田嶋やす子との戦い

つれづれなるマンガ感想文 9月後半
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一気に下まで行きたい

2001年

9月29日(土)

電気グルーヴ活動休止、だそうで、ことあるごとに電気に言及してきた私も何か書かんといかんのかな、と思っていたら数日経ってしまった。やっぱり「別に衝撃でもない」ってのが正直なところ。卓球は「今の電気でやれることはすべてやった」的な、意外にもありきたりなコメントをしていたらしいけど、まあでも実際そうだろうなとは思う。後は人間関係的なことも、音楽業界での駆け引きも、私には興味ない。
シャングリラもヒットしたし、えーとアルバムでは「A(エース)」がいちばん売れたんかな? 「N.O」と「虹」という名曲もつくったし。個人的に衝撃だったのはデビュー前の「662BPM」と「ドラゴン」なんですけどね。
あ、あと「UFO」もよかった。「UFO」のとき、雑誌のアルバム紹介欄で「今回の電気のアルバムのコンセプトは『テクノ』らしい」ということが、ジョークとして受け止められて書かれてた。それまでハウスとかヒップホップっぽい売り方だったし。そんなことを思い出しました。以上。

ええと、777's Loop Light's Loomで突然(なのか?)岡田斗司夫批判。
いつも読んでるわけじゃなくて、しゅうかいどうを読んでて知ったんだけど。

主に岡田斗司夫氏の「オタク学入門」以降の、オタクエリート説みたいなものに対する批判。ここで批判してる人は「オタクとは能力ではなく性質だ」と言ってるんだけど、このあたりは「オタク学入門」が刊行された当初からの議論ですよねたぶん。
まあ「性質だ」というのはそれだけでは間違いではないと思うし、問題はその内容だとも思う。

けれども、その「性質」に踏み込んだとたん、よくわからなくなってくるのも「オタク」ってもののヌエ的性格じゃないでしょうか。

というのは、中森明夫以降、ほとんどの「オタク論」っていうのは「性質」から入ってた。あるいは性質が想像される外面的特徴。だからよく、いかにも80年代的な感じで「これがオタクだ!」みたいな、アニメ絵のTシャツ着てるとか、紙袋持ってるとか、風呂に入らないとかいったイラストがGOROかなんかに載ってましたけどね、それだけだと「ああ、いるいるそういうヤツ」以上のところまでどうしても行かないんだよねあまりに「性質(たち)」とか、それに伴う特徴とかを突き詰めていくとね。

実は明石市の花火大会将棋倒し事件で、テレビ見てて思ったのって「被害者が運び込まれた病院でインタビューに答えてた女医さん、すげえオタク口調だよなあ」ってことだったんだけど、でもまあそれは「それだけのこと」なんだし。

大塚英志も浅羽通明も、大月隆寛も「性質」というところから論じてた。その「ありそうなオタクの迷惑感」の表現で苦労してた。でもそれだと、どうしても抽象化するには限界があるし、結論も「現実とコミットして生きろ」みたいな「道義的」なものにならざるを得なかった(まあ「道義的」であることが一概に悪いとは言えないが)。
そのテのアプローチで成功したのって、そういう「お近づきになりたくないタイプのオタク」に直接インタビューした金井覚くらいじゃないかと思う。

で、そこを「能力」的な部分に着目したからこそ「オタク学入門」ってのは新しさがあったわけで。
それともうひとつは、「オタクのダメなやつと優れたやつ」の「優れたやつ側」をアピールしたこと。ここも「そんなヤツばかりじゃない」とか当たり前のことを言う人がいるけど、重要なのはそれまで「オタクではない」というくくりで見られてた「優れたやつ側」を、オタクという大きなカテゴリに取り込んで論じたということだと思う。
そうすると、また「性質」論だけでは見えてこなかった部分が見えてきたということはあると思うんだよね。

もちろん、世間一般的な「オタク」イメージを払拭して底上げして語ったという部分もあると思うけど、それも業績だと私は思いますけどね。
「オタクっぽい人」という大きな集合の中で、「だれがオタクでだれがオタクじゃないか」なんて、区別したって始まらないもん。

まあ結論は「どうカテゴライズしても、頭のいいやつとそうでないやつがいる」っていうミもフタもない現実なんだけどね。どんなオタク論でもそこからは逃れにくい。

9月28日(金)

後楽園ゆうえんちでトラッシュポップフェスティバル
唐沢俊一氏監修のイベントで、2週間くらい毎日いろんな「トラッシュ」なモノを展示。金、土、日には1時間、ゲストを交えてのトークコーナーがある。
今日は「トラッシュピープル」と題しての鶴岡法斎氏との対談。

後楽園ゆうえんち、数年前に「カクレンジャーショー」を見に行って以来だ。カクレンジャーショーでは、入り口にレッド(もう名前忘れちゃった)が立っていて、握手してほしい人には握手してもらえるんだけど、私が手を差し出したら0.5秒くらい間があってレッドが手を差し出して来たことを覚えている。
ゆうえんち内に入ると今回の企画の屋台が出ていて、カエル、ヘビ、サソリ、カンガルー、ワニの揚げものをちょっとずつ試食できる。「せっかくだし」と思って全部食べてみた。カエルはよく言われるように鶏肉みたい。ヘビはちょっと固い。サソリは干しエビみたい。カンガルーとワニはわりとサッパリしているか。個人的にはカンガルーがいちばん美味しかった。 他にも200円で「トカゲ酒」、「ヘビ酒」などを売っていて、これも「せっかくだし」と思って「トカゲ酒」を飲んでみた。けっこう美味しい。っていうかかなり美味いのでは……。元のお酒が美味しいのか、トカゲを入れたからかはわからないが。

後楽園ゆうえんち内ジオポリスに入ると、今回の企画についてのビデオが流れている。力道山の映画とか。よくわからないが、未開人みたいのが子供たちを家の中で追いかけ回す映画とかが断片的に流れる。なんだかスゴイ。

展示物は、ウルトラマンの絵やあやしげなおもちゃ、レコード、ゲテモノ料理の写真、中野貴男が撮影に使った着ぐるみなど。かなり面白い。個人的には「かわいいワンちゃんがロボットに変形するおもちゃ」と「バットモービルがバットマンに変形するおもちゃ」、「UFOに乗ったグレイのぬいぐるみ」、「月光仮面のパチモンフィギュア」などが気に入った。しかしなあ。「バットモービルがバットマンに変身」ってのはすげえよなあ。

7時からトークライブ。ジオポリスの地下スペースに、舞台をしつらえてそこで。 唐沢さんの日記にも書いてあったが、確かにトークをやりにくい場所ではあると思う。閉鎖性がないし。見ている側からすると、お客さんの笑い声が会場に反響しないのが残念。なんというか、自分の面白いところとみんながウケるところがシンクロする(あるいはしない)のが、集団でモノを見るときの面白さのひとつだと思うので。

トーク自体はハズレなし、と事前に予想していたがやっぱり面白かった。まとまりがあるようなないような感じなのだが、まったく話題にとぎれがない。また徹底的に無意味なことと、ちょっと意味があるっぽいことを織り交ぜながらというのがうまい。

9月27日(木)

映画「デッドオアアライブ 犯罪者」(監督:三池崇史、脚本:龍一朗)を見る。哀川翔と竹内力主演の映画。新宿を舞台にした、刑事VSやくざVSチンピラの対決。前から評判は聞いていたが、おもしろ。やっぱりSF映画より任侠映画の方がおれにとって当たりはずれが少ないなぁ……。悩んじゃうな、なんか。
監督はSPEEDのアイドル映画「アンドロメディア」のヒトだそうで、それを聞いたから見るのが遅れたんだったかな。とにかく「アンドロメディア」の1京倍はイイ映画なのでオススメ。

あと関係ないけど「ブリジットジョーンズの日記」という映画の予告編が異常にムカツクので、映画館に行くと目と耳をふさいでいる。
いや、映画本編はすごく面白いのかもしれん。見ない映画には何も言えん。しかし、「独身のキャリアウーマンが、自室で一人寂しく歌を歌っています」というあの予告編は何だ? あ? 働く女性に対する挑戦か? ひと昔前の「柴漬け食べたい」か? 「ブリジットジョーンズの日記」とはさらに関係ないが、「過去の恋に臆病になって次の恋愛に踏み出せない女」という映画も(あんまり見たことないけど)もうやめろ! そんなソフトクリームみたいな(注:「よい子悪い子普通の子」の「おまけの子」がいたアイドルグループではない)甘甘なことを言っている人々に、私が本を紹介したい。
「友がみな我よりえらく見える日は」上原隆(1999、幻冬舎アウトロー文庫)だ。
コレは「普通の人々」に取材したノンフィクションの短編集だが、この中の「容貌」というのがスゴイ。その容貌ゆえに、45歳で独身、今後も一人で生きていくことを決心した女性の物語だ。要するにブサイクということらしいが、こんなに「ブサイク」を全面に押し出したルポもめずらしい。
もちろんどんな顔かは乗っておらず、「容貌のせいで独身」というのはこの取材された女性の言葉からしかわからない。この女性の普通の生活を描く作者の淡々とした筆致には、皮肉も、逆に同情もない。だが言いしれぬ感動みたいなものがある。この女性のプライド……プライドというと安っぽいが、何か生きていく上での、本当の腹の底にためている矜持みたいなものが見えるような気がするんだよ。

