平日の昼間と夕闇のあいだの空間2

「ぶっとびマンガ」電子版その2 もくじに戻る
平日の昼間と夕闇のあいだの空間
平日の昼間と夕闇のあいだの空間3
一気に下まで行きたい

 この地区は、「平日の昼間と夕闇のあいだの空間」その1に引き続き、「ぶっとび地区」内でも分類が困難で、かつ独特の味わいのある作品が紹介される場所である。完全にものすごいぶっとびのときもあるし、「これって『ぶっとび』かあ?」という微妙なモノもあるんだけど、ま、理屈ぬきで楽しんでいただければ幸いである。




・「世紀末同人誌伝説」全1巻 同人誌糾弾委員会、作:水谷潤、画:藤宮幸弘(1988、大陸書房)
・「幕末闘球伝ライヤ」全1巻 M・A・T、桑沢篤夫(1993、集英社)
・「未来(みく)▼(←ハートマークの代用)pureボイス」 五十嵐かおる(2002、「ちゃお」5月号〜連載中)
緊急補足!!「未来▼pureボイス」の元ネタである「おはスタ」の変質について
・「未来(みく)▼pureボイス」(1) 五十嵐かおる(2002、小学館)および番組との連動について
・「小泉家のおやじ特盛」 藤波俊彦(2002、小学五年生10月号付録、小学館)
・「ミニモニ。ラブインストール」 亜都夢(2002、蒼馬社)



・「世紀末同人誌伝説」全1巻 同人誌糾弾委員会、作:水谷潤、画:藤宮幸弘(1988、大陸書房)

出版社・小英社の社員、南条邦明は、著作権管理部という部署に配属されている。彼は、自社のキャラクターのパロディマンガで何百万円も稼いでいるというやおい大手サークルを糾弾するため、女子社員・北川とともにその尻尾をつかもうとするがなかなかそれができない。

一方、国税局査察部の国立(くにたち)も、カレッカという巨大サークルの脱税をあげようと強制捜査に乗り出すが、サークル構成員の地下ネットワークによって逃げられてしまう。
近い目的を持つ南条と国立、さらに同人活動にどっぷり漬かってしまったために自分をふった西沢カヨとヨリを戻そうとする少年・は、カレッカの脱税行為をあげるために協力して乗り出すが……。

いやはや、何度読んでもムチャクチャなマンガだ。今回、何度目か読み返してみて、改めてそう思った。
本作をオタク史とかオタク論とからめてレビューを書くにはいくつかのポイントがある。
その中で、「一部の大手やおい同人誌が課税対象になるほど本を売って儲けているがいかがなものか」的な視点に関しては、本作のほとんど核とか芯とか言うべき部分であるが今回は無視することにする。
なぜかというと、そこら辺のことを私が詳しく知らないから。

本作で語られるパロディと著作権問題についても、多少古くなっている部分もあると思う。そこら辺は2001年にコミケットから出た「マンガと著作権」[amazon]などを読んで勉強してほしい。実は私もまだちゃんと読んでいない。勉強する。

・ちょっとフォローしきれんよ

さて、今回問題(?)にするのは、作品内に描かれているやおい、及びやおい女子に対する徹底的な悪意だ。もうやおい女子を揶揄したマンガ「全日本妹選手権!」[amazon]→全日本妹選手権に関してもにょもにょ語るリンク集J-oの日記跡地))なんかの比ではない。もう本当にムチャクチャ。

出てくるサークル構成員は、ヒロインのカヨを除いて悪意丸出しのブス顔に描かれているし、性格も悪いやつばっかり。南条たちのやおい女子に対する悪口も本当にシャレにならないくらいひどい。私が代わってあやまりたいくらい。すいません。
私はここに書かれているようなことは、ぜんぜん思っていませんので誤解しないでください。

男オタクはどう描かれているかというと、これまたボロカスである。主要キャラクターの順以外は全員キモチワルイ顔に描かれているし、ロリコン趣味も蛇蝎のごとし扱いである。
ちなみに、順というのはカヨと相思相愛の仲だったが、やおい同人誌の魅力に取り憑かれたカヨにふられてしまった少年だ。
さらに、カヨがやおいにハマる動機というのが、順がセックスに関してものすごくがっついていたことと、性交自体がうまくいかなかったため、その喜びを知らないままでいるというこれまた偏見丸出しの設定なのがイタい。

さらに、カヨにふられた順もマンガを描きはじめ、ロリコン同人誌で一目置かれる存在になるが、それがやおいに漬かりきったカヨにバレて、さんざん罵倒されるという思わず目を覆いたくなる修羅場(印刷所の締め切りに間に合わせるそっちじゃない方)などが展開されていて、これまたイタい。

本作で、男オタクやロリコンではなく「やおい」が糾弾の対象となっているのは、刊行当時の88年頃が聖矢・キャプつばの二大ブームで、同人界を変えてしまうほどのパワーを持っていたことが理由だろう。
ちゃんと調べていないのでアレだが、とにかく目新しい勢力ということで、細々と会誌を回覧するだけのサークルでもその勢いを驚きの目で眺めていたモノである。

しかし、正直に書いてしまうと理由はそれだけではないと思う。たとえがヘンだが、現在のものと比較すれば「コギャルが何となくムカつく」という理由でコギャルを糾弾するマンガを描き、そこにはコギャルに対応するような男どもへの非難が手薄になっているような感覚は否めない。そういう意味では、バランスを欠いていると言わざるを得ないだろう。

