つれづれなるマンガ感想文10月前半

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一気に下まで行きたい



【雑記その3】・「無意味」としてのレイザーラモンHG
【雑記その2】・無意味の力
【映画】・「サマータイムマシンブルース」 原作・脚本:上田誠、監督:本広克行(2005、日本)
【映画】・「リンダリンダリンダ」 監督:山下敦弘(2005、日本)
【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)
【雑記】・連載マンガにおける「引き」、あるいは読者に与えるストレスについて
【映画】・「ファンタスティック・フォー」 監督:ティム・ストーリー(2005、米)
【映画】・「チャーリーとチョコレート工場」 監督:ティム・バートン(2005、米)
【映画】・「シン・シティ」 監督:ロバート・ロドリゲス、フランク・ミラー、特別監督:クエンティン・タランティーノ(2005、米)
【映画】・「忍 -SHINOBI-」 監督: 下山天(2005、日本)
【映画】・「ボム・ザ・システム」 監督:アダム・バラ・ラフ(2003、米)






【雑記その3】・「無意味」としてのレイザーラモンHG

ダラダラしてたらパタパタッと4、5日経ってしまって、
この間、立て続けに「微妙に不愉快」なことが起こりましたよ!
部屋の蛍光灯が消えたんで、新しいの買ってきて付けても点かないとか……。
めんどくせーな、電気屋さん呼ばなくちゃなりませんよ!!
こういうことばかり書いているから災いが起こるのか……。

「新興宗教入ったら幸せになれますか?」
「1000万円くらい寄付すればなれるんじゃないの。」
「じゃあ、その1000万円自分で使います。それと『ガリガリ君』をネタにしてやんちゃを表現できるのは品川庄司だけとする法律もつくりたい」
「それは1000万円じゃ無理だね。」
「じゃあ、ガリガリ君買ってくる!」

えーそういうわけでですね、「フォー!」のレイザーラモンHGについて書こうと思うんだけど。
今やお茶の間を席巻ですよ。今が旬。私も出てくると笑ってしまう。
で、思うにHGを面白いと思っている人って、HGが「ゲイキャラ」という属性を持っていることに比重を置くか、「彼がとつぜん登場してくる」という「意味の無さ」に比重を置くかで感覚が違ってくると思うんですよ。

私個人の考えとしては、彼を「ハードゲイ」のパロディだということに重点を置きすぎて考えると、面白くなくなる。
たぶんテレビを見ている大半の人は、アレのオリジナルって知らないし、知りたいとも思ってないと思う。
そういえば、「オリジナルを知らなくても笑える」ということで言えば長州小力もそうだな。
そういう時代なのかもしれないな。

で、昔っからああいう「無意味さ」ってテレビに枠が1個か2個あって、つい最近は「ゲッツ!!」のダンディ坂野とかがそうだったけど。いわゆる「一発ギャグ」って、無意味の面白さですよね。
ただ、いきなりやってもテレビではわけがわからないから、何らかのフックというか理由づけが必要になっていて、それがHGの場合は「HG」っていうキャラになっている気がする。

彼の言うギャグの比率にしても、ゲイに引っかけたものととことん無意味なもの、それとゲイに引っかけているように感じられるんだけどけっきょく無意味なものとあって、ゲイに直接引っかけたネタって全体の中でも少ないと思う。
たとえば芸人じゃないけど「悪魔」という設定のデーモン木暮なんかに比べると、ぜんぜん低い。

個人的にはそれが面白いんだよねえ。

で、HG人気って「地上波のテレビ」っていう制約があるからこそ面白いんだと思う。
コレが何でもありだったら、かすんでしまうだろう。モノホンの人とか出られる環境になっちゃうわけだから。 昼間の番組に出ていても、明らかに「ハードゲイ」的なギャグを言っても、周囲の人が「ハードゲイ」的なものとは関係ないツッコミの仕方をする。そりゃそうだ、そっち方面に広げられないもん。
だから「ハードゲイネタをやっても、ゲイネタとして拾われない」ということが頻繁に生じて、その状況自体がシュールになってる。

