16 だれもいないトキワ荘へようこそ
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「ぶっとびマンガ」電子版その2
「ぶっとびマンガ」電子版その1
・17 【映画】・「片腕サイボーグ」
・15 「だてめがねっ娘」ベスト3
一気に下まで行きたい
・16 だれもいないトキワ荘へようこそ
・はじめに
以下は、かなり個人的な話、思いについてなのでどうでもいいと思った人は読まない方がいいです。
ついに、9年間にわたり共同で同人活動をやってきた相方(「キンキキッズ」の短髪が言うときのニュアンスでの「相方」)が、イベントの申し込み代金を折半にするのは最後にしてくれ、と言ってきた。
彼は、転職したこともあり、1年以上前から仕事の都合でイベントに来れなくなることが多くなった。しかし、参加費だけは半分もらっていた。その半分を受け取るときに会ってお茶を飲んだり酒を飲んだりもしたのだが、最近はそれもなくなり、私の銀行口座に彼が振り込むというかたちになっていた。
確かに、こんな状態では参加者とは言えない。
私も、彼が参加しないイベントの金を半分もらうのも心苦しかったので、正直、ホッとした。
以前から「確実にその日は行けないとわかっているのなら、もらわなくてもいい」って言ってたんだけどね。
彼とは、メモ帳を読み返したら今年の3月下旬以来、顔を合わせてもいない。
電話やメールで連絡をとっていたんだけど、最近はそれもないな。
なんだかすごく遠くへ行ってしまったような気がする。
「どういう生活パターンなのか」がわからないと連絡もとりづらいし、だいいち向こうからほとんど連絡がないからねえ。
嫌われてたのかもしれない(by桜田淳子の「しあわせ芝居」)。
彼の同人活動なんだが、過去のメモを見ると、出した本としては2000年の8月の夏コミに出した新刊が、たぶん最後だと思う。でも、詳細はもうわかんない。彼の個人誌に関しては、記録とってないから。
かなりしんみりした気分になっている。
きちんと確かめてはいないが、今回の件が事実上の彼の「同人活動からの脱退」を意味していると思うからだ。
これは憶測なのだが、やはり彼の情熱が薄れてしまったのではないかと思う。
確かに、今年の4月くらいから彼の仕事が急に忙しくなったという感じはあるのだが、本をつくる気があるなら「参加できるときにだけ参加費を払う」など、いくらでも方法があるだろう。忙しい場合でも、いくつかの流動的な方法がとれたはずだ。
でも、その話し合いはなかった。
・ある野望
実は、私にはすぐに挫折した野望があった。それを今言ったら嗤われるだろうか。
私には、同人誌活動をするときのある「理想の、憧れのあり方」というのがあった。
それは「いろいろな個性や才能が集まってきて、出入りして、さまざまなものをつくりあげていく」集団をつくりたいということであった。
正確に言うと「つくりたい」のではなかった。自然にそういうものができればいいと思っていた。
それがいちばん楽しそうだったから(最初から存在するコミュニティに入れてもらうのも、とてもとてもありがたいことなのだけれど、自分や自分周辺から立ち上がってくる集団というのはまた違った意味を持つから)。
だから、最初の頃はAくんやBくんなど、当時いつもつるんでいた、気心の知れたやつらを勧誘したのである。
ところが、この試みは始めてすぐに大失敗することになる(ここら辺のことは、何度も話したり書いているが)。
まず、本のつくり方から教えなければならなかった。同人用語が日常会話となっているような人には信じられないかもしれないが、実際にそういうことはあったのである。
「本のつくり方」といっても、教科書的な方法だけではない。即売会に関する機微やら何やらもすべて教えねばならなかった。
しかし、それを学んでくれたとは言い難かったようだ。
私は「手伝ってくれた人は、感謝の意をこめて寄稿した人以外にも本の巻末に名前を乗せたい」と希望し、実際少し実行したのだが、相方にも、名前を乗せられたほうにもピンと来なかったようだ。
「表紙やイラストの絵を描ける人間も勧誘したい」と言ったが、「それよりネタを書ける人間の方が必要だ」と、にべもなく反対された(その意見は、半分は当たっていたと思う)。
そのうちAくんは田舎へ帰ってしまい、Bくんは「原稿書きますよ!」と言ってパソコンを買い、私と会うたびに「原稿書きますよ!」と言い続け、1年くらい経って「本当に原稿書くの?」と聞いたら、「パソコン捨てましたよ!」と言ってきた。