・晴海(かつてのコミケ会場)が爆破されるラストシーン

ところが、マンガとしては恐ろしいことにかなり面白い部類に入る。単に「80年代はこうだった」とかでおさまるマンガじゃないのである。主人公たちの追っている「カレッカ」というサークルは、「トリトン ヤマトの頃からサークル名を転々と変えながら生き残ってきた」老舗で、しかも巨額の富を得ながらその内情をマルサが調べてもまったくわからないという秘密結社のような存在として描かれている。
ちなみに、似た名前のモデルとなったサークルがあるらしいが、私がもじって名前をつけたわけではないので関係者の方は怒らないでください。

主人公たちはカレッカの中枢を探るうちに、「セイヤ」を中心とした一種の狂信団体と遭遇することになるのだが、そのバカバカしさたるやすごいものがある。
サークルの上層部が全員「セイヤ」のキャラクターと同じ姿かたちをしているとか(コスプレなどではなく、本当に似ている)、幻の「会長」は、本当にペガサス遊星拳が撃てるとか(正確には「流星拳」なのだろうが、もじっているので「遊星拳」)、お話はどんどんエスカレートしていく。

クライマックスのハルミのコミケでは、南条たちを追い込んで倒すために、カレッカの会長は有楽町とハルミをつなぐ大橋を爆破。南条は会長と一騎打ちをし、ピンチに追い込まれるも彼を倒すが、遊星拳のえじきにされようとした順をかばったカヨちゃんは死んでしまうという、何とも壮絶な展開になるのだった。

・あの当時
今のように、ネットでバーッと特定の事象に対してヒトがどう思っているか概略が掴める(もちろん、ネットに書き込もうというヒトだけの意見ではあるが)のとは違い、88年当時というのはオタク的な人でもいろんなところにいろんな立場で散在していた。
ましてや私も当時、あまり「濃いところ」にいたというわけでもないため、本書に激怒したやおい女子というのを知らない。いたかもしれないけど。
で、現在本書を読むと、オタクに完全に悪意があるとしか思えないしそう思われてもムリもないのだが、私の当時の感覚からすると、これくらいムチャクチャなことは、オタク内でも、あるいは男オタクとやおい女子の間同士でもけっこう言い合っていたと思う。

ただでさえ狭いオタクの世界だが、当時はもっともっと狭かったため、「オタク」という名称は今でいう「オタク」内での「ちょっとした困ったちゃん」に使われた蔑称でもあった。
だから、外部からは立派に悪い意味で「あいつはオタクだ」と言われているような人間が、オタクコミュニティ内の困ったちゃんに対して「あいつみたいな態度はねえよな」というような意味あいで「オタク」という言葉を使っていた……というような状況だったし、「OUT」や「アニメック」なんかにも「悪い意味でのオタク」批判の記事とかマンガとかが載っていたのだ。

実際、私は作画の藤宮幸弘のセラムン同人誌を買ったことがある(笑)。要するに、原作者はわからないが作画者は間違いなくオタクなのである。みんな、状況や人物に対して「しょうがねえな」とか毒づきながら、それぞれのことをそれぞれの立場でやっていた、というような状態が80年代ではなかったか。
(「違う」という人もいるかもしれないが、88年当時の私の印象は、そうである。シーンの中枢部にいなかった人、地方在住だった人などの体験も、それなりに同時代的なものではあるだろう、という意味で。)

そのような時代状況をふまえて読まないと、本作は本当にただやおいに対して純粋な悪意を持って描かれている、と誤解されてしまうと思う。

で、ネットで検索したらこれが現在でも読めるのである!
Vコミック -- 水谷 潤 作品 --Vコミック)で電子出版されている。かなり驚いた。

・半可通的補足
本書の冒頭には、同人用語の簡単な説明が書かれている。ここで「漫画同人サークル」とは、

漫画の好きな人が集まった同好会。中・高・大学等の学校の漫画研究会や、特定漫画家のファンクラブから発生するケースが多い。最近は、同人誌活動を通じて知り合いとなりさらに新しいサークルを創設するなどのアメーバ的展開もある。

……とある。個人的経験では、大学のマンガ研究会に1年生女子が10人以上も入会したにも関わらず、1年も経たないうちにその10人全員がやめてしまった、という事態があった。それが87年。
彼女たちは、全員がキャプテン翼か聖矢かのファンで、それらの同人活動をしていた。
要するに、「マンガを描くなら漫研に入るべき」という観念が彼女たちにもあったものの、いざ入会してみると、仲間はすでにアニパロをやっていく中で得ていたし、売る場はコミケなどがあるし、ということで、漫研に入会する存在意義をほとんど見いだせなかったのだろう。

現在では、大学の漫研や、ましてや特定漫画家のファンクラブから発生したサークルなどむしろずっと少数派だろうし、「アメーバ的展開」とあるがこれはあくまでもサークルを「集団」と考えたときの表現だろう。
現在では「サークル」と名がついていても構成員が一人なんて珍しくも何ともない、というかむしろそっちの方が多いか。

ちょっと時代背景をちゃんと見ていないが、個人的体験としては「趣味でマンガを描く」という形態が変わる、まさに過渡期が87〜88年頃だったのではないかと思っている。
(03.1005)



・「幕末闘球伝ライヤ」全1巻 M・A・T、桑沢篤夫(1993、集英社)

たぶんヤングジャンプ連載。風雲急を告げる幕末、熊野灘の鯨獲り・雷矢(らいや)は、アメリカから来た黒船にしとめた鯨を盗られた恨みをはらすために江戸にやってくる。浪人に襲われた勝海舟を偶然助けた彼は、銛投げの腕を買われて日本の支配権を賭けたアメリカとの「ベースボール」試合の幕府軍として選ばれる。
他にも軽業師、二刀流の剣術使い、樵、力士などの精鋭を集めたチームで、勝海舟が監督となりアメリカチームとの野球の試合が始まった!

