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・「ネコじゃないモン!」(1) 矢野健太郎(1983、2000、リイド社)
・「ネコじゃないモン!」(2) 矢野健太郎(1983?、2000、リイド社)
・「ネコじゃないモン!」(3) 矢野健太郎(1983?、2000、リイド社)
・「ネコじゃないモン!」(4) 矢野健太郎(1983?、2000、リイド社)




・「ネコじゃないモン!」(1) 矢野健太郎(1983、2000、リイド社)

83年頃の作品の復刊。ヤングジャンプ連載。宮本尚子は、勘当同然で家を飛び出し、一人暮らしをしながらデザイン系の専門学校へ通っている。今までの自分自身と決別し、一人で奮闘しようとする彼女とその仲間たちの生きざまを描いた青春マンガ。
表題は、尚子がネコっぽい顔をしていることと、ネコ恐怖症だった尚子があるきっかけて飼い始めたネコ・ボテと、尚子の独立心の表れをひっかけてある(……のだと思う)。

本作は尚子と同級生の横川修一との恋愛が大きな意味を持つので、「ラブコメ」なのかとも考えてみたがコメディ要素はあるものの「いわゆるラブコメ」的な予定調和はないし、かといって「ラブストーリー」と断言するのもはばかられる。よくテレビの恋愛ドラマで、四六時中恋愛のことしか考えていない主要登場人物しか出てこないのがあるが、本作のキャラクターは恋愛のことだけ考えているほどヒマじゃないのである。

カテゴライズなんて本来どうでもよく、また真剣に区分けしようと思えば、連載当時の青年誌およびマンガ全体の傾向を掴んでいなければならないのだが、残念ながら当時幼稚な部類の中学生だった私にはリアルタイムでのソレがわからないのだった。すんません。
ではなぜそうしたことにひとまず固執してみたいかというと、個人的に本作がマンガ史的に重要な意味を持っていると思っているからで、83年頃のさまざまな要素がクロスオーバーしている点に立つと考えるからだ。

91年に本作が復刻されたときに、1巻のオビに「まだ、トレンディーもオタッキーも未分化であった頃」と書かれていて、私は当時中学生なので現実にどうなのかは知らないが、たぶんそうだったのではないかという感触はある。

主要キャラクターがデザイン学校生なのに、ことさらに「オタク的」なキャラクターが一切出てこないこと、本作の注釈にもあるが軍服をふだんから着ているヤツが自然に出ていること(「ミリタリーオタク」という概念がなかった)、アニパロが普通に出てきていること。
絵柄やコマ割りがときおり当時の少女マンガ風であること、掲載誌が青年誌だが主人公が普通の女の子であること……など、今でこそある程度オシャレっぽいマンガでも、ガンダムのセリフなんかを登場人物たちがパロディっぽくしゃべっていても普通になったが、「オタク的なもの」と「そうでないもの」が激しく分化していた時期があった。
それが、ここでは混じりあっている。それは意図的にというより、そういう時代だったのではないかと思う。

私はすでに全編通して読んでいるが、かなりハマった。
その理由のひとつには、前述のように「オタク的な部分とそうでない部分」が混じり合っている作品の印象があるのだと思う。当時の青年誌では前述のような「青春もの」はよく連載されていたと思うし、少年マンガ・青年マンガの少女マンガ的方法の取り入れというのも頻繁に行われつつある時期だったと思うが、本作はとりわけ諸要素がミックスされていたように感じる。
だから、ダサいものを切り捨てたイヤな感じもないし、閉鎖的だったり自嘲的だったりという悪い意味でのオタク的要素もない。
もちろん、カタチだけいろいろなものを組み合わせたのではないことはわざわざ言うまでもないだろう。

もうひとつには「ラブコメ」とカテゴライズしたときの、他の追随を許さないストーリーの面白さがある。
ここらへんも当時の青年誌を知らないので何とも言えないのだが……青年誌と少年誌の読者年齢がそんなに変わらなくなりつつあったことを考えると、少年誌に載っていたラブコメとはちょっと比較にならないくらいドラマがあった。

私が本作を読んだのはリアルタイムではないのだが、80年代の少年ラブコメをバカにしきっていた時期でもあり(本作は「少年」ラブコメではないが)、本書第1巻で言うと飯塚(尚子の同級生でプレイボーイ)が女の子とチチくりあっているところをみんなに見られて不敵にニヤッと笑うところなんか、「おお大人!」とか思ってしまった(読んだときは私もじゅうぶん大人だったんだが……(笑))。

