つれづれなるマンガ感想文4月前半
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一気に下まで行きたい

2002年

4月30日(火)

ああ今日も働いた、とっとと帰るべ、と思ったら、駅の構内に近所にブックオフができたという張り紙が。
というわけで、行ってみた。
しかし店内でCDを見ているうちに腹が痛くなってきて、ガマンしながらもう一度店(自分が働いている店)に戻ってトイレに入って、出て、家に帰って寝た。

4月29日(月)

昨日の午後11時半から、吉祥寺でJポップイベント「EXPOP」
すでにバブルBが回していた。吉田等もすでに来ていた。
イベントそのものは、おそらく前回の倍以上のお客さんが入り、盛況だった。私はただの観客でしかないけど、いろんな意味でJポップのイベントに可能性を感じているので、盛況なのは嬉しかったですよ。

ゲストはコモエスタ八重樫と「王様」。日本語直訳ロックの王様ね。コモエスタ八重樫のDJはもう言うことないっていうか。盛り上げまくってた。MCで「いろいろイベントに出てきましたが、こんなによくわからないイベントは初めてです」と言ってた(笑)。
「王様」は、私は個人的に興味がなかったんですが(そもそもロックの名曲を知らないので。周囲のロックファンの王様に対する一時の食いつきっぷりは、理解したくてもできない部分があった)、見たら見たでそれなりの感慨があるもので、いろいろ面白かった。
形式としては、王様が自分で演奏して歌ったり、自分のCDをかけたりといったもの。中でも個人的に面白かったのは「タイタニック」の主題歌を演歌調にして歌ったというもので、吉田等も言っていたがあまりに懲りすぎてわけのわからないものになる一歩手前になっていた。

昔むかし、「お笑いスター誕生」司浩司という人がいた。九十九一(まあ、まずそういう「タモリの再来」と呼ばれたコメディアンがいたんだよ)の「ニュースのパロディ(テレビニュースを読むふりをして内容はデタラメというギャグ)」をそっくりマネして(師弟関係にあったとか知り合いだったとかそういうのあったのか? 不明)いたんだが、だんだん種切れになってきた。最終的には平安貴族のかっこうをして「今日は平安時代のニュースをお送りします」とかやってた。
そういうよくも悪くも「末期感」の迫力のようなものが「演歌調のタイタニック」にはあったなぁ。お金が貯まったら買おう(その場で買えば王様のサインがもらえたのだが)。

後は私の大好きなCyber-ber(「wakuwaku」のCMソング)の曲がかかったりと、楽しいイベントだった。
物販で買い逃したものがあったけど、お金もないし、そういうのはもう仕方ないと思ってあきらめる。

イベントが終わり、すぐ仕事に戻らなければならないという吉田等と「すき家」に入って、私はつくね丼、吉田等はうな丼を食べながら少し話をする。

以前私が見た夢、
「亡父と寿司屋に行ったらそこが異様に汚くてボロくて、寿司屋の主人に寿司を出してもらえず身の上話を聞かされる。目が覚めたら寿司屋の主人の顔が現実世界のペンキ屋のオヤジのものだったとわかる」のことを話したら、
「目が覚めたら自分の父親の顔がペンキ屋のオヤジのものだったとわかる」とカン違いされた。
いくら私でも、そんなに人の顔がコロコロ変わる夢は見ませんよ。
二人で、緑が背広のルパンと次元が笑い合うように笑ったよ。

そして別れた。吉田等はそのまま会社に行ったのかなあ。

・アイドルコントについて
録画しておいた「ハローモーニング」を見る。この中の「バスが来るまで」というアイドルコント。始まるときは「もはや絶滅の危機にあった女子のアイドルコントが今蘇る!!」とたいへんに期待していたのだが、フタを開けてみれば「テレビ東京が『ヤンヤン歌うスタジオ』で培ってきたモノは何だったのか」と思わせる、アイドルコント史上最悪のデキとなってしまった。さらにやってるのが「モー娘。」だけあって、おそらく後々まで残ってしまうだろう。ところどころに面白いところはあるのだが、一人ひとりのギャグがまったく有機的に結びついておらず、間も悪くて続けて見ていられない。

対して、同番組の「ぴょ〜ん星人」は、アイドルコント評論家の私としては(アイドルコント評論家なんていないから、いいかげんなことをなんぼでも言えるのだ!!)かなり高水準だと思っている。
最初は、「ぴょ〜ん星人」役のミニモニ。たちがバカ騒ぎするだけのモノだったが、時間が経って今では「ぴょ〜ん星人」役のミニモニ。たちがもっともっとバカ騒ぎするだけのものとなった。すばらしい。
なにしろ、「コント内コント」がある。ぴょ〜ん星人が何かに扮装して、家族コントなどをやる。当然「ぴょ〜ん星人」の服を着ていて、そのうえに背広やガクランを着込んでまったくオチも何もないようなコントを猛スピードで(←ここが重要)やる。 なかなかに疾走感がある。

……と、ここまで書いて、私がアイドルのクダラナイお遊びを異様に持ち上げているといぶかる向きも多かろうと思う。実際、その要素はある。というか、「アイドルコント」そのものがそういうものなのだ。
Googleで「アイドルコント」で検索したら、引っかかったのは主にスマスマのコントであった。
スマスマのコントには賛否があり、恋人や奥さんがスマスマコントを過剰に持ち上げることをいぶかる殿方も多いようだ。ここで面白いのは、スマスマのコント書いてるのって、欽ちゃん系の放送作家でしょ確か。「コサキン」もやってる人(あ、でも三木聡がやってたって聞いたこともあるが……別番組だったか。忘れた)。
だから、ものすごく過激なことやシュールなことはしないんだよ。そこへもってきてSMAPの微妙に無難な感じが入るから、お笑い芸人がやるようなハジケた感じにはならない。

それを評価するかというのは、「欽ちゃん的笑い」を評価するかどうかに微妙にかかってくるから面白い。私は個人的には欽ちゃん全否定には賛同できない。もちろん、「スマスマ」は「SMAPは面白いことができる」という前提で成り立っており、それが中居を筆頭とするメンバーの他番組での「面白そうな感じ」を印象づけている一因でもあり、それは問題と言えば問題なのだが。

そんなことを考えていたら、ここここの「7発目/めくるめくアイドル仕事・あずまんが大王(2001.03.01)」のくだり、「『あずまんが大王』はアイドルコントである」という見方は、なかなか示唆に富んでいると思った。
アニメ版に対するネット上の評価の別れ方は、確かにアイドルコントに対する評価の温度差と似ている。ものすごくキャラ萌えしていれば見れるだろうし、そうでなければ「まあ、普通」くらいで済んでしまう。

そんなアイドルともお笑いともカテゴライズしがたい「アイドルコント」を、私は「アイドルコント」という枠内におさまるかぎり愛しているんだけどね。

4月28日(日)

朝は、他の×××の×××などの×××した。別に×××だから×××いうわけではなく、×××が×××それなりに××××××らしい。
少し早めだったが9時少し前には×××××××し、×××で×××の駅まで行ってそこから店へ。
よく考えたら、×××の×でJKマンとバッタリ会う可能性もなくはないので、最初は9時半ギリギリに行こうかと思っていたがやめたのだった。

店には10時頃着き、×××で買ったサンドイッチを食べた。30分ほどしたら親が来た。その後すぐ、×××つくった×××を食べた。自分自身、JKマンのふるまいの話を聞く前は非常に静かな気持ちではいたのだが、親からどうだったか話を聞くとJKマンの行動には案外問題がなかったということで、逆に自分のしてきたことはなんだったんだろうと疑問が沸く。