……という内容なのだが、その大味っぷりはいい意味でも悪い意味でも他の追随を許さない。
まず、こうした過去の時代を設定した物語の場合、実在の人物と架空の人物とのからみが面白さの要因となるわけだが、実在するのは勝海舟と西郷隆盛しかいない。将軍様も出てくるが、「日本の覇権争いを野球で決めてしまう」アホ殿として描かれている。これ慶喜じゃないよな?

西郷どんは、「以前にアメリカとの野球試合で圧倒的敗北を喫し、薩摩藩をとられた」ナサケナイ役。
アメリカ側も実在の人物は出てこない。「提督」と称する人物が出てくるが、コイツは日本を手中におさめて、自分だけの王国をつくろうとたくらんでいる。いったいだれ? そんな悪人だから、まだ試合の趨勢が決まらないうちから江戸城に大砲をぶち込んだりする。あーあ。

その他にも、時代背景の曖昧さ、途中からピッチャーの投球が当たってもデッドボールをとらなくなるなどのルール面の問題、最後の最後のクライマックスで、アメリカチームのエース、O・Jの超剛速球を雷矢が打てる理由が「タイミングをとったから」という単純すぎる展開など、疑問点山積みの、ある意味問題作である。……というより、桑沢篤夫のマンガはこういうところが楽しめないとダメな気がする。

ラスト、勝海舟の言葉によって本編が締めくくられる。日本側が勝利したら、アメリカからは日本の十倍の大きさの領土をやると言われていたが、それは「ただの砂漠で、インディアンにやっちまった。」そうだ。雷矢は勝海舟と咸臨丸に乗り、アメリカのメジャーリーグでベースボールをやってるそうである。

……とにかくそういうマンガなんだよ!
(03.0220)



「未来(みく)▼(←ハートマークの代用)pureボイス」 五十嵐かおる(2002、「ちゃお」5月号〜連載中)

酒井未来(みく)は、歌が大好き、「おはスタ」大好きな少女。「おはスタ」のアイドル「おはガール」にも強いあこがれを抱いている。ある日、番組観覧ができることになり、喜びいさんで出かけた未来。しかし、当日偶然行われる「おはガールシスター」のオーディションにまぎれこんでしまい、受けることになってしまう。

そしてハプニングをチャンスに変え、みごと「おはガールシスター」に合格する未来だったが……期待と不安でいっぱいの、未来の明日はどっちだ!?

・鶏口になっても牛後とならない少女の物語
「おはスタ」とは、朝6時45分から、テレビ東京で放映中の月〜金の帯バラエティ。「おはー!」の合言葉が慎吾ママにパクられたことは記憶に新しい。「おはガール」とは、日替わりで司会の山ちゃんのサポートを勤める中学生くらいの女の子たち。CDを出すときもあるし、バラドル進出中のベッキー、酒井彩名、「ガメラ」とかに出ていた安藤希、なんかのCM(忘れた)に出ていた蒼井優などもおはガール出身者である。

しかし、本作で面白いのは作中のおはガールが全員架空の人物だという点。空手が得意、なぜか巫女装束、パソコンが得意、メイクが得意などのありがちな特徴を備えた完全なオリジナルキャラ(「ちゃお」では本物のおはガールをモデルにしたということになっているが……)。要するに番組と「おはガール」というシステムだけを借りてきていて、他はフィクションということになっている。
なぜなのかはよくわからんが、このことにより、「おはスタ」および「おはガール」を一段飛躍させて「ものすごいもの」として描くことができることは確かだ。
とにかくゲタのはかせ具合がすごい。実在の中沢プロデューサーはかなりの美形に描かれ、「手がける番組はすべて大ヒット おはスタは彼の力失くしてはありえないって言われてる……っ」とか(いやまあそれはウソじゃないだろうとは思うが)、実在(するらしい)の神宮寺ディレクターはさらにカッコよく描かれている。

オーディションは歌を歌うゾナーとサイガーの後ろで踊ってみて、というもの。未来はいじわるなライバルに足をひっかけられ、すっころんで生放送中のテレビ画面にばっちり映ってしまう! ゾナーとサイガーの目の前に出てきてしまう未来。 そこにゾナーとサイガーの曲「ビューティクエスチョン」(だったか? タイトル失念)が鳴り出す。

「あ……これゾナーとサイガーの歌だ 私の大好きな歌……」

「すごい……私今ゾナーと歌ってる……っ サイガーと歌ってる……!!」

「いつもTVで見てるだけだったのに……」

とっさにゾナーやサイガーとともに歌を歌い、ピンチをチャンスに変えた未来。その天使のような声に、おはガールも衝撃を受けるのであった。

・ごく自然に美形キャラになっていたゾナー&サイガー
……で、「ゾナー」ってのを説明すると、なぞなぞを出す怪人で、いちばん最初はドラキュラみたいな感じだったが後にビジュアル系バンドをモチーフにしたキャラに。
「サイガー」は、2択の豆知識キャラを出す怪人(「麗人」)で、おそらく「ベルばら」とか宝塚をイメージしたキャラクターとなっている。
はっきり言って、コレは番組を見たことがないとわからないのだが、ゾナーとサイガーの歌を「大好き」と言いきる中学生の女の子というのは本当にいるのか!?
だってなぞなぞ怪人と豆知識怪人だよ?(まあぜったいにいないとは言いきれないが……)
とにかく未来は、「モー娘。」や凡百のビジュアル系バンドよりも、おはガールやゾナー&サイガーの方が好きなのだ。それは本人の趣味だから仕方がないじゃないか。

