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「つれづれなるマンガ感想文」8月後半
「つれづれなるマンガ感想文」9月後半
一気に下まで行きたい
・「小学五年生」10月号(2002、小学館)
・「餓狼伝」(10) 夢枕獏、板垣恵介(2002、講談社)
・「餓狼伝」(11) 夢枕獏、板垣恵介(2002、講談社)
・「奪! 童貞」 にったじゅん(2002、三和出版)
・「餓狼伝」(12) 夢枕獏、板垣恵介(2002、講談社)
・「死神の惑星」(1)〜(2) 明智抄(1998〜2000、集英社)
・東浩紀原稿「立ちから萌えへ」(初出:「COCO」第2号、エンターブレイン 、2002年)感想
・「シャイニング娘。」2.Second Paradise 師走の翁(2002、ヒット出版社)
・「外道校長東堂源三郎DC(ディレクターズカット)」 小野寺浩二(2002、大都社)
・「ハデー・ヘンドリックス物語」感想補足
・「ハデー・ヘンドリックス物語」 漫F画太郎(2002、集英社)
・「小学五年生」10月号(2002、小学館)
小泉総理を主人公とした、「小泉家のおやじ」というマンガが載っているというので購入。
学年誌ひさしぶりに読んだけど、三十も半ばになると子供もいない状態でこういうの読むのってものすごくムナシイ。なんだってだよチクショー。数学できんが、なんで悪いとや!!
特集記事は、私が現役読者だったときよりも、女の子向けにシフトしている印象。「渋谷109−2大探検!!」とかね。ぜんぜん興味ねーよ。確か109って昔は本屋が入ってたんだけどね。今はどうだか、知らなーい。あとベイブレードね。男の子向け記事として。
かなり大々的にマイナスイオンについての特集が組まれているが、その記事の妥当性すら検証することのできないおれは、学校行ってもムダだった。そしてボクは途方に暮れる。
以下、ざっと掲載されているマンガについて。
・「どうぶつの森 ホヒンダ村便り」あべさよりは、ゲーム「どうぶつの森」のキャラクターのマンガ。今回はマツタケが食いたいとかなんとか。
・「芸能ワンダーランド アイドル1番」じょうさゆりは、芸能人が出てきてドタバタするギャグマンガ。三等身キャラでわりと似ている。ギャグもそこそこ。本誌のマンガではいちばんオススメ。
・「爆笑ベースボール! モーだメジャー!!」玉井たけしは、プロ野球選手キャラ4コマ。
・「キラーパス ナカタくん」しろうず秀明は、同系統のサッカー選手キャラ4コマ。
・「ポケットモンスタースペシャル」日下秀憲、山本サトシは、レッドという少年が主人公のポケモンマンガ。けっこう長くやってるはず。
・「おとな▼図鑑(▼は・マークの代用)」山辺麻由は、性教育マンガ。男の子が女の子にハダカを見られてどうこうとか、熱を出してしまったんで精子が死なないようにお母さんがタマキンを水枕で冷やしてくれたりする。お母さん、気の遣いすぎじゃないか? そうでもないのか? わからん。性器の断面図の解説付き。
・「お仕事人が行く!!」山辺麻由は「ファッションデザイナーになりたい!」。要するに、読者があこがれの職業に就くにはどうしたらいいかの解説マンガ。
・「ぼくらの翼」姫川明は、第2回なのでお話が見えないがどこかアジア系の国の、貧しいストリートチルドレンの話。サーカスの少女に恋をするが、博打にハマった兄から金をせびりとられる。せつない。
・「少女少年」やぶうち優は、男の子が女装してアイドルになるマンガ。これもけっこう長くやってるよね?
・「おでんくん」リリー・フランキーは、まあ簡単に言って「リリー版アンパンマン」みたいな話。さんざんチンコとかマンコとか言っといて、いきなり「モテ系癒しマンガ」を描くとは。こんな世の中、滅びてしまえ!!
