「つれづれなるマンガ感想文2000」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文」11月前半
「つれづれなるマンガ感想文」12月前半
一気に下まで行きたい
私にとってこの雑誌は、すでに「ぷるるんゼミナール」と「オッパイファンド」の「バカオッパイマンガ対決」の場となっている。「おさなづま」も「軍鶏」も「キラリが捕るッ」も面白い作品だとは思うが、やはり個人的には「バカオッパイマンガ対決」の場となっているのだ。
・「ぷるるんゼミナール」 ながしま超介
前号からの続き。「ミスコン反対のために、ミスコンに出て、その場で反対を表明してくれ」と頼まれた深瀬菜々美。「ミスコン反対」の垂れ幕を胸の谷間に挟んで隠しておき、それを舞台上で見せてくれと言われる。それを事前に察知した(「察知した」って、そんな話をみんな外でしてるんだよ……それを立ち聞きした)ミスコン実行委員会は、菜々美に胸から垂れ幕を出させないよう策を練る。
しかしここで重要なのは、そのような妨害工作にも関わらず、菜々美は結局垂れ幕を胸に隠していなかったということである。
まあよく読めば、どうやら菜々美はミスコン反対に反対だったらしいことはわかるのだが、
「たかがミスコン……もっと余裕を持った方がいいのではないでしょうか……」
「こんな風に楽しみましょ▼(←ハートマークの代用)」
などと言ってセックスしていい理由にはなら~ん!!(ホメ言葉)
ラストのオチも今までの展開をすべて無にするモノで、「ミステリとは自壊する装置である」とかなんとか言ったのは笠井潔だと思ったが、本作は構造的に「開けても開けても中身がない」、「オチまで読んだら冒頭の設定が無意味になる」という点でなまじのミステリよりミステリアスと言えるであろう。
・「オッパイファンド」 山本よし文
「オマ○コ」のファンド立ち上げに際し、「いいオマ○コ」の持ち主を探し出すことができなかった本郷タケシは、一文字ハヤトに失望される。一文字は、自分が企画を出した「オマ○コ」のファンドにスタッフとともに異動、本郷は一人でオッパイファンドを任される。
んでまあ、またオッパイのデカい女の子が出てきてその子とエッチなことしたりするだけのマンガなんだが、この子が「太っている」という設定なんだけど絵で見てもぜんぜん太って見えないところがスゴイというか、作品世界における無意味宇宙生成に拍車をかけている。
(00.1130、滑川)
なんと今月号で休刊だ~。3カ月くらい前から買い始めた矢先だったのだが……。
ちなみに「サカマチ夢譚」(法田恵)、「コットンプレイ」(矢野健太郎)、「ティッシュ。」(坂辺周一)は「リイドコミック」に移動して継続(他の作品で継続告知見落としてたらゴメン)。「サカマチ……」と「コットン……」は個人的に好きな作品だし、サイコスリラーである「ティッシュ。」はむしろリイドコミック向けかもしれない。ギャグマンガ「くまボン」(立沢直也)がなくなっちゃうのがかなり残念だなあ……。
「いただきます!」 八月薫は、なんと新連載の次の号(つまり今月号)が最終回ということになってしまった。
・「コットンプレイ」 矢野健太郎
事故にあって瀕死状態の琴美は、松田にだけ見える全裸の霊体となってしまった。松田の後輩・下田辺は琴美にベタ惚れ、松田の会社の先輩梅近麗美は松田に惚れ、幽霊の琴美を締め出さんと下田辺と組んで悪だくみ中。
下田辺の開発した琴美ソックリのダッチワイフ(1分の1ドール?)コットン03が再登場。う~んしかしこういう登場の仕方は意外だった……。ちゃんと目でホンモノと識別できるところがカワイイですな。
(00.1130、滑川)
漫画サンデー連載。山奥の温泉宿・椿屋に従業員として就職した、わけあり中年男・源さん。彼はかつて凄腕の殺し屋だったが、引退して温泉宿で余生を送ろうとしているのだ。そのことを周囲の従業員は、知らない。
すでに単行本5巻をかぞえる本作、あいかわらず何も起こらない。起こってしまっては源さんの生活は崩壊してしまう。前の巻にも出てきた元ストリッパー、松茸を売って生計を立てている、山奥に住むまったく口をきかない謎の男・松三などが再登場するが、だからといって何も事件は起きない。忙しいが平静な日常があるだけだ。
「その3 春よ来い」は究極的に何も起きない回。二軍と一軍をいったりきたりのプロ野球選手・南方(みなかた)が夫婦でやってくる。今年こそは一軍に定着しようという気持ちで。
ここで彼に悩みとか一軍にあがれない弱点があり、それを源さんが見抜いて直してやる、なんて話ならまだわかる(実際似たようなエピソードもあった)。ところが源さんは何もしない。ただ南方の生きざまを黙って想像するだけ。南方も温泉に入るだけ。
こういうのがイイのである。不思議なマンガだ。
(00.1128、滑川)
10月下旬に出たのに、なんだかんだあって1カ月近く放置してしまった新創刊の雑誌。「少女マンガは読みにくい」という固定観念が私にあるからだ。ごめん。
執筆陣:おがきちか、川原由美子、犬上すくね、逆柱いみり、篠原鳥童、芳崎せいむ、有元美保、佐々木久美子、今市子、波津彬子、伊藤潤二、小石川ふに、大沢美月、黒田硫黄。
私が知っている作家、読んだことのある作家は2、3人しかいない。だから以下、かなり見切り発車で自分のマンガの知識を試して感想を書きます。間違っていたら指摘お願い。だってさ、試合のときに、女にふられたとか、腹が痛いとか、そんな言い訳が通用しますか? だからあえて書いてみる。
「こだわり少女のコミック誌」と書いてあるが、おそらく現役少女で本誌を読むのはトンガっているとは言わないがかなり広義のサブカル好きっコ。それは本誌がサブカルチックであることをまったく意味しないのだが、まあそういう時代なんだと思いねえ。
そして、真の読者対象は、たぶん元少女か、少女マンガ、もしくは少女マンガ的なマンガ(ラブラブコメコメではない、女性の手になるマンガを便宜上そう呼べば)を読み続けてきた少年か青年か中年であろう。
そもそも、マンガの創造性とか先進性に敏感だった男性読者は少女マンガを読んだものだった。それがいつ頃からのことかは私の勉強不足で忘れてしまったが、たぶん「24年組」を男たちが「発見」した頃から。
その後も、創造性・先進性、まあ「文学性」と言ってもイイと思うが、そういう部分に敏感な読者は女性作家に注目し続けてきた。本書はその延長線上にある誌面構成がなされている。
予想だが、たぶん「男の子も読者対象とした少女マンガ誌」は過去にいくらもあっただろうし現在もあるだろうと思うけれど、本誌が創刊されるということは「少女マンガが先進的だった時代」が今でも続いていることを思わせ、個人的には興味深い。