今後、未来には芸能モノ少女マンガにありがちな試練が待ち受けているのであろう。
がんばれ未来。

追記:それと、今回「ちゃお」を読み返して驚いたのだが「おはガールシスター」ってホントの番組連動企画だったのね……。テレビの「おはスタ」の方ではまだ何にも告知してないから、間違えるところだったよ!!(実際、何人かの人には「架空の設定」とか間違えてしゃべっちゃった。まあ聞いた方も忘れていると思うが)
現在のおはスタでは新おはガールがバトン(タカラのトワールバトン)がうまくできるかどうかというのと、あとあれやってるね、「学校のトイレで恥ずかしがらずにウンコしようキャンペーン」(正確には「学校でデカいのができるか!」)。いやホントに。
(02.0511)



緊急補足!!「未来▼pureボイス」の元ネタである「おはスタ」の変質について

「未来(みく)▼(←ハートマークの代用)pureボイス」は「おはガールに憧れる少女のマンガ」である。なぜ同作を「ぶっとびマンガ」にカテゴライズしたかというと話は簡単、近頃めずらしい「マンガによる実在アイドルとのタイアップ」だったからである。
「人気があるアイドルだからマンガにしよう」ではない。その逆で「雑誌でアイドルを盛り上げていこう」という意図のもとに描かれていることが、「おはガール」を売り出す母体メディアである番組「おはスタ」の脳天気さと相まって、独自の脳天気さを醸し出していたからである。

・緊急事態発生!!
ところが、5月11日(金)放送の段階で、異様な事態に突入してしまった!
完全なる出来レースだと思われた「4月からの新生おはガール5人がバトン演技を披露し、成功したら真のおはガールとして認められ、失敗したら解散」という企画において、「バトン演技失敗=おはガール解散」ということになってしまったのだ。

現在、「電波少年(正式名忘れた)」、「ガチンコ」など(実際に正真正銘のガチンコかどうかはともかく)、それ以前のテレビ的予定調和を嫌い、ドキュメンタリー性を強めた番組が人気である。現在のバラエティの主流だと言ってもいいくらいだ。
そういうものをなんと総称するのかわからないが、とにかくそういう番組内で「コレを達成できなかったら降板」とか「解散」とか「引退」とか言ったら、本当にそれが実行される。その緊張感が視聴者をひきつけるのであり、それだけに人気番組では逆に「八百長説」が出たりもする。

対して「おはスタ」は、「おはガール」以外の出演者は、全員架空キャラを演じなければならないという明示されていないルールがあった。それすなわち「すべてがフェイク」だと言っていたようなものだった。
子供番組は常にそういう要素はあるが(「ポンキッキーズ」の爆チュー問題など)、「ガレッジセール」や「雨上がり決死隊」がそのグループ名をまったく出さず別名で出ていたり、ほんの数十秒しか出ない「金髪のヅラをかぶった奈良沙緒理」に「ならりん」とかいうテロップが付いたり、入れ替わり立ち替わり登場するトミーやタカラの社員や小学館の編集者にも一人ひとりキャラ付けをして出演させたりと、その演出は徹底していた。
ぶっちゃけ、「おはスタ」はいろんなものの総合宣伝番組にすぎない。おもちゃ、ゲーム、少年サンデー、コロコロ、テレ東のアニメなどの「宣伝」でひたすら埋め尽くされている。それを緩和するために、全編が「笑い」を取る方向で「クダラナイキャラクターが次々と出てくる」という演出をしていたと解釈していた。
「感動路線」は別れの季節である卒業のシーズンだけだった。

しかし、「バトン演技失敗」からそのままおはガール解散が決定したときは、「おはスタ」的予定調和がまったくない状態だった(当然、大きな意味での予定調和は存在するが)。もともとバトン演技に関しては盛り上げのために「バトンへの道」というミニドラマが毎日流されており、その中ではメンバーの一人が「手のひらが血だらけになるまで練習している」などの完全なるウソ(一生懸命やっていたこと自体は本当かもしれないが)が盛り込まれていたりしたからだ。
これはK−1の角田師範と番長が番組内で「数え歌」を出すときに毎日流されていた、「たるんでいる『番長』(「おはスタ」のキャラクターの一人)が、角田師範にものすごく怒られ、弟子入りして修行をする」というミニドラマとほとんど同じ系譜のものである。ミニドラマ自体が、悪く言えば出来レース、よく言えば「おはガール」の虚構性を保証するものだった。

それだけに、「おはガール解散」のときには視聴者側にも準備ができていない人が、私も含め少なからずいたと思われる(ちなみに、今期「おはガール」はavexからCDリリースがすでに決定しており、当然、救済措置がとられることになる)。

・その後の番組展開〜もうつき合えない〜
さて、そうすると笑って読んでいた「未来▼pureボイス」も、実は今期おはガールに、今までのグループとは違った意味合いを持たせようとした企画のひとつ、と見ることができることになる。
作中で「過剰に特別な存在」として描かれたおはガールだが、今後テレビでもそうなるかもしれない可能性が充分にあるのだ。となると、テレビとマンガのバランスが保たれて、それほどマンガとして「ぶっとび」でなくなる可能性は大いにある。それが本稿を付け足した理由である。
もうメンドくさいから今後の放送を見ないで書いちゃうが、これから予定調和的ではない「ガチンコ努力感動路線」が盛り込まれていくことになるのかもしれない。

