1999年
4月30日(金)
「相手が何を考えているか気になって気になって病」になる。
その人に、まったく何気なく「家具売場どこですか」って聞いたときに、ビックリしたような顔をされると、ドキリとする。
ま、すぐに忘れるがね。
それと似たことがあったのは、ある古本屋に電話して「今日やってるか」「定休日いつか」と聞いたら、
あ、別に「血と薔薇」(でホントにいいの? 名前?)を持っているから悪いっていうんじゃなくって、
そう考えたら泣けてきたよ。
4月29日(木)
料金設定の変更を忘れており、ネット代がふくれあがっておお弱りだ。
ところで、グレート・チキン・パワーズのCD「ミックスジュース」って、いまあえて、逆に欲しいよネ。
4月26日(日)
ウダウダ日記など書いていたら、もう(マンガを描く、と言って)1カ月が経とうとしている。
まさに「ウダウダやってるヒマはねぇ!」である。
もう、気合い注入もモチベーションもへったくれもあったもんじゃない。
それにしても、吉野公佳とネプチューンの「顔のハッキリした人(名前わからん)」が交際宣言だと!?
まあもともと立場なかねーんだけどさ。
もう壊れた。
「ダメそうな大人が『ワルサーP38』を歌っている」((c)伊集院光のラジオ)しかないではないか。
4月25日(日)
空き時間を利用して、中野の「まんだらけ」に古本マンガを売りに行く。
それにしても、「箸にも棒にも」なレベルのとあるHマンガ(表紙買いしてハズレだったヤツ)が買い取り価格300円で、ほぼ新刊に近い某有名ギャグマンガ家の作品が150円とは、素朴に驚いた。
引き取ってもらえなかったモノは、もう家に置いておくスペースがないので、だれかが再利用してくれそうなところに捨てた(決してそこらへんに投げ出したわけじゃないよ)。
4月24日(土)
最近、ウチのタンスの上に、チンパンジーとオランウータンを足して二で割ったような動物が腰掛けており、私を嘲笑している。
……なんてな。幻覚をあたかも見たように書くのは難しいですな。
4月22日(木)
「舞妓さんは名探偵!」を見るのを忘れてしまった。
選挙カーが死ぬほどうるさい。あれを何とかする、という人は出てこないものか。
4月21日(水)
テキトーにネットをぶらぶらしていると、かなりトンガった文章に出会うことがある。
まあ「東京トンガリキッズ」(!!!!!!!!!!)な文章で、そうそう驚くことはないよほとんどの場合。ってーか、「八代亜紀は厚化粧」程度のコトをスゴイタブーだと思って言ってたりするの見てると、なんかいろいろ指導してあげたくなりますが、私の授業料は高いので、あえて沈黙させていただきます。
2月12日(水)のような気分。
今日は、気分的に「2月12日だな〜」という気分、
さて、諸君はわかっているだろうが、2月12日はクリスマス。国生さゆりも歌っていたネ。
今思ったけど、「クリスマス」ってのは飛躍しすぎなんじゃないかな。やっぱり読者は主人公に感情移入するわけだから、その「20年前の『ある事件』で崩壊した未来社会に、記憶を喪失したひとりの超能力少女があらわれる……」って設定いっぺんチャラにしてさ、
彼らをターゲットにしていまだにない作品、っていったらこりゃ「胸騒ぎの放課後」しかないと思うんだ。
あえて「SFはウケない」って藤子不二雄がトキワ荘時代に編集者に言われたこと、それを何言ってんだって。ええ。オレも宮仕えったって一片の矜持は持っていたいからね、ここはあえてSFでいこうって。
たとえば、デパートなどのインフォメーションコーナーに座っているおねーさんいるでしょ。
「そんなことも知らねーのか、この!」と思われていないかと考える。
かなりムッとした口調で「何曜日です」って言われたときかね。
行ってみたら、なんか根性の悪そうなオヤジだったよ。
どうせ「血と薔薇」だっけ? ああいう稀覯本を自慢げに持っているようなヤツだよ。
「そういうのを持っている、シュミにしているオレ」に陶酔しているようなさ、そんな根性の持ち主に決まってる。
これをなんとかすることはできなかったのか。
手塚治虫の「ゴブリン公爵」さえ……。
日記にウソ書いているヒマもない。
吉野公佳が出ていた映画「アンラッキーモンキー(いい映画でした)」までも見ていた私の立場は!!!!!?????
