蠢動
園山二美
アスペクト
ひとり、遺書を書く女。だがそれは遅々として進まない。遺書の内容が気に食わないといっては書き直したり、遺書が発見されたときの状況を想像しては反故を燃やしてみたりと、うっとうしいことこの上ない。そのうちに彼女はこちらに=読み手に語りかけるようになる。「くだらん漫画を描くと思うでしょう」だが、「じゃあ、あんたは、何で生きる?」と。涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、大ゴマで彼女は訴える。
「狂人遺書」というオハナシである。一見すると説教臭い、道徳の教科書のような漫画に見えるかも知れない。或は自意識過剰の女の一人芝居のようにも。クサかったり、言い過ぎだったり、妙にメタ漫画だったり、ウルサかったり、汚かったりと、もうなんだか滅茶苦茶な漫画である。
だが、何故だろうか。本当に何故だろうか。笑えるのだ。腹を抱えて笑えるのだ。
臆面もない心情の吐露は、一般的には押し付けがましく、うっとうしく、聞きたくない性質のものだ。自意識過剰のネット上の日記が不快感すらもたらすように、ふつうは自慰的と片づけられてしまう性質のものだ*1。たしかにウルサ過ぎるところがあるのは認めざるを得ない。しかし彼女の漫画は二つの点で「抜けて」いる。第一に過剰に、あまりにも過剰にすぎる点で。第二に線が、あまりにも説得力を持っていると言う点で。彼女の描き方は「芸」になっているのだ。素晴らしい、人を感嘆させる芸に。それは経験に裏打ちされているから、つよい。
彼女のタレントは二つの方向に分けられる。第一はいまあげたような、自分の経験に即した、あけすけなオハナシを描く方向。第二には、それを抽象化した、エンターテイメントを志向したオハナシを描く方向である。
第一の方向の作品には、「狂人遺書」のほかに、不登校児だった自分の経験を描いたであろう(とても想像して描いたとは思えぬ)「宇宙のはじまり」がある。友だちに、先生に誘われながらも学校にゆくことのできない主人公。彼女は延々と自問自答し続ける。
第二の方向の作品の筆頭には「サルマタケ」がある。つきあっている彼女に「サルマタケが食べたい」といわれる男。しかし彼はサルマタケを知らない。右往左往する男…と、まんが「者」にしてみると抱腹絶倒のコメディだ。
注意してみると、第二の方向も明確に第一の方向に規定されているのが分かる。園山は自分の経験からものを語り、抽象化して描く場合もそれを踏み外すことがない。たとえばサルマタケを食べたがる女の姿は、男を落とそうという作戦を張り巡らす、戦略的な人物として描かれ、その心象表現もこっそりとではあるが綿密になされている。「園山さん、その作戦、使ったね?」ということが窺えてならないのだ。意識してのことかどうかは分からないが、物語を発話する土台がきわめてしっかり固まっているのだ。だからオハナシはつよい説得力を持つ。
それを強化しているのは、流麗で、強弱のめりはりのついた、きわめて上手な絵と線である。表情の付け方の巧さ。リズム感のあるディフォルメー。この人は線だけでも、ものすごい力を持っているのだ。両者の結びつく先は…。
この本は彼女の処女単行本である。「ビーム」誌上で「女の花道」が突然終了して以来、園山は1年以上我々の目から遠ざかっていた*2。その間、私は、そして熱心な漫画ファン*3は、彼女の復活を本当に心待ちにしていた。もう単行本は出ないものと半ば諦めていた。しかし彼女は「コミック・キュー5号」で復活をアピールし、そしてビーム誌上でも復活を遂げようとしている。そして待望のこの作品集!私は漫画を読んでいることの喜びを強くかみしめざるを得ない。すばらしき漫画の至宝。これ以外にわたしはこの漫画を形容する言葉を知らない。
ただ、残念なのは、この作品集に収録されているのは、ビームで掲載された作品のごく一部だということだ。他にも素晴らしい作品はいくつもあったはず。是非とも、是非とも続編を出していただきたいものだ。本当に、本当に強くお願いします、奥村勝彦編集長!
*1 このため最近ではこうした漫画をとんと見なくなった。編集が駄目を出すのだろうか。例としてあげられるのはせいぜい「詩人ケン」くらいであろう。
*2 代アニの卒業生の作品を集めたファッキンな雑誌、「コミックピアッツア」では仕事をしていたが。
*3 重川裕二さんの「F-OW」が筆頭。