事実、13日(月)からの1週間は「解散」を認知させるためにおはガールは全員休み、20日(月)の放送では、とつぜんおはガールが全員現れてプロデューサーに「もう一度チャンスを!」と嘆願、バトンの踊りを一生懸命やり始める。
「解散」を言い渡されたとき同様、おはガールの出現に山ちゃんのリアクションがマジ驚きだったのは、演出効果を狙ったものだろうがパパイヤ鈴木が「パパイーヤ王子」として「パパイーヤ星からやってきた」と言い張っていた(しかもすぐやめた)のとは対局に位置する方法論である(あ、でも「山ちゃんの演技がクサイ」という意見も掲示板で見たな。そういうサマツな八百長論に帰結しちゃうところが、この路線の困ったところなんだが)。
で、そうした「番組側の本気度」を見るにつけ、「みるみる冷めていった」というのが正直な感想であった。20日の番組の最後に、プロデューサーから翌日の21日(火)におはガールは最後のチャンスを与えられることになるが、そのときの私の感想は「そこまで付き合っていられない」であった。だから結局どうなったかは見ていない。
(ファンサイトの掲示板によると、結局バトン演技は当然ながらプロデューサーに認められ、正式グループ名は「おはガールフルーツポンチ」となるらしい。)

・このまま虚構性が失われるのか!?
こんな不景気だし、「モーニング娘。」だって結成当初は失笑を買っていたのだから、そういうことをやるなとは言わない。「おはー!」を慎吾ママに持っていかれたというマヌケさに対するルサンチマンもあるのだろう。
しかし「すべてが虚構であることを暗に表現している」、ここ数年の「おはスタ」をかなり一生懸命見ていた身にとっては、かなり寂しい変更ではある。
確か、記憶だけを頼りにすると「おはガール1年ごとに全員入れ替わり」というのもここ近年決まったルールだったし、6時45分からの録画部分に至ってはいつの間にか消えたり現れたりするレギュラー陣も少なくなかった。「番長」の子分役の少年とか、「ゴリけん」とか(←「爆笑オンエアバトル」、がんばって!!)。
十数年前の「おはようスタジオ」のコンセプトを継ぐかたちで始まった「おはスタ」、いい意味でのダラダラ感がなくなってしまうのは非常に哀しい(注:スタッフや出演者がダラダラやっているという意味ではない。見た感じの、いい意味でのヌルさのこと)。

なぜこんなに長々と書いたかというと、個人的に「徹底して虚構」なモノに、なぜか可能性を見いだしてしまうからだ。そもそも当HPの底流には「虚構バンザイ」という超基本コンセプトが流れている。
ファンサイト掲示板では、どうしても「おはガールかわいそう/あれはただの演出、かわいそうとか言ってるのは演出に乗せられてて気の毒」、みたいな二元論になりがちみたいだけど、私はおはガールは結局どうでもいいの! 番組全体のバランスが崩れたことが哀しいんだよ。
セミドキュメンタリー的なものに対するアンチテーゼは、「モンティパイソン」や「ダウンタウンのつくり込んだコント」や、プロレスの「WWF」などいろいろあるが、それだけではない、第三の道があるはずだ、というのが個人的考え。
まあそれがどうしたと言われるとそれまでだが(話せば長い)、その「第三の道」であったおはスタがちょっと変わったことをしたんでショックだなあ、という、最終的には個人的な話でした。

まあ、そんなことほとんどだれにも理解されないんだけどね。

なお、「おはスタ」と「未来pureボイス」に関しては、キムネさんにいろいろ教えていただいた。この場を借りてお礼を言いたいです。
(02.0521)



・「未来(みく)▼pureボイス」全2巻 五十嵐かおる(2002〜2003、小学館)、および番組との連動について [bk1] [amazon]

「ちゃお」連載の作品が、単行本化された。
酒井未来(みく)は、歌が大好き、「おはスタ」大好きな少女。「おはガールシスター」のオーディションを受け、みごと「おはガールシスター」に合格した未来の努力の姿を描く、現実のバラエティ番組とのタイアップに基づく芸能コミック。
現実に存在するユニット・おはガールフルーツポンチ売り出しの意味もあるらしい。

・アイドル商法における、送り手とファンとの関係−ハロープロジェクト大改変
私の、本作連載中の感想や、テレビ番組「おはスタ」の突然とも言える路線変更に対する感想は、熱すぎて今読むと赤面ものである。が、これらの文章が書かれた後の7月末頃、「ハロープロジェクト」(「モーニング娘。」を含むつんく♂が擁する歌手の団体みたいなもの)の大人事異動(その中のもっとも大きな出来事は後藤真希脱退)が行われ、おはスタどころの騒ぎじゃない動揺が、ハロプロファンの間を走ったようだ。
やはりファン心理としては、慣れないことをやられると「これはホントの○○じゃない」と言いたくなってしまうものだし、カネ払ってんだから言うだけならいいだろうとも思う。

だが、とどのつまりはショービジネス、売り出す側と売り出される側がいい共存関係をうち立てていればいいわけで、ハロプロ大改変にはその目算があったのだろうし、今後はどうなるかわからないが、今のところ、ファンが全員ソッポを向くような事態にはなっていない。

「大きなお友達」という言葉がある。まあちょっとバカにして、ちょっと愛情がある言葉だと思うが、この表現は微妙だ。この言葉の中には、「大きなお友達=オトナ」が、「お客である」というニュアンスが入っているからだ。これは大人のお客の嗜好が子供向けの商売に反映されうることを暗に示しているとも言える。
「ハロプロ大改変」におけるネット上の激震は、この「大きなお友達をどの程度斟酌しているか」という送り手の回答のひとつだということもでき(オタク的ファンを切り捨てているかのような印象を、門外漢の私も受けたため)、衝撃は大きかったと言えよう。

