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「つれづれなるマンガ感想文2005」9月前半
「つれづれなるマンガ感想文2005」10月前半
一気に下まで行きたい
COMICマイティ、漫画サンデー連載。暴れん坊で血を見るのが大好きなヤクザの組長の息子・岩鬼将造は、海外で傭兵稼業をしていたが、父親の死をきっかけに日本に帰国。
世界征服を狙う「デスドロップマフィア」と戦うことになり重傷を負うが、いろいろあって身体に兵器を内蔵した「極道兵器」として蘇る。
ここ(ビバ! ダイナミック)にほとんどすべて書かれちゃってるんで書き加えることはあまりないんですが、私が「メチャクチャ」というときの「メチャクチャ」とは何か、ということに関して複数名から疑問・質問いただいたのでその辺の説明をしようと思う。
「石川賢」を表現するのに、私はよく「メチャクチャだ」という言葉を使うんですが、「言うほどメチャクチャじゃないじゃないか」という意見も聞く。この見解の相違は何かというと、石川賢が「マンガ」としての体裁はかなり忠実に守っている点から来るのではないかと思う。
永井豪と石川賢の作品の個性を論じるのも、いったいどの作品にだれがどの程度関わっているのか、作品を読み込むだけではわかりづらいのでむずかしい問題ではあるが、確かに永井豪の方がその「投げっぱなし度」は高いように思う。
逆に言うとダイナミック作品の中で、アナーキーながらもまとまっているものに石川賢が関わっているのか? と考えることもできる。
ただ、永井豪の場合「メチャクチャ」というより「いいかげん」という言い回しの方がふさわしい気がするが……。
3巻巻末に載っている読みきり「真・極道兵器」を読むと、石川賢のメチャクチャさというのは「B級映画的なメチャクチャ」だということがよくわかる。要するに、どんなにブッ飛んでようが1時間30分くらいでキッチリ終わるメチャクチャさなのだ。
主人公がムチャだったり、兵器がムチャだったり、戦いはムチャだったりする。しかし、キャラクターの信念が通っているから、作品の中に「いったいどこに連れていかれるのだろう」という不安感は皆無なのだ。だからこそ、ブッツリ終わっても読者はイライラしたりはしない。少なくとも「あるべき最終回」は、主人公の信念が貫徹されることになるであろうことは予想できるから。
とくに「真・極道兵器」は、やくざ映画のパターンを逆手にとってクライマックスの驚きが演出され、なおかつラストもまとまっているという点で、石川賢のいい意味での「B級映画感」が非常によく出た作品になっていると思う。
なお「極道兵器」のキャラクターのメチャクチャさについては、主人公が「仁義なき戦い 広島死闘篇」 の千葉真一演じる大友勝利がモデルだというだけでわかっていただけると思う。
「仁義」でも屈指のメチャクチャキャラを主人公にしてSFアクションに仕立てようというのだから、ワクワクしないはずがないのであった。
(05.0924)
週刊ヤングマガジン連載。霊感体質らしいヤンキー少年・耳雄が出会う奇っ怪な妖怪の数々。
いや~正直、4巻の大西祥平氏の解説がすべてを言い表していて、書くことがないんですわ。「ああ、俺は今、漫画を読んでいる! 漫画を堪能している!」というエクスタシーが存在する、というのはもうまったくそのとおりで。
ウマイこと書こうと思っても浮かばないんで、好きなエピソードの羅列で終わらせていただきます。
・4巻
「マロンさんが来る!!」
携帯で来訪を告げる都市伝説的妖怪「マロンさん」。ラストのコマのマロンさんの無念の表情がすごくカワイイ。
「ラクガキカキカキ」
「電話をしている最中にやってしまう無意識の落書き」という着眼点だけで感心。
「連打だ! クリスマス」
最後には耳雄に同情してしまう妖怪がいい。
「わらわら新成人」
「暴れる新成人」をネタにしているだけでも大爆笑してしまいました。爽快。
「ホームにて」
「じらされ地獄」
両方とも、あるあるネタが秀逸。
・5巻
「原宿スキスキ!!」
人々が珍妙な格好をして歩いているため、妖怪も素でいられる「原宿」という街。ケッ作。
「ホラー先手必勝」
ホラーにおけるあるあるネタと、耳雄のバイオレンスは相性がいい。
「うしろ髪」
わかっていてもホロリとしてしまう。そんな泣かせ系も好きです。