もう私に残された道は、
以前、「在庫がありますので……」と拒否された某マンガと某マンガもしつこく持っていく。
すると、半分くらいはひきとってくれた。「後は状態が悪いからダメ」ということであった。
そんなに激しく相場が変動するのか、鑑定人の個人差なのかは謎。
これを見るのを忘れることによって、私は何を得て何を失ったか、考えているうちにモヤ〜とした気分になったので、考えるのをヤメた。
発明王エジソンすら無力だったのか。
そして超人ニコラ・テスラも……。
トンガるのは大いに結構なんだが、私もトシとってきたので、本当の意味で「こりゃトンガってる」って文章、あんまないのね。
「トンガってるなあ」と思う文章は、ほとんどすべて、深い思慮と高い文章力によって支えられている。具体的に言えば、私がリンクさせていただいているところとかね。うん。
それ以外のものでは、書いてる人間がトンガってるつもりでも、けっこうベタなのとか多いんだよね。
この「多い」ってのが、全世界のすべてのサイト全体でどういうことになってんのかは知らないけどさ。
少し前の少女マンガのタイトル風に言えば「2月12日な気分」(同時収録:クレープ屋さんにご用心!?)ということなワケだ。
関係ないけど「クニナマさゆり」なんて読んでひとりでくすくす笑っているあなた。イルカ似の奥さんがにらんでますよ!(しかも動物の方のイルカ)。
あ、この「チャラ」ってのは歌手のチャラじゃないよ。そうそう。旦那さんの浅野忠信、タダノブ? のことよ。
つまりその、白紙に戻して、いまさ、統計的に、電通的に言えば昭和42年前後の人数が消費者としてはいちばん多いわけよ。
だから、「胸騒ぎの放課後」をひかる一平原作で描いてもらいたいわけなんだ。
こうしよう。妥協案……っていうと語弊があるけど、舞台設定は現在のままでいいから、内容はラブコメにしてほしいわけ。
ウチとしては「BOYS BE...」をすごい意識しているから、あれを越えなきゃダメだって意識があるからね。
だから、キミには少なくとも「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」は見ていてほしいんだね。
他のは見なくていいから。おれもみてないもん、時間ないから。
いやあ、「熟女に酒飲ませてべろんべろんにする」ってだけのインディーズAVにハマっちゃってて、それと「ワンダフル」見てたら自分の時間なくなっちゃうじゃん。
それにしても「自分の時間」ってなんだろうねえ。「他人の時間」とかさ。「時間ですよ」とか「ご飯デスヨ」とか。あ、その辺のこともさ、ちゃっちゃっと入れといてよ。
んじゃ最後に、
(テレビドラマ「舞妓さんは名探偵!」より。)
4月20日(火)
今日は、私がむかしむか〜しに働いていた職場の話をしましょう。
さて、以前いろいろなところに取材に行ってはヒトの話を聞き、写真を撮ってそれを記事にする、ということをやっていた時期があった。
いるのはかまわんが、私の上司は彼の写真を見るたび毎回まいかい
「ヘタだなあ」
と言っていたのだ。だったら雇うなよ!