最初は「ただひたすらにわけがわからない」という、インパクトの強さで狂気性すら感じたけど(笑)、だんだんいじられるようになってきて、正体もじょじょにわかってきて、それでも出ていられるところがすごい。
ものすごい漠然とした言い方をすると、やっぱり吉本って層が厚いなあ、ということも、思う。

最初は、私も本当にハードゲイかと思ってたけど(笑)、そうでないとわかってからも、「あのかっこう」をする必然性がまったくないという面白さが出てきてる。
もともと意味がないから、「ホントのゲイじゃない」とかわかってもぜんぜん困らない。
万が一、あのキャラを放送作家が考えたとか広告代理店がからんでるとかいう事実が発覚しても、アレの無意味性は変わらない。
昔のギャグマンガのキャラクターの面白さだよな。「こまわりくん」とか「おぼっちゃまくん」みたいな、もう登場する段階から面白い顔、姿をしていて言動もおかしいというギャグマンガのキャラクター。

そして、あとはどういう着地点に持っていくかなんだけど、こういう人って「わけのわからないところ」が面白いから、着地点ってホントに無かったりするんだよなー。でも「着地点」って「意味を定着させる」ってコトだから、最初から無意味なものに意味を持たせる、ということは土台無理な話だとも思うのだった。

何が言いたいかというと「無意味ガンバレ」ということなんだよ。
で、「無意味」は当然、意味がないだけでは「手術台の上のミシンとこうもり傘」なのであって、「無意味の意味」を生じさせるにはそれなりの手続きがいる。
だからHG人気って、ハードゲイがどうしたこうしたってコトよりも、無意味に到達するまでにどのような意味づけが築きあげられているかということなんだよな。

それと、あの手足を露出したレザーファッションについて考えると、「ゲイ」を標榜しながら実は女性への「男性性」の強調になっている、というところがすごく面白いね。彼がよく使う「性の対象として見てください〜」っていうのはまさにそういうことでしょ。元ネタがわからんから困るんだけど(笑)、アメリカの男性ストリッパーと、たぶんイメージが混同されてるよな。
オリジナルも「そういう世界」の観点での男性性をカリカチュアライズしたものだとは思うけど、それをパロディ化したことで「男性性」とか「マッチョイズム」というのを二重にパロディ化してるんだよね。

そのように考えると、たとえば「ゴルゴ13みたいな殺し屋なんだけど子守をする」みたいな、過剰な男性性をパロディ化する地点からもう一周してる、とも言える。そして、それは「ホモ野郎!」みたいな悪口がかなり深刻に相手を傷つける(らしい)アメリカ流の方法論ではぜったい出てこない。1回、かたちだけであれゲイ的なものを通すというのは。アメリカだと「ゲイ」に意味が付きすぎているから。

すなわち、「HG」っていうキャラクターはきわめて日本的だということもできるわけだ。そして、「お茶の間」のホモとかゲイに対するタブー感がどの辺に位置するのか、たとえば現状で石橋の「ホモ尾田」はコントとしてもはや成立しないけど、HGなら存在を許されるということが何を意味するのか、を考えることもできるわけです。
……と、いちおうゲイ方面でも考えることは考えてみた。
(05.1014)


【雑記その2】・無意味の力

思い起こせば、私の同人誌活動の三分の二くらいは「いい意味での無意味への挑戦」であった。
しかし、挫折した。
まったく売れねーんだもん。ああ、どうせ私は才能がありませんよーだ!
長澤奈央は、しばらく見ない間におそろしくナイスバディになってましたよーだ!
高岡早紀が超ヤリマンだなんて言われたって、そこがいいんじゃないですか!
そこがいいんじゃない!?(ひと昔前のみうらじゅん風に)

