はじめに

 読者の皆さんは、ゲームセンターに足繁く通った経験はないだろうか。「ゲームセンターあらし」に胸をアツくした経験はないだろうか。暗いゲームセンターでカツアゲされながらも、通うのをやめられなかった人もいるのではなかろうか。あるいは街角の駄菓子屋に吸い寄せられてしまい、小遣いをすべて時代遅れのゲームにつぎ込んでしまった人もいるのではなかろうか。スーパーのゲームコーナーで、お兄さんがやっているゲームをへばりついて見ていた記憶を持っている人もいるのではないか。新作ゲームを求め、国道沿いのゲームセンターに自転車で通った人もいるのでは?

 なぜ我々はそれほどまでにアーケードゲームに情熱を傾けたのだろうか。怪しさ、怖さ、いかがわしさ。そうしたものが常にアーケードゲームにはつきまとってきた。だがそれは、アーケードゲームが持っていた(いる)どうしようもない魅力を損なうものではなかった。薄暗いゲームセンターのなかで、駄菓子屋の店先で、明滅を繰り返す光に、我々はこの上なく惹きつけられてきたのではなかったか。ひとときの爽快感に、激ムズゲームがもたらす超集中状態に、独特の矩形波に、抽象化されきった単純なゲーム性に、我々はとらわれたのではなかったか。

 それはいま、甘く切ない記憶として、我々の奥底に横たわっている。比類なきノスタルジー。アーケードゲームはそうした地位を占めるようになっている。「レトロゲーム」という呼び名を得て、以前のアーケードゲームは、ノスタルジーを強烈に呼び起こす装置となったのだ。

 それは単に懐古趣味をあらわすものではない。ノスタルジーであることは、同時にそれを「土台に」しているということでもある。レトロゲームへのオマージュや、ゲームセンター通いの経験といった、レトロゲームを取り巻く様々な状況。それが現在の文化を決定するひとつの要因になっているのだ。

 我々はレトロゲームを見直さなくてはならない。現在の文化を語るうえでも、レトロゲームを避けて通ることはできない。幸い、エミュレータの出現や、各メーカーのレトロゲーム再発により、我々はそれに再び触れることができるようになっている。レトロゲームをプレイするのだ!ノスタルジーに決着をつけ、もう一歩先に踏み出すために。

戻る

Last-Update: Thursday, 13-Nov-2014 09:21:08 JST