4月19日(月)
月に1、2度訪れる「すべてがどうでもいい病」にかかってしまう。どのくらいどうでもいいかというと、なんか意味なく「HEY HEY HEY!」とか録画していたことに翌日気づく始末。
さらに、伊集院光のラジオをタイマー録音し、その音で目覚めると同時にマンガを描き始めるという計画だったのを、寝ぼけたオレ様は「はじまると同時にスイッチを切る」という暴挙に出てしまったため、夜中に起きれず伊集院は聞けずと言う八方ふさがりの自体におちいった。
電気グルーヴからまりんは脱退するし。さんざんな1日。
4月18日(日)
わりと早起きしてマンガの下描きなどするが、途中からなんだかモチベーション大下落。
4月16日(金)
ビデオに録画しておいた映画「恐怖の洞窟」を見る。
ラリー・ブキャナンとかいう人が監督している。
お話は、その怪物メインになるかと思いきや、「さいこな男」の妻だと思われていたおばちゃんが、実は彼につかまった最初の女であり、「いかにして捕まったか」という「男のさいこっぷり」が回想形式で延々と語られるという、「ものすごくつまらないわけではないんだがどうも目が離せない」イヤ〜な展開となる。
つまり「怪物より恐ろしいのは人間だった」ということが言いたかったのだろうが、まあとにかくそのテーマを描くことはできた、って感じである。
4月15日(木)
吉田等と「たの午後」の打ち合わせ。なんとか台割りまでは決める。
4月13日(火)
思えばですね、この日記を読むヒトは(まずいるのか?)どういうサイクルで読んでいるのか。
4月12日(月)
「仁義の墓場」(監督:深作欣二)を見る。
TSUTAYAの貸し出し期限が、「期限日の翌日の開店まで」だと初めて知る。
アニメ「空手バカ一代」は、小さい頃欠かさず見ていたが再見するとやはり「いいなあ」と思う。
それと、新聞記者の「なぜ牛と戦うのですか?」という問いに飛鳥拳は、
「それは人間を相手には追求できないテーマですなあ」
と答える。
すげえぜ飛鳥拳。
4月11日(日)
WAIスタメンバー・吉田等と、次回のコミティアへ向けて雑誌「楽しい午後の過ごし方」の打ち合わせ。
しかも覚えているのが「松田純の歌の妙なうまさは宝の持ち腐れだ」
4月10日(土)
「実録外伝・大阪電撃作戦」(監督:中島貞夫)を見る。
午後3時頃、気分が悪くなってきた(季節の変わり目にはたいていこういうことが起きる。身体弱い私)。
けっきょく吉田はいなかった。
4月9日(金)
説明が難しいが、
中のCDケースが割れてしまったのだ!!
なんということだ……。
……ていうか、書かなきゃよかったこんなこと。
4月8日(木)
「NEOちゃっきり娘」、「NEOかしまし娘」が
なんてな。どうでもいいことですな。
4月6日(水)
4月1日の続き。
>>ときに仕事上の関係を越えた人間性を備えると言われ、一見非合理でありながら、
別にわざわざこんなこと書く必要もないんだけど、「あまりにもダメダメだ」と言われ続けてきて、なんだか悲しくなってしまったのだ。
「クイズ的知」ということに関して言えば、どっかで言われたのがバンド「たま」の歌詞の中で歌われた「二酸化炭素」、「オゾン」などの理科用語が、「たま」側の意図に関わらず受け手にとっては「学校で習った聞き覚えのある言葉」として受容されてった、みたいなこと。
……ということで、「知育」ということで言えば小中くらいまではそんなにダメでもなかった、と思いました、ってなことですかね。
……つーても、どこぞのカルトのような「迷惑な知識の組み方」をしちゃうヤツも出てくるわけで、その辺ちょっと公教育はどうなってるのよ、ということを考えざるをえなくなるのであるが、その「キッチリした部分」ってのはまた後日考えたい。
ま、以上の文章は私がこと「知識」については、「毎日ご飯が食べれて嬉しい」的な原初的な喜びに浸っている、と考えていただければ。
なんでこんなこと書いたんだろね。秋だから、ノスタルジックなのかな。あ、また嘘を……。
4月5日(日)
昨日、録画しておいた土曜ワイド「おとり捜査官・北見志穂」を見る。
モチベーションが低下した(^_^)。
イヤ、松下由樹はキライではないし、蟹江敬三も出ていたのだが、偶然なのかこの原作者にはこのパターンしかないのか、小ネタがとても似ているのだ。
4月3日(火)
渋谷で偶然、「王様のブランチ」のロケをしていたはしのえみと阿部美穂子を見た。
超ラッキー!