・「フルーツポンチ」シングル第2弾でまた試練が!!
おっと、ハロプロの話にばかりなってしまった。具体的に「おはスタ」で何が起こったかというと、5月に「おはガールフルーツポンチ」としてデビューした現・おはガールであるが、またまた「バトンを練習しろ」とかなんとか言われたのである。その模様は、番組内のミニドラマで流された。
そして、11月15日(金)の「おはスタ」において、生放送で新曲「クリスマスなんとか」の歌とバトンの振り付けを披露した。が、歌い上げた直後、ゲストで呼ばれた先輩格・おはガールグレープの内田莉紗(うちだ りさ)に「あなたたちは本当のおはガールじゃない!」とか何とか言われて、うちりさは退場してしまうのだった。

……でまあ、この後また試練の特訓などをして、フルーツポンチは内田莉紗に認められて晴れて新曲としてリリース、ということになるのだろう。デビュー曲の頃とまんま同じ展開である。
以前の文章を書いたときは、「おはスタ」のコンセプト自体が変わってしまうのかと思っていたが、どうやら「試練」を与えられるのはおはガールだけのようで、それもCDが出るとか出ないとかそういうときだけのようだ。前の文章で「しょせん自分は大きなお友達であり、CD購買層にも入っていないだろうし、送り手と受け手が幸せならばそれでいい」というような意味のことを書いたのは前置きである。
以下は、まがりなりにもほぼ毎朝見ている者としての意見である。

・本題
実際、「フルーツポンチ」のデビュー曲の売り出しは、「ガチンコ風味の感動ドラマ路線」で成功したのだろうか。数字的なことはわからんが、私はしていないと思う。おそらくCDを買った子供たちは、個々のおはガールが好きだったりバトンが好きなだけで、ドラマ部分で感動したり応援したりはしていなかったのでは? 「何万枚売れなかったら解散」といったタグイの仕掛けは、もっと年齢が上の層にしか受け入れられないと思うんだが。
で、この「感動ガチンコ路線」は、もちろんオリジナルである電波少年にもガチンコにも演出的には及ばず、サル芝居で終わってしまった。

後は何事もなかったかのように、いつもどおりの番組が進んだ。しかし、「未来pureボイス」とのタイアップも不可解な点が多い。同作の内容のとおり、「おはガール」をスター、雲上人として高めていく演出はテレビの方ではロクに行われていなかったし、マンガ内で未来が所属するおはガール見習い「おはガールシスター」に至っては、テレビ番組を見ていてもどんなものだかサッパリわからない。
もしかして、地方のイベントで舞台に上がった子供たち全員に「おはガールシスター」の称号を与えてねぇか? 詳しいことはわからんが、ミニ四駆の大会の優勝者のようなニュアンスで。「未来……」を読んでいた私は、てっきり「ハロープロジェクトキッズ」のような、子供ながらマジにビジネスにからませるものと思っていたのだが。

要するに、テレビとマンガの連動感がサッパリ感じられないのだ。そもそも、番組内では「ちゃお」よりも「少年サンデー」の宣伝の方が多いくらいである。

「未来pureボイス」の名誉のために言っておくと、本作は絵もキレイだし、私のキライな「一見冷たいけれど実はヒロインのことが好きな不良っぽい少年」などのウザいキャラも出てこない。オーソドックスすぎる点を除けば、ちゃんとした芸能マンガである。
とくに、未来の歌声に人を感動させる力があることは連載当初から強調されており、芸能ものにありがちな「不当なラッキー感」もない。

ただ、なぜ未来が「おはガール」とからまなければならないのかが、あまり判然としない。
繰り返すが、数字的なことなど、背後のことは知らん。しかし、デビューCDでも茶番としか思えなかった「番組から逸脱した芝居路線」をもう一度繰り返したり、「未来……」において強調されている「おはガールシスター」がテレビの方の「おはスタ」ではちっとも出てこなかったりと、タイアップの意味の解釈に苦しむ。
そもそも、「ゾフィー」みたいに、旧おはガールの中でなぜ内田莉紗だけが何度も出てくるのかも不可解なんだが(笑)。

・再び「ぶっとび」的観点におさまるのか
以上のような理由で、5月頃には番組と完全にシンクロし、普通のタイアップマンガになるかと思われた本作も、再び番組とは妙な乖離を見せているような気がする。 ということは、番組との関係いかんによっては、「謎のタイアップマンガ」となる可能性も出てきたと言うことである。

「ぶっとびマンガ」はあらゆるモノの立場、立ち位置、歴史、世相で変化するので、その途中経過的な意味も含めて長めに文章を書いてみた。
(02.1115)

・「おはガール」のその後(04.0707)

前回、感想を書いてからずいぶん時間が経ってしまった。いまだに「おはスタ」は継続中だし、代替わりしながら「おはガール」も顕在である。
おはガールマンガは、きちんとチェックしていないが前年度は、「未来……」が「おはガール」というユニット名だけ残して後はオリキャラにしたのをさすがに大胆すぎると思ったのか、実名で「おはガール スターフルーツ」は出ていたと思う。

しかし、その後の「おはガール」のプロモーションの迷走は変わらないと思う。今年度のおはガールドラマは、「原始少年リュウジ」という架空キャラクターをからませることでますますセミドキュメンタリーを逸脱し、わけのわからないものになっている。
「手品をしながら歌う」という、ものすごい昔の引田天巧みたいなことをやっているが、客層の子供たちがどこまで付いてっているかは不明。
(04.0707)