私がこういうことを書くと、私自身に対し容易に考えつく罵声を浴びせる人がいるが、そういう人はNHKの朝のラジオ体操を見て「やっぱり椅子に座って体操している人がいちばん偉いのかなァ?」とずっと考えていればいいさ! あと「おまけの子」って可愛かずみに似てたよね。

それと悩んでいることがあって……それは「ガオレンジャー」をいまひとつ楽しく見れていないということなんだな。
戦隊モノは就職してすぐくらいから見始めて、ずっと見てるんだけど、今回ほど食指を動かされないことはなかった。で、1、2回で見るのやめて、どっかから「ガオレンジャーがイイ」と聞いて見てみて、やっぱりダメだからやめて……の繰り返し。

まあでも、それ以前の作品より突出してつまらないはずはない。でもなんか見れない。
その理由は、バカバカしいが出ている女性陣がぜんぜん好みじゃないこと。これが思ったよりおれにとってデカい。
おまけに敵の女幹部はなんか被りモノみたいになっちゃってるし……(この間元に戻ったみたいだけど)。

オタクにはそういうのをすごく気にする人としない人と、はっきり別れるんじゃないですかね。
だから、最近はもう「ガオレンジャーの女性キャラは無視しよう」と思って見ることにしました。そういえばアギトの女優もイマイチだな。……まあクウガもイマイチだったけどな。村田和美にアクションシーンほとんどなかったし。あくまで個人的意見だけど。

9月25日(火)

漠然としたダメ日。イライラが募る。そもそも、男子たるもの毎日ニコニコヘラヘラしていたらそりゃアホか天才なのであって、私とてどうしようもないことにいらだちを感じることだってあるのだ。

借りてきた「実録外伝・大阪電撃作戦」(監督:中島貞夫)を見ていて、どっかで見たことあるなあと思っていたら、99年4月の10日に見ていたのだ!! ガガーン。
「どっかで見たことあるな」じゃねえよ。すでに見てるし(それにしても99年当時もくっだらねえこと書いてるな、おれ)。
かなり最後の方まで「ハテナ?」とか思って見てましたよ。
今見ると、松方弘樹や渡瀬恒彦などのチンピラ側の現状認識の甘さが、小林旭側の大勢力との戦いを(視聴者にとって)空しいものに見せてしまい、あまり記憶に残らなかったのだと思われる(いいわけ)。

コメットさん☆、2巻を返しに行ったら1巻も返って来てたので、借りる。

・第1回 「星の輝きを持つ者」
タンバリン星国の王子様がパーティの途中で地球へ逃亡。同じ星系にあるハモニカ星国の王女・コメットは、王子様探しに地球へ向かう。コメットの母親が思い出深い青春時代を送った地球に憧れていたというだけで……(王子様には興味ナシ)。

「王室の舞踏会で大騒動!!」という、お姫様ものの定番中の定番な展開や優しい王妃にのんびり屋の王様、心配性のヒゲノシタ……これらも定番中の定番で、超燃える! 燃えるのは何も熱血ものばかりじゃないもんね。
前半、きらびやかな星国からうって変わって、後半は地球(鎌倉がモデルらしい)。
電車のまだ来ない駅の自動改札をコメットさんがまたいで通るところや、公園で寝ていて怒られるところなどなかなかリアル。その後どんどん時間が経過していき、独りぼっちを認識していく過程もイイ。
雨まで降ってきて、コメットさんが公園のベンチで泣きながらメロンパンを食べるシーンでは、泣いてるので口の中のパンが見えちゃってるよ。そういうちょっとしたところもおもしろ。

・第2回 「新しい家」
地球でホームレスになる寸前でコメットさんを助けてくれた藤吉家。あまり細かいことには頓着しない景太朗パパ。人助けを苦に思わない沙也加ママ。沙也加ママが「家にいるのはいいけど、親御さんに電話する」ということで、ハモニカ星国の王妃に電話するが、テレビ電話なので地球の衣装(?)で電話に出る王妃。つまり「地球コスプレ」だ。「こういう王妃もいいのう」とか言ってる王様がステキ。メテオさんも本格的に登場。

「コメットさんとメテオさんは幼稚園時代からの幼なじみ」らしい。ではなぜタンバリン星国の王子だけ、「顔もわからない」のか。お互い知っててもいいじゃないか。
これは「北斗の拳」で、北斗も南斗も全員顔見知りらしいのに、レイだけなぜかみんな知らないの法則、なのだろうか(ホント、レイ以外は全員「ご近所物語」っていうほど深い知り合いだよね)。

裏設定を知らないまま、この藤吉一家のことを勝手に想像してみた(以下、全部想像)。
たぶん二人とも地元の人間ではないだろう。東京でダブルインカムノーキッズ(死語)な生活をしていた二人。沙也加は建築雑誌の編集者(まったく勝手に想像)。二人して、週末ごとに海でヨットに乗ったりなんだりするナチュラリストな日々であった。
しかしある日、沙也加の妊娠が発覚。これを機会に結婚、そして出産。子供たちが幼稚園に行くか行かないかの頃、「思いきって東京を離れよう」と決心。沙也加は職を辞し、景太朗は独立して鎌倉(?)にやってくる(このとき、日常的に自然に触れたいというやや無謀な夢を持った景太朗が押し切ったことは、想像にかたくない)。一軒家に住んでいるが、たぶん景太朗が一流の建築士だからけっこうお金持ち。沙也加の店は謎。やっぱり借家なのか?
以上、ホントに想像でした。

テレビ付けたら田嶋やす子が出てた。私の田嶋やす子との妄想幻魔大戦はまだ終わらない。だいたいホントに芸能界入りを考えてんのか? 疑問の残るスタンスだったぞ。あ、一緒に出てた岩崎恭子は許す。

9月24日(月)

昨日借りた「コメットさん☆」2巻を見る。

・第3回「星のトンネル」
コメットさんとケースケ、初対面。「星のトンネル」初登場。一度行ったところでないと行けないのはあれですかな、「虎よ虎よ!」のジョウント。などと、浅薄なSF知識を出してみた。
ケースケのぶっきらぼうさ加減、よろめいたコメットさんが抱きついてきて赤面するところなど、「素直になれない」キャラクターとしてよく描けている。というか、ケースケの無愛想は思春期のいらだちによるものだとつい深読みしてしまいたくなる。このまま、自室にエロ本隠しててもまったく違和感がない(笑)。

・第4回 「わくわく動物園」
本放送で見た。この回、なんだか作画がいつもと違う。ラバボーのゆがんだ顔とか。かわいいけど。

・第5回 「ゆっくり王国づくり」
「王国」とは景太朗パパの小さな畑のこと。コメットさんが星力で成長させた野菜を見て、パパが魔法の力とは知らずに「たくさんの手間をかけ、やっとできるもの」とさりげなく言う。それにショックを受け、反省するコメットさん。
「パパは説教するつもりじゃなく、自分の思ったことを言っただけ」という奥ゆかしさがよい。サブタイトルがよい。

・第6回 「お店に置くもの」
流木アートの鹿島との出会い。これも本放送で見た。どうでもいいがママの経営する店は採算が取れているのか。この夫婦、ほんの少し、思い込みの強いナチュラリストでないかと思われるフシがあって、「自然は美しくて当たり前、その中で生活するのは当たり前」とも言わんばかりの宮崎駿なんかよりは好感が持てる。イデオロギッシュであることは、他にも価値があると視聴者に思わせられるから。……というのも深読みだろうなァ。もちろん、「アルジュナ」の千倍はイイ自然志向だ。

……アメリカ同時多発テロ事件について、少しネットウロウロしていたら副●隆彦のページに突き当たった。
リンクしようと思ったけどトラブルがめんどいのでヤメた。検索してネ。
この人、20ページくらい湾岸戦争のときの記事を読んだだけで、よく知らないし、その短い文章を読んだかぎりでは、バカではないとは思う(っていうか相当の秀才だろう)。
しかし、その文章には言いしれぬ「不愉快な感じ」が残ることも確か。ひとつは、この人がたぶん秀才で、たぶん家柄もまあまあでカネも持っているから。この人のルサンチマンって、共感できないんだよね。秀才過ぎて。
もうひとつは、自分のホームページで今回のアメリカ同時多発テロ事件を、ロスチャイルドだかロックフェラーだかの陰謀論から読み解いていること。

私自身は、大半の陰謀論がインチキだからといって、陰謀そのものがないとは言わない。どんな小さな会社にだって陰謀めいたものは存在するだろう。だが、国家レベルとなると、その陰謀がどんなにリアリティのあるものであっても、それがリアルであるがゆえに、私自身にはどうしようもない。それが不愉快感をもたらす理由だろう。

ソエジマ氏は言う、どこかの悪賢いヤツが悪いことをしていると。確かにそうかもしれないが、だからどうしたというのか。そんな大陰謀にコミットできるのは、よほどの国際舞台で活躍できる人間だけだろう。「悪賢いやつにあやつられている」ことに抗するべきなのはもっともかもしれないが、「悪賢いやつにあやつられているやつに、タクシー代が経費で落ちるかどうか聞くのをビクビクしている」人々は、正真正銘の無力感に陥るしかない。
「陰謀が存在し、それに自分がコミットできる」と安易な物語を仕立てるのがUFOだのオカルトがらみの「陰謀論」だが、それがいかに悲しき想像力か、比較的リアルな陰謀論はそれを証明するのみで、実際には神も仏もない。まあおれがこの人の読者対象じゃないってだけのことなんだろうけどね。