で、以下に紹介するのは頼もしき無意味戦士たちだ。

「ねぎ姉さん」
四コママンガ。最初見たとき「うわーっ、こういうのやりてえーっ!!」と思ったが、作者は後から聞いたらちょっと話をしたことのある若者でした。でもそういうこと知る前から「すげえ」と思ったからすげえ。

うんこ食べまくりマクリスティ改め武者小路糞篤のおもしろはてなダイアリー
こちらはテキストで無意味に挑戦してる。最近では「りりかSOS」の替え歌がすばらしすぎる。

基本的に「無意味」は、「意味」と違ってアクセス数が伸びないのではないかと思われる(上記2サイトがどうかはわからないが、私がやってみた経験としてはそう)。
逆に、「意味」はリンクやトラバが殺到する。懐かしい「先行者」や今をときめく眞鍋かをりブログなどは、意味の結晶体だ。ナンセンスを扱っていても、そこにはマテリアルがある。ロボットだとか眞鍋かをりだとかの。
それもいいんだが、本当にネットの豊潤な成果は「無意味」にあると私は信じる。宇宙で死んだ次元空間画家もそう言っていた(まあこういう「パロディ」も、意味の連鎖で誕生するんだけど)。

何書いてるかわからなくなってきた。あと、「ドラゴンボールやアラレちゃんを記憶だけで描く」っていうサイトがあったんだけどどこに行ったかわからなくなってしまった。知ってる人、いませんか?
(05.1008)


【映画】・「サマータイムマシンブルース」 原作・脚本:上田誠、監督:本広克行(2005、日本)

公式ページ

真夏、SFの研究なんてロクにやらないSF研究会の面々は、部室に入り浸ってダラダラと過ごしている。しかし「部室に入り浸る」大きな理由であるクーラーのリモコンが壊れてしまった! そこになぜか現れるタイムマシン。
そうだ、このタイムマシンで「昨日のリモコン」を取ってくるのだ!

「クーラーのリモコンを取ってくる」という実にサマツな理由により、今日と昨日を行ったり来たりするというタイムマシンの使い方は面白いし、このテのタイムスリップもののキモである伏線の始末も実によくできている。
ただ、今ひとつ乗り切れない部分があった。その大きな理由は「たぶん舞台だと気にならないんだろうけど、映画だと気になるなあ」という部分がいくつか見受けられたこと。

たとえば「やる気のないSF研」のはずなのに部室の内部がいやにSFっぽいポスターやおもちゃなどであふれていたり、「25年後の未来」から来た青年が現在と変わらない格好をしていたり。それに、「SF研より部室の暗室だけ使っているカメラクラブの方が人数が少ない」というのも、舞台なら気にならないが映画だと気になってしまうところだ。
たとえば、「なんでSFをやる気がないのに部室にSFのポスターが貼ってあったりSFマガジンがあったりするのか」は、「SF研究会が実質的にはつぶれてしまったので、そこをヒマな学生たちが部室を利用したいがためにSFファンを騙ってカタチだけやっている」というふうにしたり、未来から来た青年が現在と変わらない格好をしているのは「流行が一巡してまた昔の服が流行っている」というふうにしたり、説明のつけようはいろいろあったと思うんだけどね。

なぜそこが気になるかというと、「タイムパラドックスをわかっていないSF研の面々の悪ノリ」というのがストーリー上重要だからなんだけど。

まあそういうところを置いておけば、「クーラーのリモコン」というマクガフィンがとても効果的に使われていて、そのどうでも良さと、そのどうでも良さに相反する映画上の利用のされ方はなかなかイイものがある。
これで、最後にもうちょっと「運命は変えられないのか?」という切なさが強調されていればもっと良かったと思う。ドタバタは楽しいんだけど、騒動を通してだれ一人成長していないように見えてしまうのはちょっとマズいかな、と。基本、好きだけども。

ヒロインは、若アユのような(おっさん的表現)上野樹里も良かったが、そこはかとなくエロい(決して全面に押し出してくるわけではない)真木よう子が良かった。っていうか、ヒロインがこんなかわいい子二人、っていうのもフィクションのわざとらしさが目立ってしまうところでもあるんだけど。

