代はじめ、連続少女誘拐殺人事件の余波の中で、「オタク」は蛇蝎のごとくメディアから嫌われる存在であった。今でもそうした見方が残っていることは間違いない。「やだぁ、ひょっとして、オタク?」という言い方は無論「濃い」人も含んでいる。だが、このように隅に追いやられているからといって、それに負けていてはいけない。「濃く」あることは近い将来、いや現在においても、大きなアドバンテージになることが予想される。何故なら「濃さ」には重要な「なにか」が含まれているからである。
「濃い」こと、「濃く」あることは、重要な人間性の一つである。「ディープ」であることも同様である。何故なら、第一に、それは崇高さをもたらすからである。世間一般から見て無価値なもの、どうでもいいようなもの(もちろんそれは「濃い」人にとっては非常に重要なものであるが)に、これでもかという愛を注ぎ、誰よりも詳しくなる。経済、市場、効率の原理、すなわち「近代」の原理からすれば、これほど無駄なことはない。そして普通はそうした無味乾燥な原理のもとで、「濃さ」というものは撤退を強いられる。だがその中でもずっと「濃く」あり続ける人間はいた。収入を、睡眠時間を、その他もろもろを削って、自分にとって大切なものを守り続ける人たちが。そこに崇高さを感じない者が居ようか。そして、その「濃さ」は、濃くなればなるほど人に感銘を与えるようになる。濃くなればなるほど一般性を獲得していくようになるのだ。それは、その背後に、自らに正直、すなわち自らの人間性に正直である、という側面があるからである。
第二に、それは人間の本質に近づくからである。「近代」にいくらがんじがらめになっていても、自分の人間性に正直になること、自分の愛するものを愛し続けることは、人間の心性の中でも重要な部分であるといえよう。そして、そうすることが、人間の本質の一つであるともいえる。「ディープ」であることも同様である。「汚い」ものを隠そうとする圧力の中で、人間存在のありのままを描くことは、直接的に人間の本質をえぐり出すことに通じる。「濃く」あることも、「ディープ」であることも、角度は違えど人間の本質に近づくための大いなる努力なのである。
今やコンテンツの時代だという。ようやく、「濃く」あることに負い目を感じないで済む時代がやってきて、「濃く」あることが重視されるようになってきているのだ。今まで「濃い」存在であった人は、これから「薄い」人々の中で、引っ張りだこになっていくことだろう。ただ、忘れてはならない。単に知識の面だけで「濃く」あっても、それはむなしいということを。intelligence、すなわち「知識」だけでは、人間の生き方に厚味は出ない。intelligenceを人間の本質、人間存在そのものに向けて、wisdom、すなわち「叡智」へと深化させていって初めて、意味のある「濃さ・深み」が生まれるのだ。こうした「濃さ」を持った人になろうとすること、これがこれから重要になっていくのである。
最後に私の敬愛する「濃い」人、名誉濃厚人を挙げて、この文章を終わろう。
荒俣宏、水玉蛍之丞、沼正三、高橋鐡、赤瀬川源平、根本敬、山野一、とり・みき、永野のりこ、唐沢なをき、唐沢俊一、ジョン・ゾーン、フランク・ザッパ、蔦木栄一&俊二、ティム・バートン、町田康。
注1 「メカンダーロボ」は1977年、「ダイケンゴー」は78年のアニメ。前者はメインスポンサーのブルマァクが放送途中で倒産し、番組後半はほぼバンクだけで作られたという。
注2 ドリルに対する愛を見よ。http://www.osk.threewebnet.or.jp/~umapu/yana/doripara.html
注3 ペリー・ローダンとグイン・サーガのこと。ペリー・ローダンは本国ドイツではすでに1000巻を超え、グイン・サーガは当初100巻の予定が大幅に増えるとのこと。