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「つれづれなるマンガ感想文2006」6月
「つれづれなるマンガ感想文2006」3月
一気に下まで行きたい
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・「ヲタ漫画経験値(200人版)」
【映画】・「冒険者たち」監督:ロベール・アンリコ(1967年、フランス)
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ヲタ漫画経験値(200人版)
あまりにも自分の点数が低いので死のうと思った……。
いやアソビとして、こういうのはいいと思うんですが、
個人的にはあまりにも少年時代に試験に苦しめられてきたのでもう試験はやりたくありません……。
どのくらい苦しめられてきたかというと、
「今でも試験の夢を見るよー」
とか言われると、
「本当に受験時代に全力を尽くしたならば、そんな夢など見るはずがない!!」
って思わず言ってしまうくらいです。
また「いかに勉強せずに大学に入ったか」を自慢するようなことにも疑問を覚える。
戦争などで上の学校に行けなかった人が「オレも学校行けてれば……(成績は良かったはず)」と言うのに対し、
「じゃあ、勉強してて血のションベン出たことある?」
と聞いてしまいそうです(本当に出たことがある)。
なんだこのオレの求道精神。
範馬勇次郎かっつーの。
でもホント、「ラッキーマン」の単行本のおまけページで、努力マンが「努力してどうなるとかそういうのは関係ない、結果が出ようが出まいが努力するんだ!」って言ってましたが、私も最終的にはそれくらい追いつめられましたから。
それで東大とか入ればカッコがつくけど、そういうこともありませんでしたからね。
茶番な青春時代です。
まあ、どんな世界にも序列はありますからね。
ホームレスの世界にも人間関係があるそうですし。
もう何もかも終わりです。
紺野[amazon]、大検がんばれよ!!
(06.0511)
【映画】・「冒険者たち」 監督:ロベール・アンリコ(1967年、フランス)
パリ郊外の飛行クラブでインストラクターをしているマヌー(アラン・ドロン)とレースカーのエンジン開発に熱中するエンジニア・ローラン(リノ・バンチュラ)。
彼らのもとに、レティシア(ジョアンナ・シムカス)という女性が登場。スクラップ置き場を根城にする彼らのもとに彼女が現れた理由は、ガラクタでオブジェをつくるためだった。
二人は芸術家の卵のレティシアに恋心を抱く。
やることなすことに失敗した3人は、気晴らしも兼ねてアフリカの海底に5億フランの財宝が眠っているとの話を聞きつけ、コンゴに旅立つ。
ハッキリ言うと、自分にとって世界は1967年で終わってるんだよ!!
この映画が公開された年に。
日本ではこの作品に横溢する「人生におけるダメ感」、「終わった感」、そして「終わった感じをたまらなく愛しいと思うセンチメンタリズム」を味わうのは、たぶん多少遅れて70年代以降のことになるんじゃないかと思うが。
第二次世界大戦で一度何もかもがリセットされて、無我夢中で世の中を再建して、多少余裕が出てきて数年すると今度はいろいろアラも見えてくる。
希望が希望じゃないとわかったりする。勝ち組と負け組が分かれたりする。そして「ダメ感」が襲ってくる。そんな気分が見えるのがたぶんフランスでは60年代後半で、日本ではもう少し後のことになるのだろう。
日本では80年代はそれまでに終わっていったことどもに対して「まだ終わってない」、「いや、もう終わったんだ」、「終わったこととして新しいことを始めよう」、「まだ終わってないからあがいてみよう」という議論がウダウダなされていた。
ということは、基準はやっぱりそれまでの時代にある。
その基準はだいたい60年代終わりから70年代初めに、すべて出そろっている。
本作は青春の終わりを描いている。食べるのに無我夢中の時代には青春なんて存在しない。逆に、物質的に満ち足りた時代には、大人の基準が曖昧になっていく。大人というのが責任を持った生産者だと考えれば、モノを生産することが生きる絶対条件にはならなくなっていくから、基準が曖昧になるのだ。したがって、青春の終わりも曖昧になる。
フランスの60年代のことはよくわからんが、本作に登場する飛行クラブのパイロット、レーシングカーのエンジニア、前衛芸術家、どれも生活に切実に関係してくる職業ではない。
そういう職業に、みんなが憧れ出す時代だったことは間違いない。
しかも、登場人物三人はそれら「生活に切実ではない」職業に全員失敗してしまう。
物語後半、男二人はレティシアの故郷に行く。そこで、彼女が芸術家を志した理由は地元の生活がイヤになったことと関係していると知るが、このように既存の生活から飛び出すための突破口として芸術というかクリエイティヴな職業が捉えられていたことに関しても、私はそういうおとしどころが存在した「時代」を感じて、テもなく感動してしまう。
ま、そういう時代といえばそういう時代である。
ラスト、大人になれない、青春の尻尾を引きずっていた彼らは大人への通過儀礼としては哀しすぎる体験をする。70年代を通じて、東映の映画とかを見るとこんなラストばっかりで既視感があるほどだが、逆に言えばこの手の結末が現在、物語においてまったく通用しなくなってしまったことも感じる。
全編を通して実に甘ったるいが、本作を見て「オトコの人ってカワイイのね、ウフ」なんて上から目線で語る女は全員、どこかの海で大量発生したクラゲをむりやり食わされればいいと思う。「こんなの甘ったるくて見てられないですよ」などというIT社長の男は、全員ヤクザに東京湾に沈められればいいと思う。
今現在、個人的にはいつ頃からこういう物語がダメになったかを調べるともなく調べている。
なくなった理由は、単に時代の変化というだけではなく、たとえばフェミニズム的観点から言えばそれなりの理由はあると思う。しかし、まったく無くなっていいかといえばそうだとも思えない。
日本では、70年代半ばからこのテのプロット(まあどんなものかは実際に見てください、書くとネタバレになっちゃうから)は受け入れられなくなり、かろうじて「ハードボイルド」という様式美の観点からのみ容認されていたと感じる。
しかしそれにしても、松田優作は80年代に入ってからその路線をやめてしまうし(しかし「探偵物語」の最終回を見よ!)、パロディや自己言及することで、あえて「センチな部分」を延命させていた80年代にうまくごまかすようなかたちで残っていた「こういう作品」は、90年代半ばを境に最後通牒を突きつけられて息の根を止められてしまった。
今現在、今さら「エヴァンゲリオン」の展開についてどうこう言う人はいなくなってしまったが、アレの結末がああいうふうになってしまったのは、今思えばどのようなかたちでも「おとしどころ」を製作者が見いだせなかったからで、当然、その「おとしどころ」の選択肢の中には本作のような結末も入っていたはずである。しかし、それすらも選ばなかったということである。
この映画のような結末は、もう新作では見られないし、あってもノスタルジーでしかない。
自分は、毎日まいにちがレティシアの故郷を見て回っているような心境である。
しかし、映画の中のアラン・ドロンのように、彼女の家族に札束をくれてやるようなカッコよさなど微塵もないのだ。
(06.0510)
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