しかし、考えてもキリがない、と思い直す。

×××××から吉田等と新宿紀伊国屋でチケット受け渡しのため待ち合わせだったが、30分ほど時間があまったのでゲーセンに行ってUFOキャッチャーをやる。そうしたらこげぱんが取れた。足に鯉のぼりをはいていた。プレーンなやつが欲しかったのだが、とにかくとれて嬉しかった。おれはこげぱん支持派。

時間に紀伊国屋へ行くと、吉田等がいた。しかし仕事が忙しくて30分くらいしか時間がとれないという。そのまま会社にトンボ帰りをするというので驚いたが、仕方がないので近くの××××という喫茶店に入ってチケットの受け渡し。
吉田等がコミティアに参加できない、ということでコミティアの方の金の計算を忘れてしまったのが少し残念だった。なぜなら、お金を請求できないから。

吉田等といったん別れ、それなら4時半に集合しているながたさんたちと合流できると思い、また新宿紀伊国屋に戻る。しばらくして、ながたさん、ながたさんのお兄さん、さらにしばらくしてながたさんの教え子2人が来る。
みんなでタイ料理屋に入る。さらにしばらくして、小杉さんとその友達(女性)が来る。

話を聞くと、結婚パーティで私の粗相はなかったようである。ひと安心。しかし、二次会の記憶がほとんどないことには変わりがなく、話を聞いているうちに同じテーブルにいた人の顔を思い出すなど、なんだかドラマの中の記憶喪失みたいなことになっていた。

時間が来たのでみんなでシネマ秘宝館へ行く。今回は19回目。ひと言で言って「バカ映画の上映会」。いつもどおり、一発ギャグあり、つくり込んだものありとバラエティに富んでいた。

個人的に印象に残ったのがどんぱちプロダクション「特殊相対性幸福論」
精神的にバラバラになった家族。両親の夫婦喧嘩に嫌気がさし、小学生の娘が夜の街に飛び出していってしまう。呼び戻そうとする両親をおさえ、わざわざ問題をどんどん複雑にしていく謎の人々。携帯電話をバズーカ砲で打ち出して、外にいる女の子に持たせ、誘導して自力で帰って来させようとする。

何というのか、要するに日常のことどもに軍隊ごっことか警察ごっことかお店屋さんごっこ的な要素を持たせて遊ぶという、私が思い出すのは昔の(最近は知らないから)押井守作品とか、島本和彦作品とか、泉晴紀の「夜行」とか「かっこいいスキヤキ」とかなんだけど、そういうのをまず連想させる。しかしひとひねりしてあるのは、仕掛けるイベントそのものが意味があるようでいて、それそのものがまったくないという点。
この無意味さが、かえってテーマを浮き彫りにしている。面白かった。

自主映画上映会を見始めて思うのは、自主映画の製作者は「ものをつくる」ということにすごく自覚的で、常にそういうことを考え、自分の考えをわりと言語化できるということ。おそらく作品づくりの際の「金」と「手間」と「人間関係」という、めんどうなモロモロがあるからだと思う。さらに言えば、完全アマチュア志向の場合も常に「なぜ撮るのか?」を考えざるを得ないということなんじゃないだろうか。
この辺は、自主制作マンガにはあまりないことではないかと思う。

私はいつも、「その場でうまい言葉が浮かんでこない」という理由で芝居や映画の感想アンケートを書かない。思えばそれが自分のコミニュケーションスキルのダメさのひとつかとも思うが、まあそんなネガティブな思考はヌキにして、今回会場の外でカメラ回している人(「映像温泉芸者」で司会をやっていた人)がいましたよ。
「感想をください」ということだったので、「あと1回ですががんばってください!」と言いました。

電車でながたさん、ながたさんのお兄さんと吉祥寺までは一緒、それからDJイベント「EXPOP」の行われるスターパインズカフェに行く。要するに、昼間に吉田等に渡したチケットというのはコレのものだったのである。

4月27日(土)

2日戻らないということで、明日の準備もして店に行く。

店に行った帰りに×××××××へ××。入れるのは××××からで、時間が余ってしまったので太る太ると思いつつ近くの「ザボン」でラーメンを食べてしまう。
そして、そこから×××に××。

×××は数年前、×××××の前日の頃と変わってはいなかった。しかし、××××もなく、××も××はなく、こんなところでなぜ×××××もするかはいまだにわからない。××××。

しかしさすがに××ひとつせず、実に静かで、××××××××××××××くことができた。
夜中に目が覚めたが、やはり静かだった。テレビも少し見るが、ブルマー姿の女性タレントに、キレながら極楽とんぼの加藤がケリを入れているシーンが映った。なんだかイヤな気持ちになって、すぐ消した。
しかし、それほどダークな考えにも陥らなかったと思う。

4月26日(金)

突然、JKマンが来るという。しかも、勝手に店を待ち合わせ場所にして、しかも午後5時に×と××というのだ。

5時というと店ではけっこう忙しい時間帯なので、××は電話口で珍しく怒っていた。私もJKマンの無神経さに我慢ができず、どうしていいかわからず、×××××××に×××ことにした。
怒って××にそう言ったら、××××××××××るという。数年前、×××××の前日にJKマンが家に泊まりに来ると言ったときに××った×××××の×××××××は、××したらなんと×××××もした。とてもではないが×××××くらい××××らわなければやっていけない。素直に××××××××。

・「BRAIN VALLEY」(下) 瀬名秀明(1997、角川書店)読了。

どこかの山奥にある最新脳科学総合研究所「ブレインテック」は、シリコン・ヴァレーになぞらえて「ブレイン・ヴァレー」と呼ばれていた。ここに研究員としてやってきた孝岡は、地元で巫女的役割を果たしている女性・鏡子と接触したことにより、恐怖のアブダクションを体験することになり……。

「脳」と「心」、そして「神」を現代の最先端科学で結び合わせるとどのようになるか、というのが小説の骨子か。引き合いに出される個々の事例には面白いものがあり、投げ出さずに最後まで読めたという点においてはエンタテインメントとして及第点なんだろうけど、結論を言えば、着想自体はそれほど珍しいものではなかった。
結局、本作で最も目新しい点は、最近ではSFの題材に取り上げるのもはばかられるような「アブダクション」(宇宙人に誘拐されたとかそういうの)をうまく話に組み込んだという点くらいではないかと思う。

ネットでざっと読んだ人の感想を見たが、ラストがあっけなかったという意見が多い。私はラストうんぬんよりも、登場人物全員があまりに陰気なところが好みに合わなかった。
それと、こういう「秘密が少しずつ解き明かされていく」話は、秘密を知っている者が最も優位に立つことになるのだが、明かされていく過程のバランスもあんまり良くない。また、最後の最後まで真実を知っている女が出てきて、コイツが科学者そのものを小馬鹿にしているという設定のため、他の登場人物(全員科学者)が感動しようが救われようが、ラストまで全員なんとなくアホに見えるのも考えものだ。

作者のアプローチには強いオリジナリティを感じるし、「最後までページをめくらせる」という意味では小説家としての才能を感じないわけではないんだけど、「この人、もしかして『神』テーマのSF小説についてはあまり知らないんじゃ……」と思わせてしまう部分もある。
だから、主人公の孝岡が最後にたどりついてしまった着想が、おそらく作者にとってはオリジナルなものだったのではないかと思うが、少なくない読者にはわりとあっけなく、陳腐に感じられてしまうのではないだろうか。

個人的には、宇宙人とか神について考えるとき、もう少し陽性の部分を残しておいた方がいいと思った。陽性で、ええかげんな部分。本作は、とにかく深刻すぎるんだよね。

エピローグに関しては、ネットでまったく見当違いの怒りをぶつけていた人がいたけど、アレは「人間は事実がどうあれ、目の前に起こったことをそのときどきに受けとめていくしか生きていく方法はない」ということなんだよ。そういう作者の意見には同意する。
しかし、こうした「自分が体験したできごとが虚構か現実か」をテーマとする小説の場合は、虚構と現実をシャッフルしながらも、どこかに明確な違いを仕掛けておかないと最終的に何がなんだかわからなくなるという(ディックなんかは投げっぱなしにするでしょ)、構造的な問題点があることも確か。
そういう意味では、本作は虚構と現実をうまい具合にシャッフルできた代わりに、それをまとめることができなくなってしまったという印象はある。