・「名探偵コナン」原作/青山剛昌、まんが/丸伝次郎+安部ゆたか、プロット/平良隆久は、犯人の血痕を追って推理する前編。手堅く面白い。
・「聖闘士BLADEAS」宮崎まさる、印照は、ベイブレードのマンガ。現在アニメでやってるやつと違い、軸の固定がどうしたとか、わりと技術的な内容であるらしい。対戦相手の美少女がナマイキなので、だれかエロパロ描いて××してやってください(もう完全に心がすさんでるおれ)。
・「ダルパラ」むさしのあつしは、生命を持ったダルマが出てくる「ドラえもん」みたいな話なんだろうたぶん。そう、本誌にはもう「ドラえもん」はない……。
・「あさりちゃん」室山まゆみは、校長先生が変わった給食で有名になりたいと、あさりとタタミに知恵を絞らせる。
・「ズボラーキングのばらちゃん」兎野みみは、ギャグマンガだが看板に偽りあり! ちっともズボラであるというギャグが出てこなかった。
・「ミニモニ。やるのだぴょん!」もりちかこは、ミニモニ。を主人公とした4コママンガ。もはや私の興味は、この作者が矢口の脱退と新加入予定の高橋愛をどう描くかということだけだ。矢口が去るところは「さようなら、ドラえもん」みたいにしてほしい。
(02.0913)
ヤングマガジンアッパーズ連載の格闘技マンガ。プロレスラーのグレート巽は、秘蔵っ子・鞍馬彦一を空手団体・北辰館のトーナメントへ出場させるため、実践空手の雄・久我重明と組み手させる。
一方、グレート巽企画の総合格闘技の興行に出場が決まった丹波文七は、いよいよ対戦相手の堤城平とリングの上で拳を交えることになる。
格闘描写は、最近の「バキ」より細かいなぁ。
(02.0912)
ヤングマガジンアッパーズ連載の格闘技マンガ。丹波文七と堤城平の激突編。自分の中の獣を解き放つ丹波と堤。ほとんど全編にわたって、二人の徹底的なド突き合いが堪能できる。本当にすばらしい。本当にワクワクする。興味のない人にはサッパリだろうし、興味のある人にはこれほど面白い巻はないだろう。
(02.0912)
成年コミック。主に「魔翔」に掲載されたものを集めた短編集。ところで、当サイトのアクセス解析したら、以前トップに本書のことを「もうすぐ発売!」みたいなことを書いていたので、それで本書のタイトルから当サイトを検索した人が何人かいたようである。今まで何も書いてなくて、すいませんでした。
内容は、ほぼ全編が同学年かちょっとだけ年上の経験豊富な女の子に、かわいい内気な男の子が身体を弄ばれて筆下ろししてもらうというパターン。もともと絵柄がサラッとしているし、作者の人柄からか経験のない男の子をちょっと小馬鹿にしている女の子たちもわりとかわいらしく描かれている。それでいてチンチンのシゴキ描写は濃厚。
けっこうこういうパターンって、ありそうでなかったんじゃないでしょうか? いや、すべてのHマンガを読んだわけではないんだが……。
そういう意味では「この人しか描けない」というパターンを確立しつつあるような気がします。そんな中でも「妹ネタ」が入っているのは時節柄、ですかねえ。
(02.0911)
ヤングマガジンアッパーズ連載。さて……気を取り直して感想を書くことにする。
同時期に読んだので本文は「死神の惑星」(1)〜(2)との比較という妙な展開になるが、「死神の惑星」の2巻までがあまりに徹底した個人の物語、理解はできるが決して感情移入できない人々の物語、未来を舞台にしているのに世界観よりも個々人がクローズアップされる物語(だと私が感じた)であるのに対して、本作は徹底して「読者に全能感を体感させる」作品である。そういう快楽原則に、ひたすらに、ただひたすらに乗っ取っている。
12巻では新米レスラー・鞍馬彦一と柔道世界一・船村との戦い、グレート巽とイゴーリー・ボブの戦い、一触即発の松尾象山とグレート巽の会見が描かれる。ここではだれもがグレート巽に、イゴーリー・ボブに、松尾象山になれる。おそらく、格闘技にカンケイのない読者ほど、なれる。それは彼らが、意地とこだわりとイデオロギーによって動いているから。「感情」が計算を凌駕する瞬間を描いているから。
最近の「バキ」は正直言って迷走の感が否めないし、作者・板垣恵介のなんだか御意見番風のたたずまいに疑問を呈する人もいるかもしれないが、原作があるせいか、本作の方が「バキ」よりもまとまりがいいように感じる。
