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・「鬼狩獣」全3巻 矢野健太郎(1988〜90、集英社)




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鬼狩獣

・あらすじ
ビジネスジャンプ連載。ふだんはホームレスだが、復活しようとする「鬼」を退治してきた「鬼狩り」族の末裔である山上獣吾。鬼に襲われた少女・佐伯真菜を助ける。
真菜は「角玉けつ」(「けつ」の漢字が出ない……)という古代から伝わる神器の一種を持っており、それが鬼の血族の復興をもくろむ政財界の黒幕・葛城円行の手にわたると、世界が破滅するほど大変なことになるという。

「鬼」に対する個人的な復讐のために、一族とも縁を切って孤独な戦いをしていた獣吾は、真菜とともに、次第に世界のありようを決する争いに巻き込まれてゆく。

・背景
作者公式ページの単行本リストのコメントによると、打ち切りで未完だったものを200枚ほど加筆してまとめたのだという。さらに、バイオレンスホラーのブームに乗って考えた作品だったのに、時期を逸してしまったとある。

80年代中盤というと、荒俣宏「帝都物語」や、笠井潔「ヴァンパイヤー戦争」、夢枕獏・菊地秀行などが出てきて伝奇ヴァイオレンスが小説では一ジャンルになっていた。
この頃の時代状況の解説は、どこかで笠井潔かだれかがしていると思うが、いちおう私の乏しい知識で書いておくと、海外のスプラッタ映画ブームが起こる。レンタルビデオ店の増加も、それにひと役買うことになったかもしれない。
同時に旧来の左翼的な考えを見直す現代思想的な考え、もしくは歴史に左翼的な社会システムを見いだそうとするといった考えから、従来の歴史観とは違う、為政者や農民中心ではない歴史観のブームがあった。
それらは一部の学者などにとどまらず、一般人にとっても高度成長期が一段落したところで自分の足下を見直そうとか、過去を振り返って考えてみようといった雰囲気をつくっていたと思う。

つまり、それまでは決して王道ではなかった暴力、セックス、農民以外の人々の歴史、オカルトなどの再発見・再評価の中で起こったのが伝奇ヴァイオレンスのブームであった。
むろん、そうした流れは大衆娯楽において60年代あたりからの山田風太郎、白土三平、半村良などから連綿と続いていたわけだが、スプラッタブームなどとともに比較的軽くなり、大衆的だったものがもっともっとポップになっていったということは言えると思う(その反動は、宮崎事件で来るのだが)。

「超古代史」的な考え方は欧米列強に抗する日本民族のルーツ探しという意味で、もっともっと前にさかのぼることができるが、80年代の伝奇ものの直接のルーツは、とりあえずは60年代あたりの伝奇小説、忍者ものやチャンバラものだろう。

もうひとつ、歴史や地縁と関係の深い「土地」の問題が、バブルの再開発によってネタにしやすくなったということも関連すると思われる。

そんな中、あまり本を読まない80年代のバカ中学生・高校生にとっては、小説の面白さに気づきにくい状況が続いていたが、マンガ、劇画の影響を色濃く受けた作家として菊地・夢枕両氏の作品が歓迎された。マンガ史としては、おおっぴらにマンガの影響を受けた娯楽小説がこの時点で出てきたのはないかと思う。

しかし、こうした小説でのブームがマンガに逆輸入されていったかというと、実はあまりそうはならなかった。
当時の伝奇ヴァイオレンスブームの中から出てきた最もメジャーなマンガ家は「孔雀王」の荻野真ではないかと思う。しかし、後にオリジナリティを発揮したグロテスクな妖魔退治ものを発表していった彼の作品も、夢枕獏がそのデビュー作に「これは自作のパクリではないか」と、容認しながらも行間から怒りが読みとれるような文章で批判したりしていた(つまり、その作品を入選させた編集部に夢枕作品を読んでいる人間がいなかったということになる)。

他にも菊池としをとか、何人かいたけれども、基本的には伝奇ヴァイオレンス小説ブーム以前から伝奇的なものを描いてきた諸星大二郎や星野之宣などが作品を残し、あるいは菊地・夢枕本人たちの原作で何本ものマンガが描かれる(そういえば、確か少年マガジンで菊地秀行が小説そのものを連載していた記憶がある)など、小説→マンガへの伝奇ヴァイオレンスの影響は、そのままのカタチではあまりなかったように感じられる。

それらの現象は、逆に菊地・夢枕のオリジナリティを証明することにもなったと思うが、それはまた別の話。

鬼狩獣 新装版

・感想
で、本作。打ち切りだったということはけっきょく人気がなかったということで、残念なのだが本作は当時の伝奇ヴァイオレンスマンガとしてはかなり上の方を行っていたと思うのである。
忍者や先住民、闇の世界の坊さんたちや超能力まで飛び出す展開は伝奇モノのお約束といえばお約束だし、展開もやや駆け足だ。このプロットなら、少なくとも全3巻の1.5倍か2倍くらいの分量が必要だと思う。

しかし、「鬼神」を復活させるという最終儀式までかなり盛り上げるし、超古代史を元ネタにした「真相」にもうひとひねり「真相」があるなど、じゅうぶんに楽しめる。
伝奇小説では風呂敷を広げるだけ広げてそのままなんていうものも多いが、きちんと最後まで完結しており、なおかつ小さくまとまらないところがいい。

最後に男女の愛情が希望になっているところも、本作の作者らしいと言えると思う。

ところで、時代背景の話に戻ると、本作に登場するカルト宗教の掲げる救済観はオウム事件と酷似している。要するに、「人類はほっておいても滅びるからおれさまが手を下してやる」というような考えである。
本作だけでなく、こうしたカルト宗教や独裁者を「悪」とした作品は80年代末にずいぶん出たが、実は同時代におんなじ考えで実行しようと思って本当にやっちまった人々=オウムがいたということなのである。

これは、もちろん彼らが「マンガのマネをした」ということではなく、作家がフィクション、しかもそれを「悪」と設定したことと、逆に「善」だと思って実行したという決定的な違いはあれ、同時代的な空気がいろいろな局面で察知されていたということで、陳腐な言い回しになるが、なかなか考えさせられるものがある。

なお、94年に新装版が出ている。
(04.1218)

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