あと、全体通して、長い。この3分の2の長さでいい。「小説は長いほどイイ」などと内藤陳かなんかが言っていたが、あんまり長いと読書が息抜きとか気晴らしの意味がなくなって仕事みたいになっちゃうし、個人的にアメリカのベストセラーになりそうな上下巻のエンタテインメント小説の技法がかなり嫌いなので、日本人にはこういうの、マネしてほしくないと思った。マネしたかどうか知らないけどね。

登場人物たちにテキトーにトラウマを持たせて、憎ませて、恋愛させて、ちょっとした本筋とは関係ない事件があって……なんて、続けりゃいいんだったらそれこそお昼の30分ドラマと変わらないわけだから。今やってる真珠夫人とか、ちょっと前の女優・杏子とか。
いや、あの時間帯のドラマのああいう手法にはむしろ賛同するんだけど、アメリカのベストセラー小説ってもうその手法が絶対、これが世界標準みたいなツラしてるじゃない。そんなの知るかっつーの。もっと短いの書け!!

4月25日(木)

朝起きたら、なんだか喉が痛い。死。

せっかくの休みだというのにゴロゴロして、来もしないメールを待ったり、参考人招致された辻本清美をテレビで3回も見たり、「どっちの料理ショー」に憤りを覚えたりした。あと野球のせいで昨日録画した「ハローランド」が入ってなくて、かわりに千野アナと「アヤパン」のアナウンサーが出てる秋元康監修のグダグダな番組が入ってた。
だから「おはスタ」を上から録画して、速攻で消した。

図書館に本を借りに行って、帰りに歩きながらマンガ読んでるバカ男と、自転車に乗りながらケータイで話し込んでるバカ女などに遭遇。最近は急に話し声がしたと思ってビクッとして振り返るとケータイを使っているやつ。あと、以前ケータイ使ってるんだと思ってよく見たら、鼻くそほじってる人がいた。

4月24日(水)

朝、目が覚めたらパソコンの横に飾ってある「シャア専用アッガイ」のオモチャの爪がひとつなくなっていてブルーに。最近のオモチャは細密なのはいいが、部品がひとつなくなると二度と出てこない。もう気分最悪。泣いた。

その後、アッガイだと思っていたものがズゴックだったと判明。「チョコレートだと思ったらボタンだった」くらいのショックを受けた。まあそれは嘘。

・「BRAIN VALLEY」(上) 瀬名秀明(1997、角川書店)読了。

4月23日(火)

朝っぱらから、カードの請求書を見たらウン万円という天文学的な数字で一気にブルーに。

瀬名秀明の「ブレイン・ヴァレー」という小説を読んでいるが、実に陰気な話。読んでて気が滅入ってくる。最後まで読めるだろうか。

最近、私はある種のギャグのことを「チャッカリギャグ」と命名し、批判している。「実はチャッカリしてました」、あるいは「実はズーズーしいのでした」というオチのモノである。
たとえば、CMでは壇ふみと壇ふみより背が頭ひとつぶん小さい女性(阿川佐和子?)の天ぷら油のCM。お料理の先生か何かに、あげた天ぷらを「おいしい!」と言われて、壇ふみが「この人(壇ふみより背が頭ひとつぶん小さい女性)がどんどん揚げますから」と言うヤツ。「実は壇ふみはズーズーしいんでした〜」というオチだ。

そもそも、このCM自体が女性二人が天ぷらをあげているという不自然なもので、もしかして嫁姑ギャグの初期プロットを改変したものではないかとも勘ぐれるのだが(嫁姑ギャグも、ベタでどうしようもないもののひとつ)、まあとにかく壇ふみのしてやったりぶりに殺意を覚えることは間違いない。壇ふみのオヤジも壇流クッキングをしながら泣いているに違いない。

そこら辺の4コマ誌を手にとっても、このテのものは実に多い。ストーリーマンガでも、クッション的に使われるギャグにはこの「チャッカリギャグ」が実に多く、とくに少女マンガでは「一見冷たいカッコいい男」のキャラ性を読者にアピールする際に使われる(要するに、ヒロインの女の子にチャッカリしたことやズーズーしいことをして、物語の導入部で反感を持たれるわけだ)。

しかしこれは考えてみれば不思議な話。というのは、ある方面では「ツマラナイマンガ」の象徴である「かりあげクン」は、この「チャッカリ」の典型のような話が多いことも事実だが、そうではなく、かつ現在のマンガには失われたものが混ざっているからだ。

たとえば、かりあげクンが地図を見ながら道に迷っている。それを助けてあげようとだれかが近寄ると、かりあげクンは世界地図を見ていた、というオチがある。
まあたいして面白くないが、この場合かりあげクンはわざわざ人を騙そうとしてムダなことをしている。要するにいたずら心なわけだが、かりあげクン以前の4コマキャラというのは、わざわざ人を騙すためだけのために、無意味なことをする酔狂な人、というのも多かった。

ところが、いつの間にか安易なギャグは「チャッカリギャグ」のみとなった。今や、安易な作品の中にはわざわざいたずらのために手間をとろうとするキャラクターなど存在せず、ひたすらに己の欲望にのみ忠実で、それを「ギャグ」と言ってはばからない本当にズーズーしいやつばかりとなった。
そのズーズーしさの極北がおそらく「だめんずうぉーかー」であって、ここではもはや登場人物がズーズーしいということにすら自分たちが気づいていないフシがある。まあここまでやればある意味立派かもしれない。

で、どうしてこういうことになったかを、たとえば現代では人間関係が非常にギスギスしていてズーズーしさに突破口を求めたい読者が増えているとか、今まで「我慢しなければならない」こととされていた抑圧が抑圧だと認識されるようになったからだという好意的な見方はできるだろう。だが、私がそんな見方をするわけがないっつーの。
たぶん、現代日本最大のルールである「人に迷惑をかけてはいけない=人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」という考えが良くも悪くも欺瞞であることにみんながイライラしており、他人に気を遣わずに自我を通すことに「潜在的に」快感を覚え始めているのだ、と思う。
「潜在的に」というのがミソで、「チャッカリギャグ」を読んで喜んでいる人の多くは他人の人格(もっとはっきり言えば「人権」)を、もしかしたらときには侵害してもいいのかもしれない、と思い始めているということではないのか。

そして、それは時と場合によっては必ずしも間違いではないはずだ。いきなり話が飛躍するが、いじめで自殺する少年と、無意味に人をぶっ殺す少年はいるのに、なんでいじめでいじめっ子をぶっ殺すいじめられっ子の少年が比率的に少ないのか。たぶん「他人に迷惑をかけてはいけないから」死んじゃうか、「他人に迷惑をかけてはいけないから」こそ逆にやってやろうという気になってしまうんだろう。でも(推奨はしないが)思考ルートとしては自分をいじめたやつをぶっ殺すというのはあり得ることではある。
何が言いたいかというと、そういう生活領域でのシビアな居場所のブン取り合いが自覚されてこその「チャッカリ」なのであり、おそらく戦後のある程度の時期まではそれが自覚されていたものと思われる。
しかし、いつの間にかグダグダになって表面上はいつもみんなが「地球をきれいにしよう」とか「イルカは頭がいいですねえ〜」とか「命の大切さが蜂の頭」みたいなことを言わなければいけないような雰囲気になったから、他人の領域への浸食がタブー化、無自覚、陰湿化したのであって、その結果が「チャッカリギャグの蔓延」になったと私は勝手に思い込んでいる。