ふだん少年マンガや青年マンガばかり読んでいると、本誌のような「こだわり少女のコミック誌」を読んでいていちばん目新しく感じるのは、実際のセリフと独白の混在だ。いきなり具体的な話だが。
少女マンガ的な手法を取り入れた少年マンガは少なくないが、この「セリフと独白の混在」は非常に「少女マンガ的」な手法だと思う。逆に劇画の魅力を「独白のなさ」とする場合もあるくらいなのだから、その独自性は今さらながらすごい。まあ本誌の作品がすべてその手法を取り入れているわけではないんですけどね。でも「セリフと独白」の威力をヒシヒシと感じるわけですよ。たとえば「天使のしっぽ」(篠原鳥童)、「金魚屋古書店出納帳」(芳崎せいむ)、「夜と星のむこう」(今市子)などにはとても感じる。
まあ私の世代というか年齢もあるのだろうが、とくに「金魚屋古書店出納帳」(芳崎せいむ)には参った(以下ネタバレアリです)。
父の遺した「サイボーグ009」のマンガにハマって島村ジョーに恋してしまった少女。
009のムックを古本屋で探してみたり。いろいろするけれど、リアルタイムで島村ジョーを感じられなかったことを不幸だと思っている。すると同じ009ファンの男の子が言う。
「オレにはこれからが009の時代だ/科学が変わって/世界が変わって/オレ達が過ごす時代のほうがきっとどんどん『009』の時代に近くなってく」(中略)
ワタシたちは/これから/「009」の時代を生きる/ドキドキしながら
泣けますね。泣けるでしょ?(押しつけ)
それと「セリフと独白」ということに関係はないんだが、「年の離れた男」(黒田硫黄)はわずか8ページでうますぎる、って感じ。学園祭をひかえた女子高生が10歳以上も年の離れた2人の兄との関係を友達になんとなく話すというだけの話なのだが、ほんっとうにうまい。年の離れたきょうだいってのはホントにこういうもんだよ。そこはかとなく。うまいなあ……。
あとおがきちかの「先生のラブ時計」の先生は本当にイイ先生。「いい兄貴的存在」。あ、小説の先生で、女性だけど。ノリっていうのはマネもできないし言語化もむずかしいのだよねえ。役者の「色」とか存在感について考えるのに近いか。なんてことない話なのに、いいんだよなあコレが。
次号は1月下旬発売。
(00.1127、滑川)
先月はじめて買って、連載ものにイキナリ感想をつけるのもナンだと思って静観。
今月は新連載が何本か始まったので、感想を書きやすい。
「書きやすい」どころか、わたし的にすげーエキサイティングな雑誌でした。
・「結びの杜」 森見明日
精霊などの「何か」が見える美少女巫女の結衣が、父親の除霊を手伝ったりする話らしい。「ほっといても危険はない」木に宿ったある種の思念に対し、「『ほっとかなければ危険』なら意味がない」と言う父。「こっち側の都合を通すのが私たちの仕事」という父に「自分が『見える』から交渉させるために除霊の仕事を手伝わせているんだろうと怒る結衣。
こうした「除霊」とか「妖怪退治(退治というより「祓う」か)」モノって流行っているのかな? アフタヌーンシーズン増刊の「蟲師」(漆原友紀)や「もっけ」(熊倉隆敏)もそういう話だし、「ディスコミニュケーション精霊編」もそういう話ですよね。
菊地秀行的なヴァイオンレス伝奇アクションではなく、あくまでも天地の理をふまえたうえで、人間はふだん「見えないもの」にほんの少し干渉できるだけだという思想。「戦い」というよりは「交渉」。
本作は絵はきれいでカワイイし、読みやすいし、お話も読ませるのでケナすというか難癖をつける気はないんだけど、やはり作者独自の「人間の目にみえないもの」に対する独自の思想が出ていないと、私としては点が辛くなるんですわ。
おそらく本作も私が読んでいないだけで何か独自の「思想」を持っているのかもしれないけれど、諸星大二郎や荒俣宏や京極夏彦が読者側の「基礎教養」みたいになってしまっている昨今、何か独自の打ち出しがほしいと思う。
「ディスコミ」での合体ロボットオモチャを小道具に使ったり、というのにはやはり感心させられたしね。
「独自の思想が欲しい」というのは、格闘技マンガにも通じることですけどね。
・「純粋!デート倶楽部」 石田敦子
今月から新連載。
「ナンパではなく」「合コンでもなく」「身体の関係はない もちろん手もつなげない……」「ただ一緒にいてドキドキときめく……」「そんなデートを提供します!」……という「純粋デート倶楽部(JDC)」に勧誘された掛井朱音(あかね)。依頼によりカワイイ女の子が理想のデートをシミュレートしてくれるビジネスなんだけど、「ときめき」を知らない女の子には勤めさせられない。「皆『ときめきの病』を持っている」……そんな思想を持つ社長・谷崎紫乃によってこのデート倶楽部は運営されている。
朱音の初仕事は、「中学校が一緒だった女の子と大学で再会云々」と設定された初デートを勤めること。まあその後の展開はある意味予想どおりなんだが、う~ん、私、このマンガ、すごく気に入った。もしかして、今後は他のJDCメンバーの恋愛を順繰りに描くだけかもしれない、案外あたりまえな話になってしまうかもしれないんだけど、とりあえず今回の「ときめきを演出する」という設定にグッと来たなあ。
なんかもともと、個人的に「個人的体験が実はシミュレーションだったり、あるいは大量生産されたオリジナリティのないものに過ぎなかった」という設定にものすご~く考えさせられる部分があるんですよね私。でも「それでも 生きていかざるを得ない」(by踊るダメ人間)わけで、本作では「お手軽になった出会いから『ときめき』を救い出す、しかしそれは疑似体験」っていう矛盾が最初から感じられて、それがすごく好きだったりします。
それはSFおしかけ女房モノにも通じる面で、いくつかの「おしかけ女房モノ」において主人公がヒロインとの関係を拒否し続けるのは、それが自分の意志や能力とは関係ないところで「設定されている」、一種の大量生産化された愛情だったりセックスだったりするからなわけで。
・「ハニー・クレイ・マイハニー」 おがきちか
……というわけで、SFおしかけ女房モノカテゴリと言える本作。短期連載だそう。
「都会の熊」と言われるほどダラシのない男やもめ・楯宮のもとに現れたメイド風お手伝いさん・ハニー。彼女は発掘された埴輪。というか、もともと6世紀後半頃の首長の奴隷だったが、首長が死んだときにつくった自分の埴輪と一緒に埋葬されてしまい、その魂が宿っていたというわけ。埴輪から人間へと変身可能なハニー。
ハニーに新しい「ご主人様」として認証されてしまった楯宮は彼女と共同生活をするハメになるが、以前奴隷だったハニーとはなかなか感覚が合わず苦労する。