いま流行りの言葉で言えば、
ま、吉祥寺で毎週ラジオの公開録音をしているというので、どうしても見に行きたければ見れないことはないのだが、この「偶然」ってのがいいのよ。
4月2日
ピカチュウ事件からこっち、「著作権問題」、あるいは「パロディとは何か」について、頭を悩ませることが多くなった。
私はいわゆるジャンルパロディが好きで、そういうものばかり趣味で描いてきた。「コミケ」的なアニパロ本も買うことはあるけれど、それはいろいろ買う本の中でのワン・オブ・ゼムでしかなかった。
しかし、日常かんたんに言い放っても問題はないレベルの「オリジナル」マンガを描いているぶんにはいいが、「マンガについて」、「創作について」考えるとき、自分が描かないからといって知識がないでは、新田的価値基準では済まされないのだ。
修行は続く。
ここからはさらに別の話。いつも言葉の定義で混乱するのだが、いわゆる「アニパロ」が既存の「パロディ」とはだいぶ性質を異にしていることが混乱のもとになっているとは思う。
4月1日(月)
人生についてまったくやる気がなくなり、
そもそも、インターネットの「作法」「あり方」というものがよくわからず、脅迫的に大量に文章を書かねば気が済まないのだ。
……と思いつつも、また書いてみる。
沖田浩之が自殺してしまった。ご冥福をお祈りします。
……そんでこの話は終わり。以下はそこから連想される、私の妄想だ。
私は「職人の熟練のワザ」に非常に憧れる。これは文字通りの職人ではなくても、スポーツ選手、歌手、そして俳優でもそうだ。
うん。ここまでは実に正論だ。
だから、以下は私のタワゴトです。
ときに仕事上の関係を越えた人間性を備えると言われ、一見非合理でありながら、才能のあるモノを選別する有効なシステムであるとも言われる「師匠/弟子」関係に比べて、横並びで、だれもが同じように知識を得ることができる「学校」は、そんなにヘナチョコでダメダメなものだったのだろうか? というのが私の連想だ。人の死からかなり関係ない連想をして、スマン。
千代大海の「元ツッパリが大関に」という物語。または、「学校でのおちこぼれが一人前の職業人になる」というストーリーはよくある。
どっかのレストランでは、新入りのコック(シェフ? 何て言うの?)は客の食べ残しのソースをなめて研究するという。つまり教えてもらえないらしいのだ。俗に「教えてもらうんじゃない、盗むんだ」って言うしね。どの程度のレベルかは知らないが。
対して「学校」はすべてが開かれている。先生は生徒の質問に答えてくれる。教科書はみな同じものを使う。図書館はあって、本もタダで読める。
繰り返すが半可通で申し訳ない、こうしたシステムが結果的に国民の学力の「底辺の底上げ」のためだったとしても、得たい知識がそこにあるということ、それはそんなにダメダメなことだったのだろうか?
人間関係でも同様だ。中学、高校のオタメゴカシ的な平等主義はときには揶揄されるけれども、だからどうしたというのか? そうではない、複雑で立体的な、ときには差別され、差別し、しかし根底には信頼感があり、あるいは信頼感がないときですら一人の人間が腐りきらない何らかのシステムがある社会、そのような社会が過去にあったとしても、それは消滅はしないにしても激減してしまったのだし、それを正確に復活できる人間など、そんなに多くはないはずだ。
私はガキみたいなことを言っているだろうか?