そもそも「チャッカリ」とか「ズーズーしい」というのは、もっと昔のシビアな時代には強者のイヤな部分でもあったかわりに弱者の防衛手段でもあったはずだ。「七人の侍」を見ればそれくらいのことはわかる。だから、私は「一休さん」のとんちを嗤うギャグはあまり好きではない。
「とんち」というのが、武力でも政治力でもない一種の「無力の力」だったからこそ、一休さんはヒーローというかトリックスターたりえたのであって、それをもういっぺんひっくり返して「一休さんがトラに食われてああ面白い」とか言うのは一種の倒錯である。しかも倒錯だと自覚してないんだったらそれは教養が足りてないということだ。しかも、こういうのを現代風のチャッカリだと思っている輩が多いから世も末だ。

もっとも、基本的に人間というのはそういう悪しきズーズーしさをブッ飛ばす方向にはあまり向かないということも最近気づいてきた。そういう意味で言えば一億層陰謀公家。みんな、ヘンな眉毛でも書いて「〜でおじゃる」とか話せばイイと思う。

「北斗の拳」は、おそらく武論尊のさしがねで漢(おとこ)同士の人間ドラマとなった。しかし、私が夢想していたのは初期の「ゴッドランド」をケンシロウが叩きつぶすような話を毎回、延々と続けるということだった。考えてみれば、ゴッドランドのカーネルは冷戦下の権謀術数家(チャッカリしたやつら)に屈辱を味合わされてあのような国をつくったのであった。しかし本人も、なんか超能力みたいな陰湿な技を使うヤツだった。
そういうヤツがボコスカにやっつけられるのが面白いマンガだった。つまり「北斗の拳」は、やっぱり初期がいちばんいいと思う。北斗の拳はウルトラマンやガンダムと違って初期だの後期だのという好みをあまり聞かないが、もうシンが「愛」を理由に行動していたとわかった時点で私にとっては終わった。
「蒼天の拳」は、なんかこむずかしい中国社会の話がメインでむずかしくてわかんないからダメだ。あと、私が南斗108派でいちばん好きなのは「南斗爆殺拳」(ただダイナマイトだか手榴弾だかを投げつけるだけの拳法。アニメ版のみ登場)です。

おわり。

4月22日(月)

かなり暑い1日。
病院へ行った帰りに回転寿司屋(またか)に寄ったら、気温が上がったせいか店内が臭い!! しかもネタも最悪。ひからびてた。ゲエーッって感じに。楳図かずお的なゲエーッって感じになってましたよ。皿もちゃんと洗ってなくて醤油がついてたりしてイヤだった。
口直しに塩ラーメン食ったから、またデブデブ病。

CDウォークマンのリモコンを買ったり、図書館に本を返しに行ったりする。

家に帰ったら、またガキが騒いでうるさかった。もう大勢でたむろすんなよ!! でもどうにもならない。涙がひとつぶ出た。

99年のウェブ日記を直したりした。アホらしいとは思うが、当時、他人のパソコンでどう自分の文章が見えるかわからず、変なところで行替えしていたりしたので、それを全部直す。あと、やたらとゴシック体にしているのも気になったが、「読んでもらいたい」という強迫観念からしたことだから許してやってください。1行開けも多かった。
まだウェブ上でどう書いたらいいかわからないという、我ながら迷いが感じられた。
最近は気にしないんだけど。

99年というとまだ3年くらい前だが、個人的に考え方が大きく変わっている。まあ他人にはわかんないと思うけどね。自分で変わったことも最近忘れていて、99年の日記を読み返して気づいたから面白いもんだ。

しゅうかいどうNHK教育 「83歳のアンパンマン〜やなせたかしの真剣勝負〜」 。ああ〜これ見たかったなあ。
子供の頃読んだ「マンガ入門」のたぐいで私が影響を受けたものと言えば、石ノ森章太郎の「マンガ家入門」、手塚治虫の「マンガの描き方」と並んでやなせたかしの「まんが学校」があったのですよ。
「まんが学校」は、NHKのテレビ番組だったらしい。共演は立川談志だったらしい(今考えるとすごい組み合わせ)。
まあ本自体は、テレビ番組を基本にした、やなせたかし個人の著作だと思う。確か。

今はそういう区別しないのか? 昔は海外のマンガはコミックとカートゥーンという区別があって、前者がストーリーマンガ、後者が1コマとか4コママンガ。で、日本でそういう区別はなくて、後者は「大人マンガ」とか適当に言われていたと記憶する。
その「カートゥーン側」の人(やなせたかし)のまんが入門だから、今考えると非常に珍しい(後に加藤芳郎の弟子の山口太一がマンガ入門出してたが)。

内容はほとんど忘れたが、海外の1コママンガ家の作品がいくつもいくつも紹介されていて、「こういうのもマンガなんだー」と思ったことはすごく覚えている。

思い起こせば「手塚治虫中心史観」とは違う感覚を現在の私が保持しているのも、本書に起因しているのかもしれん。

……ちょっと気になることがあってずーっと待ってて、待っているうちに眠ってしまった。そうしたら、今は亡き父と二人で「頑固だがうまい寿司屋」に行く夢を見た。
店内に入ったら真っ暗、ボロボロで修繕も掃除もしていない。その中に店主のオヤジがいて、寿司も出さずに私と父に昔話を始めた。
その昔話はえんえんと続き、私と父は彼に寿司を出してもらうのを途中からあきらめ、話だけ聞いて帰った。
寿司屋の主人の顔は、どこかで見たことがあると思ったら現実世界のペンキ屋のオヤジだった。

で(ここからは現実世界の話)、結果がわかったと思ったらまた次回へ持ち越しというかたちになった。よくあることだ。人生には生まれと死以外、はじまりも終わりもないのだ。ただひたすらにフニャコフニャオの「ライオン仮面」のようにえんえんと続く。

・「陰陽師」 飛天の巻 夢枕獏(1995、文芸春秋)読了。

4月21日(日)

結局、二日酔いで店を休んだ。いつもなら自己嫌悪におちいる状況なのだが、あまりにヒドい二日酔いだったためそんな余裕もなかった。
起きあがれるようになったのは夕方の5時頃。
どうしてそういうことになってしまったのか思い起こしてみるが、どうも30歳過ぎてから、知らない人ばかりの飲み会の場合、無意識に緊張してそうなってしまうようである。自然に酒量が多くなり、それにアルコール分解能力が追いつかないんだろうな、たぶん。
何か粗相をしなかったか非常に心配なので、もしあった場合は関係者の方々、メールください。う〜ん……。

「ちゆ」の、「コミックバンチ 世界漫画大賞」に対する文章、いくらなんでも投げやりすぎないか? 茶化すのはいいけど、何かちっとも愛情が感じられない。 そもそも「バンチ」という雑誌そのものが、80年代ジャンプ的方法論で成り立っているのだから、それの新人賞作品が80年代的古さをまといつかせていても驚くには当たらない。
「バンチ」批評とか批判のむずかしさというのは、少しでもマンガに先端性を求めている人だったら十中八九同誌を「古い」と思っているという、そのことにある。「バンチ」や、連載作品の単行本がどれくらい売れているのか知らないが、しかしもし売れていたらそれは現代に「受け入れられている」ということなんだよな。

「古いけど、受け入れられている」ことをどう解釈するか、ということを文章に書くのはむずかしいと思う。「新しいけど、受け入れられない」ものを応援することよりも。

見下げ果てた日々の企て世界に恥さらした「日本のバカップル」 戦時下の聖誕教会を観光で訪れた2人。 このカップルがアホなのは言うまでもないが、何が哀しいかというとzakzakで麻生千晶ごときに批判されているということだろう。まあこの二人は麻生千晶に批判される屈辱を感じることもないだろうが。
麻生千晶、私が知るかぎり、シロウトも(にちゃんねるも)含めたあらゆるテレビに関する文章の中で、もっともくだらないことを書いて、しかも金をもらっている男(女? 知らん)。
週刊新潮だか文春だかに「たかが、されどテレビ」という、途中までしか見なかったりうろ覚えだけで、しかも日記風に(一定の文章内で「○月×日」と何項目かに分けて書く日記風エッセイは、文章の長短を調節できるので安易になりやすい)、印象だけを書き殴るというヒドイ仕事をしていた男(女? 知らん)。

