「だから見て!私を見て!」(惣流・アスカ・ラングレー)
電脳世界には、多くの水仙が咲き乱れている。殊に、WWWはその始まりの頃から、多くの水仙を育ててきた。なぜ電脳世界に水仙が育つのか。ここでは、その原因を、機能的側面、社会的側面、その他の方向から、読み解いていきたいと思う。
まずは、機能的側面から考えてみよう。WWWはこれまでにないメディアである。世界中に接続されている以上、WWWは理論上全世界のネットワーク接続者によって閲覧される可能性を持っている。このため、WWWは、既存のマス・メディア以上に、マス・メディア的であるといえる。ワールドワイドのブロードキャストというものは、これまでは、一部の衛星放送チャネルでしか実現されていなかったのであるから。実際は、言語の問題や、あまりにも急速であったその普及のゆえに、情報の埋没が起こっているといった事情があるため、全世界の人に均等に情報を提供する…というわけにはいっていない。また、テレビほど普及していないがために、Webは既存のマスメディアと同様な力は持ってはいない。が、マスメディアと同様の、「不特定多数の受け手に対して同一の情報を提示する」という機能を持っていることには変わりがない。一方、Webで情報を発信することは、ある程度コンピュータに精通していれば、難しいことではなく、内容を準備さえすれば、少しの学習ですぐに世界に向けての情報発信が可能になる。そうして発信された情報のメンテナンスや更新も、意欲さえ伴えば、難しいことではない。操作は個人レベルでも比較的簡単にできる。WWWは、個人が手に入れた、最初のマスメディア的メディアなのである。
そうである一方、WWWは、非常にパーソナルな空間でもある。個人のWebページの空間は、まさにその人の手の中にある。それがきわめて個人性を持つことは明らかであろうし、その影響力は絶対である。個人は、そのWebページの中で、「神」となるのである。
こうした二つの条件が重なったときどうなるか。それは、直接的に、自己顕示欲の発露という方向に向かうだろう。ごくごくパーソナルな、自分だけの世界を、世界中の人が見てくれる可能性がある。よほど自分に自信がないか、羞恥心の強い人でないと、この誘惑に抗うことは難しいだろう。WWWとは、あけすけな自己開示が可能な、実に魅力的なメディアなのである。
一方、社会的条件はどうだろうか。現在の社会においては、人と人とが知り合い、つながりをもつことが難しくなっている。それは、人々のコミュニケーションモードが、エヴァンゲリオン的にいう「ATフィールド」を隔てたものになっている、なってきつつあることと、組織間の人の移動が少なくなっているという社会的条件の二つが重要な原因となっている。携帯電話や電子メールによって個人同士は密接につながっているではないか、と考える人もいよう。しかしそれは逆なのだ。人同士がつながりをもつことが難しくなっているから、携帯電話や電子メールといった、個人間を直接結ぶメディアが使われるようになっているのだ*1。個人は他者とのつながりを失いかけ、他者の存在を…より意地悪な言い方をすると、「私を見てくれる他者」の存在を…必死に求めているといえる。そこで最初のアスカが思い出されるのだ。「だから見て!私を見て!」と。そうした状況の中でWWWは「自分を見てもらう」ためのツールとして社会的に要求されていると言えるのだ。
*1 ジャストシステム刊「ポケベル・ケータイ主義!」参照。