たぶん、感情剥き出しの主張や作品って必ずそれをどこかで嗤っているやつがいる。私はいつもそう思っている。私の感動をせせら嗤っているやつがいる。しかし、悲劇なのは「自分の方が上に立っている」って思って嗤っているやつがいることではなくて、そいつが自分のいちばん大切な、ナイーヴな部分はどこかに閉まって、おし隠して、モノを言っているということだ。
そして暴き立てて「これがいちばんあなたの大切なものなんでしょう?」と問うても、きっとそいつは「違う。いや、違わないとしても、お前たちが大切だと思っているものとは違う。私の持っているものの方が上だ」と主張するだろう。
そういうやつを叩きつぶす方法を、ずっと考えている。とりあえず、そういう人間に会ったときは「じゃあロボットになりなさい」と呟くことにしている。
……などと、後半やや抽象的なことを書いて、新機軸を打ち出してみた。
(02.0909)
「コミックeye's」連載らしい。なんだか、SF大賞かなんかの候補に挙がっていたというし、あちこちで評判を目にするので読んでみた。
……正視できないほど恐かった。
2巻まで読んだかぎり、あらすじとしては無法者ばかりが集う辺境の惑星・グラーシスを舞台に、そこで錯綜する人間模様を、各話につき一人ひとりを主人公に据えて描く、という感じか。ある話で登場した脇役が、別の話では主役になったりして、編み物みたいな感じで物語は進んでいく。
簡単に登場人物を紹介すると、グラーシスの一部分を支配するやくざらしいウォーリィ、彼の「愛人」となった天才青年・ヒトリ、情報屋兼小さな酒場の老人・ロイ、彼の店の手伝いをしているこなまいきな幼女・リン。そしていまだに偉大な政治家と讃えられて死んだ(らしい)、現在は銅像にまでなっている女性・鈴木エリザベート。
……ってな感じかな。彼らにはそれぞれ裏の顔、真実の顔といった部分があって、それがからみあって物語を構築していく。
で、1巻の途中からなんだか正視できないほど何とも言えない気持ちになり、2巻をうんうん言いながら読んだら、まだ続きがあってガックシ、ときた(続きを読みたいという気持ちと、もういやだという気持ちを。藤本美貴的な表現で)。
なぜそうなのかは、個人的な話になる。まあ「何とも言えない気持ち」というのは、はっきり言って恐怖よりも「不愉快」なんだけれども、私は「不愉快」を紡ぐ物語があっていいと思っているし、明智抄はすごい才能の持ち主であると断った上での、以下の私見だと思っていてください。
「不愉快」についての理由は、2つある。
自分の「野ばらの国」の感想を読んでみると、読みきり集である同書の共通テーマは「自分が恐怖ゆえに心の中から締め出してしまったものの受容」だと私は書いている。それは「死神の惑星」についても、まんざら当てはまらないことではないと思う。もう少し絞って書くと「自分が自分から閉め出してしまった『自分の一部』との統合」、とでも言い換えればいいか。それが第一の「不愉快」のひとつ。
一見、「自己の統合」という、テーマとしてはありきたりで、不愉快とは直結しそうにないことを扱っているように思えるが、「死神の惑星」ではその「自己の統合」の問題が、徹底的に、完膚無きまでに「自分の問題でしかない」、「自分の問題にしかすぎない」こととして描かれていることが、私にとってはほとんど耐え難いことだった。
たとえば第1巻、第1話「惑星グラーシス」は、連載第1回だということもあってほとんどヒトリとウォーリィ、および「グラーシス」という星の世界観の顔見せ程度の話ではあるが、ラストシーン、ヒトリがウォーリィに愛されていると確信する場面では、本当にウォーリィがヒトリを愛しているかどうかは厳密には読者にはわからない。ぶっちゃけ、ヒトリが勝手に感動しているのだ。
同じことは第2巻、第6話「ベスの初恋」でより効果的に、残酷に描かれる。植物人間として長い間育ったベス(後の鈴木エリザベート)は、十代の頃、通りがかった美青年のデューンに一目惚れする。そこはお約束で、ベスをけむたがっていたデューンは次第にベスを愛するようになる。
そのきっかけは、無邪気な、好奇心だけで生きているベスを通して、ノイローゼの母親を許そうとデューンが「勝手に」思い込んだところにある。その後、デューンは惚れた弱みも含めてベスに徹底的にコケにされまくる。しかし、それはベスの残酷心から来るのではなく、デューンを感動させた同じ「無邪気さ」から来ている。さらに、「私は混乱した負け犬の道は選ばない」と決心したベスは、自分の「世界」拡大の欲望にうながされるままに、政治家への道を歩む。