・「新・魔獣狩り」(7)鬼門編 夢枕獏(2001、祥伝社)読了。

4月20日(土)

知り合いのヒトの結婚パーティに出席。少々の趣向と、歓談と。楽しい会でした。数年ぶりに、ネットでしか会話できないヒトに会うこともできたし(その方が九州に住んでいるので)。

しかし二次会の途中からベロベロに酔っぱらって記憶が断続的になり、確か帰りに駅の階段で1回転んで、いや転ばなかったかな? 自転車ですっころんでその自転車の下敷きになったりした。

翌日、ひどい二日酔い、というか朝になっても酔いが持続した状態でベロベロになっており、親もあきれた。

何か粗相をしなかったか非常に心配なので、もしあった場合は関係者の方々、メールください。う〜ん……。

4月19日(金)

・ウェブ日記は最新のものだけに意味があるのかについて
人のウェブ日記を読むとき、果たして過去の部分まで読み返したいか、は、その日記の質を考える上で重要な要素だと思う(まあ読み返したい日記がいい日記かというと、それもわからんけどね)。
文章量、文体、日々あったことなどをきっちりと同じにする、日常の出来事をできるだけ入れる、などを考慮すると、過去にさかのぼっても読める日記になっていたりする(すべての人に当てはまるとは思わないが)。

これが10年、15年と蓄積されてくれば、変化がないと思われていた日常や文体に変化があることに気づくのかもしれないが、2、3年ではあまり変わらないから。
しかし、事実そのものが書かれると、それはそれなりに興味をひくものだ。だから、ぜんぜん嗜好の違う人の日記が面白かったりすることがある。

で、私がそのようにしているかというと、別にしていない。
朝から夜まで何があった、という書き方でない場合、日々の文章の長短にもリズムが欲しい。長文が続いたら短文とか。でもそのようにはしてない。やっぱり長文が続くときはそういうノリなんだし。
とりあえず、今月の日記には長文が多いので小見出しを入れてみたりした。

ウェブやり始めの頃は、文字の大きさもよくわからなかったので、ひとつの文章が画面におさまるようにと字の大きさを変えたりしていたが、かえって見にくいことがわかったので、後で全部直したい。

・態度の悪い郵便屋のはなし
今日は休みだった。隣の家に大工が来ていて、しかも偶然に自分の部屋の正面の家にも大工が来ており、たいへんにうるさい。また、私の部屋の真下で白髪のババア同士が世間話を始めてうるさくてしょうがないので、大音量でCDをかけたら立ち去った。
近所の中学の陸上部がうちの前で練習を始めた。これもたいへんにウザいといつも思っているので、大音量でCDをかけたら立ち去った。

昨日の話だが、呼び鈴がリンリンなるので「どちらさまですかー?」と大声で何度か叫んだが返事がない(ウチの構造としてそばにインタホンがなく、早く返事をしないと、立ち去られてしまう場合があるので)。 窓を開けずに「どちらさまですかー?」と言っても返事がない(宗教や訪問販売だとイヤだから、窓を開けずに対応する場合もある)。

仕方ないので窓を開けたら、郵便屋だった。そこで始めて「書留です」と。
書留をこちらに渡すときも非常に態度が悪い。郵便屋さん全員がそうだとは言わないが、基本的に宅急便に比べると愛想が悪い人が多い。「頭を下げるのがもったいない」という感じ。マニュアルどおりできない、という意味ではもっとも態度の悪いコンビニの店員以下の人間も、たまにいる。

・フンガーフンガーフランケン
私は「いつもたいへんですねェ。ゆでたまごいかがですか?」と言って、以前から用意していたゆでたまごを渡した。
ロボットみたいに事務的な態度しかとらない郵便屋は少しとまどったが、「ゆでたまご」というアイテムをあやしいと思ったらしく「今、勤務中なんで」といって立ち去ろうとした。
今まで黙っていたが、私には図体は180センチ以上あるが、いまだにスカイフィッシュは宇宙人のペットだと主張しているひきこもりの弟(あだ名はフランケン)がいる。フランケンは、玄関の陰からヌーとその体躯を表すと、
「食えよう、食えよう」と言ってきた。彼の話し方は、若干フードファイターの白田に似ていて、すごむと恐い。

郵便屋は、ビビってゆでたまごを目をつぶってほうばった。もちろん、それは腐っていた。
「うえっ」となりそうになったが、フランケンは同じモノをモサモサと食いながら「ほら、こんなにうまい」と威圧的に言ったため、郵便屋は吐き出すこともできず全部飲み込んだ。

私はその時点で態度の悪い郵便屋を懲らしめてやった、といい気分だったが、彼のバッグからデヴィッド・ブリンの「ポストマン」の文庫本がドサッと落ちてきたので、ああ、こいつは旧態依然としたマチズモを信じてきてそれに裏切られ、こんなにひねくれてしまったんだな、とも思ったが同情もしなかった。

「おい、彼女の写真見せろ」
「は?」
「持ってんだろ」

私はフランケンの威光を借りて、彼が手帳にはさんでいた写真をひったくって見た。 そこには、顔が真っ黒でブタ鼻の少女が映っていた。いい年してキティちゃんの弁当箱の中のダイエットメニューを、赤ちゃんが使うみたいなフォークでつついて食っているような女だった。
フランケンがそれを見て興奮しだしたので、それをすぐ郵便屋に返した。
「まあ、ガンバレよ」
「は、ハイ」
郵便屋はおびえきっていた。しかし、そんなことが私に何の関係があるのか?
あるはずがない。この郵便屋は、顔が真っ黒でブタ鼻の少女が私に差し向けた刺客に違いない、という確信がわいただけだった。

4月18日(木)

今シーズンは地上波で「SF(的)おしかけ女房モノ」のアニメが多い。
で、見た感想。

・「ぴたテン」(日曜日、午前9時半、テレビ東京)
男の子にまとわりつく天使の女の子の話。絵はコゲとんぼなのでとてもかわいい。主人公の同級生の女の子の頭に何の説明もなくネコ耳が着いていたりなど。
でもお話は普通。思ったよりもドタバタしてなかった。日曜日の午前中、寝ぼけながらぼけらーと見るには最適かもしれない。でも私は基本的に日曜日仕事なので、わざわざビデオにとって見るほとではないと思った。

・「ちょびっツ」(火曜日、26:20〜、TBS)
OPがカッコいいことと、第1話を見たぶんには原作よりは「なぜパソコンが人間のかたちをしているのか」に意識的かと思われ、その辺がよかったのだが、2話で早くもグダグダズブズブなラブコメに。もう見ないかも(いきなり株が下がった)。

・「藍より青し」(水曜日、26:25〜、フジテレビ)
ファンの人には悪いが、アニメでやる理由をあまり感じない。だってヒロインの女の子って普通の人間じゃん!! 空飛んだりするわけでもないし。同じことはギャルゲーのアニメ化にもいえる。マンガでは耐えられても、アニメだと耐えられない場合もある。

・「天地無用」(日本テレビ?)
うちのテレビ、日本テレビがよく映らないので見ていない。

サスガにこれらを義理だけで見るのは辛い。……ということで、たぶんヒマなら見る、程度のことになると思う。
私がアニメに求めるモノは、スリル、サスペンス、燃えるような愛憎劇、はじけるようなギャグなのであって、別にマッタリしたいわけじゃない。そういう意味では今の若い衆とは嗜好が違ってきてるんだろうネ。