・1~3巻の感想
(05.0924)
成年コミック。出典不明の短編集(初出が書いてないんだもんよ)。
「明日色の空」、「玄界灘を越えろ!!」シリーズ、「殺戮都市」、「魔性の森」、「ミッドナイト・ゲート」、「ミッドナイト・ゲートII」、「羽衣天女」収録。
ハートフル少女マンガ風の表紙にダマされてはいけない。内容は鬼畜、鬼畜、ギャグをはさんでこれ鬼畜である。
表題作「明日色の空」は、けなげな美少女が坂道を転げるようにエロ的に不幸になっていくというものだし、「ミッドナイト・ゲート」は女子高生同士の納得ずくレズSMプレイだが、「すべて罠だったのです……」みたいな妙な後味で終わる。
「玄界灘を越えろ!」が唯一、ギャグっぽい短編連作である(でも女の子が縛られる緊縛モノ)。
私・新田五郎が、肉体改造モノが大の苦手であることは多方面に有名なことではありますが、なぜかこのどんとだけはけっこう読んでいる(この単行本にもよく出てくるんだけど)。他の作家の作品ほど気持ち悪いとかも、なぜかあんまり思わない。
それは、このどんとの描く鬼畜路線がかなり「世の中に対する恨みつらみ」という方向でまとまっているからだ。
ちょっと変わったエロマンガを読んでいて何とも不安な気分になる場合というのは、「性欲」というものが制御不可能な何かであり、肉体的なエクスタシーは「たまたま人間の肉体がそのような機能を持っているから」にすぎず、どんどんさまざまな方向へ拡散していくという自己崩壊の恐怖があるからだと思う。そういう「際限のない拡散」が肉体そのものを変容させる方向に進み、それが不安感を煽るというのは理解していただけるかと思う。
その点、このどんとの作品の方向性というのは、肉体変容とかも取り扱われているが明確だ。それはわりとストレートな世の中に対する恨みで、当然「女の子にモテない」ということも入っているだろう。「どうして女の子にこんなヒドいことをするか」というと、たぶんモテないからだと思う(モテてたらすいません)。
コレが「何もかも満ち足りているのにひどいことをする/される」となると、変態のステージが何段階も上がってしまうわけである。世に非道な犯罪は多いが、この間の鬼畜調教路線で事件を起こした「王子様」に対するおおかたの反応も「女に不自由しているわけじゃなし……」というものだろうし。
というわけで、当然少女マンガチックな表紙イラストも、わかりやすい「悪意」の表明である。やっぱり世の中、わかりやすいのがいちばんである。
「非モテ」とか言って理論武装するよりは、エロマンガでも読んでストレス解消した方がいいと思うのは私だけであろうか。
もちろん、非道なことは想像の中だけでやってください、ということなのだが。
作者のこのどんとについては、80年代のロリコン・美少女ブームを経たHマンガ史において、おそらく森山塔の鬼畜路線をより発展して拡大させたという恐るべき功績がある。しかもそこにはふたなり、スカトロ、強制レズ、肉体改造などの変態満漢全席であったことに加え、SF的設定を駆使して独特な世界観ができあがっており、なおかつマンガとしての完成度が高い。
これは作者の代表作である「奴隷戦士マヤ」[amazon]が何度も何度も再販を繰り返していることからも証明されよう(「いつまで経っても終わりそうにない」という難はあるのだが)。
あ、「スーパーロイド愛」[amazon]も再販されてるね。
「奴隷戦士マヤ」の連載が確かミヤザキ事件の前、確か87、88年頃のことで、なんと普通のコンビニに「マヤ」の総集編が置かれていたのである。しかも、それがおそらく美少女マンガ史上初の鬼畜ぶりだったのだ。当時は驚いたもんである。
(05.0923)
週刊少年ジャンプ連載。日本全国のゴンタクレばかりが集まる絶対封建制、ムチャなシゴキが横行する私塾・男塾。
そこに集った男たちの、奇想天外な戦い。
……あらすじをまとめようとしたら、変になっちゃったよ。文庫版第1巻のamazonのレビューのひとつが面白い。
>>作者はそれほど深く物事を考えていません。
うん、それに尽きるよなあ。私もそう思う。しかし、どうにも喉に引っかかった魚の骨のごとく、私の心に微細な違和感があることも否めないので、ちょっくらその辺のことも含めて、なおかつ2005年の現時点から後出しジャンケン的ではあるが思うところを書いてみたい。なお、「民明書房大全」[amazon]をまだ読んでいないので、見当違いの予想を書いていたらご容赦願いたい。