あ、升毅がどこに出ているのかまったくわからなかった。

・追記
そこはかとなく気になったのが映画全体に横溢する「終わらない学園祭」的、狂騒的とも言える雰囲気だった。
そして徹底して無意味な「クーラーのリモコン」をめぐるドタバタ。要するに「80年代臭」がしたんですよ。
巨大な箱庭で遊んでいるような感じ。
この感じ、脚本家が若いらいしので頭から追いやってしまったんだけど、監督の世代からするとピッタリ、80年代に青春を送った人ですね。
はっきりと、昨今の「セカイ的悲壮感」とは無縁の映画(逆に言えば無根拠の楽観主義に裏打ちされている)なのだけれど、若い世代がこれをリアルと受け取るか、単なる楽しいコメディ映画と受け止めるかは興味がある。
「80年代的な狂騒」はまだやれると信じていいのか。それともそうではないのか、っていうのが考えると面白いとは言える。
(05.1006)


【映画】・「リンダリンダリンダ」 監督:山下敦弘(2005、日本)

公式ページ

文化祭でバンドをやろうとする女子高生たちの物語。

素朴な中にも力強さがあって、なんてことなさにもキラリと光るところがあって、こういう演出方法は好きですね。要するに「キャラが立ってる」ってことなんだよね。
物語って、パターンの中でそれぞれの人間の立ち姿を刻み込むというか、ありきたりのものをありきたりに見せないようにすることが大切なんだ、ということを再認識させてくれた映画。

ギミック、飛び道具的なものはなるべく使わず、でもシメるときはシメる演出という印象。まず冒頭、「何の曲をやるか」決めようとするシーンで、ジッタリン・ジンの「プレゼント」を聴こうと思ったら間違ったカセットから「リンダリンダ」が聞こえてくる、というところから引き込まれましたよ。
この監督は、あなどれないと思います。

前田亜季が成長しちゃってて、だれだかわかりませんでした(笑)。
(05.1006)


【テレビ】・「ハロー! モーニング。」(2005、テレビ東京)

10月2日放送分。

公式ページ

先週からいろいろ考えまして、ハロモニ。感想について「別にやめてもいい」、「やめないで」などいろいろな意見をもらったのですが、
「やって!」と言われたら言われたで苦痛で、「やめろ!」と言われるとなんだか書きたくなったりします(笑)。
テレビにおけるモーニング娘。に関しては、論評としてナンシー関を超える自信はありますので(大きく出た)。
いやマジメな話、「ナンシー的なツッコミまで折り込み済み」という点において、一時期のモーニンング娘。(あるいは「つんく」という名におけるプロデュース)というのは新しかったんです。「ツッこまれることは上等で、なおかつあからさまに戦略的ではなく「俗」に流れる」というのが、ハロプロの恐ろしさだったのです。つんくの目は、選挙の日に、なぜか家族みんなで投票行って外食する家族へ向けられていたんです。要するによくも悪くも「俗」ということです。

だから、秋元康はナンシー的ツッコミでひきずりおろすことはできても、プロデューサーとしてのつんくはむずかしかった。攻防一体の、ある意味鉄壁の力を持っていたのでした。
そして、それが「終わっていく」としたら、(スキャンダルを除けば)純粋に人気の下落しかない。
まさしく「世界の終わりはメソメソとやってくる」なんですよ。大げさか。

今回のメインは第3回「人文字選手権」
ゲストは「炎!」などでおなじみのTIM。そして辻・加護。人文字自体は面白いけど、とにかく「芸人が引っ張っていかなきゃならない状況」、ある意味任されているのに圧倒的な芸人にとってのアウェイ感があります。
その中でのTIMの健闘……を讃えることは、すでに「テレビを楽しむ」ということとは別の次元の問題になっていると思いますが、それなりに面白かったです。