彼は文章の中で「今回のテロ事件の死者について、関係者がいないのに悲しみをあらわにするのは、飼い猫が自動車にひかれてペチャンコになったことの悲しみをあらわすのと素朴さの点で変わらない」(大意)という。実はまったくそのとおりなのだが、そのとおりだからこそ、どっちだっていいじゃないかと私は思う。
指摘するのはかまわんが(ホントのことなんだし)、その指摘に芸がなさすぎるのだ。ユーモアがない。なんかさあ、最近ユーモアの存在って重要だと思うんだよね。人間眉間にシワ寄せるだけじゃ生きていけないよ。

9月23日(日)

午前中、コメットさん☆を見逃してクヤシイのでツタヤに行く。すごいひさしぶり。
1年ぶりくらいか。コメットさん☆2巻、その他やくざ映画を数本借りる。

夜中から吉祥寺Star Pine's Cafeで「EXPOP」

「邦楽をこよなく愛するレギュラーDJ陣4名が、ダンスミュージックとして『踊れる』セレクション&DJな調理を施すことによって、踊れる、そして笑えるというクラブ・イベントです。」
……ということで、「90年代ナイト」やってた人たちが主催しているみたい。
一緒に行こうと思ってた吉田等が出張のため、一人ぼっちで行った。

以下、出演者(出演順)。
・バリサンド
EXPOPの前身である「'90年代ナイト」立ち上げメンバーの一人。安達祐実のラップ(?)が光る「どーした安達!」ってかけ声が入るヤツ(昔、そういうCMがあり、それのCMソングらしい。タイトル不明)が聴けたのでウレシイ。

・ギュウゾウ
電撃ネットワークのメンバー。ふだんからDJやってるらしい。浜崎あゆみとかモーニング娘。とか、いろいろかけてた。最初、レゲエっつうの?(ボキャが貧困で申し訳ない)とにかくそういうのっぽいリズムのを続けてかけたりしてたのがかっこよかったけど、途中でやめてアッパー系の曲に切り替えてた。
マイクで客煽ってた。ちょっとしたトークで盛り上げていくというか。

・レーザーメス
ビデオとともにJポップをミックスして流すいつものパターンで、よかった。自分とこのHPで仕事がものすごい忙しいと書いてあって、そっちの方をなんか心配してしまった。

・ジェームス小野田
もう一人、別にレコードをかける人がいて、ジェームス小野田が煽りつつ曲の説明をする。要するにラジオのDJ風というか。「自分のルーツ」ということで昔のディスコとかロックとか。やや唐突に「サンダーバードREMIX」の「プリズナーナンバーシックス」をかけていたのがめちゃくちゃ懐かしい。あとゴジラのリミックスもかけてた。「燃えよドラゴン」なども。

BUBBLE-B
ユーミンとか小室哲哉とか。いつもながらイイですね。押した時間調整のためか、時間が短かった気がする。

・サエキけんぞう
DJというよりライブに近い。洋楽を直訳して歌ったり、演歌を英訳して歌ったり。なんつうか独特で、考えさせられると言うか。
実は曲初めて聞いたんだけど、オリジナルかなりカッコよかった。

JARECO
今まででいちばんアッパー、カッコいい。最近、「ZONE」のデビュー曲をよく使用しているけどあれは確かにカッコいい。ZONE、その後売れたみたいでよかったなぁ。

VJ SAKURA
VJ。「元気が出るテレビ」の懐かしい映像などを混ぜて流してた。

個人的に、Jポップかけるイベントがもっと行われていいと思ってたし、もともと「90年代ナイト」にかなり衝撃を受けてたんである意味安心して見に行けたというのはある。これからも続けてほしい。

9月22日(土)

映画。「座頭市物語」。時代劇。任侠もの。おもしろ。
白黒で、シリーズ初期作らしい。クライマックスの天知茂(だろうな、たぶん。忘れた)との殺陣もいいのだが、おれ的にいちばん盛り上がるのは市がわらじを脱いでいるナントカ一家で、自分を「たかがメクラ」と言われたことに不満を漏らし大勢の前で居合いを見せるシーン。
市は「居合いは見せ物じゃない」と1回拒否していて、しかしやっぱりバカにされるので仕方なく出てきて刀で一瞬のうちにロウソクを真っ二つにする(それを下っ端やくざが後で驚きながら二つ合わせて元に戻すところはなんだか笑ってしまったが)。
市はコンプレックスから居合いを学んだと自分の口で言ってるし、労咳でいずれ死ぬ身の天知茂からは「執念を感じる」と、技を1回も見せないうちから言われる。
タンカをきる前の道化的キャラも、差別されるうちに身につけたのではないかと思われるフシがあり、その怨念がキッチリ描き込まれている。
そのわりには自分のことだけにコセコセせず、最終的にはヒロイックな存在に昇華するのがなんとも言えずシブいのだった。

溜まっていた「コメットさん☆」をまとめて見る。ああ、ビデオって便利だ。

・第23回 「ヒゲノシタの輝き」
こうるさいお目付役のじいさん「ヒゲノシタ」が、寄る年波か地球の環境が合わずブッ倒れてしまう。「輝きにも味がある」ってのは、味がある(^^;)。それをラバボーが理解できてないってのもいいし。
以前、「魔法少女もの」には「魔法を思春期のパワーのたとえとして扱ったもの」と「『職能』と考えたもの」という2パターンがあるのではないかという話になって非常に面白い見方だと思ったんだけど、コメットさん☆はこうした「思春期パワー」と「職能的考え」をうまく融合できるのではないかと思っている(細かく言えば、コメットさん☆の魔法は「職能」とは言いがたいが、彼女が王女候補であるために地球に来ているのは一種の「修行」だから)。

・第24話 「タンバリン星国の姉弟」
コメットの王子様を探しに地球にきた姉弟は、なじめずに姉は不登校、弟はもっとマズく引きこもりっぽくなってしまっていた、という話。
あまりに無理矢理な話なんで疑問がいくつもわくが、うまくごまかしている……と考えていいのだろうか? たとえば「ラバボーのような存在がいないので星力をうまく集められない」のは、この姉弟を派遣したタンバリン星国側の落ち度ではないのか? とか。また、「ドジなめがねっ子」が現実にいた場合、いかに疎ましがられるかを表しているのか、とか。「腹が減って倒れた」姉の方。メシはどうしているのか? ただの食い意地のはった娘というだけなのか?

・第25話「学校の輝き」
前回の続き。さらにムリがある。コメットさんがつまらない中学校を面白くしようとする、という話だが、まったく魔法を隠していない。いいのか。クラスのみんなに「夢だった」と思わせる描写が入るとかしなくても。まあなんとなく容認してしまうノホホンとした作風ではあるのだけれど。
来週の予告を確かめたら、好意的解釈をしてきたタンバリン星国の姉弟だが、もしかしてシリーズ始まって以来のダメキャラかもしれないと思い始めた。不安だなあ(とか言ってたら、翌日見忘れた。ガーン)。

9月20日(木)

最近見た映画。「十三人の刺客」。監督:工藤栄一。時代劇。おもしろ。
「白い巨塔」。田宮二郎が大学病院でのし上がっていく有名な映画。2時間半もある。長い。飽きた。まあ、原作は面白いだろうなと予測はさせる。

リス顔の男(最終回)
・第1章
自分は、たくさん本を読んでいたり映画を見ていたりする人間に、尊敬の念とともにコンプレックスを持っている。理由はいろいろあるが、デキる人間というのは要所要所掴んでいるからだ、ということは言える。
要所要所を掴んでいない人間は、ネコ一匹捕まえることはできない。そういうヤツは、日曜の昼間っから、久本雅美と空手家の角田と、……あと秋川リサかなんかがロサンゼルス旅行するような番組を見る人間に堕している。しかも二十代後半・男なのに、雅美のことを「マチャミ」と呼んで、増田明美ソックリの彼女とガーフィールドのイラストの付いたペアルックで柏あたりを闊歩している。
さらに、「ドッグフードを食べたらマズかった」という話を百回くらいする。ライムサワーをストローでチュウチュウすするところを見ていると腹が立ってくる。

映画を見ていなかろうが本を読んでいなかろうが、要所要所を掴んでいる人間は尊敬する。デキるからだ。

この間は映画「白い巨塔」と「砂の器」の二本立てだった。これで1100円。かねがね家のテレビでビデオを見るのがイヤだった私には、大画面で見るには破格の安さといえる。
しかし、勇んで映画館に行ったももの、「白い巨塔」の異常な長さには参った。「ハムナプトラ2」より長い。「ハムナプトラ2」より長いわりには、半裸のねーちゃんもピラミッドも出てこない。ただ田宮二郎の顔は異様だった。確かにあの顔はいい。あれで半裸のねーちゃんとピラミッドさえ出てくれば。でもそれじゃ4時間以上になるな。「白い巨塔」のラストの田宮二郎が、ミイラと戦う話になるから。足して4時間以上。
あまりの長さに途中でオシッコに行きたくなり、イライラして、やっと終わってトイレに行ったら混み混みでさながらトイレは「トイレ祭り」の有様。

その後「砂の器」がまた2時間以上もあると聞いて、これはもうダメだ、おれは挫折した、生きていけない。そう思って映画館を出た。

何が言いたいかというと、勝ち負けで言ったら負けだということだ。よく「寝てない自慢」をするヤツがいる。それをバカにするヤツもいる。しかし「寝てない」ということは、まあ何にもしないで座禅組んで寝てない、ということはまずないわけだから、起きている間に何かをしているわけである。ということはその間も知識を詰め込んだと言うことだ。つまり、私が負けで、ヤツの勝ち。
「砂の器」を見なかったおれは根性が足りなかった。チキン。負け犬。玉なし野郎。