・「新・魔獣狩り」(6)魔道編 夢枕獏(1999、祥伝社)読了。

15年以上も描き続けられているため、携帯電話や若年層の凶悪化など、どうにも時代とズレてきている部分をうまくネタにしたり誤魔化したりしているところがうまい。

4月17日(水)

中野のユニクロに行った帰りに回転寿司屋に寄ったら、異様にマズいのでよくよく見たら、シャリが真四角になってる。すいている時間帯は機械で握っているのではないかと思われた。

そもそも、板さんがその場におらず、奥の方に引っ込んでしまっていた。ガラスの向こうから、寿司がベルトに乗って送られてくる感じ。奥でどうやって握っているのか見ようと思ったが、アホらしいのでやめた。それで寿司がうまくなるわけじゃなし。
この回転寿司屋、混んでいるときとすいているときの落差が激しすぎる。

・「新・魔獣狩り」(4)狂王編 夢枕獏(1997、祥伝社)
・「新・魔獣狩り」(5)鬼神編 夢枕獏(1998、祥伝社)読了。

80年代以降、定着したと思われる「伝奇ヴァイオレンスアクション」のさきがけ的作品。
「1年に1冊しか新刊が出ない」、「いくつものシリーズが平行して刊行されるので追いかけにくい」という点で10年くらい夢枕獏から遠ざかっていたのだけれど、最近また読み始めている。どれも面白い。

「最初の1行が描かれて20年以上経つ」ことに作者自身が驚いているが、物語自体が途中なのに古びていかないのはなかなかすごいことだ。
思い起こせば、「魔獣狩り」の推薦文は大薮春彦が書いていた。それに平井和正の「ウルフガイシリーズ」を思わせる部分もあって、それでいてそうした部分からは奇妙にズレているところもあり、全体的におとしどころがわからずに読んだときはとまどったのだが、他の作品と読み比べてみると作者の意図しているところがわかってくる。
夢枕獏には、大薮春彦とか平井和正のようなドロドロとしたルサンチマン、っていうのはそんなにはない。「魔獣狩り」は文成仙吉のルサンチマンの物語だったが、それにしてもちょっと違う。スコンとどこか突き抜けている。
それが長続きしている理由でもあるんだろうな。

4月16日(火)

しばたさん、ヒタカさんと飲み会。マンガの話をいろいろとしたりして、楽しかった。
酔っぱらってつい「山本股間見続け師」(山本(男性)の股間を見続けて大金を稼ぐという架空の職業)について話してしまった。
まあ「山本股間見続け師」については、山本自身ももう忘れているだろう。
「玉手箱を開けてみたら何もなかった」ような話ですわ。

4月15日(月)

文章を字数に合わせるのはムズカシイ。ウェブでダラダラ書いていると、ダラ書きのクセがついてあんまりよくないかもしれんと思い始めた。あとプレッシャーに弱い。
生と死。そして無限。

アニメ「あずまんが大王」、「キャラクターをかわいく描こう」という意図は伝わってくるが、テンポがマッタリとしすぎている。で、10分くらいで飽きてしまった。

それこそ言うは易し、なんだろうけど、ツッコミとかコケの瞬間とか、1秒遅らせたり早めたりするだけでそうとう面白さ変わってくるのになあ、と思うことは多い。
だからこそ、「間」とか「テンポ」という点ではあながち冗談ではなく、私はアニメ「突撃! パッパラ隊」を支持している。

4月14日(日)

ぼ、ぼ、ぼくらは物好き探検隊。力学(ちから・まなぶ)と映画「ミスター・ルーキー」を見に行く。

結論。……私にとっては、最低でした。力学(ちから・まなぶ)は「けっこう楽しめた」と言っていたが。
あらすじは、昼はビール会社のサラリーマン、夜は甲子園限定の阪神タイガースの覆面ピッチャー「ミスタールーキー」をしている男(長嶋一茂)が主人公。しかし、サラリーマンとの二足のわらじがキツくなってきて、監督(橋爪功)に向かってキレてしまう一茂。
奥さんの鶴田真由にも正体がバレ、会社でも「ミスタールーキー」をキャラクターに使用したビールの発売が決定し、阪神が優勝しないとマズいことになる。 どうしようもなくなった一茂はピンチに陥るが……という話。

・鶴田真由を見て恐くて泣いた
正直に書くが、とにかく鶴田真由のキャラクターが異常にムカついた。老人介護の仕事をしているのだが、なぜそういう職業なのかの物語上の説明もない(「そういう仕事を選んだイイヤツ」ということなのか?)。
ミスタールーキーの正体を知った鶴田真由が、キレて夜中に一茂と口論するところがひとつの盛り上がりなのだが、最初は真相を隠していた一茂をさんざん糾弾して、その後一茂が「家族のために、もうプロ野球選手の夢を見るのはやめる」と言ったら「そんなに簡単に夢をあきらめるあなたなんてキライ」と逆ギレする。
なんか、ギャグにもなってない。鶴田真由のキャラ造形に深みを与える役割を果たしてもいない。結果、一茂は妻の鶴田真由に振り回される主体性のない人間一歩手前になってしまう。

そもそも、一茂一家は仕事の関係で関西在住だが全員東京出身という設定。しかし、プロ野球選手の夢を実現したい一茂はともかく、鶴田真由には阪神タイガースに肩入れする理由はこれっぽっちもない。阪神はおろか、野球に対する思い入れも充分描かれていない。一茂とその息子は関西になじめない部分も持っていることになっているが、鶴田真由のみがそれがない。
単なる「いいこちゃん」の皮をかぶったワガママ女なのである。

こんなムカつく女、ぜったい劇中でバナナに足を滑らせる、口に入れたドンパッチがハジケすぎて舌が痛くなるなどの不幸な目に遭うと思ったのだが、まったくその気配がない。ミスタールーキーの正体を追う記者にさとう珠緒、そして彼女について回る無口なカメラマンに吹越満が出ている。そうか、吹越が鶴田にロボコップ演芸を強制するという展開になるのだな、と思っていたらまったくならなかった。

・関西の地で東京人同士が戦うという矛盾
また、一茂とガリバーズ(ジャイアンツがモデルのライバル球団)の選手(駒田が演じている)は高校時代に都大会で対決したことになっているが、一茂が辛いサラリーマンとプロ野球選手の二重生活をする重要な動機である、高校球児時代のことがまったくセリフのみでしか描かれていないのも辛い。どんなにみっともなくてもいいから、一茂と駒田に高校時代のユニフォームを着せて対決のシーンを撮るべきだったと思う。
セリフのみというだけでなく、映画が始まって30分以上経ってやっと一茂がミスタールーキーを演じるいきさつが明らかになるなど、展開としても不親切。

さらに、監督の橋爪功が一茂の挫折と復帰に何の力も貸していないのも辛い。これではプロ野球に夢を見るサラリーマンの足下を見て使い捨てようとしていると思われても仕方がないだろう。

不思議なのは、タイガースと関西という地域は密着していて当然なのに、主要登場人物に関西人がいないことだ。一茂の上司は竹中直人(関西人という設定)だが、そのさらに上の常務(宅間伸)はきちんとした説明はないが関東人らしい。そして、宅間伸の愛人(山本未来)もどうやら関東人らしい。この二人は竹中と一茂に、「阪神が負けたら新商品のビールの責任をとらせる」と言う悪役である。
要するに、どういうわけか「善の関東人=一茂」と、「悪の関東人=宅間伸」が、直接ではないにしろ関西で対決するという奇妙な話になっているのである。なんだこれは。「ウルトラマン」の「怪獣使いと少年」的解釈か。

あと、いいかげん竹中直人や田口トモロヲをキャスティングすることだけで「ワキを固めた」と安心するのはやめてほしい。実際、竹中直人はイイ演技してるのだが、あまりの展開のダメさになんだか哀しくなってくる。