ハニーはなんでメイド服を着ているかというと、
「インターネットで買いました」
「『奴』『隷』『召使』『服』とかで検索して一番肌が隠れているのにしました」
「皮や金具だけの服も私の時代には近かったのですが……」
ぐわははははは。笑いすぎですか。いやしかしおしかけ女房モノとドレイモノ(?)はコインの裏表なんだよ。はっきりと「元奴隷」(むろん歴史上のドレイでいわゆるエロマンガのソレではないが)としてヒロインが登場してきたことで、その辺りが浮き彫りになるかもしれない。
展開はのほほんとしていてハニーはかわいらしいし、お話の流れに独特の心地よさがあって楽しい。どんな着地をするのであろうか。
・「晴れた日に絶望が見える」 あびゅうきょ
……そして疑似体験が疑似体験でしかないことに絶望し、SFおしかけ女房は永遠にやってことないことに絶望した人間が行き着く果ては、「黄泉の国の神の犠になるしかない」ということを描いたのが本作。
「流しの三角コーナーに捨てられたトマトの蔕のような存在」と言われる主人公は、38歳で独身無職、彼女なし。家族にも見捨てられている。「裏切らないから」アニメやゲームの美少女が好き。
彼は「イヤな毎日が見えなくなる終着駅まで行きたい」と列車に乗り、そこで美少女に出会う。そして彼女は、彼を日常の裂け目に降臨する黄泉の国の神様のもとへ案内してくれる。餌となって食われるのが唯一の希望だと。
スクリーントーンをいっさい使わない超絶的な描き込み、主人公や背景のリアルさとは裏腹な少女のかわいらしさ。悪意に満ちた展開。「あびゅうきょ節」って感じでわたし的には申し分のない読みきり作品。最近のあびゅうきょ作品は同人誌などで見るかぎり、美少女への思慕とそれに手が届かない絶望に満ちていて、実に素晴らしい。
私はそれらを読んであまりダークな気持ちにはならず、むしろ共感するところ多く(笑)ある種の心地よさが残るんだけど、それはひとえにこの人の絵の力かもしれない。これだけの画力があって絶望はねぇでしょ、などと思うから。それとね、たぶん作者は希望を描こうとも思っていないだろうけど(本作のラストはある意味いいかげん)、本当に絶望を描こうとも思っていないのではないか。それか、絶望を描いてもどこかに「柔らかさ」のようなものが出てくる作風なんだと思う。スバラシイ。
・「妄想戦士ヤマモト」 小野寺浩二
「晴れた日に絶望が見える」とは逆に、軽く開き直るとこうなるって感じかな。松下の誕生プレゼントに山本が送ったのは、クラスメートの高橋さんがメイドとして1日お世話してくれること。ドジなめがねっ子美少女メイドの高橋さんをおしおきしているうちに、心の中の何かが目覚めそうになってしまう松下(この辺りの描写はたいへんにすばらしい)。
あ、「軽く開き直ると『晴れた日に絶望が見える』から分岐する」のではなく、本作の松下のように「心の何かが目覚めて」、それでも世の中どうにもならないと思うと「晴れた日に絶望が見える」の境地に行き着くのかもしれん。
他のマンガもどれも面白かった。次号は12月21日(木)発売。
(00.1126、滑川)
80年代前半あたりに描かれた、福原秀美のHマンガの復刻。いくつかの単行本に収録されていたモノを再編集した短編集。
福原秀美作品の特徴は、出てくる女の子は毎回ほぼ同じで「愛と誠」の早乙女愛風(というか池沢さとしの描く女の子に酷似している)、あってないようなストーリー、シュールなような投げやりなような展開、「男もスケベなら女もスケベ」という陽性の考えに基づいた徹底した脳天気さ、などがあげられる。
70年代劇画の復刻ラッシュの中で、みうらじゅんなどが雑誌で強く押していて(本書の解説もみうらじゅん)、だいたいどんなものかは察しがついていたつもりだったのだが、……実際読んでみるのと想像するのとはやはり違いますな。
正直言って、読んで困惑を隠せないというか……もっと笑って楽しめるかと思ってたのだが、何というかその、あまりにデタラメすぎてよくわからなかった(^_^)(う~んなんかオタク趣味のない女の子に浦沢義雄脚本のドラマをムリヤリ見せたときのような感想だなこりゃ)。
まあたとえば「レ研」は無意味をつくりだそうとする「意志」が感じられる。それは無意味という意味だと思うんですが、本作に載っているのはその意志すら感じさせない、宇宙人が残していった謎の巨大モニュメントみたいな、いったいどう解釈していいかわからないカンジの作品群。
おそらくこれは、作者がもともとぶっとんだ思考方法の持ち主だったことに、全盛期には月産400ページをこなしていたという「高速思考」(というか悪く言えばネーム描きなぐり)が加算され、後世私などが見て当惑するような作品ができあがったのだと思われる。
たとえば本書収録の「放課後SEX」は、天才剣士に生まれついた男子高校生と女子高生が真剣で斬り合っているうちにファックに発展していってしまうというものだが、時代モノに出てくるような剣士が斬り合うと双方の顔がバサッと取れて主人公2人になるシーンから当惑するのみである。その後の展開はまあエロマンガとして普通と言えば普通だが、偶然かもしれないがなぜか他の短編でも女子高生が剣の修行をしたり陶芸の修行をしたりする話が多くて、ここではお話はどうでもよく女子高生は「ヤりたい存在」として出てくればイイという実に潔い思考が読みとれる(というか、それしか読みとれない)。
読みはじめて最初はエロマンガ雑誌の中でのギャグマンガ的な役割、一種の箸休め的な役割を担っていたのかとも思ったが、インタビューを読むと作者はむしろ一時期売れっ子というか超量産作家で、どう考えても読者はこれで「ヌいていた」、あるいは「ヌキ対象に近かった」としか思えない。その辺が当時を知らない私には感覚的にわからん部分。
リアルタイムで読んでいるか、その後古書店で突然見つけるか、そうした出会い方をしないとワカラナイマンガではないかと思った。
いやまあむろん嫌いなわけじゃないんだけど、あまりにも豪快なんで読んでてビビってしまうのであった。
(00.1124、滑川)
・「ぷるるんゼミナール」 ながしま超介
前号からの続き。「ミスコン反対のために、ミスコンに出て、その場で反対を表明してくれ」と頼まれた菜々美。このミスコンは、タレントへの登竜門として出場者も審査員もかなりマジなコンテストだった。妨害者(菜々美とまでは気づいていない)がいることを察知したミスコン実行委員長は、よりハードな審査(要するにエッチな審査)を実施することによって妨害者をふるいにかけようとするが……って、これじゃただ「いかにエッチなことにガマンできるか」であってミスコンでも何でもなくなってしまっているところがスゴイ。