家に帰ったらサンマが焼けていた。コレに大根おろしを付けて食うとうまいのだ。だがサンマの顔をじっと見ていたら、ギョロリと目をむき、「田代まさしって、ちゃんと復帰できるかね?」と問いかけてきた。
「幻にしては俗なことを聞くなあ」と思ったし、シチュエーション自体がベタだとは思ったが、私はいい気になって独自の見解をうち明けた。だがサンマにしてみればそれはあくまで話のマクラで、途中から「おれ(つまりこれを書いているおれ)がいかにダメか」という話になっていった。
サンマは言った、「おまえなんか日曜の昼間っから、久本雅美と空手家の角田と、……あと奈美悦子かなんかがロサンゼルス旅行するような番組を見る人間だ。しかも雅美のことを『マチャミ』と呼んで、顔は増田明美ソックリだ」

その後、どんな焼き魚を食っていてもその魚が語りかけてくるようになった。サヨリを食えば「どうせサヨリをサユリって言い間違えただろ」と言われ、アジを食えば「もっと現実を見つめろ」と言われ、メザシを食えば「会社の女の子の肩をふざけてもんだら、セクハラになると思う?」とか聞かれた。
おれはいつの間にか「魚ノイローゼ」になっていた。とにかくそこらじゅうの魚が語りかけてくるのだ。しかも彼らの話題の前提は、彼ら自身が釣り上げられ、調理され、人間に食われるという「負け組」にあるらしいからたまらない。

まるで、役者やミュージシャンを目指していつの間にか40過ぎても芽が出ない人間の呪詛を受けているようであった。
しかし、それで「魚が食えない」などと言っては、現代のビジネス社会を生き抜いては行けない。自分は苦手を克服するために、寿司屋に行った。寿司屋の切り刻まれた肉片なら、語りかけてきたりしないだろう。

・第2章
一度入ったことのある寿司屋だから安心だ、と思ってのれんをくぐったら、そこに「リス顔の男」がいた。
彼は4月15日にも5月3日にも6月24日にも登場した、私の宿敵である。いつの間にか私につきまとうようになった、実害はないが非常に不愉快な男だ。
「へい、いらっしゃい!」
ねじりハチマキに寿司屋っぽいかっこう(名称知らない)をしたリス顔の男がおれを出迎える。彼は顔がリスそっくりなので、私は「リス顔の男」と呼んでいる。しかし「リス」というのは「かわいい」の意味ではなく、「齧歯類」という意味だ。ヤツの顔には抜け目なさ以外のものを感じたことがない。
「なに握りやしょう?」
リス顔の男は聞いてきた。おれはお好みで高い勘定を払うのはイヤなので「なんとかセット」を頼んだ。握り寿司で1200円くらいのやつ。
「へい、『なんとかセット』!!」
リス顔の男が威勢よく叫ぶ。しかし、なんだか「寿司屋」を演じているようで気味が悪い。だいたい、なんでこいつが寿司屋の板前などやっているのだ。確かヒモをして食っていると聞いていたが。

「なんとかセット」を握っている間、「リス顔の男」が馴れ馴れしく聞いてきた。
「おれよう、この間『なんとかかんとか』のDVDボックス買っちゃってよう」
「なんとかかんとか」というのは、マイナーながら熱烈な支持者もいる映画。シリーズ化されているがそれをボックスで買ったらしい。
リス顔の男との会話は不愉快だが、私も「白い巨塔」を見てきたことでもあるし、映画ファンをきどって最近見た映画の話をしようと思った。「なんとかかんとか」が好きなら、こういうのも好きだろう、と思って出した映画のタイトルがマイナーなカンフーものとかアニメとか。
ビールを飲みながらだったので少し興が乗ってきて、自分好みの、かなりどうしようもない作品について語りたおしてしまった。
すると、できあがった「なんとかセット」を持ったリス顔の男が、心底変わり者を見るような目でおれを見て、言った。

「くっだらねぇもの見てんなぁ」

一瞬何を言われたかわからなかった。「なんとかかんとか」は、「タイタニック」や「千と千尋」などとは違い、好きな人間しか見ないマイナー作品である。そんなもののDVDボックスを買っている人間に、そんなことを言われる筋合いはない……。
怒りがゆっくりとわき上がってきたおれは、何か言ってやろうと言葉を探したが、それをさえぎるものがあった。

パパイヤすずだった。

「パパイヤ鈴木」ではない。
「パパイヤすず」である。

パパイヤすずはパパイヤ鈴木のそっくりさんで、「リス顔の男」の宿敵である。「リス顔の男」をつけねらっている理由は忘れた。
「へいおまち〜、まいう〜」
おかもちを持ったパパイヤすずは、どうやら隣のうなぎ屋で働いているらしく、おかもちの中からピチピチと黒光りする生きたうなぎを無造作に取り出し、「リス顔の男」に投げつけようとした。
しかし、リス顔の男も負けてはいなかった。なんと、おれが頼んだ「なんとかセット」の握り寿司を、パパイヤすずより先に投げつけたのだ。
マグロとイカが2つ同時に空を切り、パパイヤすずの右目と左目に命中。
「うぺっ!?」
目つぶしを食らって驚いたパパイヤすずは持っていたうなぎを取り落とし、床に落ちてニョロニョロ。今度ばかりはまずいか。おれは身構えた。

どうやら、リス顔の男他2名の板前は、想像以上に大量の寿司を握っていたらしく、それらをリス顔の男は片っ端から投げ出した。他の板前はその行為に文句も言わず、なんだかゾッとするようなどんよりした顔でそれを眺めている。ポケットから脱脂綿みたいなものを出して、ときどき舐めていた。

「なんだ、けっきょくパパイヤすずだって無力だったじゃないか……」おれは言いしれぬ敗北感を感じ始めていた。しかし、もうひとつ奇蹟が起こった。
リス顔の男がひょいひょいと投げた寿司が中空でひとつになり、編隊を組んで飛び出したのだ。
マグロ、玉子、イクラ、穴子、エビ、ハマチ……。すべてが編隊となって空を飛んでいく。ぎゅいんぎゅいんと音が聞こえてくるようだ。
そして、昔の外国のアニメに出てくるハチの大群のように、寿司の隊列が矢印形になると、リス顔の男に向かって飛んでいった。
「やめろ、やめろ〜!」
驚いたリス顔の男は逃げようとするが、「目のどんよりした板前たち」がジャマで後ろへ下がれない。
大量の寿司がリス顔の男にのしかかり、彼は口から鼻から飯つぶを飛び出させながら、わけのわからない叫び声を上げていた。

パパイヤすずは、両目の寿司を取り除いた後、テレビでイチロー活躍のニュースを見ていた。すでにリス顔の男のことも、自分がうなぎ屋で働いていることも忘れてしまったらしい。

おれはこれは勝利なのかと思った。だが違っていた。リス顔の男を襲った寿司は再びまとまって飛翔し、個々の握りがさまざまな順列になることによって、何かのかたちを形成しはじめた。
おれはそれを黙って見ていた。

「イ キ ロ」

寿司は人文字ならぬ「寿司文字」で、そう書いておれに告げた。つまり、魚の口からおれに説教できない肉片と化した寿司たちが、寿司となってなお、おれに何かを伝えに来たということだ。
なんだ、おれは普通に生きている。魚がベラベラしゃべっていた方がまだマシだった。言葉は細かい方が意味がはっきりする。どういう意味だ? これは何かの謎かけか。
それとも、おれに向けられた言葉ですらないのか?

椅子にドッカと腰かけて、鼻をほじりながら「イチロー2安打」のニュースを見るパパイヤすず。彼の横倒しになったおかもち、そこから逃げ出してはいずりまわるうなぎ2匹、飛び散った飯粒、空中で字をかたちづくる寿司の一群。体中を飯つぶだらけにして目を回すリス顔の男。彼の後ろでは、脱脂綿を交互に舐めながら、ブツブツと話し合う板前の若い衆二人。

いつの間にかテレビ番組が切り替わり、「とっとこハム太郎」が始まっていた。
「とっとこハム太郎」の歌が、いつまでもいつまでも寿司屋に流れていた。

さかまさまから呼んだら「ロ キ イ」だな、と思った。
(了)

9月19日(水)

コミティア申し込み。床屋に行く。

9月17日(月)

なんか今日暑ィな。親がつくったカレーが辛くて、さらに暑くなった(まあヒトのつくったモン食ってんだから文句は言えないがな)。
「ザ・ワイド」では森富実が夏休みなのか出てなかったな。あの人、ぜったい海辺でハデなサングラスして寝そべってるタイプの人だよね(いや、それがいいんだよ)。

2、3日前、「スパイダーマン」のことを書いたら、映画「スパイダーマン」も世界貿易センタービルに登ってるシーンがあるとかなんとかで、予告編変更だか公開延期だかするそう。

夜中に目が覚めたら、テレビに眞鍋かをりが出てた。まあ「かわいい」のを売りものにしてんだからかわいいと思うんだけどさ、最近こういう人たちを「かわいい」と思う自分の気持ちがイヤだね。自分の太股にナイフ刺して「だまされんぞ!」とか言いたい。
だいたいさー、そういうのをかわいいと思う気持ちってのは、たぶん宇宙から来たウイルスのせいなんだよ。(どんなかたちにせよ)どうせこっちはカネ使わせられるだけなんだから、無視した方がいいんだよ。