・導入部:ギャグ編
当初、本作は過去の応援団ものや体育会系もののギャグの系譜として始まった。どの程度の構想があったかはわからないが、このままこの路線が続けば同じ作者のコメディ色の強い作品「ボギーTHE GREAT」のようになってもおかしくなかったと思う。
ギャグの形式としては、毎回まいかい男塾の一号生たちが、塾の伝統である妙な試練に付き合わされてヒドい目に遭う繰り返し。読み返してみると「撲針愚(ボクシング)」のような妙な競技を次々とやらされるところまで「ギャグ編」と考えると、ジャンプコミックスで3巻ぶんくらいはやっている。意外に長いのである。
「深く物事を考えていない」ことには同意するが、私個人は「戦前のシゴキ教育をカリカチュアライズした私塾」という設定にまったく意味がないとは、実は思わない。ジャンプコミックスの作者コメントでは「厳しかった父が江田島平八のモデル」と書かれているし、作者が80年代当時の軽薄短小気分にイヤ気がさして、「心のふるさと」を過去に求めていたことは間違いないとは思うのだ。
ただし、その「心のふるさと」が何なのかがサッパリわからない。
少なくとも、軍事教練などをやっていた時代でもないだろうし、「バンカラ」をモットーとした旧制高校でもないようだし、同時期の体育会系でもないようである。
ここら辺のバランスはいくら考えてもわからない。まあ、本当に何を考えてもムダなのかもしれないが、ものすごく単純に言えば映画「網走番外地」の、シリーズ化されるごとに薄れていく最果ての刑務所の受刑者の悲哀と、それと反比例して強調されていくお話の飛躍、そのあたりが宮下あきらの心のユートピアなのではないかと思う(「激!! 極虎一家」はだいたいそんな話であった)。
・驚邏大四凶殺
関東豪学連との戦い。4VS4マッチである。どんどん富士山の上に登っていくのだが、大人数でないと支えられない巨大鉄球を押し上げていかないといけない。
これは、1対1の勝負になったときに仲間が助けに入れない(鉄球から離れると支えていられなくなる)という競技上の意味あいがあったのかもしれない。あるいは「試練」を強化しようと思ったのかもしれないが、例によって作者がどこまで考えていたかは謎である。
それまで、ほとんど戦いにギミックを用いなかった宮下あきらが、当時のジャンプの定番であるバトルものをどこまで描けるか、私個人は半信半疑であった。
この頃は、連載が長期化するかどうかもはっきりしなかったのか、仲間の死に対しても非常に深刻なトーンである。
さらに、この頃は私個人としてはまだ「民明書房」なる出版社があると信じており、もしくはなくてもまさか書かれていることのデタラメ度が異常に高いことに気づいていなかった。
・大威震八連制覇
男塾三号生との戦い。しかも、学園に十数年もボスとして君臨している「大豪院邪鬼」を倒させるために、江田島平八が仕組んだ戦いということに、確かなっていた。
冨樫の兄が、数年前に開催されたこの戦いで命を落としている、という伏線もあったが案の定うやむやになった。
しかし、「デタラメ」なのに不思議と感動してしまうところがあるのも確かで、大四凶殺で塾生たちが喉から血が出るまで応援するシーン、八連制覇だったと思うが渡れない橋を渡るために全員がつながって「人間橋」になるシーンなどはうむを言わせぬ感動があったように思う。
「三号生と戦う」ことを塾長が指示する段階で、すでに「絶対封建制」などどこへやら。まあでもそれも、深く考えても仕方ない。
・天兆五輪大武会
個人的には基本設定としてもプロットとしても、シリーズ中いちばんまともで面白いのではないかと思う。
前2回の戦いは、戦う理由が実に判然としなかったが、この「天兆五輪大武会」には江田島の大いなる目標があった。
クライマックスでは、70年代末から80年代前半あたりにマンガの設定としてよく登場した「影の総理」みたいなものを、そのまま80年代後半に踏襲している。さんざん奇想天外な戦いを繰り広げて最終的には「お約束」に落ち着いたわけだが、そのあたりも現状のジャンプ連載作品と比べると驚くほど淡泊である。