要するに、ここにはフェミニズム批判とか何とか、そういう風刺精神は皆無。ただアホなキャラクターがえんえんとアホなことを繰り広げるだけというスバラシイマンガだと、私は思う(むろん皮肉でもなんでもなし!)。
・「オッパイファンド」 山本よし文
「経済と乳の融合コミック!!」さすがの惹句。
今回、連載9回目にしてやっと主人公・本郷タケシと巨乳三姉妹の関係が描かれる。
それにしてもすでに話はオッパイではなくオマ○コに移ってしまっているのだが、いいのだろうか……。
(00.1123、滑川)
今週はまんべんなく面白かったんだけど、特筆すべき点はなかった。「おまかせ! ピース電器店」とか「満天の星」とか、常に一定レベルを維持し続けている作品があるというのは、雑誌として強いと思う。
・「ななか6/17」 八神 健
今週から新連載。精神が6歳のときに退行してしまった17歳の少女・ななかの巻き起こす騒動を描く(んだろうと思う、たぶん)。読みきりのときにとても面白かったので、連載にも期待。
・「バキ」 板垣恵介
ドリアンVS加藤。今週のドリアンの技、催眠術か!? 先週の加藤の反撃にはマジ感動して泣いたんだけどな……。負けるんだろうなー、たぶん。
(00.1123、滑川)
出てからだいぶ経つが、やっと読めた。やっぱりこういうマンガ雑誌は感想を書く者を青臭くする。
私も青臭く行く。
・「おひっこし」 竹易てあしこと沙村広明
連載第2回。バンドとかやってる大学生の、恋愛とかナントカを描いた話。
彼氏が外国へ行ってしまった赤木真由をデートに誘った遠野(真由の後輩)。動物園に誘ってその後も真由の反応を見ながらああでもないこうでもない、いろいろなことを考えて頭ぐるぐる、自爆してみたりする。
いやー結論から言うと、おれには無関係なマンガ。あ、これは本作の出来不出来にはカンケイないかもしれないけど。この赤木真由を「イイ女」と思えなければ、このマンガは成立せんでしょう。私はこういうヒトは、苦手です。ハイ、超個人的な話です。
だから、この女にここまで振り回される遠野の気持ちがさっぱりわからん。しかも、一応その日にホテルまで行けると思ってんだぜ。悩める青年みたいに描いてあるけど、もし身近にいたらあまりに大胆でヒクよこんな男、私の場合。
・「みんみんミント」 士貴智志
やたらとハダカになる魔法少女のマンガ。「プリティヨーガ」もそうだったけど、昔は何でこの雑誌にこの作品が、ということがわかんなかったけど今はこういう作品を載っけられる、というところがアフタヌーンのスピリッツとの最大の違いだと思っています。
こういう作品は、どんどん載った方がいいと思ってます。
・「ケッタマシ~ン」 カジ モリエ
読みきり。「ケッタマシーン」とは自転車のことらしい。高2のとき、りょうはカレシの山田はじめとラブホテルの帰りに自転車を二人のりして交通事故にあった。りょうは重傷、カレは即死。だが退院後譲ってもらったカレの自転車はまるで彼自身のように意志を持ちだして……という話。
ちょっと変わったラブストーリーだがシチュエーションの面白さに終わらず、りょうやはじめくんの自転車、その周辺の友達をよく描いていてけっこう面白い。なんつーかこうホントに「高校生のカップル~」という感じを自転車と女の子の関係で描いているのがうまい。
ただ、ラストの1ページ(数年後、主婦となったりょうの日常)は本当に必要かな?
まあラストがどーのこーのと言うのはヤボ、あるいは青臭いとは思うけど、ラストの1ページがあるなら前の話全部、存在価値そのものがあやぶまれるような気がするんだよなー。もし描かれなければならないとしたら、十代の頃にしかない身勝手さと純粋さという本編と、その後のりょうの独白にあるように若い頃をふりかえって「それすらもが一番ラクだった」と思える大人になった日々を結びつける、その間の失われた時間なんじゃないんだろうか?
ああ、自分で書いてて青臭せー。でもそう思う。
・「蟲師」第五話 やまねむる 漆原友紀
人間でありながら山の「ヌシ」とならなければならなくなった男の物語。
民俗学的な題材で、もののけみたいなものがテーマなのかな。連載を途中から読んだのでわかりにくいところもあるけど、おそらく非常にしっかりした知識の裏付けがあると思うので安心して読める。ちょっとまとめて読まないと評価しかねる部分もあるけど……。
とりあえずこうした民俗に材をとった作品で気になるのは「土着のわずらわしさと流浪の孤独」なんだけど。それが連作でどこまで描かれているかで本作の重みが違ってくると思う。
・「もっけ」 熊倉隆敏
妖怪マンガ。連載となって、第2回目。他人には見えない「もの」が見えてしまう少女・静流。同級生の兄の後ろからついてくる妖怪のようなものを見てしまい、災いが起きるのではないかと心配になって祖父に相談する。祖父はそうした憑き物を落とす仕事をしているらしい。
だが憑き物を落とすことは一種の「交渉」であり、簡単には行かない。祖父は静流に、冷たいまでにそのことを説く。だが静流のある種の頑固さにより、祖父は重い腰をあげる。
これについても、私自身が青いのを承知で書く。この祖父は近代的な知識を身に着け、それを駆使しすぎている。
たとえば京極堂のシリーズの京極ならばそれでよい。彼のやっていることは「憑き物落とし」と言ってはいるが、近代的な思考を取り入れた一種の「メタな謎解き」であるからだ。あるいは「ディスコミ」の松笛もいい。彼のやっていることには彼独自の理論体系があり、それには近代的知識も含まれているだろうから。
しかしこのお爺ちゃんは、見たところ地元の「拝み屋」と言ったところだが、そのわりには自分のやっていることを近代的知の中に位置づけて語ることがうますぎる。すなわち、理におちているような感じがする。
マンガとしてはかなりハイレベルだとは思うが、このヒトが普通の「拝み屋」ではないという設定でないかぎり、何か納得がいかない。民間治療のひとつとしての祈祷ならば、「地獄先生ぬ~べ~」に出てくるおばあちゃんのやることの方が「本当」のような気がするのだが……。
・「勝ち抜き・ギャグ大喧嘩」
アンケートハガキで4コマ作家を勝ち残らせる企画らしい。今回は全体的に低調だと思った。
(00.1123、滑川)
・「蚊ハンターK」 ミッキー小川(2000?、ウィッキーこざかな)
コミティアにて入手。「害虫退治を生涯の趣味として芸術の域にまで昇華させること」が最終目的の団体・猟虫会(りょうちゅうかい)。ゴキブリ叩きの達人(読み返したけど名前わからんかった……女性)と、竹ひごでハエを叩き落とす「蝿打ちのジュン」の2人から構成されるこの会は、殺虫剤会社・蚊取製薬の社長の息子・ケイスケを蚊取りの名人として目を付ける……。