それにしても、司会の出川はオヤジっぽかったな〜。峰竜太、こぶ平など、つっこまれキャラの人って自分が中心になるとオヤジになるよね。
まあおれもそうだけどね。

「MUSIX!」で「ミニモニ。の人気分析」という趣旨で、オタキング岡田斗司夫氏ほか、さまざまな識者が登場。このコーナーはちょっとつくり込んだ感じで面白かった。「ミニモニ。はなべやかんよりも小さい」ということを表すためだけに、ワンカットだけなべやかんが出てたりとか。楽しい楽しい。

でも別コーナーで新メンバーがうなだれているところとかは、全部早送りで飛ばした。だってかわいそうだもん。

9月16日(日)

・映画「RED SHADOW 赤影」(監督:中野裕之、脚本:知らない)を見る。
低いテンションで見たからか(たぶんそういう部分もあるだろう)、映画の内容としては(あくまで個人的意見)、ここ数年見た映画の中でもかなり下の位置に入る。いや、私は「こんなの赤影じゃない」とかさ、「ミュージシャンのビデオクリップ撮ってるコジャレ監督が!」とか、そういうベタな批判はしたくないのよ。すべては見てからでしょう。でもさあ、カネ払って見たから言うけど、やっぱりこれはちょっとどうかと思うよ。

内容はしごく単純で、赤影、青影、白影たちが悪い侍をやっつけるという話なんだけど、そのわりにはお話がぜんぜん見えてこない。「巨悪」が明らかになるのって、始まって1時間くらいしてからじゃないかな。主人公も迫力なさすぎ。いちおう「人を非情に殺すことのできない、心優しい忍者」という設定になってはいるものの、別に人間的成長を遂げるわけでなし、男でこれだけのヘロヘロ感を醸し出すのは珍しいよ。
また、出演者がほとんど有名人のため、一人ひとりに見せ場をつくってやって物語全体にメリハリがなくなってしまった。舞の海なんて、チョイ役かと思ったらかなり最後の方まで出てんだよ。それと、全体的に人数多すぎ。1時間半で、悪側の仲間割れとか描けるほど余裕ないし。

それとねえ、ここがいちばん問題なんじゃないかと思うんだけど、ギャグが異常につまんないんだよ。この監督、出てくる人が何かに頭をぶつけたり転んだりすれば面白いと思ってるらしい。そういうシーンが何度も何度も出て来るんだけど、ぜんぜん笑えない。ちょっと面白かったのは白影役の竹中直人と、本筋にカンケイない按摩屋役の篠原涼子だけど、これは本人が面白いんであって別に演出とか関係ないし。

また出てくる女の子もねえ、麻生久美子が女忍者で出てきて、まあコスチュームは網タイツとかでちょっといいなとか思うんだけど、いちおう「近未来感覚時代劇」みたいになってるんだけど、それでもこの人女忍者のツラじゃないよなあとか思う。たぶん監督は麻生久美子が好きで、キレイに撮ってる感じはわかるけど、麻生久美子のイマドキ感がなんかおれをすごくイライラさせた。
お姫様役の奥菜恵もイマイチ。奥菜恵のまともな演技ってはじめて見たけど、まあ私にとっちゃたいていの場合演技力なんてどうでもいいんだけどさ、あんましよくない。ヒロインとしては麻生久美子と奥菜恵が入れ替わりに出て来るんだが、たぶん思い入れが違うんじゃないかな〜。そもそも「女忍者」とか「姫」に対する思い入れがまったく感じられない。ただ出てるだけ。それは「忍者」というものそのものにも言えるんだけどね。

まあ、赤影役と青影役の男の子のファンが見ればいいんじゃないスかね。

9月14日(金)

今回のテロ事件、昨日の日記では「現象面だけでやたらと『新しい』と騒ぐのはどうか」と書いたが、1日考えたがやはりいろんな意味で「新しい」と言わざるを得ないっぽい。
「どこがどうなのか」と問われると、カン違いかもしれないので恥ずかしいから詳しいことは書かないけど。

今回の件で話題(?)をさらわれてしまった監督・相米慎二の死。うーん、やはり人気商売なのだから「話題になるか否か」を問題にしてもかまわんだろう。
まだまだ若かったし入院して数カ月で亡くなってしまったこともあり、本人や周囲の人々の無念さもいかばかりかと思う。私はこの人の映画は「翔んだカップル」他数本しか見たことがないが、「翔んだカップル」は原作のドロドロ感とさわやかさを混在させた佳作だった。

ところで、相米慎二と聞いていつも思うのが「出演者にものすごく厳しい」という逸話である。確か女優とか殴ったりするんじゃなかったっけ。厳しい監督など珍しくもないんだろうが(大林宣彦とか、ふだんニコニコしているだけに怒ると恐そうだ)、なぜか相米監督のことだけが頭に残っている。
その理由のひとつには、アイドル女優が飛躍するステップとするような位置づけの作品を多くとっていた、ということがあるのだろうが、もうひとつは相米監督の厳しさがある種「売り」になっていたことへの違和感にある。
「これだけ厳しいのだから映画も丁寧につくられているのだろう」というアピールになっていたと思うのだ。これは相米監督自身の話題からはずれるが、多くの職業にあることだ。
しかし、以前にも書いたかもわからんが(さすがに2年くらい「日記」を書いていると同じ主張の繰り返しになる)、「厳しさ」、「恐さ」を客商売の人々が「売り」にできる時代というのはいつ頃からなのだろう?
もっとも疑問なのが料理人とお笑い芸人で、コレもキャラによるのだろうが、毒舌ひねくれ系でない芸人でも「実はふだん弟子をボカボカ殴っている」と聞かされても視聴者はけっこう平気で受け入れている。「芸には厳しい人なのねえ」とか。 さらに勘違いなのは料理人で、客に無愛想だとか、取材拒否だとか、そんなことまでステイタスになる始末。
客商売の「愛想のよさ」と職人の「愛想の悪さ」の混同・混乱については、いくつかの理由が考えられるが、何が言いたいかというとそういうのが素朴にわからないのである。

エンターテイナーなら、どんなときにもエンターテイナーであることが、もっとも要求されることではないのか? だから、「恐いキャラ」が横山やすしみたいになんとなく統一性を持っているならともかく、インタビューで超クソマジメなことを言っている芸人とか、何なのかなあと。料理人は、厨房で怒鳴ったりする場面は極力見せるべきではないと思うし。

そういったことと関係があるかないかわからんが、私が相米監督に感じる最大の違和感は「セーラー服と機関銃」の監督だ、ということであった。
コレが、しがらみでアイドル主演映画をとらざるを得ず、それでいて丁寧さを追求し続け、やや芸術的な映画では佳品をいくつも残している、というのなら何も感じなかっただろう。 ところがおそらく「セーラー服と機関銃」は、突出した大ヒットだったはずだ。
「セーラー服と機関銃」は、不気味な映画である。おそらく赤川次郎ノリとはまったく異なるし(原作は未読だが)、「女子高生がひょんなことから弱小やくざの組長になる」というファンタジックな設定を、根こそぎ逆撫でするような映画なのだ。

たとえば「女子高生=社会的弱者」が組長になる、という爽快さはゼロで、「そんなことになったら普通レイプされてポイだろ」という視聴者の超素朴な疑問が、強く意識されている作風になっている。「ポケモン」の映画で、さりげなくポケモンが食われているシーンが挿入されているような(たとえだよたとえ)ドロリとした不気味さがたたえられているのだ(刑事役の柄本明の不気味さは目をそらしたくなるほど)。
正月の3日にテレビ放映された本作を見て、私は心底ダークな気分になった。

映画マニアでも何でもない私は、「芸術家肌の監督が、何かの間違いでアイドル映画を撮っちゃった」以外の解釈を持たないのだが、薬師丸ひろ子ファンも連日映画館につめかけとくに文句もなかったようだし、「完全版」とかいうディレクターズカット版のハシリみたいのも公開された記憶がある。

あのドロリとした映画が、ものすごく厳しい監督のもと、薬師丸ひろ子を泣かしながらつくられていたかと思うと、いつも何ともいえない気分になる。

……夜はいろんな人と飲み。すごく楽しかったけど、また飲み過ぎてしまった。
翌朝、吐いてしまった。伊集院的表現を使えばケポケポポ〜と。

9月13日(木)

「今月の日記はのんびりしたペースで」などと言っていたら、「アメリカ同時多発テロ」が起こった。……起こったからって私が何をしなければならないっていうこともないのだが。当然、日記のポリシーとしてはそれに触れないことも考えられる。

テーマパーク4096さんの13日の日記では、「※今日も普通に書くことにします。」と断り書きを付けたうえで、まったく何の関係もない日常的なことを面白おかしく書いていた。それもある種の見識だ。一面識もないが、ある意味漢(おとこ)だと言える。

後はざっとテキスト系サイトを回って「みんなどんなことを書いているのか」と覗いてみたりした。まあだいたいテキスト系のヒトってひねくれてるし、それでいいと思っている。あるいは逆に「恐い」、「死んだ人が気の毒」というのも、素直な反応だろう。
しかし、私の生理として嫌なトーンの文章も存在しないではない。それは、自分にぜったい害が及んでこないと信じ込んでおり、なおかつそのスタンスが下卑ていることに無自覚な文章。要は、対象物に対する距離の取り方なんだけどね。
野次馬根性は人一倍あるクセにクールを気取るのは、私は好きじゃない。野次馬に徹するなら顔には下卑た笑いを貼りつかせて。明日が我が身だと知りつつも。