実は「無邪気さが人を傷つける」というだけの話ならば、それすらもよくあることだ。たとえば、小林よしのりの「ろまんちっく牛之介」は、私が知るかぎり「無邪気さの残酷性」をも「笑いとして、エンタテインメントとして」描いた希有な例である。
私が途中からだんだん投げ出したくなってきたのは、ベスというキャラクターが「無邪気」の中に最初から巧妙に「残酷性」をも組み込まれていて(ベスはデューンに片思いしていた頃から、彼にふりむかせる計略家のような部分を合わせ持っていた)、さらにそれが政治家としてのし上がっていく過程で「本当に残酷な人間」であるように「すり替わって」いたからだ。これは作者の意図云々というよりも、おそらく根源的な資質のようなものだろうと思う。すり替わっていった点に、演出上の不備があったとは言えない。「そういうマンガ」なのだ。
それゆえに、読んでいてたまらなく居心地が悪かった。
もうひとつの「不愉快」の理由は、登場人物一人ひとりの「内面」の問題が掘り下げられれば掘り下げられるほど、それは本当に本当に「個人の問題(にすぎない)」ことがわかり、さらにキャラたちがそれにあまり頓着していないという点にある。
本作では実にたくさんの人が、特殊能力者(主要登場人物のほぼ全員が超能力などの特殊能力を持っている)の「個人的な理由」によって死んでいる。しかも、明智抄の手にかかるとそれは「恋人に会いたいから江戸を火の海にした八百屋お七」のような悲劇にすらならない。「八百屋お七」には(詳しくは知らないけど)、「愛ゆえに残酷なことをした」という悲劇性があるが、本作には何かそういった浪花節的な悲劇性の演出が根本的に欠落しているのだ。
たとえばひと昔前の青年マンガで「主人公にレイプされた女が後に恋人になる」という法則があって、その点耐え難い人もいると思うが、同じような耐え難さを、私個人は本作で悲劇として描かれない「現実」の中に感じるのだ。その「愛ゆえにすべてがチャラになる」という因果応報のなさに。しかも「チャラになってもいいのだ」という宣言すら感じさせない描き方の中に。
実際の政治でも、善人や弱者や愚者は、最大多数の幸福のために消されていっているだろう。それはもうどうしようもない。どうしようもないが、どうしようもないことをどうしようもないと描いても、さらにどうしようもないだろう。たぶん、3巻でエリザベート鈴木の罪滅ぼしが描かれるのだろうとは思うが、それはおそらく今までどおり、エリザベート自身の「内面の問題」であるだろう。
そういう意味では、本書に出てきたキャラクターは「内面の問題を抱えている」がゆえに、それをすべて自己の問題として処理しようとしているがゆえに、私からは何倍も遠い。マンガ内のキャラクターとのディスコミニュケーション。ディスコミニュケーションといっても「断絶」ですらない。「断絶」はつながっていたとか、つながる可能性を示すものだが、私にとって本作のキャラクターは、最初から何のつながりもない。たぶん、私は彼らによって利用され殺される立場にあると思う。だからこの世界に、想像の世界だとしても私の居場所はない(ちなみに、ハインラインの小説の中にも私の居場所はない。2冊くらしか読んだことないけど)。
アニメ版「ベルサイユのばら」は、原作同様、マリー・アントワネットとフェルゼンとの恋愛を長々と描いていた。「イチャイチャしやがって。こんなやつら、さっさとブッ殺されればいい(ひどい)」と多少思っていた私は、後半のフランス革命になだれこんでいく過程にウットリした。原作版と違い、民衆がなんだか波みたいに襲いかかってくるのである。
マリーにとって革命は天災とそう変わらないように描いてあったと記憶する。「ベルばら」では内面によってのみものごとは解決しなかった(繰り返すが、「死神の惑星」の3巻でなんかかんかあるとは思うが)。マリー・アントワネットのこじゃれた恋愛ばなしは、彼女が直接話したこともない「波」(ここでは民衆とか大衆とかとあえて言わん)によってブチ壊された。我々は(我々でマズければ「私」は)、「ベルばら」において貴族にも平民にも感情移入できた。それは内面だけで終わらないから。
「死神の惑星」は、2巻までで、本当の「自己の内面の問題を自分が処理する」ということがどんなに孤独で、理解はできるけど共感はできなくて、だれも助けてくれる人はいなくて、もし助けてくれる人がいるとすればそれはほとんどの場合が打算である、ということを描いている。恐ろしすぎて、たぶんもう続きは読めない。