最後にハエ・蚊・ゴキブリを遺伝子組替えで合体させた巨大生物が出てきたり、なかなかエンタテインメントしていて面白かった。必殺技のネーミングなど、もうちょっとわかりやすいともっとウレシイ。
(00.1122、滑川)
コミティアにて入手。コロコロコミックとかコミックボンボンとかのジャンルパロディ本。
「アースシェイカー獣王(レオ)」(メンコマンガ)、「タケトンバトラーケン」(竹トンボマンガ)、「合わせて一本!」(柔道マンガ)などのコロコロテイスト入ったオリジナル作品が載っているのだが、なぜか最終的には出てくる男の子がやたらと全裸になる。
ヘンだな~と思ったら、巻頭の「読者プレゼント」が「コミックモンモンキャラクタープリントブリーフ」。どうやら本書は「男の子向けのショタ本」らしい。
まあショタの人が本書を読んで萌えるかどうかは私にはわかんねーんですが、「アースシェイカー獣王(レオ)」でメンコを叩きつけると下の地面がものすごい勢いでひび割れてしまうシーンとか、「タケトンバトラーケン」でライバルのつくった竹トンボにモーターが仕込まれていて、対流圏を突破して成層圏まで届くいきおいだとか、そういう描写は「いかにも」なカンジで面白かった。
エラソーな言い方で申し訳ないが、マンガの技術レベルは水準以上。
(00.1122、滑川)
巨額の利益を賭け行われる裏麻雀において、ラスベガスの天才マジシャン・バードと、だれにも破られたことのない「全自動卓天和」の技を持つ無敗の代打ち「蛇」との凄絶な戦いを描く完結編。
ちゃんとした(?)麻雀マンガではなく、「高得点を出す」という結果だけを目標にした天才同士のイカサマ合戦。これは麻雀門外漢でも燃えるしかないでしょう。
それと、ふと思い出したのがスポーツマンガにおける「魔球の謎を解く」というプロット。
現在スポーツマンガすべてを見ているわけではないので他にあるのかもしれないが、1話完結ではなく、主人公の魔球の謎を追って(というかそれのみ)で物語が進行するというパターンがあった。
これは、魔球のネタが最初から割れている魔球マンガとは趣を異にする。もっとも有名なものは「巨人の星」だろう。「消える魔球」の謎解きに、花形も左門も必死になる。「雨の日は投げられない」、「ホームベースに張り付いた汗を必死になって消した」、さまざまな伏線が張り巡らされ、「消える魔球」の謎は明らかにされていく。
そのスポーツのあり方自体をゆるがす絶対無敵の技。そしてそれを覆そうとするさまざまな試み。もう少し問題を複雑にするならば、格闘技マンガにおけるグレイシー柔術の存在もまた、やや似た構造を持っていた。
すなわち、「いかにグレイシーを倒すか」は格闘マンガにおけるひとつの「腕試し」となっているのである。
そしてそれを、ヒクソン・グレイシーソックリの男をまったくのザコキャラとして表現することで乗り越えてしまった板垣恵介には、天才というより範馬勇次郎的な絶対自信の境地に自分を持っていこうという、恐いまでの意志力が感じられたものだった(そういえば1巻のレビューのときも、グレイシーを引き合いに出したっけ)。
話がそれた。
すなわち、観戦者側もある程度マニア的な見方が浸透してきているメジャースポーツにあって「魔球」、それもその魔球の謎で連載を引っ張って展開させるというのは、すでにアナクロなマンガなのである。ヒドい言い方をすれば、謎解きは一種の「えさ」である。その「えさ」が不必要になるまでに、スポーツマンガは成熟した、ということなのか。
そして「謎解きでひっぱる」という構造は、ソレの発展か並行進化か、それともパラダイム変換か「金田一少年」を初めとする推理マンガに移行していっている。だが個人的には以前の「魔球謎解きモノ」と「推理マンガ」は構造的には似ているが、それは核のみであってちょっと違うと思う。
どちらかというと「魔球謎解きもの」は「探偵」は一人ではないため、複数の人物たちがどう動いていくか、という部分がダイナミックであるように感じるのだ。
本作の「自動卓天和」の謎は、上記の「魔球謎解きもの」と酷似しているから、私は何だか燃えるのである。麻雀のことはよくわからないが、自動卓でのイカサマは方法が限られているらしい。その壁を突破した男。そしてそれをさらに見破ろうとする少年。
主役二人以外のキャラクターもシブい。以前「蛇」に完敗し、腕をケガさせられ強姦され復讐に燃える元マジシャン・沙良(バードのパートナー)、腕は十人並みだが「蛇」を恐れず、自分の麻雀を打とうとするチンピラ雀士・不破(「蛇」のパートナー)。謎解きの過程で、彼らの人生がかいま見えるところも実にシブい。
また、第1巻では不気味な、凡人が触れることもできない領域に達している感情移入困難なバードと「蛇」が、ゲームが進むにつれてその人間性を明らかにしていき、最終的には読者側にまで「降りてくる」ところも実にわくわくした。物語の最後には、読者はバードとも「蛇」とも、何かを共感しているはずだ。
さらに、どちらが悪というハナシではもともとないのだが、やはりどちらかというとバードを善玉、沙良を人形としか見ず強姦しぬき、他人の幸福などまったく省みない「蛇」を悪玉風に描いていったのも、滑川としては成功だったと思う。ラストの修羅場も、代打ちの勝敗の結果としては当然というかコレでイイ(ただここまでバードが予測していなかったのがちょっと不満)。
たいへんコーフンしたマンガだった。……まあ実は途中麻雀のルールや全自動卓の構造でちょっとわからない部分はあったんだけどね。小問題、小問題。
(00.1121、滑川)
唐沢俊一・ソルボンヌK子両氏が手がける、貸本マンガ復刻シリーズ第5弾。
ハイキングに来た3人の少女。ちょっと人間から逸脱した類人猿顔の木こりから、「一本松へは絶対行ってはならない」と言われる。だが「行くな」と言われたら行きたくなるのが人情、とばかりに3人は一本松へ。しかしそこで全員気を失ってしまい、気が付いてみたらすべてがつくりもののだれもいない街に移動していた。
3人は何度も脱出を試みるが、巨大な蚊、ゴキブリ、テントウ虫にはばまれてしまう。いったいこの街は何なのか。そして巨大昆虫は。
「あっ! 生命線が切れている」 好美のぼる著、唐沢俊一編(1998、二見書房)などでおなじみ(?)の、好美のぼる先生の戦慄ホラー。