大急ぎで付け加えておくなら、現在ではいわゆる「少年ラブコメ」を頭からバカにする気持ちはない。とくに「翔んだカップル」(これいざ読むと途中からコメディでも何でもなくなるんですけど……)やあだち充作品、村生ミオ作品、「きまぐれオレンジロード」などは時期的にも近いためか十把一絡げにされている感があり、個別の作品論が欲しいところだ(……と偉そうに書いてるけど、ホントだれかプロの評論家の人お願いしますよ。またそういう場を与えるように編集者にもお願い)。

小説や映画では、当時の風俗を意識的に描き込んだ青春モノというのはよくあるが、マンガではあまりなかった(と思う)。
そういう意味で、本作は80年代の時代状況・風俗の一端を活写している点で興味深いし、またそれはノスタルジーではなくリアルタイムだった点においてマンガ的には「ディティールを描き込むようになった」という当時の表現の変化を物語っているのかもしれず、その点でも考えさせられる。
またそういう点から復刻に作者自身の注釈が付いていることも、納得が行く。

さらに尚子も修一も、リアルタイムでトシを重ねていっているという設定で、2人ともすでに40近いらしい(修一は数年前「バストショット」という作品にレギュラー出演している。当時32歳)。
マンガが復刻されるときに、解説もあとがきも当時の時代状況の説明もまったくないことがある。まあ「そのまま」という意味ではそれでもいいのかもしれないが、本作の場合は登場人物が今でもどこかで生きているという設定なので、作者のツッコミ的な注釈やあとがきマンガがなかなかに重い意味を持っているように感じる。
(00.0616、滑川、02.0825)



・「ネコじゃないモン!」(2) 矢野健太郎(1983?、2000、リイド社)

以前に全部読んでいるので再読というカタチになるのだけれど、今回読んで意外に思ったのは、もうこの巻で修一が尚子に告白しているってこと。そして、告白してからイロイロ起こってくる。私は当時の青年マンガの状況に疎いのであくまでも「男の子の読むラブコメ」という観点で言えば、これはかなり早い展開。

この巻ではその後、尚子と修一は肉体的にも結ばれる(正確には今回は成功一歩手前)ということもあり、セックスをきちんと描ける青年誌を舞台にしていたことでそのような展開になったのかとも思った。
しかし、やはりこの巻での「グッと来る」ところは、修一があまりにも正直にすぎ、(「友達のままでいよう」と言った尚子に対し「友達だったら『(セックスが)できない』から、友達ではいられない」と言ってしまう)、それに対して尚子も修一の気持ちをストレートに受け止めて、怒ったり笑ったり、なんというか全身全霊でお互いを確かめ合うという「感じ」にある。
コレは「お互いに好きかどうかを確かめ合う」までに単行本10巻くらい使ったり、相思相愛となっても「どうやって肉体的に結ばれるか」を単行本10巻くらい使う少年ラブコメとは違うところだ。

それとはちょっと視点が異なるが、個人的に尚子と修一が初めてコトに及ぶときに、

「……イ イヤ!」
「えっ!?」
「う…… ううんイヤじゃない イヤじゃ……ないけど」
「はずかしい」

……っていうところが個人的にスッゴイ好きです(^_^)。再読してもそう思った……。

また、脇役のキャラクターがどんどん立っていくところも面白い。

尚子の保護者役を自認する五月(メイ)、いろいろ暗躍する? ウワサスズメっぽい水樹玲子、プレイボーイだけどイイところもある飯塚くん、ちょっと気が弱いけど春菜(おハル)のことが好きな長谷川くん、修一が好きでダイエットし、なんつーかカワイイ顔していろいろ陰謀をめぐらす春菜(おハル)ちゃん

よくバブル期に流行ったトレンディドラマで、とりあえず主役クラスを頭数5、6人揃えておいてその中で惚れたハレたが展開するというのがあったけど、そういうのとは根本的に違う。
ちょっとヘンな形容かもしれないけど、私にとっては戦国時代ものみたいなね、キャラ立ちとかドラマの感覚がある。司馬遼太郎の小説なんかは脇役に至るまで一人ひとり人生のドラマがあるが、本作もさりげなく出てきた人がきちんとキャラ立ちする瞬間があって(たとえば尚子がカット描きのバイトをしている会社「字音広告」社員のヒトとか)、それがすごくイイんです。