また鶴田の話に戻るが、想像すると一茂と鶴田はバブル期にトレンディな恋愛をして結婚したのだろう。老人介護という生きがいを持ち(どの程度収入があるかは不明)、元気な子供とカッコいい夫を持つ(そして、それをカッコいいと思っていて、自分をデキた女だと思っている)妻。考えただけでムカっ腹の立つ話だ。
もう少し鶴田のキャラ造形に人間味があれば、だいぶ違う印象だったと思う。個人的には、一茂とは高校時代からの知り合い(たとえば野球部のマネージャーだったとか)であるとか、関西人で転勤してきた一茂と知り合って結婚したという「阪神」とか「野球」にこだわる強い動機があるようにすればよかったと思う。

「日本映画だから」とか「設定がクダラナイから」という理由だけで絶対に日本映画をおとしめたくはない。しかし、本作みたいのばっかり撮ってたら、やっぱりヤバい。最初のワンアイディアの域を、脚本が最後まで出ていない。
あんまり辛かったので、その後ビールを飲み過ぎて、浜辺で2時間泣いた後、家に帰った。

4月11日(木)

図書館へ行く。買ってしまった本が図書館にあって、絶望。
床屋へ行く。床屋のおじさんに「太った」と言われて、絶望。
珍しくあれこれ話しかけられて、緊張した。緊張した自分に、絶望。

一人で酒飲んで、気持ち悪くなって胃薬飲んだ。

テレビおもしれー。テレビ最高だー。録画した新番組「ハローランド」を見る。

司会が加藤紀子で、後はハロープロジェクトのメンバーが出ているというあまりに不自然すぎる30分番組。まあ「モー娘。」とかの軽めのプロモーション番組って印象ですな。
加藤紀子、同じ事務所かなんか? ああ、検索して調べるのもめんどくせー。
今年「TVスター名鑑」買わなかったからな……。やっぱり買うかな?

その番組の中で、「バカ殿さまとミニモニ。姫」の密着レポート。バカ殿さまとミニモニ。が組んで、新曲を出すんですよ。
今回は珍しく作曲が「つんく」ではない。サビの部分はツジカゴの二人がふざけて歌っていた部分をそのまま反映。古い話だがこの「ノリでつくったサビの部分だけ利用」は松山千春の「びっくり箱の歌」や、電気グルーヴの「ドリルキング社歌」(♪ピンク〜サロンに〜、行きたいな〜、ってやつ)路線ですな。
確かに、別々のフィールドで生まれたキャラクターのコラボレーションって、今までありそうでないんだよね。これも古い話だが、「ピンキーパンチ」と「タケちゃんマン」がお互いの番組に出たとか、それくらいじゃないですかね?

で、「バカ殿さまプロフィール当てクイズ」っていうのをやった。ミニモニ。が勝手にバカ殿の履歴書を書く。「志村けん」じゃなくて「バカ殿」というキャラクターの履歴書ね。
で、「本名」のところでミカが「山田トム」、辻が「八橋検校(やつはしけんぎょう)」っていうところで大爆笑してしまった私のギャグレベルは……。
しかもさあ、このコーナー、別に重要っぽい感じじゃないんだよな。スタジオの片隅で志村けんも含めて全員突っ立ってて。
そのわりにはミニモニ。たちのボケが真剣だった。作家が考えてんのか? と思ったけど、それにしても「八橋検校(やつはしけんぎょう)」は傑作だな。

それと志村けんが「『コマネチ!』じゃなくて『チネマコ!』ってのどうだ?」って言って、あの「コマネチ」の股間から外側に向かって両手を上げる動作を逆にやった。すばらしかった。

・秋元康の特殊性
「うたばん」も見る。「うたばん」、実際どの程度秋元康が関わっているかどうか知らないが、あまりにも秋元色の強い番組ではある。地方の人に「これが東京モンのカッコつけかたなんだ」と誤解されるような独特のカッコつけ、臭みがあるんだよな。あんなのいらねえだろ、CMとCMの間に入る無意味映像。
しかも、これがいとうせいこう司会の深夜番組だったりすれば、その「臭み」は意識されたものだから仕方ないと思う。「これはこのような意味でこうしています」って説明できるタイプのものだと思うが、「うたばん」の無意味映像って、「下北沢的」なカッコの付け方に対するテレビ業界人的誤解、もしくは曲解で成り立ってると思うんだよなー。

で、ボーッと見てて思ったが、秋元康っていちおうコントとか書いてて、「お笑い的なこともできる」作家と見なされているけど、バックボーンがなんなのかぜんぜんわからんね。
……まあ私は放送作家に詳しいわけでも何でもないけど、高田文夫とか景山民夫ってハッキリしてた。落語とかモンティパイソンとか。別にハッキリしてることとしてないことと、面白いものが書けるかどうかは別だとは思うけど、秋元康ってナゾだよなあ。

なぜそれが気になるかというと、80年代って自分のルーツを明らかにすることってわりと恥ずかしいことと思われていたと思うんだよね。今でこそ「だれだれリスペクト」とか言うけど、「オールナイトフジ」とか「夕やけニャンニャン」って、ルーツがなんだかわかんない。まあ当時の「女子大生」ってもの自体が、なんだか新しくできた「階級」みたいだったけどね。

「みなさんのおかげでした」かなんかで、木梨の頭に巨大な金ダライが落ちてくる、というのを何度もやってた。で、アレはドリフとか「カックラキン大放送」とかで見てきたものをわざとやってる、という印象ではあった。
しかし、うまく言葉にできないが、直接「こういうときに金ダライが落ちてくるもんだ」って教わったんじゃなくて、そういう「パターン」を頭で考えて踏襲してる、って印象だった。だからオマージュとかリスペクトとかとも違う印象。

・「とんねるず」の特殊性
それは「とんねるず」のスタンスとも完全に一致していて、秋元康が目をつけたってすごくわかる。「とんねるず」、出始めからブーム、そして今のような安定株になるまで何となくずっとテレビで見てるけど、良くも悪くもああいう人たちって、その後出てくるようで出てきてない。
ダウンタウンが吉本興業の漫才学校みたいなものの卒業生で、旧来の師匠弟子関係を結んでいなかったために風当たりが強かった、って話をどっかで聞いた。でも、時間が経ってきて現在だとその漫才学校みたいなものの中で先輩後輩関係ができていると思うし、キム(「ダウンタウン汁」でものすごく面白いコメントを書いていた人)が、今「若手にとって恐い先生、先輩」としてテレビに出てたりすると、やっぱり上下のつながりっていうのができてる。

でも、「とんねるず」って最初っからそういうのなかったし、多分秋元康は恩人なんだろうけど、師弟関係という感じではない。また、彼らが「頭が上がらない存在」としてあげる人物ってほとんどがプロデューサーとか事務所の社長とかの「裏方」に当たる人。
特定のお笑い芸人に接近したり、逆に弟子とか子分みたいな若手を持とうという気も、あんまりないように見える(もしいたらゴメン。でも、「たけし軍団」みたいな出方はしてないから、ほとんどいないと見ていいと思う)。

役者に対して強い色気があるわけでもないし。そういう意味ではいまだにあの出始めの「わけのわからなかった頃」を続けていると言えるんだよなあ。 そういう「芸においても、お笑い界においてもバックボーンのない芸人」って、「グレチキ」くらいじゃない(彼らに「爆笑オンエアバトル」で1票も入らなかったというのは、それなりに象徴的な出来事だ)。

秋元の話に戻ると、彼は「バックボーンがないかのようにふるまう、あるいは実際にない」ことがカッコいいとされていた時代をいまだに体現していると思うんだよな。 まあエッセイではノスタルジーなこと言って同世代を持ち上げたりしてるかもしんないけどね。
もうちょっと調べないとわかんないから、以上メモ書き程度に考えておいてください(←と、逃げをうつ)。