(02.0909)
しゅうかいどうから読んだ、東浩紀氏原稿「立ちから萌えへ」。
まず内容については、原文を読んでください。これによって引用による誤解等は避けられると思います(と言っても、以下にたいしたこと書くわけじゃないが)。
基本的に東氏の主張は「動物化するなんとか」以降、詳しく追いかけたわけではないですが良くも悪くも一貫しているように感じる。また、さまざまな反論に対して、より自説を詳述しようという姿勢も見受けられる。
少し整理すると、
・「萌えなんて20年前からあったよね」という古い世代が後を絶たない。
・しかし、コミケやネットの現場を見れば明らかなように、ギャルゲー以降の萌えは、従来のアニメキャラ中心の萌えと何かが違う。
ということを、東氏は詳述するにせよ、簡単にコメントするにせよ、繰り返し言っているわけだ。
ここで、私の疑問は2つあって、
・本当に「萌え」は90年代中盤以降の「パラダイムシフト」によって、従来と違うかたちで出現したものなのか?
・「萌え」が「物語消費からデータベース消費への変化」の顕著な例であるとして、世の中がどう変わっていくのか、それによって人は幸せになれるのか?
……ということである。
・すべてはダダモレる。(私見)
私見としては、私は「萌えなんて20年前からあったよね」と主張する古い世代である。
だから、私の見解としてまず「パラダイムシフト」という点でまとめて言ってしまえば、
「『萌え』的傾向はオタク文化の中で20年前から存在していた。否、そもそも「萌え」的傾向そのものが、オタク文化の中心核のひとつと言ってよかった。だからこそ、いわゆる「キャラ萌え」は、物語重視のマンガファンやSFファンとは多少異なる印象を残した。昨今、『萌え』という概念がクローズアップされてきたのは『パラダイムシフト』したからではなく、ダダモレ的に、グラデーション的に、従来の『萌え』がより強調されてきたからである。」 ということになる。
東氏の「立ちから萌えへ」では、「1990年代のIT革命の奔流のなかで、オタクの中心が文科系学生から工学部系学生へと大きくスライドしたという事情がある。工学部の学生は物語よりもシステムを好む。」とあるが、「20年前からあった」ということで言えば、もともとオタクを育てていったコミュニティのひとつはSFファンダムというイメージがある。SFファンには理科系、あるいは理科系的思考を持った人は少なくなかったのではないだろうか?
もう少し、「立ちから萌えへ」からの長めの引用になるが、
「古いオタクにとって、キャラクターの魅力はあくまでも物語のなかで作られるものだ。ラムやミンキーモモをデザインや設定だけで好きなファンはいない。彼女たちの魅力は、押井守や首藤剛志が作り上げたシュールな作品世界と切り離せない。言い換えれば、かつてはキャラは『立つ』ものだったわけである。オタクたちは『キャラが立った』登場人物を愛した。それはクラリスやセイラから綾波レイまでほぼ変わらない。」
ここら辺も、「パラダイムシフト」という劇的なイメージよりは、むしろダダモレ的に現状に至ったことを表しているように思える。
というのは、「物語の中で魅力的な女の子に『萌える』」というのは20年前からすでに中間的な立場だったのではないかということだ。「萌え要素のみで楽しめる」、現在の萌えについて、東氏の主張を借りるなら、の話だけれども。
そうでなければ、なんつーか、女の子がモビルスーツみたいなのを装着して、でも胸の谷間とおへそと太股だけは見られるデザインのメカを装着しているイラストなんかは、そうそう描かれなかったと思う(これはあくまでも「イラスト」であって、物語的背景がある場合もない場合もあったと記憶する)。そして、それらはどちらかといえば「クラリスがいい」と言うよりは異端視されていたと思う。
同人作家がおうおうにしておちいる設定資料集やデザイン画集までつくって本編を描かずに満足してしまうという現象も、キャラクターは本編の中で動いてナンボということを考えれば「立ち」よりも「萌え」と言えなくもないのだ。
「萌え」観点の強化と浸透と拡散について、90年代半ばで「刻む」必要があるのか、それをパラダイムシフトと言えるのかについては、あらためて疑問を呈しておきたいと思います。
・人は、幸せになれるのですか?