先週の安田大サーカスもそうですが、ここのところの「ハロモニ。」は本当に台本に「TIM:面白いことを言う」とだけ書いてあるんじゃないかという惨状です。
それで思い出したんですが、昔の芸人さんはわりと「台本には何にも書いてない」とか「本番直前で作家が逃げた」とか、わりと「作家は何にもしてない」みたいなことを言ってましたが、今考えるとライバル意識、あるいはプライドの高さからウソを言ってたのかもしれないなあ、と。
そして、たぶん作家さんたちはそういうことわかってたんだろうなあと思います。とかわかったふうなことを書いてみました。別にそういうこと、何も知らないんですけどね。

スタジオライブは美勇伝の新曲でした。

前回の放送

(05.1003)


【雑記】・連載マンガにおける「引き」、あるいは読者に与えるストレスについて

実はマンガ雑誌を読むのが苦痛で仕方がないことがある。理由はいろいろあるのだが、この間ハッと気づいたのは「引き」とストレスの問題である。
まず「引き」の問題。ここで言う「引き」とは、連載マンガにおいて「さあ、次はどうなる!?」と読者に期待を持たせることをさす。
映画を見ていて気づいたのだが、当然だが映画における「引き」は映画の中で決着が付けられる。「引き」と「伏線」は、同じではないが非常に近いことを考えると当然ながら「伏線」も1本の映画の中で決着が付けられる(続編への「引き」もあるが、それはまあオマケみたいなものが多い)。

反面、連載マンガの「引き」は、どこで決着が付くのかの保証が、その後の連載でまったくない。これが個人的にはかなり苦痛である。
たとえば「引き」を次週も引きのままにして、それを3週にも4週にもわたって持ち越すことが可能なのである。そうなると自由度が高くなりすぎて、個人的には「引き」としての興味を失う。

そして、「いったい何週目で、ある引きに対して決着がつくのか」の自由度が高い反面、おおかたのマンガの引きというのはヴァリエーション的には少ない。
たとえば、だれかが何かをたくらんでいるとする。そういう「引き」なら、「そいつが何か悪事をやらかす」以外の予想はほとんどはずれない。「たくらんでいると見せかけて、そうではなかった」ということもあるが、まあマンガ全般的には少ないし、こういう描き方はうまくやらないとやはり「何週目で決着するか」の自由度と同様、「何でもあり」度が高くなりすぎてかえって読者の興味を失うことにもなる。

「男塾」を読んで痛感させられたが、あれはひとつひとつの戦いの長さが一定で、2週から3週で決着が付く、ということがリズムになっていた。だから読んでいてストレスは非常に少ない。

連載マンガの場合、私にとって苦痛なのは「いったいいつ伏線の始末やらワンエピソードの収束やらが行われるのかわからない」という場合が多い。どうでもよくなってしまうのだ。

もうひとつはストレスの問題。これは個人差があるだろうが、連載マンガは読者の受けるストレスを、かなり低めに設定していると思わざるを得ない。
たとえば、戦いの中でキャラクターが一人、監禁されて拷問さているとする。主人公たちは敵と戦いながら彼を救出しなければならない。
この場合、戦いと拷問シーンが交互に描かれるわけだが、こんなものやりようによってはいくらでも続けられるわけである。
だが、やはり「頃合い」というのはあると思う。いつまで経っても救出されなければ読者はずっと宙づりの気分を味わう。それは「続きが読みたい」と思う気持ちになるかもしれないが、その「続きが読みたい」というのは読者がストレスから解放されたい、ホッとしたいからであって、「次はどうなるんだろう?」というワクワクとはまったく違うはずである。