こうした「つくりものの街」をテーマとした場合、入り口はたとえば都市の隠れた場所であったりすることが多いが、導入部は土着的妖怪が出そうなシチュエーションの山。そして「つくられた街」の恐怖ならばやはり人工的な何かが人を襲うとかになりそうなもんだが、出てくるのは「巨大昆虫」。そしてそれらの存在理由はさらに一見結びつきにくいコトになっており、おそらく著者は腐るほど「因果もの」を描いているのだとは思うが、描きすぎた果て(……なのか?)になんだかモダンホラーっぽいとんでもなく恐ろしい作品に仕上がっている。
オチの放り出され具合も、あまりの放り出されっぷりに思わず笑ってしまうものすごさ。オススメ。
貸本マンガライブラリーで通販にて購入可能。
(00.1121、滑川)
昭和三十年代の、お涙少女マンガ(いたいけな少女に次々と降りかかる不幸に読者も涙、涙……という感じの作品)を集めている。表題作の他に「悲しき姉妹」(香山ふみお)、「みじかい命」(ふじえ・ふみよ)、「あじさいの精」(姫路ルミ)、「さようなら」(西野咲子)を収録。
私個人はこのテのマンガブームが終わった頃生まれてきているハズなのだが、なんとなく既視感があるのは花村えい子のバレエマンガとか(まあガラスの仮面もそうだけど)、次々と降りかかる苦難に耐えるヒロイン、という作品をちょっと読んだことがあるからか。しかしそれらには基本的にハッピーエンドが用意されているが、本作に収録されている作品は徹底して不幸。というかその不幸を読者が楽しむ(?)ために描かれるらしい。
いちおう孤児院からお金持ちにもらわれてきた姉妹の葛藤というドラマがある「悲しい星の子」とかはまだ今の感覚で読める(と思う)んだけど、「悲しき姉妹」なんて貧乏プラス障害者イジメでもうトコトン不幸だ……。「みじかい命」も「酒飲みで乱暴な父」が出てきて家は貧乏……ううう。サブタイトルのひとつが「盗みをした早苗」。うう、不幸。
逆に「さようなら」は主人公は不幸ぶってはいるが、留学先のパリでの失恋物語でそんなに深刻ではないからヒロインの自己陶酔ぶりがかなり面白い。
やっぱりシャレにならない不幸は広義の「貧乏」だよな。あとお金持ちの不幸は自己陶酔と紙一重だけど、ブルーカラーの不幸は見てて辛いなあ。
「お涙少女マンガ」については「夜霧のファンタジー」 唐沢俊一&ソルボンヌK子:監修、中川秀幸(1998、イースト・プレス)に解説が載っている。
貸本マンガライブラリーで通販にて購入可能。
(00.1121、滑川)
唐沢俊一・ソルボンヌK子両氏が手がける、貸本マンガ復刻シリーズ第4弾。
紅夫、夢香、鋭一、珠音というちょっと変わった4人の召使いとともに暮らしている少女・百合子。ある日彼女の元に、亡くなったママの昔友達と自称するおじさんとその家族がやってくる。ママが亡くなった後、百合子のことを頼むと言われていたその家族と、百合子は同居することになるが……という話。
……という話ったって何だかわからないと思うが、一種のミステリーなのであらすじはこれ以上書きようがない。確か唐沢俊一氏著作の貸本マンガの本でオチまで紹介されていたはず。
アッと驚くオチはスバラシイ。
ならやたかし(「ケンペーくん」の人)のマンガ連載第2回も掲載。
(00.1121、滑川)
唐沢俊一・ソルボンヌK子両氏が手がける、貸本マンガ復刻シリーズ第3弾。
スキーでケガをした少女に、女医が男の足を移植したことから起こる事件を描いたスリラーもの。
「おとこ足になった」ことは確かに一大事かもしれないが、グログロが当たり前の貸本マンガにあって(……ってそんなにたくさん読んだことないけど印象が)「それがどうした」と言いたくなるようなトホホ感がある。(それが復刻の理由かも)しかし、なかなかどうして個人的には意外な展開が待っていて面白かった。
同時収録の「黒い真珠」は……これは何ですかパクリ!? まあある有名ロボットが敵役で出てくるのだが、それに対抗するオリジナルロボット(だと思われる)が徹底的にダサいところにさらなるトホホ感が……。怪作。
ならやたかし(「ケンペーくん」の人)のマンガも掲載。
(00.1118、滑川)
唐沢俊一・ソルボンヌK子両氏が手がける、貸本マンガ復刻シリーズ第2弾。
仲良しグループ3人で高校に入学した桜葉真佐子のおくる青春時代。1967年頃。
お世辞にもうまいとは言えないマンガで、ところどころに編者によって書き込まれたツッコミが面白いんだけれど、巻末の「復刻にあたって」にもあるように「中途半端な下手さ加減が、今のマンガを相対化して見る際の補助線として、実に適当なのである。」ということで当時のマンガ表現についていろいろと思いをはせることができる。
巻末におそらく作者・岡部多美と同時期かそれ以降の、西谷祥子、丘けい子、里中満智子、細川千恵子、わたなべまさこなどのカットがずらずらっと掲載されているのだが、今まで絵や構図、コマ運びなどでウンウン言いながらちょっと読みにくい岡部多美のマンガを読み進んできてあらためてそれらの絵を見ると、何かホッとするというかやはり一線を画する上手さにあらためて感心してしまったりする。
岡部多美のマンガの特徴は、簡単に言ってデッサンや構図がときどきヘン、突出して細かく描き込まれたシーンがかえって不自然、お話がいきあたりばったり、新キャラクターが突然登場する、といった……まあこれは特徴と言うより下手さ加減か、そういう点が見られ、読んでいるとちょっと疲れる。確かに「マンガ界の基準化石的作品」になっている。
だけれども-たぶん本作のセレクトにはそうした基準をクリヤした作品の中でもそれなりの理由があると思うのだが-やっぱり読んでいてなんとなく楽しいのだ。たとえるなら従姉妹の描いたマンガを見せてもらったら意外とうまいじゃん、みたいな感慨もあるし、お話も徹底して陽性だし。
真佐子の友人の「ネコ」(ネコに似ている)が話しているシーンでホンモノのネコがしゃべっているとか、なんかそういうのがかわいい。
同時収録は「蜘蛛の巣と風のワルツ」。
(00.1118、滑川)
A5判。成年コミック。
舞台はプリティー大学ゲルドルバキャンパス。
即レイプ。
「どうでしょう私の超絶テクは?」
「どうせレイプしているうちに私が『あぁン もっとお▼(←ハートマークの代用)』とか言うと思ってんでしょ!!」
「あんたエロマンガの読みすぎ!!」
(次ページ)
「あぁン もっとお▼(←ハートマークの代用)」
ここでタイトル。「レ研」-神速レイパーども-
レイプ研究会会長・桜賀(おうが)ススム、同会副会長・青函度(せかんど)レイ子。
レイプした女を警察にかけこませないたった一つの紳士的解決策……それは絶対的快楽の前に屈服させるコト。
「オーレ!」(「Oh! レイプ最高」の略。)
そこに現れたのは、レイプ否定派の美少女・小笠杷(おかされ)ちゃう乃。
でも、ススムに憧れて結局レ研入部。
第1話:レイプがススムくん
第2話:君色レイプ
第3話:激突! 2大レイパー!!