これから尚子にはいろいろ過酷な運命が待っていると思うけど……結末はもう決まってんですけど、頑張ってほしいと言わずにいられないっス。
(00.0709、滑川、02.0825)



・「ネコじゃないモン!」(3) 矢野健太郎(1984?、2000、リイド社)

ネコじゃ3

お互いの気持ちを確かめ合った尚子と修一だったが、尚子のイラストレーターとしての才能が開花するにしたがってコンプレックスを抱きはじめる修一……そして修一に頼らず自立していこうとする尚子。

この巻では新キャラとしてカメラウーマンの勝江美亜(ミーア)が登場。尚子のイラストレーターおよびモデルとしての才能に着目する。そして尚子の中に自分と似たものを発見する(今気づいたが「勝江」というのは「カッツェ」から取ったのかな?)。

美亜のバックアップもあり、尚子は自分の夢に向かって第一歩を踏み出す。代わりに修一が沈んでいく。
この巻で気づいたのは、登場人物たちが全員、自分のエゴによりある種の陰謀(?)を企てていること。でもそれは、自分自身にとってすごく大切なもののためにしていることで、だれが意地が悪いとかそういうんではない。どうにもならない何かに突き動かされて行動している。
それともうひとつは、一人ひとりが全部強い部分と弱い部分を持っているように表現されていること。たとえばミーアは男勝りで思ったことをきっぱり言うタイプだが、自分の写真集の企画が通らずにヤケになって尚子に当たる。で、翌日自分の弱さを素直に認める。他の人たちもそうで、尚子を女性として愛しているっぽい五月(メイ)にも内省があるし、修一を誘惑ようとしている春菜もそう。
逆に、弱そうな長谷川くんは突然強さを発揮したりする。
そういうところが、どの登場人物にもある程度共感できる理由のひとつだろう。

表現技法については、本書のあとがきに作者自身によって書かれてしまっているので私が書くようなことはない(当時、ときどき等身が縮むデフォルメや鼻・口の省略、「線が閉じてない」のが編集者に嫌がられていたというのはけっこう驚く)。
ただ直接の「技法」ってワケではないが、一見ストレートな人間ドラマである本作において、修一が「自分のことをダメだと思っている女の子を『そのままのきみが好きなんだ』と男の子が言って、相思相愛ハッピーエンドとなる」少女マンガを読むシーンがある。
ここで修一は「男女逆にすれば自分と尚子の関係そのもの」だと気づく。作者はマンガやアニメのパターンを逆手に取って、あらかじめそれを踏まえたうえで物語を展開する、ということをよくやっていてSF作品やエロコメなどに多様されている。「少女マンガ的手法を取り入れている」本作においても「少女マンガの王道パターン」を登場人物が読んで自分に重ね合わせる、という一種メタな手法が取り入れられているとは初見で気づかなかった。

コレを繰り返すとよくも悪くも物語がつくりものっぽくなるのだが、その後すかさず修一と妹・由加との会話で「由加が手紙を書く」というのでラブレターかと思い修一が「クラスメート?」と冷やかすと、由加が「同じ歳の男の子なんて、ガキでつきあえない」と無邪気に笑う。それで逆に修一がショックを受ける、というシーンが入る。
今度は逆に、けっこうありそうなシーンになっているわけだ。

ぜんぜん関係ないが由加はカワイイね。生意気ながらもかわいげがある。自分のことを「オレ」っていうのも時代かな(今のコギャルが言う「オレ」とはニュアンスが違うんだよね……)。
(00.0829、滑川、02.0825)



・「ネコじゃないモン!」(4) 矢野健太郎(1984?、2000、リイド社)

ネコじゃ3

微笑ましくもぎこちない関係を続ける尚子と修一。いろいろな横ヤリが入ってすれ違いが続く。

修一の妹・由加が自分のことを呼ぶのに「オレ」から「ボク」に代わっていた。カンケイないけど。

「CAT.26 果てしなき闇の彼方に」は、プレイボーイ・飯塚が修一に対して自分が過去インポになったいきさつを語る話で、昔読んだときかなり印象に残っていた。で、そのときは単行本で読んだので、今回読み直してコレが同じヤンジャン連載の石坂啓「安穏族」へのアンサーコミックだと初めて知った。