他にもうんざりするようなことはいろいろある。
連載マンガには緩急がある。たとえば必殺技を破られた主人公が修行し、新必殺技をあみだすというくだり。最近はどうか知らないが、昔は修行シーンになると人気が下がったそうだ。地味な展開だから当然と言えば当然だし、「キン肉マン」でスグルがカメハメから技を学んだ際、まるまる修行シーンをすっ飛ばしたのは記憶に新しい(別に新しくないか)。
80年代のジャンプシステムは、梶原一騎が「美学」として必ず入れていた修行シーンをどう「やりすごすか」という方法論的な課題があったのではないかと思われる(それは「そのシーンを飛ばす」という選択肢も含めて)。

要するにそこにはつまらないシーンならつまらないシーンなりの何らかの「工夫」があったのだが、そこに工夫がないと単に台本をなぞっているにすぎないことになる。
キャラクターも同様。たとえば最近の戦いモノでは「ニコニコしているやつほど残虐」というパターンがあるが、ニコニコした敵キャラが出てきて次週へ引き、の段階で、その次の週はまるまるそいつの残虐ぶりが披露されることが予想できてしまうので、正直うんざりだ。しかも、そいつが強いことが証明されなければ戦いが盛り上がらないから、その週は敵の強さと残虐ぶりをアピールするだけで終わるだろう。そして、そこに工夫がなければ一週飛ばして読んでも同じなんじゃないか? と思ってしまう。

いきなり話が飛躍するようだが、上記の問題点に関しては「日本人は、あんがい退屈に強い」という結論しか浮かんでこない。それと、私がストレスフルだと思っている展開でも別に平気で読んでいるようである。

思うに、引きとか伏線というのは手品の、観客の気をそらす法に近いのではないかと思う。おそらく、マジックにおいて観客の気をそらす方法は、バリエーションとしてはあまりないはずである。しかし、そこをうまいぐあいに観客の予想を裏切るようにしてコントロールする。
なんかさあ、マンガ読んでてもそういうことを考えてやってる人ってあんまりいないよねえ。私が知らないだけかな。
(05.1003)


【映画】・「ファンタスティック・フォー」 監督:ティム・ストーリー(2005、米)

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かつて地球に降りそそぎ人類を進化させた宇宙線か何かが、地球を微妙にそれてまた飛来するという。それを測定して何かの実験をするために、宇宙ステーションに行った天才科学者・リード、その元恋人・スー、リードの親友・ベン、スーの弟・ジョニー、そしてリードのライバル・ビクター。
しかし予想を上回る速度でその宇宙線か何かがステーションに接近、それを浴びた5人は各自違ったスーパー・パワーが身に着き、ベンなどは姿まで変わってしまう。
ビクターだけが何ともないように思われたが、彼の身体にも確実に変化がおとずれていた。
リード、スー、ベン、ジョニーは、スーパー・パワーを利用して悪事をはたらくビクターと戦うことになる。

いやあ、終始見ていてニヤニヤしっぱなしの映画でした。わたし的には最高。
マーヴルコミックスの映画化作品をすべて見たわけではないけど、出来としては「スパイダーマン」に匹敵すると思う(注:私は映画「デアデビル」を非常に評価し、「キャットウーマン」も非常に楽しめた人間なので、その辺割り引いて読んでください)。

まずそれぞれのキャラクターの心理描写が、深刻になりすぎず軽くなりすぎず、実にうまい具合に描かれている。次に、「善と悪」の図式も、それほどシリアスなものではない。だが決して表面だけをなぞっているような感じではなく、一人ひとりのキャラがきっちり立っている。
作中最もシリアスな境遇となってしまったベン(ザ・シング)が自分の能力を受け入れるまでの過程を描きつつ、実はもう一方で能力が着いたことで何も損をしていないジョニー(ヒューマン・トーチ)が自分の力をコントロールできるようになる過程も描いている(しかもそれがクライマックスになる)など、まったくうまい。