・「小泉家のおやじ特盛」 藤波俊彦(2002、小学五年生10月号付録、小学館)

小泉家のおやじ特盛表紙

・総理大臣が主人公のドタバタギャグ
以前、当HPの掲示板で情報をいただいた作品。別冊ふろくである。私は名前のみで内容についてはマンガなのか、記事なのかすらわからなかったのだが、なんと藤波俊彦が描いたドタバタギャグマンガだった!! 1回につき3ページのマンガの総集編。

あらすじとしては、総理大臣になった小泉ジュンイチローと、反抗期の息子・コータロー、塩じー、マキコ、コータローの(ジュンイチローのではないらしい)友人・ムネオなどが出てくるドタバタギャグマンガ。学年誌掲載という遠慮はいっさいなく、藤波俊彦が自分流にジュンイチローとコータローのアホ親子ギャグを描ききっている。

小泉ジュンイチロー

「第8章 改革ロボ発進!」では、ムネオそっくりで身体がタコの「ムネムネ星人」の侵略を阻止するため、ジュンイチローはスーパーロボット改革ロボで、ムネムネ星人の操る「ムネムネロボ」(外見は「むるあか」)と戦う。ムネムネロボは、改革ロボの発射した「改革饅頭」を食べてお腹が痛くなり、戦闘不能。
「改革饅頭だけに、痛みを伴う饅頭」ってなことで、まあ全編そんな調子。

よくわからないのが「第7章 プジヤのピコちゃん」で、ジュンイチローが息子のコータローの誕生日のためのケーキをプジヤに買いに行くが、そこでマスコット人形のピコちゃんが「ビックリするようなケーキをつくってやる」と請け合う。 そして持ってきたケーキは巨大で、上に犬小屋が乗っていて、中から犬が出てきて吠えるのでケーキが食べられない、という話。
コレだけいっさい、時事ネタでも何でもないんだけど、いったい何なんだろうか? 不二家がなんか事件起こしたっけ、と10秒くらい考えてしまいました。何もないよね?

・本作のぶっとびポイント
「ぶっとび的視点」で言うならば、作者はまともな(?)ギャグマンガ家である。
「SPA!」において、「ゴーマニズム宣言」が中断した直後、キャバクラのマンガを連載していたヒト、と言えば思い出す人もいるかもしれない。本作は、普通のマンガとしてひとまず面白いかつまらないか判断されるべきではある。

だから、「ぶっとびポイント」としては以下の2点ある。

・現役の総理大臣(がモデルのキャラクター)が少年ギャグマンガの主人公になっている
・学年誌に載っている

ムネオとむるあか

最初の点については、おそらく少年マンガ誌上始まって以来のことで、政治マンガとか風刺マンガの変遷にまで思いをはせてしまう。本作に、新聞の政治マンガ的スタイルの風刺はないと言っていいと思うが、滝季山影一氏の「政権伝説」などの同人活動をさきがけとして、こうした「キャラもの」が政治マンガとしての可能性としては、今後ともアリになるかもしれない。
一方で、「ワイドショー内閣」と揶揄される昨今の状況は、「ワイドショー的に」小学生にも理解されてしまうプロパガンダ的イヤらしさとわかりやすさを持っていることを、本作は証明しているとも言えるだろう。むろん、本作はそうした政府側のメディア戦略をも風刺しているわけだが。

じっくり「寝かせて」おいて、後にそのキャラクターがどのような人生を歩むかを比較して極上のワインのように楽しむのが広義のタレント本の、あまりヒトのよくない楽しみ方だ(私はそういう楽しみ方が好きだ)。
しかし、本作は日本を背負って立つ人が主人公であるだけに、「昔、小泉総理をモデルにしたマンガがあったんだってよー」などと笑いのタネになった日にゃあ、日本そのものがダメダメになっている可能性も十分あるわけで、そうならないことを祈るのみである。

なお、政治のこむずかしいことに関しては、たぶん福田和也か副島隆彦か山形浩生がエラそうに教えてくれるでしょうから彼らの本を読んでください(名指し……)。
ボクは好きな女の子が彼らの本を読んでいたら、読むことにします。
できればクリーム色のカーディガンの一番上のボタンだけをとめた、上品な眼鏡っ娘がイイです。
(02.0913)



・「ミニモニ。ラブインストール」 亜都夢(2002、蒼馬社)[bk1] [amazon]

モーニング娘。、浜崎あゆみ、宇多田ヒカルなど実在のアーティスト&アイドルの半生のコミカライズ、「ヤングサクセスシリーズ」の1冊として刊行。
著作権とか肖像権とか、どうなってるのか知らんが、どうも非公式らしい(間違ってたらゴメン。でもそうとしかとれないところがあるもんで……)。

「ミニモニ。」のマンガはいくつかが小学館系から出ており、アニメにもなっている。いずれもが、モー娘。の他ユニットと違い、ファンタジーぽいというか、おとぎの国で起こっているような出来事を描いている。しかし、亜都夢先生のミニモニ。は違った!!

これは矢口真里の熱血サクセスストーリーなのである!!