私のもうひとつの疑問、「『萌え』が『物語消費からデータベース消費への変化』の顕著な例であるとして、世の中がどう変わっていくのか、それによって人は幸せになれるのか?」については、東氏はそれに答える立場にないのかもしれないし、必要を感じていないかもしれないし、いまだあまり発表していないのかもしれないが、まだ答えてくれていないように思う。
個人的にやや悲観的な、古い世代として感じることを書けば、「萌え」現象は、マンガ・アニメという大衆文化の趨勢をみていく指標としてはいくつかのことが仮説として考えられる。たとえば以下のようなことだ。
・世界が変わってきている(ポストモダンになっている)ことを象徴している。
・マンガもアニメもゲームも、ジャンル内で自家中毒を起こしているため、末期的な現象としてドラマがぶっこわれてきている。そして「萌え」だけが台頭してきた。つまり時代性とは直接の関係はなく、ジャンルとしての寿命の問題。退廃の象徴。
・ジャンルが成熟していく上での奇現象として起こってきたこと。東氏が問題と
する作品群はあくまでもフリークス的な存在にすぎず、ジャンル自体は大きな変
化は起こらずに進む。
・マンガ・アニメ・ゲームは、「萌え」が象徴するように何かまったく新しい形態の表現に移行していく。
上記のどれが正しいのか、私にはわからない。現時点では考察するための資料が少なすぎる。予言者みたいなことを言って恥をかくのはいやなので、この辺りはあまりツッこまないが、「萌え」の台頭よりも「物語」の衰退の方が問題として大きいような気はする。
・「萌え」も結局、物語なんじゃないの?
最後にもうひとつだけ。これは東氏の「萌え」解釈とは違うのではないかとは思うが、一般的な「萌え」理解として「パーツだけで萌える」という、なんというかフェチの一般的イメージをよりカリカチュアライズしたかたちで解釈している人も少なくないのではないかと思う。
しかし、それは少々違うんではないかという気がする。
ここで思うのは、たとえば「萌え要素」として「めがね」とか「フリル」とかいったものと、「触覚」、「ピンクの髪」といったものとは違うのではないかということ。
「めがね」とか「フリル」とかといった場合、そこにはやはり背景に物語が存在する。「清楚」とか「まじめ」とか「少女」とか。「めがね」は拡大解釈すると本当に単なるフェチにまで拡大されていくが、オタク文化で「めがね」と言った場合、やはり付随する物語はその中にけっこう集約されていると思う。
一方、「触覚」とか「ピンクの髪」というのは、それ自体あまり物語を喚起しない。
これは、たとえばアニメ絵の流行の中でときどき流行っては消えていく小さなポイント……一本だけ刺さりそうなまつげがピンと伸びているとか、しもぶくれ顔であるとか、驚いたときの顔であるとか(「どこでもいっしょ」の「トロ」とか「あずまんが大王」のキャラがやる、グルグルッと書いた丸が目になっていたり、見開いた口が縦に四角になっていたり)という「おとしどころ」みたいなものだ。
ちなみに「ネコ耳」はその中間で、「獣人」とか「小動物的な従順さ、あるいは気まぐれ」などを表すと同時に、ビジュアル的には単なる記号として機能させることも可能である。
だから、パーツが物語を喚起している、ということは十分ありえて、(ここから先は東氏の原稿とはカンケイのない話なんだが)「萌え要素(=パーツ重視)」と「物語性、キャラクターの関係性、シチュエーション」とを対立させて論じるというのもリクツでは可能だが、やはりちょっと雑駁な議論になってしまう危険性がある、ということを主張しまして、挨拶に代えさせていただきたいと思います。
(02.0907)
成年コミック。「COMIC阿ロ云(あうん)」連載。どっかのアイドルグループに似ている「シャイニング娘。」のメンバーが、悪魔に順繰りに犯され続けるというダイナミックなエロマンガ。
この間、なんかの雑誌で井筒カントク(映画を見ては怒り心頭で批判することでタレントとしてキャラ立ちしたヒト)が「オースティンパワーズ・ゴールドメンバー」について「アメリカ人にしかわからないギャグが多いが、コレを見て笑っている人間はそれがどれだけわかるのか」みたいなことを書いていた。