監督は「TAXY NY」の人だそうで、あれも何も考えずにすむ楽しい映画だったが、本作も作風と題材がマッチしていると思う。

また4人の能力のバランスも悪いし説明もそこそこいいかげんで、しかし今風のガジェットを駆使してまずまず、笑える程度に抑えているのもいい。
だいたい、スーと一緒に透明になり、ジョニーが火を出しても燃えないスーパー・スーツ、あれ「同じ宇宙線を浴びているから同じ能力が着いている」ってぜんぜんDNAの進化と関係ねえーだろーッ! とか、「光を曲げられる」インヴィジブル・ウーマン、光を曲げられるなら透明になりかけのときになんでブラジャーだけ浮いて見えるんだよ! とかね、そういうのぜんぶ許せる(笑)。
繰り返すけど、最高でしたわたし的には。
(05.1002)


【映画】・「チャーリーとチョコレート工場」 監督:ティム・バートン(2005、米)

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貧乏だが思いやりのある少年・チャーリー他の子供たちが、不思議なチョコレート工場に案内されて見て回るという映画。

バートンの映画ってつくづくぜんぶ同じで、まず童心と、非常にエキセントリックな能力を持った人物が現れて、童心に基づいてやりたい放題のことをする。しかし、それは普通の人々にとっては受け入れられないと哀しみに沈む(まったく哀しまない場合もある)。それでワンクッションあって、ヤケクソんなって微妙にイラッと来る、普通人があぜんとするような大イタズラが繰り広げられる。
この「イタズラ」の部分が楽しめないと、置いてけぼりになって観ていて最後までイライラすることになるのだが、本作はそもそも「チョコレート工場」で繰り広げられる悪ふざけを見せつける映画なのだろうなと予想がついていたから、とても楽しめた(逆に言うと個人的には「マーズアタック!」は楽しめなかった。だいたいモデルとなった宇宙人、知らねーし)。

ひたすらに映像の奔流に身を任せていればいい、たいへん好きな映画。

さらに、チョコレート工場の主であるウィリー・ウォンカのお菓子に対する創作姿勢が実に面白い。「子供のために」なんてロクに思っちゃおらず、ただ自分のつくりたいものをつくっているだけなのだ。だからお菓子を小馬鹿にする子供や上昇志向に満ち満ちた子供なんかは大嫌いなんだよな。
あー、わかる、わかるよその気持ち(笑)。
(05.1002)


【映画】・「シン・シティ」 監督:ロバート・ロドリゲス、フランク・ミラー、特別監督:クエンティン・タランティーノ(2005、米)

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犯罪に満ち満ちた街、シン・シティでの男たち、女たちの戦いをオムニバス形式で描く。
元はアメコミらしい。

これはあまり楽しめなかった。アメコミとしては、マスクをかぶったスーパーヒーローが登場しないリアリズムみたいのを追求していることに意味があるのかもしれないが、プロットとしてはハードボイルド小説にもっと面白いものがたくさんあるし、我が国には小池一夫や梶原一騎や雁屋哲がいるんだから、わざわざ本作を観る必要はないよなー。

タランティーノが担当したエピソードは何となく始まってすぐにわかった。まあタランティーノのファンか、あとジェシカ・アルバのファンが観ればいいんじゃないのかな。

それと、女児誘拐がここんところのアメリカの犯罪ものの定番ネタで、それは実際にそういう事件が多い、あるいは注目を集めているということなんだろうけど、フィクションとしても観ていて不愉快になるよなあ。
(05.1002)


【映画】・「忍 -SHINOBI-」 監督: 下山天(2005、日本)

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山田風太郎原作「甲賀忍法帖」の映画化。 うーん、ほとんどの忍者が真価を発揮せずに死んでしまったりするのはどうなのか。また、もともと反戦というか厭戦気分の強い忍法帖を現代の戦争(っていうか9.11以降なんだろうなこれは)について考えて再解釈しているのかもしれないといった深読みもできそうなんだけど、なんかそういうのいらない気がしたなぁ。
どうしても、どこか安普請な、ガッカリ感が漂ってしまうんだよ。

それと、「お色気」がほとんどないのがひどい(いちおう黒谷友香がエロ要員なんだが)。グラビアをやっていた沢尻エリカがふともものひとつも見せないのは、それはどういう意味があるの? なんか着物の下にジャージを着ているような、変なかっこうなんだよ。