少し前に流行った「小さいことにくよくよするな!」という本がある。好奇心でペラペラとめくってみた。ところが面白いことに、中には「小さいことに気を配った方がいいですよ」という意味のことも書いてあるのだ。
そのような矛盾に行き当たったときに、はじめて「言葉」の出番になると私は考えている。しかし、その場その場で「くよくよするな」「もう少し気を付けた方がいいんじゃない?」なんて言い方はそこらのOLでもできる。当然、言葉がすべてを表現しなくてもいい。念のために書いておくが、これらの矛盾を解消するような体系だった知の復権を、というつもりもない。ただ、ときには師匠/弟子の関係ってたいせつだよね、ときには学校があるってありがたいことだよね、とその場その場で言っているだけでは、オムレツもうまいがカツライスもうまいと言っているだけだと、私は思う。オムレツとカツライスを結びつけるひとまずの言葉があるはずだし、ないにしても、言語化されない「何か」に人間は頼って生きている、ということくらいは言えると思う。そうでなければ、「理屈と膏薬はどこにでもつく」ということになってしまうではないか。
「理屈と膏薬はどこにでもつく」、けっこう。しかし、そうやってクールにうそぶく者ほど、実は本当のとっておきカードは隠していることが多い。そのカードとは、自尊心であり、才能であり、度胸であり、機転であり、財力である。世のふぬけ人間たちよ、甘言にまどわされず、言葉の可能性と限界に思いをはせつつ、実直に生きていってほしい。
ここがいちばん下です
万が一ココを覗いている元職場の人のために書いておくと、私は「太陽にほえろ!」の「都会の荒波にもまれて犯罪に手を染めてしまった」青年のごとく「職を転々としている」ので(この「職を転々としている」って表現、「太陽にほえろ!」でやたら出てくんですよね)、あなたさまの職場のことではないと思いますわよ。オホホ。
雑誌にしてたった1ページ、上半分は全部写真。文字は600字くらいだったかな。
このときに、なんとこのたった1ページの部分にカメラマンとフリーライターをやとっていたのだ。貧乏部署が。信じられん。
しかも、フリーライターは「てにをは」も満足に書けず、同僚一同「こりゃなんとかならねえか」と言っていた。その後不景気になり、そのヒトは雇われなくなった。
しかし、カメラマンの方は私が担当した年の最後まで、いた。
でもそのカメラマンが上司の友達だったからってだけで雇ってたことを、私は忘れねーよ。
「抑鬱状態」などと安易にはいいたくないけれど、本当にそうなんだから仕方がない。
理由もなんかささいなことだった。ひみつ。
道に迷ったカップルが、怪物(なんか古代の爬虫類という設定だったが)を飼っている「さいこな男」(ちょっとイッちゃってる男)につかまり、監禁される。
いつ怪物が出るかと思ったら、潜水服を着た人間の目玉の部分にピンポン玉を着けたような「ちょっとどうか」と思うくらいちゃちいシロモノで、こんなの見せられると円谷プロって本当に偉大だったんだなあ、と思う。
ボクはもういいけど。
だいぶ私自身のマンガが多くなりそうである。……というか、じょじょにそうしていきたい。なんか文字ネタにはもう限界を感じてきた。
新田の文字ネタについて思うところのある人、ご意見ください。
ちなみに、私がヒトのHPの日記を読む場合は4、5日まとめてテキストかHTMLソースとしておとしてから読みます。
1日ずつの更新だとまとまった分量がないと読みにくいし、逆にあまりにも量が多すぎても読みにくい。
……というわけで、この日記はヒマなときは毎日とか更新してましたが、今後だいたい3、4日から1週間単位での更新になると思います。
アニメビデオ「空手バカ一代」第3巻を見る。
気合い注入。
ビデオ第3巻では、有名な「牛との闘い」が描かれる。
原作マンガでは「動物として強い牛」というキャラクターにすぎない(すいません、記憶です)が、アニメでは「雷電号」というひとつの個性を持ったキャラクターになっている。
そして、「雷電号」と飛鳥拳(主人公)との心の交流が描かれるのだ。すなわち「自分と戦う牛は『雷電号』しかいない」と。
「空手を地上最強の格闘技だと証明するためです」と答える。すると記者は、
すげえ。つまり、「地上最強の証明」とは命のとりあいでなされなければならぬのだ。
……のつもりが、3時間くらいえんえんとムダ話をすることに。
「なぜ女性歌手は最近R&Bばかりなのか」ということばかり話しては
同意しあうという、
「打ち合わせと称してのムダ話。しかしそのムダがけっきょくは雑誌づくりに
活かされている」的な内容ではない、本当にタダのムダ話をしてしまった。
やはりこの頃の松方弘樹はイイ、渡瀬恒彦もイイ。
「成り上がりたいチンピラ」みたいな役が本当に似合っている。
仕事が終わったらソッコー帰って寝る。
しかし、吉田等に同人誌の打ち合わせで電話をかけなければイケナイので、ムリに午後10時半頃起きた。
いちばんつかまるのが日曜の昼なのだが、こっちは仕事中でおちついて話が
できないからイヤなんだが。
透明のケースに入ったアルバムCDを持っている。
つまり二重にケースに入っているわけ。
CDを最初のケースから出し、さらにケースから出して、なんつーの?