私自身がいちばん気になるのは、今回のテロが「おれ自身に」どう関係してくるかと言うこと。そこに想像力の及ばない文章は、あまり好きではない。

かつて湾岸戦争では「テレビゲームみたい」ってなことが言われた。しかし実体はそうではなかったようだ(ある意味、当たり前か)。確かに第二次大戦などに比べれば、日本人にとって距離はあっただろう。
しかし、大事に対する個人の距離ってのは、けっきょくは想像力。だから私は湾岸戦争のゲーム性に現在では眉に唾を付けているし、今回のテロが「SFX映画みたい」だからといって(あの映像を見れば素朴にそう思うだろう)、それがそのまま「ゲーム感覚」につながっていくとも思わない。
そもそも、オウムがサリン事件を起こしたときに「まったく新しいセンソウだ」みたいなことを言ったヒトがいたが、サリンは昔からある毒ガスらしいし、信者たちの自己犠牲的ふるまいや、「だからどうした」的な観念主導、頭でっかちな行動は昔からあるものであった。
今回も「まったく新しいテロ」ってなことが言われるが、たとえばサイバー・テロならいざしらず、テロリストの肉弾的所業は、戦術的な目新しさはあってもそれが「新しい」かというと疑問が残る。
戦術というのは「だれもやらなかったこと」をやることが「新しさ」になるらしいから、戦術だけをとって何かのパラダイム変換が起こるかのような物言いは無責任だ(もっとも、こうした事件の「背景」が、たとえば冷戦終結とかソ連崩壊のような国際情勢の変化だ、ということなのかもしれないが、それならそうとはっきり言うべき)。

私は基本的に野次馬で程度の低い人間ですが、何となく心に留めてることがあって、「スパイダーマン」ってマンガがある。あ、アメコミの方ね。正確には昔、ソレのノベライズを読んだんだけど。スパイダーマンは、最初は自分のためにしか行動しないヤツだった。
で、テレビ局で「芸」を披露した帰り、強盗が走り抜けていくのを黙って見過ごしてしまう。「自分には関係ないから」と。
そして家に帰ると、自分の叔母がその強盗によって殺されていた。
以来、スパイダーマンは「叔母殺し」という「業」を背負って、悪と戦い続ける。

いや、正義のために戦えとかそんなんじゃなくて、人間どこでどうつながるかわかんないってこと。だれだって無責任な言動はしたくなるし、またそれを縛り付けては健全とは言えない。だけれど、回りまわってどう自分に関わるかってことには常に頭を働かせていこうっていう、私の自戒。

9月12日(水)

朝は「おはスタ」から始まって。もちろん、他の各局全部「あの事件」についての報道だ。しかし「おはスタ」は変更できない事情があったんだろう。
冒頭「アメリカでの事件で被害に遭われた方に対して云々」と、山ちゃんの固いあいさつ。
そして、その後はいつもの大騒ぎ。

このことに対して「テレビの向こうでは何かたいへんなことが起こっていた。しかしそれがすべてではないことを『おはスタ』が証明してくれた」みたいなクールな見方を、私はいっさいしない。
そんなのはただのカッコつけだ。

人間、結婚式の後に葬式に出なきゃならんとか、その逆とか、そんなことは世の中にいくらでもある。山ちゃんの場合、ああするより仕方がなかろう。

……ちなみに「笑っていいとも」も「明石家マンション物語」も中止だった。視聴者の恐怖と不安と、好奇心と、自粛的雰囲気。
でも「シスター・プリンセス」はやってた。なにやら、お話が動き始めている。最終回も近いか。

9月11日(火)

台風。だもんだからたいへんだたいへんだ、などと言っていたら、仕事から帰ってパタリと寝てしまう。11時頃起きてパソコンを立ち上げ、メーリングリストを見たらアメリカの貿易センタービルが爆破されたと。「!?」と思ってテレビを付けたら、「アメリカ同時多発テロ」だという。

事件直後というのは、情報が錯綜しているためテレビを見ていても整理されず、(私個人は)イライラしてしまうので時間をおいてから見ようと思ったが、少し眠ったために二度寝することができず、気になってけっきょくテレビに釘付けになってしまった。
後はいつもこうした事件に感じる、気の毒という気持ちとそれでも目を離せない気持ちと、なんだかワクワクしてしまう自分の不謹慎さに自己嫌悪を感じるというむずがゆい気持ちでテレビを見続けた。ビデオに撮って試しに見ようと思っていたアニメ「パラッパラッパー」もまったく頭に入らない!

そんな一夜。

9月10日(月)

なんかすげー調子悪い。痩せるとか痩せないとかずっと考えてる。で、けっきょくなんか食っちゃうのは、その辺のダイエット少女と変わりなし。
引っ越しセンターの、Dr.コパがやってるCMで、引っ越し屋の青年にコパが「ダイエットはどうのこうの!」とかいうのがあるけど、コパには言われたかねえよなあ。なんだよこのお調子もん(放言)。

「電気グルーヴのメロン牧場−−花嫁は死神」 電気グルーヴ(2001、ロッキング・オン)を、昨日読了。電気グルーヴの、ここ4、5年の雑誌でのトーク連載のまとめ。
この人たちの雑談は相変わらず面白い。「便所で読んでその後捨ててくれ」、「便所文庫だ」とか言ってたけど、とにかく超どうでもいい話をどうでもいいまま語っていくのが面白い。

で、そうしたトーク部分とはまた違って興味深かったのは、インタビュアーの山崎洋一郎という人が「昔、将来的には文字による思考から、もっと感覚的なものになっていくと思っていたら、メールやネットなどの浸透でそうでもなくなってきている現状にどう思うか」みたいなことを言うところ。まあコレは電気の問題というより「ロッキンオン」とか音楽ライターの問題だとは思うけど。
「感性」って言われていた部分が、文章化してもやっぱり「感性的」な文章に成り代わっただけだって考え方もできるけどね。……っていうかネット、メールに関してはそういう部分が大きいと私は思ってる。

それとSPA!に載ってたワースト音楽ライターの第2位が三●格だったそうだけど、コレもよくわかる。昔は、「三●格的なもの」って必要だと思って擁護してたけど、今はそうは思ってない。
昔、代官山のなんちゃらいう場所で三●格のマンガについてのトークライブがあるっていうんで行った。もう5年くらい前かな。このスペースがまた、ターンテーブルとか置いてあってコジャレた音楽がかかってて、鼻持ちならないところだった。
で、内容も「よしもとよしともと望月峯太郎」が主なテーマだったりとか、おれ的になんかピンと来ないものだったんだけど、「この中でマンガ描いている人いますか?」って聞かれて手をあげて、「どんなの描いてるんですか?」と三●格に聞かれたから「『創作』をやってます」と言ったんだよ。そしたらすごい不審げ&小馬鹿にしたような顔されて、その後もなんかムカつくこと言われた。「やっぱりエロパロですか?」みたいな。「創作だ」って言ってんのに。「同人誌事情ひとつもわかってないな」って感じの。
そんで「ああ、場違いなとこ来ちゃったなあ」と思って、その違和感をずっと引きずってて、今も引きずって、そのおれの違和感を修正するためにホームページつくってる。
それと「シティロード」の三●格のマンガ評はヒドかった。あの遠回りにカクメイを熱望するようなの、なんとかならんか? 悲しかったら泣け、笑いたかったら笑え、ってコトだよ。

9月9日(日)

・ゾイドマンガ打ち切り
上山道郎がコロコロコミックにやっているゾイドのマンガ打ち切りについて、作者本人が自分のサイトでコメントしていて(ニュースソース:ちゆ12歳)、それについて何か書こうと思ったらもう消えてしまった(そりゃ永続的に掲載するのはやっぱマズいだろうが)。

この場合、野次馬として興味深かったのは「不人気で打ち切り」なのではなく、「そこそこの人気なのに打ち切り」だったということで、上山道郎の不満もたぶんその辺にあったのだろう。
ネット上の意見としては、上山道郎擁護と、逆に上山道郎批判とに分かれてると思う。「職業マンガ家が芸術家的な作品至上論を語るのはおかしい」という批判意見も目にした。これはけっこう正論で、上山氏の文章が「金儲けに目のくらんだ企業側の論理によってもたらされた結果」とか「物語をきちんと、しかも面白く完結させつつ、おもちゃゾイドの売り上げにいかに貢献しないで済むかを今考えてる」とか、あまりにトゲトゲしいものになっていた以上当然出てくる意見。

私も4、5年前は「職業マンガ家が芸術家的な作品至上論を云々」と思っていたんだけど、実はことはそう簡単じゃない。だって自分の作品至上じゃない人間が、マンガ家になんてなりっこないもん。
60〜70年代に、エンタテインメントにおいて作品至上主義が語られすぎたせいで(状況そのものはまた違っただろうが)、80年代以降は「プロがプロに徹する」とか「物語をシステマティックにつくる」という部分が注目された。たぶん大塚英志の物語論とか、村上春樹の小説ってのはそういうものだった。
旧来の作品中心主義的評論もその後廃れることなく、両者が併存しているのが現在だと思うが、やはりそれには理由がある。送り手にも受け手にも、とことんシステマティックに感じられるモノから作家の思いのままに描いたモノまで、TPOによって嗜好にゆらぎがあるからだと思う。
そんなむずかしく書かなくても、同じものばっかり食べてちゃ飽きる、っていうことにすぎないんだけど。だから、青臭い芸術至上主義というのにもともとウンザリしてたけど、わけしり顔のシステム主義にも胡散臭いものを感じている。どちらにしろ、安易な主張は自分の嗜好の吐露でしかないわけだよ。