それはともかく、わりと役割が固定化されるきらいのあるマンガのキャラクターの中で「昔はモテなかったが『モテる方法』を必死に研究した」だけならまだしも、さらに「モテない時代の自分を好きだった女の子を、本気で好きになってしまう」という飯塚くんの設定は(連載終了後かなり経ってから読んでも)ある意味驚愕であった。
そもそも飯塚くんは、ラブストーリーにあってホレたハレたの人間関係の輪の中に入っていない人物である。だが要所要所、実においしい役で出てくるのだ。「ラブコメは主人公の友達のキャラ立ちが大事の法則」(←私が勝手に命名)である。
さらに本巻「ミレニアム版」では、飯塚の話に作者のツッコミが入っているのでなんだかさらに深い話になった(^_^)。

この巻では、人間関係をひっかきまわして喜ぶ「トリックスター」水樹玲子や、尚子を密かに愛する五月(メイ)、修一をわがものにしようとする春菜などの「陰謀心」がだんだんロコツになってくる。今までのような、「自分自身にとってすごく大切なもののために、どうにもならない何かに突き動かされて行動する」範疇を少しずつ越えてくる。それがかなりコワイ。
と同時に、後半では尚子と修一の「正直なキモチ」もかなりストレートに描かれている。いろんな人の策謀と、そんなことはツユほども考えない尚子や修一とが両方描かれているところがなんだかすごい。読んでいてドキドキする。
何しろ尚子は「あたしはあたしだったんだ」と言いきるのだから。

3巻のところでも少し触れたが、自分をなんとか変えようとし(ときには「めがねをかけた女の子がめがねをはずして」違う自分になって)、好きな男の子を振り向かせようとして、最終的には自分にムリをすることをやめるが、「そのままのキミが好きだ」と言われることにより(「めがねをかけたキミが好きだ」)ハッピーエンドとなる70年代後半から80年代の少女マンガの黄金パターンがあった(今もあるかもしれないが)。
この辺りのことはHPめがねがね!!に詳しいが、「自分が変わる」という単純なシンデレラストーリーではなく、ひとひねりして「自分が変わるのではなく、男の子の方が変わらない自分を受け入れてくれる」という結末は、当時の女の子の幸福感の変化を表していた。

尚子はそこからさらに一歩進んで、「他人がどう思おうが、自分は自分だ」という認識に達する。「あたしはあたしなんだ」は、本作でもチョコッと名前が出てくる新井素子の小説にも出てくる言葉で、意味合いは似通っている。新井素子もまた、「他人とはカンケイない自我の確立」みたいなものを書いていた(と思う。もう10年くらい読んでないから最近はどうなのかは知らない)。
考えてみれば、上記の「モテない頃の自分」を好きだと告白された飯塚は、「そのままのキミが好きだ」と言われる少女マンガのヒロインの立場になっている。そしてソレによってインポになってしまうという、皮肉でアンハッピーエンドな話になっている。
本作では「自分とは何か?」とか「自分と他人(社会)との関係」というのは、当時(より少し前?)の少女マンガのパターンには到底おさまらないのである。

それにしても「私は私」というのは非常にむずかしいあり方だ。ひとたび自己認識を誤れば単なる一人よがりになり、ディスコミニュケーション状態を引き起こすことは現実世界での「悪い意味でのオタク」とか、昨今の人情紙風船現象が証明している。かといって、人間関係がすべてとなった状態は常に他人の顔色を見て生活することになり、非常にストレスフルだ。

尚子は親や姉、幼なじみという「地縁・地域社会」のしがらみから抜け出そうとして都市に出てきて、そこで自我を確立しようとする。少年ラブコメはほとんどが、「地縁・地域社会」からも、都市型社会からも隔離された「聖域(モラトリアム)」を楽しむといったものなのに対し、本作では都市型社会で仕事と、恋人や友人を得ようとする尚子の生き方を正面から描いている。だから、「あたしはあたし」と言いきれる尚子の生きざまはある意味つっぱっていて、とても激しい(それだけに尚子も悩む)。

現在、個人主義はある程度浸透したが、それはいいことも悪いことも引き起こした。 本作が連載当時は、その辺りが現在よりずっと混沌としていた。人の顔色をうかがわず、かといってエゴイズムに走らないことを信条とする尚子の生き方は、むずかしかったが、ある意味理想だった。

う〜ん、そう考えると平和なようでいてかなりいろいろあった80年代前半。
そんなことを思い出す1冊。
(00.0829、滑川、02.0825)



ここがいちばん下です

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