・なまじの「設定」だったらここまでやるぜ!!
物語は回想形式で始まる。ついにソロ写真集の発売が決定したモーニング娘。の矢口真里は、撮影現場でプレッシャーに負けそうになる。そして「ミニモニ。」としてがんばった日々を思い出す……。

……「ミニモニ。」は、どこまでホントだか知らないが「矢口真里が加護亜依、辻希美という背の小さいメンバーを集めて勝手につくったユニット」という「公式プロフィル」がある。
本作も冒頭それをなぞるのであるが、その表現がとても過剰だ。

矢口に、夜のスタジオかどこかへ呼び出されたつんく「つまらないものだったら 矢口に責任をとってもらう」とイキナリコワイ。
そしてステージに登場した矢口、辻、加護。その歌い踊るさまを見て「勝手なことを まるで小学生の人形ダンスだ」と斬って捨てるつんく。それに対し「モー娘。の支持者の外にもファンを広げたい」と必死に、確信をもって食い下がる矢口。この辺り、熱血だぜ!!

ミニモニ。をユニットとして認めたつんくは、「CDを出して30万枚行かなかったら即解散」という条件を出す(出た! 解散がどーたらこーたら)。その日から、矢口他2名の「ミニモニ。」アピールの日々が始まった!!

……ところで、私はミニモニ。の母体となる「ヤングモーニング娘」が誕生した「モー娘。のへそ」という番組を見ていないのだが、ホントに「30万枚売れなかったら即解散」なんて話、あったのか??? その後の「ハローモーニング」および「おはスタ」での、ミニモニ。デビューCD発売までの経緯は追っているが、「30万枚うんぬん」なんて話、ひとつも出てこないんだけど……。
もし作者の創作だとしたら、なかなかやるな、という感じである。本作は徹底して「矢口中心(というかプロデュース)のユニットとしてのミニモニ。」というファンタジーを主眼とした作品だということがここからわかる。

・ミカ加入の理不尽さをマンガにしたる!!
ミニモニ。アピールの努力を続ける矢口と他2名。しかし、ある日突然ココナッツ娘。のミカをユニットに入れる、とマネージャーから言い渡される。
「オトナの事情」にモチベーションが下がる3人(おいおい……)。加護は公然と「ミカが入るなら、ミニモニ。やめる!」「ミカなんて大嫌い!!」と叫ぶ(おいおいおい……)。
メンバーの中に不協和音が流れる中、ついに加護とミカが直接対決!! 歌の収録中にとっくみあいのケンカとなる!!(おいおいおいおい!!)

しかし、ケンカの最中に加護の背後にあった照明が倒れ、加護をかばおうとしたミカは照明の下敷きになってしまうのだった!!

スゲエ!! 亜都夢先生、梶原一騎みてェだ!!

そして助けてもらったことから素直になる加護。それをきっかけに仲直りする加護とミカ。4人の結束はますます強まるのであった。

その後も、矢口中心のストーリーは変わらず。デビュー曲に命をかけた矢口は、スタッフの用意した衣装をチャラにして反感を買いながらも、独自の衣装をデザインする。オールナイトニッポンの司会抜擢の記者会見で、きわどい質問をされてもうまくかわす。過労で倒れる。「ミニモニ。テレフォンリンリンリン」の企画を出す。
そして、母体である「モー娘。」にはまた新メンバーが追加され、それに伴うプレッシャーが……。

そんな中、冒頭の写真集撮影に話は戻ってくる。さまざまなプレッシャーに耐えられない矢口。そんな彼女の心を支えるためにやってきたのは……。

・ミニモニ。=矢口プロデュースというファンタジー
何度か書いているが、ミニモニ。は結成過程自体がドラマ風になっていたり(「だれがソロデビューできるか? という競争的ドラマではなく、なんというか……「つんくにないしょで勝手につくった」といった独立部隊みたいな感じのドラマ)、キャラクター自体がぬいぐるみやゲームになるなどの虚構性の強いユニットである。

公式のマンガやアニメの展開はそれをほぼそのままなぞっているわけであるが、本作は「矢口が勝手につくった」というところに強く重点を置いた。ひたすらに前へ出よう出ようとする矢口の努力と根性と心の揺れを描いたところに、物語として一本筋が通っていると感じる。
4人のホンワカしたところを極力排除し、「なんでミカが?」というところは誤魔化さずに過剰に「不仲からケンカ、そして強い結束へ」と描き、「加護ちゃんこずるそう」説(笑)もきっちり描き、それをまとめようとする矢口、ファッションから曲のコンセプトまでに発言権を持つ矢口、という「ファンタジー」を現出することに成功しているのである。

まあどこまでホントだかわからないというか、9割方はウソ、あるいは想像で描いているとは思うんだが、メンバー内の嫉妬心をためらわずに描いているところが面白い。なにしろ矢口ソロ写真集における彼女のプレッシャーのひとつは「他のミニモニ。メンバーからの嫉妬」ってことになってるからねえ。え? ソロ写真集の企画は辻加護あたりまで全部決まってたんじゃないかって?(私もよくは知らないんだが) そんなこと梶原一騎先生に通用するか!!

梶原一騎の「男の星座」において、力道山が木村政彦をボコボコにやっつけたそのリングに向かって、客席にいた大山倍達は叫ぶ。「力道山に試合を申し込む」と(うろ覚えだが)。
そんなシーンは現実にはなかったそうだ。だが象徴的な意味では間違ってはいないはずである。マス・オーヤマが力道山にライバル意識を持っていてもおかしくないからだ。本作は「ミニモニ。」を、「もっと前へ、前へ!」という矢口の心の象徴に近いものとして思いきって描いたところに、虚構を通り越したある種の迫力を感じるのである。

そのために、辻の影が少し薄くなっちゃったんだけどね。
(02.0526)

ここがいちばん下です
平日の昼間と夕闇のあいだの空間
平日の昼間と夕闇のあいだの空間3
「ぶっとびマンガ」電子版その2 もくじに戻る
トップに戻る