上山道郎は自分のサイトなんだから、言いたいことはどんどん書けばいい。ただし、「単行本まるまる描きおろしで完結」というお膳立てが整えられたのは、ハタからみるとかなり好条件な打ち切りだったとは思う。それと「物語をきちんと、しかも面白く完結させつつ、おもちゃゾイドの売り上げにいかに貢献しないで済むかを今考えてる」というくだりだけはマズい。なぜなら、読者のためになっていないから。
おもちゃゾイドが好きで自分の作品を読んでいる読者を、それはちょっとないがしろにした発言でないかい。

あと関連があるようなないような話だけど、最近注目してるのは、「言いたいことがあるならもっと偉くなって権力を持て」っていう主張の人が、トシとって偉くならなかったらどうするんだっていう(笑)。いや、上記のような問題のとき、必ずこういう意見が出てくる。これも若いモンをさとすときのいい方便かなとは思うけど。実は「すでに偉い人」の言いったくれということもできるわけで。
だから、これをあまりに真に受けて、若いうちからこういう発言を繰り返さない方がいいと思うよ。これで偉くならなかったら、最高カッコ悪いよ。「お前ががんばれよ」って言われちゃうよ。
現状システムそのものの批判っていうのは、あまりに抜本的な改革をせまられるんで机上の空論の場合が多いけど、それだけに言いっぱなしにできる。ところが「偉くなれ」っていうの、自分に返ってきちゃうからさあ。

9月6日(木)

・映画「A.I」(監督:スピルバーグ、脚本:知らない)を見る。
某SFサイトの映画評は、読むたびにガッカリさせられる。参考にしようと思って、かえってソレに対する反論を書きたくなってしまった。忘れろ自分。
評判がかんばしくなく(今夏のSF映画ってそんなんばっかりか?)、興業的にもコケてるというので気が進まなかったが、前売りを買っていたので行った。

あらすじは、単純に言って「人間を親と認識する子供ロボットが、捨てられて母をたずねて三千里」。
はっきりいって、前半1時間は死ぬほどつまらない。少年ロボットのディヴィッドがある家庭にもらわれてくるのだが、期待していた未来っぽいシーン、ロボットたちがひとつも出てこず、ただ家の中でメシを食ったり遊んだりするだけ。なんだよコレ! ロボット出ねえのかよ! 詐欺だ! ホームドラマかよ! 本気で帰ろうと思った。
ところが、1時間を過ぎたあたりでメカやロボットがたくさん出てきて、ちょっと面白くなる。
そして、もう1時間過ぎたあたりでさらにSFXがいっぱい出てきて、もっと面白くなる。
そして、ラスト30分くらいで、(おれ的に)まったく想像だにしなかった驚愕のラストへ(笑)。←(笑)が付かざるをえんのだよ。

……しかし、映画館を出る頃には、何かしんみりしてしまった。
結論から言うと「バカ映画」である。しかし、「しんみりバカ映画」。
個人的に「会いたい人に会えない」というシチュエーションは、いつまでも記憶に残ってしまう。カンケイない話だがむかーしテレビドラマで「岸壁の母」というのをやってて(タイトルあいまい)、確か「岸壁母」役が市原悦子、息子が大和田獏だった。
あの歌のとおり、出征した息子はけっきょく帰ってこない。考えてみれば、結末の決まった物語を連続テレビドラマでやっていたのだからいい度胸だ。それはこの「A.I」も同じだが。
「岸壁の母」では、大和田獏と市原悦子の親子ドラマがメインなのだが、獏が出征してから、市原悦子が死ぬまでは後日談的に描かれる。市原悦子は「もしや、息子が帰ってくるのでは」と何年も思い続ける。
夜、暗闇の中で、ギシギシ音がする。悦子が行ってみると、獏が兵隊の姿で、天井のつかまれる部分(名称不明)にぶらさがってブラブラしている。子供の頃からの獏のクセだったらしい。
息子が帰ってきた。……と思うと、それは夢だった。
そんなのがずっと続く。

「A.I」はいちおうどんでん返し的なラストなのであらすじは書かないが、まあ似たような話だった。それはおれをしんみりさせる。

しかし、そんな話を何やらこむずかしいSF的ジャーゴンとスゴイSFXで語る。だからバカ映画。おれとしては「ミッション・トゥ・マーズ」にテイストが近い。バートンの「猿の惑星」はこの領域に達することができず、普通の映画にとどまった。しかし「A.I」はちょっと突き抜けた。

前述の某SFサイトでは、本作がオールディスの原作であるとか、キューブリックの企画であったことにえらくこだわっているようだが、スピルバーグがガキを主人公にして母子モノを撮るという段階で、含みのある話になると思う方がどうかしている。
ラストは「悪趣味なディズニー」であるかのような、考えようによっては実に気味の悪い結末なのだが(たとえるなら、大人がミッキーの帽子をかぶってはしゃいでいるような気味悪さ)、「フック」を見た後ならばそれも納得いくというものだ。

ちょっと真剣に考えるなら、映画における象徴性がまったくなく、すべてをベタッと描き出していることが問題なのだろう。「激突!」とか「ジョーズ」に見られた深みというものがまったくない。だがそのあたりは映画をいっぱい見ている評論家の人が語ればいい。私にはその資格はない。

もし、「すべてを描き出してしまう」ことが「ミッション・トゥ・マーズ」ともどもSFX映画のトレンド(カン違いという意味でだが)ならば、新たなる「バカ映画時代」に来たと言えるかもしれない。
昔は「出てくる造形がチャチい」ことがバカの第一条件でもあった。我々はそれを指さして笑っていられた。現在、出てくる造形はCGが駆使され、マジですごい。見ているうちはなんだか納得させられる。「猿の惑星」の、猿人間の「ホントに猿人間がいたらこんな感じだろうなァ」という猿っぷりにはすごいものがある。だが、映画館を出て、何時間かしてふと思う。「猿っぷりがスゴイからどうだっての!!」
何でものべたらに描いたものには、説得力がある。説明は行き届いているし、むずかしいことを考えることもない。見た目の快楽というものもある。しかしそこには想像力がまったく働かない。こちらの思考、解釈を強引に規定する。一直線の強力なパンチは、見切ってよけられたら威力ゼロですり抜けていく。
すり抜ける瞬間はヒヤッとするが、よけた後、観客はそのムリヤリぶりにつぶやくのだ。
「バカだ〜」って。

だから、本作は見終わった後、マクドナルドか「和民」あたりで、友人とダベって思い起こすことを勧める。すると、あらゆるシーンから「バカ要素」をくみ取ることができるだろう。近頃のSFX大作は、そんな見方が似合っている。

嗚呼、本当にそんな時代が到来してしまったのか。

9月5日(水)

CDウォークマンがブッ壊れてどうしようか悩んだが、結局買ってしまった……。

・宇宙犬。
「電気グルーヴのメロン牧場−−花嫁は死神」 電気グルーヴ(2001、ロッキング・オン)なんていう本が出てたのね。電気グルーヴの、ここ4、5年の雑誌でのトークをまとめたもの。
……でまあまだぜんぜん読んでなくて、途中までしか読んでいない本にはレビュー書かないことにしてるんだが(最後まで読んだらすごいどんでん返しがあるかもしれないし)、20ページくらいのところで「宇宙犬」についての話題が出てた。
「宇宙犬」ってのは、97年にメジャーデビューしたテクノユニット。詳しいことはわからんが、数年前からアマチュアとしては活動してたらしい。どう聞いても初期電気グルーヴの影響下にあるとしか思えない音で、3枚はアルバムを出している。
で、アマチュアでは電気の影響下にあるバンドは97年以前もいたと思われるが、当時メジャーでCDリリースしたのって宇宙犬くらいじゃなかったか。これに対する電気のコメントってのがすごく気になっていた。でも確かその頃はオールナイトニッポンも終わってたし、詳しいことはわからなかった。
で、本書を読んだら、そうとうウンザリしてる様子だった(笑)。

これを読んで、おれの考えはまとまった。「宇宙犬」を微妙にフォローしようと。 
ソー、ウィアー、宇宙犬!!
……というのは、今でこそ「電気世代」みたいのが育って、年齢的には5歳以上下の青年たちがその影響下に音をつくっている。YMOもそうだったけど、数年下に影響を受けたのが出てくると「フォロワー」とか言われるけど、同世代だと「パクリ」とか言われんだよね。だけど、強い影響力を持つものには、同時代的に影響を受けたモノが生まれるものなんだよ。97年以前ってたぶん今と機材とかも違ってて、バンドと違ってどうやって音をつくるのかもわからなかった時代だから、むしろよくこういうのがいたなーとか思う。おれの考えでは別にいいんですよ。いいんですよ、って他人事っぽく書いてるけど。……って他人事だけど。電気が客を奪われたことはないんじゃないの。

ひとつだけ不可解なのは、LOUDのインタビューかなんかで、宇宙犬本人たちが電気へのリスペクトをまったく表明していなかったこと。いくらなんでもそりゃないだろう。メンバーはDJもやってて、電気と同じ場に出る可能性もあるだろうに、スゴイ度胸だなと思ったことを覚えてる。江口寿史に対する初期末松正博のようなものだったのか。