最終話:全然関係ない宇宙
最終話あらすじ:
地球上の6割が台東区になっている地球。クリントン大統領(17)の父は2年も前に母になっている。クリントンは、登校中に徹子(不老不死)を犯す。
学校に行くと、女教師イングリッシャー・ホワンホワン(37)が授業をしている。
クリントンは彼女を愛していたが、彼女は彼の愛に応えてはくれなかった。それは、彼女がレーザー推進ロケット研究所が開発したパラボラバイブの実験体・パラボリアンだからであった。これでバイブからパラボラアンテナが生えて、池袋から因果地平まで飛んでいける。
しかしクリントンは「先生は先生だ」といってイングリッシャー・ホワンホワンを優しく受け入れる。
そして宇宙のすべての謎が解けたのであった。
……あまりにもすごすぎる。「レイプしてよがる」というのは確かにエロマンガのお約束であり、現実離れしたことであり、コレを揶揄したりパロった作品は数多くある。あるいはセックス勝負のマンガも探せばある。しかし、本作はなんだかそういうパロディそのものをもパロディ化しようとしているような感じだ。
そもそも、「レイプした女を警察にかけこませないたった一つの紳士的解決策……それは絶対的快楽の前に屈服させる」こと、そのために「レ研」をつくったという設定そのものに、たいして意味がない(少なくともテーマではない)。それは後の展開の狂騒状態をつくる方便でしかないかもしれない。
しかし、その狂騒状態が、たとえば「抑圧からの解放」というような「意味」を持っていない。そういう意味では、真の狂騒状態。
「泣きっツラにレイプ」、「レイプは1日1時間」という言葉遣いからも見るように、レイプという言葉や行為がここでは完全に現実からも、通常のエロマンガからも浮遊してしまっている。
「ヤベ……もう球海綿体筋のコントロールがきかねェ……!」
「いくらススムさんの筋約限界射精でもこれ以上は……!」
……なんてもっともらしいセリフがもっともらしいだけに、物語は独自の空間をつくり上げる。
強烈な風刺精神や悪意を感じるかというと、それもあまりない。強いて言うなら「無意味」をつくり出そうとしている。かといって投げやりな感じもあまりせず、絵もきっちりと描きこまれている。それは最終話の「全然関係ない宇宙」が最終話でも何でもないことで、頂点に達する。
もっとも、完全に「ヌキ」を放棄した作品ではない。むしろエロマンガ的核心は、受けキャラの「小笠杷(おかされ)ちゃう乃」が犯されちゃうところにある。ここら辺はオーソドックスなエロマンガだ。そこまで持っていく土台(「レ研」という設定)が、いちじるしく無意味であるということだ。もちろんこの場合の無意味はホメ言葉である。
私の数少ないエロマンガ知識からは、その無意味っぽさから言って平野耕太の「テクノ番長」や後藤寿庵の一連の作品を思い起こす。ただそのグルーヴ感はいっそう激しさを増している。そしてこのスピードは、今までの無限に積み重ねられてきたエロマンガ的お約束、およびアニメやマンガなどのオタクネタに由来する。
オタクノリはエヴァとかでじことかも生み出したが、「レ研」も立派に生み出した。
う~んこれはすごいことかも。日本のエロマンガ、すごい成熟っぷりだ。
最後に念のため:これ読んだ人、レイプしないように。責任持ちません。
(00.1118、滑川)
コミティアで購入。ココのは毎号買ってます。理由は、第一に、レベルが高い。第二に、ただ単にいろんなヒトの作品をまとめました、というだけではなく何か統一性がある。第三に、モノづくりをするときのある種キビしさというかそういうものが感じられる。
・「Lodi and Flystone」 waterman
なんでも屋のロディと円錐形メカ(かな? 頭に巨大なプロペラが付いている)フライトストーンのコンビが、問題を解決しようとして結局スラップスティックに発展、ブチ壊してしまうという過程を、デフォルメされたポップでかわいらしい絵で描いたモノ。不時着してきた宇宙人がスゴクカワイイ。
見当違いかもしれんが、杉浦茂のマンガをちょい連想した。杉浦茂超ポップ化、みたいな(杉浦茂も充分ポップだったが)。
・「not simple」 オノ・ナツメ
恋人が父親に命を狙われているため、浮浪者をその身代わりにしようと思ったアイリーンは、イアンという青年を「拾う」。しかしイアンは単なる浮浪者ではなく、アイリーンとも因果のあった男だった。
文芸的な作品(←うひゃ~陳腐な言い回しだとは思うが他に言葉が思い浮かばない)ほど、「偶然」の扱いには苦労すると思うが(「ご都合主義」と批判されるから)、本作は偶然を逆手にとって登場人物それぞれの因果を描き、そして直球で描かずに、因果を通してイアンと彼を見つめ続ける小説家の絶望を描く。
う~んどうやったらこんなプロットを思いつくんだろう……滑川の引き出しにはあまり本作について語る言葉がナイ。滑川修行不足。
・「Alf’s key」 山本昌幸
金庫破りのアルと彼が保護者をしていた少女・ザジとの別れ。ちょっとした脇役がイイ味を出していたりする。
アルの金庫破りの理由が少しでも描かれていた方がよりせつなくなったと思うのは、私の個人的な感想なんですが(実は政治犯だとか←それはそれで陳腐になってしまうか……)。
・「口笛」 山川直人
「言葉なんて信じない」男のインタビュー。かわいらしく細密な描線で描く。
お話自体も考えさせるものなんだけど、それと同時に作品全体にすごい矜持というか、創作に対する迫力みたいなものが伝わってくる。
・「小原愼司インタビュー」
スマン、私は小原愼司というヒトをよく知りません……。ただこのインタビューはよく書かれていると思うし、作品リストも付いています。
・「season」 南研一
本作は、「どんな夢もかなえられる」ファンタージュンの国の扉が開くのを待つ幻想的なパートと、「素晴らしい漫画を描くことを夢見る漫画家の話」を考える青年(創作同人誌をつくっているらしい)のパートの2つから始まる。
物語はこの2つのパートが交錯していく。そしてひとつの帰結を迎える。
「そうだ俺の新刊読むか?」
「また出たのかよ」
「イベント毎に出しているだろ」
「簡単なことさ」「お前にもできる」
「だんだん薄くなる漫画のページ」「増えるトークのページが秘訣だ」
「そーいや次のコミケのカタログ買ってきたけど」
「また参加サークルも増えたね」
「俺たちの年代はみんな辞めたけど」
「お前もいつか辞めるの?」
創作同人誌をやっている者には共感できたりイタいと感じるセリフが出てくる。
創作同人誌をやっている者の考えていることとか悩みを、どのように生のカタチではなく出せるか、を本作は考えているように思えるし、その手つきとか構成には共感できる(私のカン違いでなければ、だけれど……)。
コミティアに行ったときにいつも思うけれど、こういうことはだれかが描かなければならないと思う。みんなが思っていて口に出せないようなことだし。プロのマンガ家にはプロフェッショナルとしての生き方があるが、アマチュアには「こうあるべき」というようなものは存在しない。だが生のまま描けばグチか、自己満足的な作品にもなりかねない。
本作はだれかが描かねばならない領域に触れていると思うし、その中でも成功していると思う。
プロで描き続けることは精神的にも物理的にも死ぬほど大変だろうが、アマで描き続けることは、観念的と言われようが何だろうが、それなりの大変さというものがあるのである(というようなことを感じた)。
↓関連ホームページ
・Parking!
