枡野浩一さんとのやりとりについて(その1)


 そもそもこの一連のやりとりは、私が購入記録につけた枡野さんの著書『漫画嫌い』についての感想に始まります。それはこのようなものでした。2000年7月5日の購入記録から採録します。

漫画嫌い 枡野浩一 二見書房 <漫画・書評> 1200円

 朝日新聞の夕刊に連載されていたコラムをまとめたものです。筆者の言によると「本書は『批評』というより『紹介』に体重をかけている」(13ページ)とあります。…これは批判をかわすための予防線であり、ずるい方法だと思います。
 批評と紹介は形式的には紙一重のものであり、それは読み手によって解釈されるものです。読者が批評と読むか、紹介と読むかを、筆者が強制することは本来できないはずです。「こういうふうに読んでほしい」という意図があるなら、文章の内容や文体で勝負すべきでしょう。
 実際の文章の内容や文体は、作品を紹介するという視点で貫かれています。「買ってください」「オススメです」と、逃げを打っている部分はまま見られるものの、全体的に作品を『紹介』し、読者に『読んでみようかな』という気を起こさせる文章には、十分になっていると思います。それぞれの文章は、かなり気が配られた、繊細なものになっているのは間違いないのです。そこはいいんです。なのに読者に読みを強要するような文章を書き、最初に釘をさしておく。大きくがっくりくるところです。
 歌人として、自らの言語世界を守ろうとする意図があるのは良く理解できます。ですが現実世界においては、自分の意図通り読者が読んでくれるとは限りません。作者にとっては幻滅する部分もあるでしょうが、それはマイナス面だけではないでしょう。様々な読者が、それぞれの状況に合わせて、それぞれの読みをするところにも、文章表現の可能性があるのでしょうから。一方で、「この文はこう読んでほしい」という言説は、読みの多様性を減少させ、遵守すべきドグマを作り上げてしまう危険性を常にはらんでいます。そしてそれは言葉を味わい、独自に解釈する楽しみを奪ってしまうでしょう。ですから非常に残念に思うわけです。

 おそらく読んでおられるでしょうので枡野さんへ。この文章を読んでお怒りになったところもあるでしょう。ですがこれが私の偽らざる感想です。ご意見がおありでしたらメールでやりとりし、公開書簡の形にしませんか。私はこの発言に責任を負いたいと思っていますから。


 この書き込みに対し、枡野さんは2000年11月7日に、次の3つの書き込みを、「ザ・掲示板」(当「Ionisation」としばたたかひろさんの「OHP」、小田中さんの「すきまページ」、スズキトモユさんの「メビウスひみつきち」の共用の掲示板)に行いました。

発言:1 (2000/11/7 15:12)  名前:枡野浩一

 


発言:2 (2000/11/7 15:30)  名前:枡野浩一

発言:3 (2000/11/7 17:07)  名前:枡野浩一

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Last-Update: Thursday, 13-Nov-2014 09:16:53 JST