中の歌詞カードを出し、また戻し、ケースに入れた。
何かケースに閉まりにくいなー??? と思ったがムリヤリ入れてみて、
おかしいからやっぱりまた出した。
そしたら、歌詞カードがCDケースの中にうまくはまっておらず、
したがってCDのフタがうまく閉まらないまま
外側のケースに入れた結果となってしまったため、
こんなに簡単にCDケースとは割れてしまうものなのか!?
自分はこのまま生きていけるのか。
面白おかしく書いているように見えるかも
しれないが、かなり追い込まれている。
ダウンタウン松本のネーミングらしいと聞き、モチベーションが低下する。
だれか嘘だと言ってくれ……。
松本コンチータの方がまだセンスあったぞ。
いやあれだ、きっと「松本がネーミング」って触れ込みに過ぎないんだよ。電博の陰謀なんだよきっと。
>>才能のあるモノを選別する有効なシステムであるとも言われる「師匠/弟子」関係
>>に比べて、横並びで、だれもが同じように知識を得ることが
>>できる「学校」は、そんなにヘナチョコでダメダメなものだったのだろう
>>か? というのが私の連想だ。
うん、悲しいよ。
クソマジメなことを書けば、そりゃ「学校で学ぶこと」はそれが必要か、有用か常に論議されて当然。しかし、私が経験した15、6年前の小中高の学校ですら、こと「知識の享受」ということに関して言えばそれほどヘナヘナだとも実は思えない。
たとえば「クイズ的知識だけの詰め込みがよくない。もっと活きた教育を!」というオトナたちの提言がある。ひとつひとつの知識が有機的に結びついていっていない、というのだ。
現在私は当然学校へ行く機会は皆無なので知らん。しかし、たとえばそうした提言に対し、「むかしはガキ大将がいて、年齢差のある子供たちが野山をかけまわって遊ぶことによって経験を積み……」的な話は、それ自体正論であり、そっちの方が子供たちにいいんだろうとは思うが、今そんな話したってしょうがない。
私の感じたことで言えば少年ジャンプの投稿コーナー「ジャンプ放送局」の「NG大賞」(投稿の中でもカテゴライズ不能の作品が載っていた)の中で、教科書に出ていた偉人(織田信長など)を忠実に(といっても子供が描くからちょっとヘタ)描いて、「こんばんは ○○です」とセリフを吐かせるやつがあった。まったく意味がない。当然、この歴史的偉人が何をなしたか、それ自体を言いたいのでもなんでもない。
さて、「たま」の歌詞へのコメントに関してはいくらなんでもうがちすぎ(もしかしてジョークだったかもしれない)。「たま」の歌詞の理科用語はたぶん「宮沢賢治」的なイメージからなのだろうし、そうした学術用語でもファンタジックな印象を与え得るのは、数多のSF作品から明らかだ。
後者の「NG大賞」については、書いている子供たちは偉人が何をしたかくらいは知っている。だが彼らが興味があるのは、織田信長の絵のチョビヒゲであり、西郷隆盛のマユ毛なのであって、それ自体は有機的もヘッタクレもないものだと私は考える。
つまり、子供にとって「織田信長」とはどうひねってもその程度のものでしかないし、授業中にいたずら書きしてみたら面白い顔になった、という事実こそが森鴎外のリアリティなのであって、どんなに理想的な教育をしたとしても、それは変わらないだろう。
まあほんとのところを言えば、こと歴史教育なんて、すべてを理解してほしいのが教育者側の気持ちかもしれない。そしてまた、新田的な感覚から言えばそうであったうえでの「偉人の顔に落書き」であってもほしいと思うが、ヒトのこと言えた義理じゃねーし。
そして、それは逆に言えば「手を伸ばせば(クイズ的であろうと)知識がある」ということで、それらを有機的に結びつけるのは受け取る側の自由なんだから、そんなに捨てたモノでもないのでは……と思ったりする。
原作がSF作家の山田正紀だったからだ(原作名は確か「女囮捜査官」)。主演は松下由樹。
山田正紀はミステリもちょこちょこ書いており、
1冊読んだ「ブラックスワン」がまあまあだったので見てみようと思ったのだが、……
初めて見たが、シリーズとしては松下由樹がおとり捜査のためにコスプレするのがクライマックスなのだろうか?