(00.1117、滑川)
・「みるく・きゃらめる」8号 特集:下品(2000、みるく★きゃらめる)
マンガにおける下品について考察した評論。
「下品」を分類し、実例を挙げて考察している。「下品」こそがパワーである、という考え方は広義のサブカルチャーでは半ば自明と化しつつあることのように思うので、それをあえて分類してみるというのは興味深い。でも突き詰めて考えないとにわかにはできない。力作だと思います。
個人的には「上品」が生まれたから「下品」が生まれた、という下品の出自のくだりに考えさせられるものがあった。すなわち、上の基準ができてしまったために、本来上品でも下品でもなかったものに対して価値の変化が起こってしまった(のではないかと、滑川は思った)。
おそらく、この辺りは庶民の「道徳観」とか「倫理観」などとも関係してくると思うのでいちがいには言えないが、たとえばイナカの女の子が都市に出てきて都市部の風俗習慣を「上品」だと思ってマネし、地元を「下品」だと卑下するというようなことは現在でもあることで、それはたぶん経済格差ともからんできている。
そう考えていくと、(当然滑川も含めた)庶民にとっての「下品」とは、生来的に普通の日常であったり、身の回りのできごととして親しみがあり開放的である反面、「上品=社会的地位・経済力が上」という存在を真上ににらんだとき、捨てていかなければならないものだったり、「上」を目指す自分をおとしめるものだったりするわけである。つまり両義的。そして本来庶民のものである「マンガ」においても、両義的なものだったし、そうであり続けるのだろう。
ここら辺がもしかしたら、もともと貴族がいて、ソレが庶民にまでターゲットを持つ(たとえば探偵小説とか)国の文化とはニュアンスが違う部分かもしれない。
いつか、ぜひ「上品」というテーマにも挑戦してほしい。より恣意的になってしまうかもしれないが、それでもそうしたくくりで何かが掴めるような気がします。
連想ばかり書いてしまったので本書の感想に戻ると、個々の項目立てにも興味深いものがあるが、ページ数を増やしてもう少し掘り下げることができるのではないかと思った(とくに「ブルーカラー漫画」という区分けでそれが「ハイカルチャー」や「上品」との距離で自らを規定している、というところなど)。まあ私がやってみろと言われてもできないんだけれど……。
石川ひでゆきのマンガはあいかわらず評論部分をきちんと反映しつつ自身の色を出していて面白い。
また表紙がめちゃくちゃかわゆい、ぎゃぱゆいのでみんな見るように。
(00.1117、滑川)
・「みるく・きゃらめる」7号 特集:鬱(2000、みるく★きゃらめる)
毎回テーマを決めたマンガ評論と、それに合わせた読みきりマンガが載っている面白いスタイルの本、の第7号。今回の特集は「鬱」。
要するに、読んでいて何もかもイヤになってくるような「ウツ」な作品を取り上げつつ、マンガの中のウツとは何かについて考察している。
作者あとがきにもあるように、読後とても鬱々とした気持ちになったので、作者の製作意図はうまく出たのではあるまいか。平口広美、山野一、ねこぢる、桜玉吉など、あらすじを聞いているだけで滅入ってくる作家ばかりが紹介され、「読んだらどのようにイヤな気持ちになるのか」について分類がなされている。
とくに、本書では路線変更してからの桜玉吉を「鬱漫画のチャンピオン」としてもっとも評価している。ここではなぜ桜玉吉がウツでありながら作品を描き続けられるのか、について言及されているがそれよりも私などが考えるのは、逆に「桜玉吉は才能があるから鬱で、かつマンガ家でいられるんじゃねえか」という非常にひがみ根性の入った結論でしかありえない。はからずも鬱漫画について考えるといかにやりきれない気持ちになるかを自分で体現してしまったかたちとなった。ははは……。
冗談はともかくとして、本来娯楽であるはずのマンガを読んで「イヤな気持ちになる」ことはどういうことかについて考えることは、重要ではある。
昔、スポーツマンガで主人公が修行期間に入ると人気が落ちたという。当然、修行は地味でつまらなくて「イヤな気持ちになるから」だ。
要するにエンタテインメントとしてのマンガ(とくに少年マンガ)は、この「イヤな気持ちになる=つまらない」ととらえた部分を、いかに取り除いて作品を完全なる快楽装置にするかに腐心してきたといっても過言ではない。
少年マンガよりもっとそれを徹底したのはハリウッド映画だろう。「イヤな部分をも快楽とする」、それが優れた娯楽映画であるとされる。「シックスセンス」あたりに秘密があるかもしれない(余談だが、ラストを教えられてしまった状態で見ると、これほどダウナーな映画もない。ラストを知ってよけいダークに)。
話を戻せば、文学作品でも鬱とはいかないまでも「イヤな気持ちになる」作品はたくさんある。これらがなぜ読まれてきたかと言えば、総体としての「面白さ」があることは当然として、読書自体が一種の「苦行」的な面があったのではないかと考える。
ガロなどの「文学的」な作品の中に「鬱漫画」が多く存在するとすれば、作者側としてはおのれの創作衝動の結果だとしても、読者側としてはそれの読書を「苦行」と容認する姿勢があったことも一因だろう。
そういう意味で言えば、「幽玄漫玉日記」が「コミックビーム」という雑誌に載っていること自体、逆に雑誌の性質を表していることにもなるだろうし、「幽玄……」のエンタテインメント性について考えるきっかけになるのだろうと思う。
同時収録のマンガも、いつもは陽性なのにしっかりテーマに合わせてあって面白かった。また「サークルのテーマ曲」というのにも笑った。ウチもつくろっかな。
(00.1116、滑川)
・「エラガバルス」(1)~(2) かぢばあたる(1999、CAGIVA!)
A5判。鷹梨猛と新堂麗は幼なじみ。一見普通の高校生だが、猛は鷹梨操念流という木刀を用いる古武術の使い手、麗は父から古代インド魔術を習った魔術士であった。
二人はエラガバルス(賢者の石)を、福音十字団とスナゴブ修道会というヨーロッパの魔術結社から守るように言われ続けてきた。そしてついに、二人を魔術士が襲った……。
おもしろい! 以前コミティアで購入したのだが、私自身妙な色眼鏡で作品を見ることがあり、一見クォリティの高いエンタテインメント作品は同人誌の場合あまり買わないのである。
それは、「ものすごく面白いエンタテインメント作品」は商業誌にけっこうあり、値段的に引き合わないという非常にケチな発想が理由のひとつ。もうひとつは「一見」クォリティが高く見える作品の場合(とくにSFやファンタジー的設定のもの)、見かけ倒しが少なくないという現実がある。
ところが(という言い方は悪いが)、コレはかなりおもしろかった。上記のあらすじで「ありがちな作品」と思うなかれ。見せ方がとてもうまく、アクションもお話のテンポもよく、良質のエンタテインメント作品に仕上がっている。3~4巻も出ているらしい。
この間のコミティアで買うの忘れた! 悔しい~。
↓作者のホームページ
・駄目々々梁山泊
(00.1116、滑川)
「つれづれなるマンガ感想文2000」もくじに戻る
「つれづれなるマンガ感想文」11月前半
「つれづれなるマンガ感想文」11月後半
ここがいちばん下です
トップに戻る