私はまだ「ゴールドメンバー」を見ていないので同作そのものについてはなんとも言えないが(前2作は見ている)、「わかる人にはわかる」(わからない人にはわからない)要素を持った作品というのは、なかなかむずかしいモノを含んでいる。
ずっーと前、「ゴーストバスターズ」が公開されたときも、わけ知り顔の友人から「あの作品はアメリカのテレビCMの有名なフレーズなどが使われていて、わかる人にしかわからないらしい」と聞かされた。
実際に見て、どこがそういうパロディ的な部分なのかは確かにサッパリわからなかったが、「ゴーストバスターズ」は面白い映画だった。今でもお気に入りのひとつである。
「ゴーストバスターズ」を面白く感じたのは、おそらく本作のプロットそのものが日本人にもわかる普遍性を獲得していたから。「ゴールドメンバー」を解説するとしたら、「わからないギャグがちりばめられている」ことを指摘することではなく、むしろ「どういうところがわかるギャグか」を説明することの方が重要だ。
井筒監督の文章の場合、おそらく日本人にも理解できるギャグをサッパリ面白く感じなかったから「わかる人(アメリカ人)にしかわからないギャグが多すぎる」という文句につながったのだろうと推察はできる。しかし、洋モノの場合「あっちの人しかわからない」部分と「別にわからなくても、場合によっちゃカン違いしていても楽しめる部分」を明確に分けないかぎり、いつまで経っても観る側が「スノッブと一般人」、「バカとリコウ」にしか分けられない観客論しかできないことは確かだ(個人的には、井筒カントクという人は「自分のシュミじゃない」ものに対する感想を言うのがヘタな人なのではないかと思うが)。
本作「シャイニング娘。」に関しても、そのあたりは注意深く語られなければならない。確かに本作が、実在のアイドルグループに所属する少女たちをテーマにしていること、そのグループについてよく知っている方が楽しめる「小ネタ」がちりばめられていることは確かだ。彼女たちのファンで、Hマンガが好きな読者がいちばん読んでいて楽しいだろうとは思う。
が、じゃあまったくのマニア向けであるかというとそうではないと思う。「アイドルと一般観衆がHする」というタイプの(といってもそうたくさんはないとは思うが)Hマンガとしては、「アイドルとは何か」という素朴な問いにまっちょうじきに答えたガチンコ勝負の「良質なアイドルHマンガ」だということができる。
そういう意味では、「アイドル」という設定のコが拉致監禁されて犯されちゃったりする単純なHマンガなどとは一線を画す。まあけっきょくヌケればいいわけだし、「アイドルを拉致監禁する」というテーマも突き詰めれば何かあると思うけどね。っていうか絶対あるんだけど。
アイドル側の心情なんて想像するしかないわけだけど、その「アイドル側の心情」に踏み込んでいることでワンランク上に行っていると思う。妄想の世界での、犯す側(観客)と犯される側(アイドル)との関係に留意している点がいい。
もうひとつは、元ネタとなるグループを知らないとどうもならん話なんだが、一人ひとりの犯されパターンが実に考え抜かれている。一人ひとりがヤられることがバラバラのできごとではなく、有機的につながっているのだが、クライマックスが矢内の処女喪失に収束されている点も盛り上げてくれる。
「なんで矢内だと盛り上がるのか」は、まあなんか、それこそ説明しづらいんだけどね。作者が矢内好き、っていうだけではないんじゃないかな。
(02.0905)
「コミックファンタジェンヌ」、「ファンタジェンヌ」連載。萌えネタ大好きで、すきあらば自分の学校の生徒を犯すことばかり考えている校長・東堂源三郎が、リビドーを「浪漫」と言い換えて暴走するギャグマンガ。ちなみに「浪漫」は男の右脇腹にあるそうです。
あいかわらずの小野寺節で、面白い。この頃からめがねっ娘フェチの南雲鏡二とか出てたんだね。あとロリータ番長とか。
(02.0905)
本書の感想を書いてから、少し言葉足らずの部分があったかもしれないと思って、補足。
読みきり「ハデー・ヘンドリックス物語」について、「驚くほどまっとうなロックマンガでビックリした」と書いたが、「まっとうなロックマンガ」という表現について違和感を覚える人がいるかもしれないと思って考え直した。