9月4日(火)

・パラパラ2001
「e−cluber」という番組が日曜深夜、テレビ東京でやっている。小池栄子が毎回グラビアアイドルを呼んではどうでもイイ会話を繰り広げるというもので、その「どうでもいい状態の素晴らしさ」については再三書いてきた(だけどどうも理解されないんだよな〜)。

しかしこの番組、実はトークだけではない。エイベックスがスポンサーで、ビッグサイトで行われた「avex rave2001」というイベントレポートなどを報告する役割も担っている(しかもわざわざ小池栄子自身が出向いてレポートしていた)。

avex rave2001だかJULIANA'21だか知らんが、バブル華やかなりし頃にはそれが「トレンド」として位置づけられていたのだ。今では信じられんことだが。いちおう説明すると、女の子があられもない格好(ボディコンなど)を着て、フワフワしたうちわを持って「お立ち台」でクネクネ踊る。

その間に、顔を黒塗りにした女ども(男も)の間に「パラパラ」なる体操のような面妖な踊りが流行り、上記の「ジュリアナ踊り」(勝手に命名)と混交しているらしい。
このあたり、「e−cluber」を見返してみたら、現在ベルファーレで「PARAPARA」、「JULIANA'21」、「TRANCE」という個々のイベントが毎週行われていて、それが同じカテゴリに入れられているので、まあコミケとワンフェスとSF大会くらいの近さはあると考えてよかろう。

さて、何が言いたいかというと、10年経って、我々(ってだれだ?)ははじめてこうした踊りを客観的に見れるということだ。

実は「ジュリアナ東京」は、全盛期には今ほどとっぱずれたところにあるものではなかったらしい。……まあお立ち台でパンツ見せて踊らずとも、「ディスコで全員が同じ振り付けで踊る」ことはそう珍しいことではなかったらしいし、「パラパラ」に使われる楽曲も、細かい変化はわからないが普通のダンスミュージックとして消費されていたはずだからだ。
「コスプレダンパ」などにのみ名前を残す「ダンパ(ダンスパーティ)」という言葉が大学生の間で流通していたことを考えても、それらモロモロはそんなに遠いところにあるわけではなかった。
しかし、よくはわからんが(どうも門外漢なので「わからん」という断り書きが続く)たとえば現在「パラパラを踊る」ことは、「そういう遊び方」をする生活様式になる(ぶっちゃけた話、「ギャル」っぽくなるというか)ということで、10年前の「チャラい大学生=一般の大学生」という漠然とした存在とセットになることはないのではないか。「パラパラ踊ってるやつ」は「パラパラ踊ってるやつ」なんではないかと思う。
つまり「流行」からはずれて、何か独自のモノになっているのではないかと。

「オタク的な視点から、パラパラを『おしゃれなもの』と見なして憎み、批判する」というスタンスをごくたまにネットで見つけたりするが、それはおそらく見当違いだと指摘しておきたい。
一方で、テクノとかヒップホップなどのハードコアな側面からパラパラを「ダサいもの」として批判するのもどうかと思う。
なぜわざわざそんなことを書こうと思ったかというと、「パラパラはDDR(ダンスダンスレヴォリューション)のようなものにすぎない」という指摘を目にしたからだ。確かにそれは間違っていない(実際、後にパラパラのゲームマシンが登場した)。しかし、「全員が同じ動きをする」ダンスはパラパラに限ったことではない。たとえば盆踊り。
パラパラ=DDRならば、多くの踊りがそのカテゴリに入るだろう。

コレはよく指摘されることだが、「踊り」は演者と観客に分かれてから「だれでもが楽しく身体を動かす」という楽しみの多くを失ってしまったのであって、むしろ盆踊りとか阿波踊りとかの方が、昔っからの「踊り」に近いだろうと思う。
ここで気になるのは「昔はどのくらいデタラメに踊っていたか」だが、まあ何か型が決まっていた方が頭をカラッポにできるという部分もあるし、ちょっとした振り付けくらいはあっただろう。そういう意味では、「パラパラ」はむしろ伝統的な踊りだとすらと言えるかもしれない(振り付けにもあてぶりのような「意味」があるみたいだし)。
しかし、「演者と観客」という関係の名残はおそらく「ディスコ、クラブ」そのものに残っている。それがボディコン女が過剰に着飾る理由であり、それを下から男たちがかぶりつきで見る理由であり、ダンスそのものの腕を競う大会が行われたりする理由だ。ナンパの場(見る、見られる場)であることとも関係があるだろう。
同時に、DDRにおいても「演者と観客」という図式が顕在化している。

私自身はパラパラを踊りたくもないし(……っていうか、それイジメか? イジメなのか?)、フォローする義理はゼロだが、「おしゃれ」という観点からも「ダサい」という観点からも批判されることが多いので(正確に言えば現在「ダサい」という方向に傾きつつあると思うが)、ちょっと書いてみた。

パラパラ=DDRなのではなく、おそらくすべての踊り=DDRなのだ。

9月3日(月)

昼頃から雨。二日酔いが午後になってもなおらない。

8月27日の日記に、松山千春がモー娘。を批判、という記事についての意見を書いた。松山千春の発言の芸のなさに違和感を感じたからだが、この間の「明石家マンション物語」で、さんまに「モー娘。に文句を言え」と言われて極楽とんぼの太った方が困っている一幕があった。
極楽とんぼがモー娘。関連の仕事をしているかどうか忘れたのでナンだが、もし実際的な仕事上の付き合いがないのだとしたら、「稲垣メンバー騒動」に近いリアルな圧力が業界全体に加えられていると、視聴者が考えてもムリはないだろう。
だとしたら、上記の松山発言が記事になる、ということに少しだけ意味を感じる。タブー破りそのものに意味があったわけだ。

繰り返すけど、松山千春の「びっくり箱の歌」は本人はどう思ってるんですか?(笑)。

9月2日(日)

先月は毎日日記を書こうと心がけてとても疲れたので、今月は気分次第、思いついたときに何日かまとめてアップ、とかしたい。

東京流通センターでコミティア。毎度ながら、同人誌即売会は行くまでが大変だ。早起きして疲れる。
行ったら楽しい。いろんな人と、少しずつだったけど会えて楽しかった。「シスター・プリンセス」とかコメットさん☆の話とかしたけど。いや、やっぱり両方ともいろんな意味で注目だから。

思うところあって、今回はかなり意識的に同人誌を新規開拓して(自分としては)いっぱい買ったんだけど、途中から「これらの大半がハズレだったらどうしよう」という不安にさいなまれた。まあどうせ私はいつも不安感にさいなわれているんで。

小杉さん気楽院さんながたさん、てらかわさんたちと飲む。……っていうか飲み過ぎた。最近いつも飲み過ぎ。泣いた。あ、飲み会自体は楽しかったです。

本題はここから。

家に帰って、寝た。酔っぱらって寝るのは気持ちいい。夜中に目が覚めたが「まだ朝まで眠れる」と思って喜んでまた寝た。

夢を見た。

なんか家にいたら、「ピンポーン」っていうので玄関の窓を開けると、そこに顔が真っ黒で、ちょっとおかしい感じの男が立っている(現実には存在しない、まったく架空の男)。
なんでも、そいつはインターネット上で小説を公開していてそれに私が「面白い」とメールを出した。それが嬉しいのでお礼を言いに来た、という。
夢の中の私には確かにメールを出した記憶があった。ちょっと電波入ったような、独特の言葉遣いが面白かったのでメールしたのだ。

しかし、「家に来い」などとは一言も言ってないし、住所も公開してない。
そうしたら、「(私の)HPの日記で住所を特定して来た」という。
終始ニコニコしているが気持ち悪いヤツだな〜と思ったが、私は気が弱いので、笑顔で「そうですか〜わざわざどうも」などとお茶を濁した会話をしながらそいつを帰そうとする。
そいつは小説を読んだときに「コイツおかしいんじゃねえの」と私が想像していたとおりの人物だった。実際に会って相手をしていると、非常に疲れてくる。しかも、何日も風呂に入っていないのか、とても臭い(夢の中で臭いを感じるというのも、私にとってはめずらしいことだった)。

窓越しに話をしていると、やんわりと相手を帰そうとしている私とは裏腹に、相手は遠回しに「家に入れてくれ、入れてくれ」と言ってくる。そいつの身体が臭いこともあり、私の「ここは丁重にお引き取りいただこう」と言う思考は逆転した。
ついにキレてしまって「だいたい突然人んちにおしかけていいと思ってるのか! 帰れ!」とそいつを怒鳴りつけ、追い返して目が覚めた。

朝の気分は最悪だった。

9月1日(土)

新高円寺マーブルトロンで、SYSTEM OF ROMANCE。テクノポップとその周辺のイベント。いろんなレコードをかけたりとか。吉田等と行く。
jellyfish、女の子3人のユニットで、噂には聞いていたが形容しがたいチャーミングな感じ。ちょっとこの感覚は、こういうとこに来ないと味わえないですね。テレビなんかがそぎ落としていったものがある。また見たい。

個人的には「ピコった音が好き」というだけの私なので、テクノポップは昔はよく聞いてた。もうちょっとギターポップ寄りになるとたちまち聞かなくなっちゃうんだけど。ディーボとか、あまりにギターな感じなんでガッカリした記憶がある。ンで「いかにも」なピコピコ音に喜んでいたりする。
最近なぜか恒常的にカネがないんであまりCDが買えなくなったけど、またテクノポップ聞きたいですね。



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