…を紹介しようと思ってWebじゅう探したのだが、全くといっていいほど情報が有りやがらぬ。そこで2月の末と3月頭にアテネ・フランセ文化センターで開かれる中央アジア映画祭の情報を載せよう。
期日:1997年2月22日〜3月8日(日曜・月曜休館)
場所:アテネ・フランセ文化センター(お茶の水、水道橋から徒歩7分)
連絡先:03-3291-4339(13:00〜20:00)
上映作品(主なもの)
国 | 作品名 | 説明 | 分数 | ||
カザフスタン | アラル海は泣いている | ドキュメンタリー | 68分 | ||
龍の島 | 芥川龍之介原作のアニメ | 52分 | |||
最後の冬の日々 | 大戦末期の悲しい母子の物語 | 65分 | |||
鳩の乙女 | アミール・カラクロフ監督 | 63分 | |||
小さなアコーディオン弾き | 抑留日本兵との交流 | 86分 | |||
イン・スペ−希望 | アヴァンギャルド映画 | 86分 | |||
ワイルド・イースト | 「七人の侍」の翻案 | 98分 | |||
キルギスタン | ブランコ | 93年ロカルノ映画祭短編部門グランプリ | 48分 | ||
トルクメニスタン | 多感な季節 | 15歳の少女の多感な日常 | 72分 | ||
タジキスタン | 砂嵐 | 「約束の地」を目指す部族の話 | 95分 | ||
聖なるブハラ | 古文書をめぐる幻想的ドラマ | 128分 | |||
島 | 内戦を象徴する黙示録的イメージ | 92分 | |||
ウズベキスタン | 夜明け前 | 養蚕農家の希望と絶望 | 124分 | ||
カイープの最後の旅 | 死を予感した老人のイマジネーションの旅 | 91分 | |||
お前は誰? | ペレストロイカ時代のコミカルなニューシネマ | 85分 | |||
UFO少年アブドラジャン | スピルバーグへのオマージュのSFファンタジー | 88分 |
昼 | 夕 | 夜 | |
2/22(土) | 13:00 龍の島など(三本立) | 14:40 最後の冬の日々 | 16:10 鳩の乙女 |
25(火) | 14:30 小さなアコーディオン弾き | 16:20 アラル海は泣いている(二本立) | 18:00 講演@+イン・スペ |
26(水) | 14:10 ワイルド・イースト | 16:10 ブランコ/多感な季節(二本立) | 18:45 夜明け前 |
27(木) | 14:10 カイープの最後の旅 | 16:10 お前は誰? | 18:00 講演A+UFO少年アブドラジャン |
28(金) | 15:10 鳩の乙女 | 16:40 イン・スペ | 18:45 ワイルド・イースト |
3/1(土) | 12:00 講演B+砂嵐(二本立) | 15:05 聖なるブハラ | 17:35 島 |
4(火) | 14:30 アラル海は泣いている(二本立) | 16:10 UFO少年アブドラジャン | 18:00 講演C+ブランコ/多感な季節(二本立) |
5(水) | 15:10 龍の島など(三本立) | 16:40 小さなアコーディオン弾き | 18:45 聖なるブハラ |
6(木) | 14:30 島 | 16:30 カイープの最後の旅 | 18:45 最後の冬の日々 |
7(金) | 13:50 夜明け前 | 16:20 砂嵐(二本立) | 18:45 鳩の乙女 |
8(土) | 12:00 講演D+ブランコ/多感な季節(二本立) | 15:25 ワイルド・イースト | 17:35 お前は誰? |
講演@…宇山智彦(北大スラブ研究センター助教授)
講演A…帯谷知可(国立民俗学博物館助手)
講演B…小松久男(東大文学部教授)
講演C…岡奈津子(アジア経済研究所研究員)
講演D…坂井弘紀(東京外語大博士課程)
何といってもおすすめは「UFO少年アブドラジャン」だろう。私は残念ながら未見なのだが、見に行った友人の話。「いやー、大陸的だわ」…?「いきなりド田舎にUFOが降りてきてさあ…」…??「ギャグのセンスも大陸的なんだわ」…???
私が中央アジアの映画にはまったのは、タジキスタンの「少年・機関車に乗る」という映画がきっかけだった。筋の運び、カメラワーク、背景となる風景、人の生活、すべてが普段のわれわれの生活感とずれまくっているのだ。ストーリーに説明はほとんどなし。なんの説明もなく土を食べる癖のある少年と(後でちょっと説明されるが)、その兄が、都市に住む父親の元へ機関車に乗って(客車ではない)旅をする。途中、一癖もふた癖もあるような連中が乗っては降りる。やっとの事で都市にたどり着くが父親はにべもない。再び兄弟は機関車に乗って…という、実に、実に淡々とした映画。背景の多くがなんにもない草原。キャラクターの行動も、向こうからして見れば当たり前なのだろうが、こっちから見れば習慣が違いすぎて何してるかさっぱり分からない。カメラワークもハリウッド的セオリーは一切なし。あまりのカルチャーギャップに本当に脳味噌がとろけるような感じを抱いたものだ。そして気づいたのだ。異文化のおもしろさに。
こうした映画は日本の文化とは大きく異なるものを描いているため、日本の映画常識からはブッ飛んでいる。少なくともこの点から、こうした映画は「濃い」といえるだろう。また、こうした映画を見ることによって、自ら「濃い」人物に近づくことはできるだろう。だが重要なのはそれだけではないのだ。多分化に触れて、「濃さ」に必要な、視野の広さを得ることと、閉鎖性に陥らない精神の間口の広さを得ること、それが重要なのだ。