もし、本当にロックマンガを描きそうな人が本作のプロットをマンガ化したら、そりゃ確かにおかしいことになるだろう。時代錯誤のどうしようもない感じ、「やっちゃった」感じになるかもしれない。
だからこそ、本作ではハデヘンはとうていロックスターを目指す男とは言い難いハゲオヤジだし、他の人物も実に奇怪、ギター屋に泥棒に入るシーンでもギターは超テキトーに描かれていることが、効果を出していると思う。このことによって「漫☆画太郎」のマンガになっているのだ。
……ということが言いたかった。
(02.0905)
上の[bk1]とか[amazon]をクリックすると、通販で本が買えるわけなんスが、先月、当サイトからbk1で本を購入したヒトは、ゼロでした! ゼロ! 背番号ゼロ! ダイバーゼロ!(←未読)
少しでも本が売れるように……微力ながら出版不況を何とかしたい……そんな気持ちから始めたサービスですが、ホントこれ手間かかるのよ。レビュー書くたびにいちいちネットにつながなくちゃならないし。ウチ、ADSLとかじゃないんだよ! このままじゃイキジゴクだよ。砂地獄だよ。アリジゴクだよ。
以上、愚痴終わり。
ギブミーチョコ! ギブミーガム! おくれよおくれよ兵隊さん!! ヘイ!!!
ギブミーチョコ! ギブミーガム! おくれよおくれよ兵隊さん!! ヘイ!!!
ギブミーチョコ! ギブミーガム! おくれよおくれよ兵隊さん!! ヘイ!!!
クリスマスの夜、無職の中年オヤジがふと立ち寄ったライブハウス……。そこで行われているのは、ハデー・ヘンドリックスの熱狂的な歌&演奏であった。彼は後に伝説となる……果たして彼がそれを望んだのかどうかわからないが。
ヤングジャンプなどに掲載された読みきりを収録した短編集。表題の「ハデー・ヘンドリックス物語」は上記のような内容。ハデヘンの歌は、上記のような歌。
実は、驚くほどまっとうなロックマンガでビックリした。起承転結は非常にはっきりしているし、ライブのシーンもマジメにいい感じだ。本当にこういう歌詞の、こういうテイストのバンドがありそうなのだ。
個人的には漫☆画太郎に対して、世評ほど入れ込んでいるわけではない。その理由のひとつとして、作風が意外に定まっていないというのがある。それは本書を読んでよくわかった。
たとえば、若ハゲをバカにされた少年はそのままで、なぜか彼をいじめていた少年たちが小さくなってしまう「ゲーハーの時代」は、よくできたバカSFという感じだし、それに対して「ストリップで生計を立てる」と言い張ったババアの元に、女性の「秘密の花園」を見たくて見たくてしょうがない中学生が連れてこられる「裸一貫」は「樹海少年ZOO1」に通ずる「ひとつのことを延々と引っ張ってオチにつなげる」という手法、「いやしババア」と「いやしのストリッパー」は、漫☆画太郎と聞いてもっとも一般的に想像されるコピペ芸。
「Shall we ババア」もアウトプットはかなり破壊力があるが、内容自体は案外キチンとオチている。
こうして見てくると、漫☆画太郎はおそらく一般イメージよりもずっとオーソドックスな作家ではないかと思う。あるいは、妙にキチンとオチている場合と、メチャクチャな場合とを描き分けているように感じる。
電気グルーヴが絶賛したせいか(断っておきますが、当サイトはなぜか一時期の電グル発言に無意味にこだわりを見せている)、彼らが信奉する根本敬と比較されたり併称されたりする文章を見かけたが、実際にはまったく資質の違う作家だと言わねばならない。
井上三太が、Bボーイ(って今も言うのかな?)の生きざまをマンガに描きつつ、内容的にはオーソドックスなツッパリマンガの方法論を踏襲していることを連想させる。「TOKYO TRIBE」がオーソドックスなのに対し「BORN 2 DIE」は実験的な手法を用いているから、別に比較する必要もないが漫☆画太郎のやってることっていうのは、むしろそういう方法論に近い気がする。
(02.0902)
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