たとえば藤堂豪毅と桃との因縁など、もう少し掘り下げられるかと思ったらそれもなかった。しかし、トラウマの描写とその解決をダラダラ続けるのが定番になりつつある現在、この潔さは読んでいて面倒がなくていい。
バトルものとして強調すべきは「トリックの多様」である。
当時、格闘マンガの流行としての「気」も出てくるが、「ドラゴンボール」のように個人の戦闘能力が数値として上がっていくわけではなく、量的な比較が不可能なトリック重視であったことは、「北斗の拳」などと比べても大きな違いであったといっていい。
実はむしろ「ジョジョ」に近いんだよね。
しかも、個々の能力に「キン肉マン」以上に関連性がないため、矛盾だらけだが雑誌で読んでいるぶんにはあまり違和感がない。
「キン肉マン」は基本的にレスラーなので、さすがに個人の必殺技などはきちんと保持していなければならない。だが本作の場合は、戦士が必ずしも「拳法家」であることすら絶対条件ではない。
だからこそ、たとえば「鞭と鳥」を必殺武器にしていた男爵ディーノが次に登場してくるときにはマジシャンになっていても、物語は破綻しないのである。だいたい、連載で読んでいるとよほど熱心なファンでないかぎり、雷電とかディーノがどんな得意技を持っていたかなんて忘れちゃうしね。
そういう意味では技としていちばん整合性のあったのは、ボクサーであり「ニュー・ブロウ」を毎回開発していた、という設定のJかなあ。
最後も、宮下あきらとしてはまずまず整合性がある方で終わったと思う。
バトルものとしては、「技」の面白さから兄弟間の因縁対決の面白さへとシフトさせていった「北斗の拳」や、とにかくリアルタイムでつっこみを入れられてしまう(それが魅力と言えば魅力なんだが)「キン肉マン」よりは、最後まで「技」にこだわった男塾を私は評価したい。
・七牙冥界闘(バトル・オブ・セブン・タスクス)
「塾長が人質にとられ、マフィアの開催する格闘技大会に男塾の塾生たちが出場させられる」という設定は決してつまらなくはなかったと思う。
ただし、なぜか技に「磁石」を多用したものが多くなったりといったタネ切れ感は否めなかった。
「民明書房」的な解説も、それまではウソをウソとして貫こうとしていたがさすがにおおかたの読者にもウソとバレてしまっていたせいか、ギャグがエスカレートして格闘技ものとしての緊迫感を削ぐことにもなってしまった。
重要キャラ候補として出てきた新入生「東郷総司」は、ムニャムニャな感じで終わってしまうし、キャラのバリエーションがなくなったのかあれほど威厳を持っていたファラオが頭身がどんどん低くなってコメディリリーフとなり、選ばれた戦士で一度も活躍しない者も現れる。やはりそこかしこに迷走の後が見られることは確かだ。
途中でブッたぎられるようにして終わってしまうが、まあ微妙なところだろう。
また、そのブッたぎり方にも味があると感じられるのは、やはり作者がこの頃はノっていたのと、編集者のセンスもあったのではないかと思う。
・五魂遷
再び、お話冒頭の「妙な競技をやらされる」展開に戻る。この頃には終了が決定していたのかもしれない。
「風雲羅漢塾」という男塾のライバル校が表れ、「五魂遷」という勝負をやることに。脇役だった秀麻呂や田沢がクローズアップされるのは彼らにとってまさに「男の花道」であった。連載時はずいぶん唐突に終わったという印象があったが、あらためて読むと最初から幕の引き方を考えていたのかもしれない。
巻末には読みきり作品「やばいYATSURA」が載っている。コレがまた「男塾」風にズッこけたいほどいいかげんな作品で、いつ頃書かれたのかは不明だがやっぱり、
>>作者はそれほど深く物事を考えていません。
を再認識する、シリーズ全体の「オチ」になってしまっている。それにしても、よくこれネーム通ったよなあ……。
・最後に。
amazonレビューの別の人で、「男塾」の戦前教育的価値観にマジ怒りしている人がいたけど、少なくとも言えるのは、作者の意図はどうあれ、「受容のされ方」としてはまったくそのように受け取られなかったということだろう。
「男塾」は、作者が本気か冗談か、とにかく独自解釈の戦前教育的なものが入っていることは確かだが、その上にジャンプのスローガンである「友情・努力・勝利」が降りかかっている。
だから、読者への影響を真剣に考えるなら、そこからときほぐしていかなければならないだろう。まああくまでも「真剣に考えるなら」だけど。
(05.0921)