ただし、最初の林の中での忍者対決はなかなか迫力がある。それだけは認める。それと、主役二人の能力が原作とは変えられているんだけど(他のやつらも多少変えられてはいるけど消極的改変)、これって二人が対決したときに仲間由紀恵の方がぜったい強いでしょう。
仲間由紀恵の能力が観てビックリ、爆笑ものなんで、それもまあ観る価値があると言えばあるかも。しかし1800円払うのは、正直どうなのかなって出来。
(05.1002)


【映画】・「ボム・ザ・システム」 監督:アダム・バラ・ラフ(2003、米)

公式ページ

HIPHOPの重要な要素と言われるグラフィティ(要するに壁にスプレーでロゴなどを書いてしまう違法アート(?)のこと)というのがある。本作は、時代の閉塞感の中で、このグラフィティを書き続ける若者たちの誇りと苦悩を描く。

日本でも渋谷あたりでよく見られるこの「グラフィティ」、ヒトの壁に勝手に落書きするんだから完全に違法行為である。 「違法なのにやらずにはいられない」という観点からすると、本作はものすごく単純に言えば「暴走族もの」、「ヤンキーもの」にテーマが近い。

この映画の若者たちは、違法を承知で壁に書き続ける。それが自らの唯一の表現手段であるとして。こういう違法なことをテーマにしているだけで眉をひそめるヒトもいると思うが、私個人はこと本場にあってのグラフィティについて何も知るものではないし、またこの映画を見るかぎりでは登場人物の「それをやらざるを得ない」という「リアル」は伝わってきた。
以前に私が書いたことと(「いいとも」に関して)と矛盾してしまうかもしれないが。

さて、前述のとおり、本作はものすごくおおざっぱに言ってヤンキーもののカテゴリーに位置する。まあ、もともとがHIPHOPと不良は切っても切れないので当然ではあるのだが、本作には「まとまりのいいヤンキー映画」のすべてが詰まっていると言っていいだろう。
時代の閉塞感を感じる若者、その親友、親友の愛する弟、「スプレーを盗む」ということにだけ快感を覚える変わり者の友人、かつてグラフィティを書いていた、HIPHOPに関わっていた大人たち。一人は俳優として成功、もう一人は刑事に。アーティストとなった者もいる。反面、優れた「作品」を路上に残しながら変死を遂げた主人公の兄……。

さらに「ヤンキー的要素」は続く。チンケで容疑者の虐待を何とも思っていない警官への復讐、政治運動に関わっている恋人、将来は美大へ行くことを願う母親。主人公は死んだ兄が「だれも消すことのできない理想の場所に、グラフィティを描くことを夢見ていた」と知る。
先輩、親友、進路、恋人、親。さまざまな問題に直面した主人公がとった選択とは……?

厳しい言い方をすると、ここにはプロットとしては新しい要素はないかもしれない。しかし、「グラフィティ」という世間的には認知されていないアート、あるいは行為を、お約束的なプロットにまでおとし込んだことにこそ意味があると私は考えている。

私の個人的見解としては、優れた青春ものには神話的要素が必ず加味してある。「伝説の〜」のタグイがそれだ。
日本映画の「ブリスター!」[amazon]には「幻のフィギュア」、田中宏のマンガ「BAD BOYS」には「伝説のバイク」が登場する。本作の場合は「だれも書けるわけがない、しかし消すことも困難な場所」がそれだ。

もっとも卑近な「ストリート」を描きながら、超越的な何かを目指す、そういうところがいい。「いいとも騒動」について言えば、アレにはそれを見つける覚悟も、何を掴めるかという見込みもなかった(自主映画「ワラッテイイトモ、」(→感想)にはそれがあったと思っているが)。
「新しいこと」を、常に神話の原初パターンにうまく落とし込んでいくことは、私にとって重要なことなのだが。
(05.1001)

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