殺す
J.G.バラード
東京創元社
ロンドン郊外の閑静な高級住宅街で大人32人がごくわずかの間に殺害されるという大量殺人事件が発生した。子どもたちは全員連れ去られ、その消息はまったく不明だった。あまりに不可解な事件に、警察はお手上げ状態。内務省の依頼を受けた精神科医の主人公が捜査に協力する…
原題「ランニング・ワイルド」とかけ離れた邦題といい、ミステリの文脈で語られる売られ方といい、形態は最近流行のサイコホラーものや大量殺人ものと似通っているかのように見受けられる。いかにもソノ手の人々が喜びそうなあらすじでもある。しかし、ここでバラード先生が語ろうとしているのは、そのようなものとは、まったくかけ離れている。
たとえば、漫☆画太郎「先生」の名作、「エスカレーション」をご存じだろうか。転校生と先生は何かの拍子でバトルをはじめるが、「実はオレはナントカ拳法の使い手なのだ!」「実はワシもカントカなのだ!」「実は!」「実は!」と繰り返してゆき、最後にはスーパーロボットまで登場してしまう、最後には驚愕のドンデン返しが読み手の心を和ませる作品だ。もちろんギャグ精神がこの作品を作り上げているのだが、皆も感じないだろうか、この背後にある「エスカレートせざるを得ないこころ」を。
たとえば、素人投稿雑誌をご存じだろうか。恋人や夫婦の性行為の姿を投稿するというものだが、最近のものはすさまじい状況に達している。タトゥーやピアスはいうまでもなく、公共の福祉(笑)を逸脱しまくる破廉恥この上ない野外露出写真など。状況は、この手の雑誌が出現した当時よりはるかに変化している。より派手に、より破廉恥になっているのだ。人目のないところでこっそり露出しているのは今は昔。いまでは「人のいるところで露出する」「より恥ずかしいかっこうをする」ことが当たり前になっているのだ。全裸でコンビニで買い物したりとか。ここにも存在する。「エスカレートせざるを得ないこころ」が。
もうひとつ。ゴールディングの「蝿の王」を読まれただろうか。結局子どもたちは精神の暗闇にとらわれ、すべてを破壊する方向へと向かい、自ら自身をも業火の中に滅ぼしてゆく。そこにもエスカレーション、後戻りのできないエスカレーションがある。
思えば、バラード先生は、執拗にこのテーマを描き続けてきた。「ハイ=ライズ」では高層ビルという密室で野蛮状況へといっさんに向かう人々を描いたし、「クラッシュ」もより強い交通事故の刺激を求めるというエスカレーションを描いた。本作でもその志向は変わりない。
こうした志向は西洋近代の理性主義では撲滅されねばならないものであった。ディオニュソス的精神の高揚。それは野蛮であったし、非合理的なものであった。そしてそれは西欧に限らず、明治以降日本でも近代国家を志向する過程で撲滅されねばならないとされてきた。むろん日本の場合も西欧の場合も完全に撲滅一色になったことは一度もないが、排除されるべき性質のものであったことはいうをまたない。しかしこうした傾向は決してなくなることはなかった。何故ならそれはすさまじいばかりの精神の高揚感をもたらすから。ふだんの経験では決して味わえないような感覚を味わえるから。いわばニーチェが焦がれる「強烈な体験」への志向であるといえよう*。
近代人が「向かってしまわざるを得ない」ものを描くことは、結果として近代人が抱えている危機を逆照射する。バラード先生は結果として近代性を留保するものの、エスカレーション、それはこころの暗闇への一本道なのだが、を描くことにより、魅惑的なケイオスの世界を描き出す。確かに反社会的ではある。しかしそこにある魅力に抗しうる人がどれだけいよう?バラード先生はそこを上手くくすぐる。小品ではあるが、少しずつ戦慄させられる作品である。
*「アルコールランプの銀河鉄道」を参照。