だとしたらちょっとナイス?(笑)
……なんだかどう計算しても小遣いが1万円足りない。
もう倹約も計算ヤメヤメ、アホらしくなってきた。テレビ東京で深夜ときどきやるヘラクレスの映画見て、ふとんかぶって寝てやる。
マンモスラッキー!
すごい人だかりができていて、見物人は口々に「かわいー」、「ちいさーい」と言っていた。
そう、はしのえみって実際見るとかなり小さいんだよね。
こと法律問題に対する無知ぶりについては、何をやっていたんだろうと自分自身を思う。
つまり、著作権および法律について考える契機がなかったことが無知の原因なのだが、実にうかつだったと思っている。
私の考える「ジャンルパロディ」とは、「著作権」をまったく問題にしない手法だったからだ(厳密には違うかもしれないが、一般的にはそう思われている)。
これは描き手のメンタリティの違いでもあるということで、十把一絡げなまとめ方はどんなジャンルを描く人にとっても失礼にあたってしまうが、うう〜ん口幅ったい言い方だが考えさせられる問題ではある。……というか、そこを考えなければ、法律論はともかく創作論は語れないと思うのだった。
ただぼおっとしていた。
だがこんなに長々と雑多な文章を書いて、読む人がいるんだろうか? そして何かを感じる人がいるのであろうか?
そして、その師匠筋にあたる津川雅彦も無念であっただろう。
津川雅彦は、彼の自殺にあたって「失望した」と言ったそうだ。まあ手塩にかけて育ててきた(らしい)から実際そうには違いあるまい。
日本社会は近代化にあたって、都合のいいときには「職人」を持ち上げ、都合の悪いときには「時代遅れ」としてきた。違うかもしれないが、この「日記」は独自のガイドラインをもって半可通なことを書くページだから、よしとしていただきたい。
間違っていたら素直に訂正します。
そして狭義の「職人」とは、「師匠/弟子」という教育システムで成り立っていると思う。
師匠である津川雅彦は、残念ながら亡くなった弟子の沖田浩之に対して失望してしまった。
私は彼の教育の仕方がどうだったかは知らない。
しかし、基本的に師匠/弟子の関係は、師匠が白と言ったら白、黒と言ったら黒。是々非々でとらえられないのが常だ。
サラリーマン社会では「グチ」、「本当はおかしい」という文脈で語られる理不尽も、「師匠/弟子」の関係では不問にされる、ように部外者の私は感じている。
ジャッキー・チェンの映画の修行シーンを見るだけでも、まあこんなもんなんだろうな、とは思う。
だから師匠/弟子の関係では弟子は服従しなければならないし、また辛抱できなければ大成しないのだろう。
そしてまた、「学校」は違う年齢の者との接触を奪い、徒競走にまで順位をつけない(こりゃ都市伝説か?)悪平等を生み、受験戦争を生み、うまくすりぬけられれば僥倖だけれども、そうでなければエライこと、ってなところにまで批判されつくしているように思うのは私だけか? 「学級崩壊がどうの」って話もあることだし。
言葉で当時を再現することですら。
当たり前だが、要はTPOだということである。
「小さいことにくよくよしない」「小さなことに気を配る」ことは、ふつうの人間なら自然にやっていることだ。だがTPOや加減がわからないとき、人は悩む。ここが案外重要なのだ。
1999年5月の日記
1999年3月の日記その2
緊急企画! 趣味のマンガ執筆日記4、5月
1999年日記トップに戻る
トップに戻る