この段階で、彼に原稿を書いてもらう芽はなくなった(というより、最初から無かった)。
Aくんは田舎へ帰り、Bくんの勧誘は不可能だとわかった(彼をしつこく勧誘したのは、彼に文章力があると見込んでのことだったのだが)。
この時点で、私の野望は崩壊した。
・さらなる野望の崩壊
その後も、野望は崩壊していく。
2000年の8月で、相方との同人誌としての合作は解消。サークルの会誌ともいうべき「楽しい午後の過ごし方」は、ほぼ相方の個人誌となる。日記を読み返すと自分は会誌から降りることを「半年以上前から考えていた」と書いてあったから、2000年の年明けには、すでに合作を解消することを考えていたということか。
ちなみに、今の私の同人活動の基本形態である「ぶっとびマンガ大作戦」のVol.1が出たのが99年の3月。最後にマンガを描いたのが同年末に出た「楽しい午後の過ごし方」第17.5号において。
だから、2000年が同人誌活動としては、個人的にはひとつの転機になっていると言えばなっている。
それにしても、最初は合作(というか、本来の意味での「雑誌」)が大きな目的だったのだから、この段階で当初の野望は完全崩壊したということになる。
・「オタク」という幻、私のダメさ加減
たとえば、私が原稿依頼や手伝いなどを募ったのがアニメ研究会だったら、あるいは漫研だったら、ここまでヒサンなこと(まあ、ハタから見ると何も起こっていないようにしか見えないだろうけど)になっただろうかと考えたことはあった。
それは「もしも」のことなので、わからない。
ただ、本をつくるのに印刷所探しから始めたり、「本の出る当日に原稿を持ってきても載せられない」といった説明をすることはなかっただろう。
じゃあ彼らはいわゆる「ノンケ」で、まったくオタクではないのだろうか、というとこれがそうでもないところが、私の同人誌感、オタク感に大きく陰を落としている。
おそらく「オタク」と「普通人」の中間、グレーゾーンにあたる人たちだったのではないかと思う。
そのことについても、ずいぶんどうでもいいいろんなことを考えたが、それはここでは割愛だ。
ひるがえっての反省点は、私に人がついてくるほどのリーダーシップが無かったということなのだろう(まあ、むしろはっきり言って、私にリーダーシップがあると考える人の方が少ないだろう)。これは現在でもそう思う。
他の集団などを見ていても、やはり仲間を探すことにどん欲だし、いろいろなところでいろいろな人と知り合いになったり、積極的に人材を探しに行ったりしている。
ところが、当サークルではただでさえ人づきあいの苦手な私がささやかにそんなことをしていただけで、他の人々は知らない人と一緒に酒を飲むことさえあまり乗り気ではないふうだったから、結果が今のようになるのも当然なのである。
結果、当サークルは完全な私の「個人サークル」となった。ゲスト原稿を頼んだことも、この9年間で学生時代の後輩一人を除いてはほとんどゼロ。
内心、忸怩たる思いがある。
と同時に、私一人でどーせえというんだ、というあきらめの気持ちもあるが。
・いったい何だったんだろう
……とここで、私の交友関係の狭さや人使いのダメダメさを反省してシメる方法もあるのだが、それも気分が悪いので、しない。
いろいろな人(というより、いろいろな大学サークル員)に手伝いをお願いしてありがたかったと同時に、あまりにも信じられないようなつまずきもあって、それを書いていたらキリがないので、シメにはふさわしくないだろう。
以前、ティアズマガジンでみなもと太郎が「トキワ荘からはマンガ家がたくさん出たが、『有名マンガ家の出ないトキワ荘』のようなところが、当時は全国にたくさんあったんだ」と言っていたと記憶する。
私の場合は、トキワ荘にメンバーすら入らないまま終わってしまった、と考えた方が良さそうである。
テラさんは入居しなかった。入居しなかったから田舎にも帰らなかった。テラさんがいなかったから、その後に続いてだれも入らなかった。だから、だれもいなかった。
だれもいないトキワ荘へようこそ。
(03.1017)
……というわけで、当サークルが勝手にテーマソングにしたいくらい好きだった歌(そして相方がぜったいいやがるだろうと思っていた歌)「ようこそ見世物小屋へ」を鑑賞しながらお別れしましょう。
どこで聞けるかは、自分で探してネ!
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