・「輝く金字塔」 アーサー・マッケン、南條竹規:訳(1990、国書刊行会)読了。

「黒い石印のはなし」、「白い粉薬のはなし」、「輝く金字塔」の三編収録。月報には掌編「儀式」が載っている。
怪奇小説の知識なんかほとんどないから、素朴な感想しか書けないんだが、やっぱり良かった。同じことを繰り返して書くが、ラヴクラフトより読みやすく、また一つひとつのプロットもわかりやすい。そして不気味だ。
ラヴクラフトの邪神はハイパーすぎてなんだかよくわからないのに対し、マッケンの怪異は本書を読んだかぎり、先住民のあがめていた神、とかそういうのが多くてわりとシンプルである。そして怪物の造形は、驚くほどイマ風で気持ち悪い。
日本人として理解できない部分は、おそらくキリスト教という強固な世界観というか常識というか、そういうものが当たり前にある世界で、それを突き破るように太古の怪異が人々を襲うという設定。コレは他のゴシック小説でも似た感じのものがあるかもしれないが、キリスト教文化圏にいない人間には理解しづらい部分ではある。

思えば、古代人に(やや身勝手な)シンパシーを感じていたハワードの「コナン・シリーズ」でも、古代人は多少古代人っぽく描かれてはいるが、そこにある怪異はもうひとつ太古に押し出されて、日本のファンタジーもの以上に不可侵のものになっている。これは、欧米人共通の感覚なのかもしれない。
日本の伝奇的なものを扱った作品は、もっと怪異や古代人との交感がなされていると思うので。

ところで、掌編「儀式」は私の誤解でなければ現在の、ある種のHマンガに通じる。
セックス自体をタブーと設定してそれを突破する光景を、やや突き放して描く作品に酷似している。そういう意味で、ある種のHマンガは深い。

4月10日(水)

ウェブの文章ばっかり書いていると、本になるタイプの文章が書きにくくなっていることに気づいた。
行頭の1角下げを完全に失念してしまったり、ウェブ上でクセになっている数行ごとの行開けを無意識にやってしまったりする。
つまり、絶望。

4月9日(火)

2、3日前も精神的に最悪の日だったが、今日はもっと最悪だった。最悪すぎて何も書く気になれん。

4月8日(月)

昨日の今日なのに、もう何をやったか思い出せない。あ、録画しておいたアニメ「満月をさがして」「東京ミュウミュウ」を見た。どっちも少女向け。この2つの後、「ミルモでポン!」という少女向けアニメもやっていたけど、それは見なかった。
「ミルモ」って、キャラ造形が70年代のサンリオとかが流行り始めた頃みたいな感じ。だから見なかった。

「満月をさがして」は、死神に「あと1年の命」と宣告された少女が、「未練を断ち切れるように」とその死神によって16歳くらいに変身し、歌手を目指すという話。 まあこんなもんでしょう。展開と結末がなんとなく、予想がついてしまう。
最近の「りぼん」や「なかよし」、ひさしぶりに読むと、本当に展開が読めてしまう。そりゃ「仮面ライダー」だって読めてしまうけれどもさ。ワンパターンを楽しむという楽しみ方もあるんだけどさ。しかし、どうもそれだけじゃないような気がしてならない。
実は、最近のコロコロ・ボンボン系にも同じことを感じる。
ここのところ、うまく表現できない。「パワーダウン」というのとも違う。私が単にトシをとっただけかもしれない。わからん。

「東京ミュウミュウ」は、導入部としてはまだ見れた。まあもう続きは見ない気がするが。

・バカ論
唐突だが、「自分がバカだ」と気づいたのは、去年あたりからである。
それまで、別に頭がいいとも思っていなかったが、まさかバカだとは思っていなかった。
どういうところがバカかというと、きっちり形式のあるものを形式どおりできないのだ。
これは社会人としては致命的である。

学生時代は失敗の基準に幅があり、いくつもの救済措置があるから、ボケーッとしていても生きて来れた。
よく登校拒否児とか問題になっていたが、いじめがないかぎり(いじめは辛いよなー、金もとられるし)、教師に反抗して行かないとか、何か実存的な理由で学校に行かないとか、理解できなかった。
だって、朝から夕方まで椅子に座ってりゃ後は何も言われないんだから。むしろ「いい子」って言われるし。

しかし、当然だが私の考えは甘かった。社会に出たら、「ただ椅子に座っていればいい」ということはまずありえない。椅子に入っていればいいということもありえない。そりゃ人間椅子だ。しかもレオナルド熊の。
それに、ものすごく厳密な仕事を要求される。

この日記で同じことを何度も書いているが、精密さ、細密さというのが現代のキーワードではないか。「プロジェクトX」を見よ。そこに紹介されることの90パーセントが、いち早く「精密さ、細密さ」に気づいた男たちの逆転の物語である。

そして、「細密さからの解放」が「癒しブーム」である。もちろんブームそのものを仕掛けるには細密さが必要だが、それを享受する側には細密さはいらない。
「ヒーリング」とかいって、入浴剤の入った風呂にでも浸かってボーッとしていればいいだけである。

社会に出て、死ぬほど落胆した。なんという細密な世界。伊集院光的表現で言えば「やっつけガッハッハ」みたいないいかげんな仕事はほとんど通用しない。
アニメとかもそう。「宇宙戦艦ヤマト」は、細かい設定があったり、詳しく調べていけばそれなりの細密さがあるのだろうが、それは興味のある人が調べてわかる話。
ボーッと見ている分には、空飛ぶ戦艦同士がドンパチやっているようにしか見えないし、それでも充分楽しめる。
ソレが「エヴァンゲリオン」はどうだ。そりゃあ、アレだって「背中にコードを付けた巨人が幾何学的な建造物(?)と戦う」単純な話には違いない。だがその演出やバラまかれた伏線など、至るところに「コレは細密につくっています」というメッセージが、視聴者に向かって発信されている。

いや、もっと前だ。ことの起こりは、「スター・ウォーズ」だ。
「スター・ウォーズ」は、お話は単純きわまりないが、やはり「これどうやって撮ってるんだろう……」的な細密さを画面からこちらに訴えかけてくる作品だった。細密さ。
あの、プラモデルの破片をゴテゴテにくっつけたような映画内の宇宙船が、まさしく「細密の時代」の幕開けを告げていたに違いない。
(今思い出したが、「スター・ウォーズ」を意識してつくられた邦画「宇宙からのメッセージ」は、敵のガバナス軍はやはりゴテゴテのスター・ウォーズ式宇宙船だったが、味方の宇宙船は美しい帆船型であった。しかしああいうファンタジーっぽさはもう「なんか違う」とか思われていたのかもしれん。まあこの映画は映画自体がアレでナニなんだが)。

・ノーモア細密(無理)
何の話だ。「細密さ」の話だ。
とにかく、ものごとをかなり大ざっぱにしか捉えられない私にとって、日常生活は地獄である。テレビで言えば「伊藤家の食卓」は日常の細密さの象徴であり、「貧乏脱出大作戦」は、「細密さ」を要求される時代から取り残された店主の見た地獄をあらわしている。
「地下鉄のどこで乗ったら、降りたところから乗り換えが近い」だの、ポスターを貼るときにすぐはがせるように、セロテープを折り曲げて指がつまめるようにアソビをつくるだの、買い物したら1002円だったから2円出すだの、もうたくさんだ!!

……というようなことを、もう10年くらい言い続けているが、世の中の細密さは変わらない。
また思い出したが、これも前に書いたがアニメ「となりの山田くん」ではそうした「細密さ」に対するアンチテーゼがあったはず(テーマは「適当」とか言ってたし)。だけどなー、「適当」を表すのに細密に製作してたらしいじゃないか。そんなの大人のウソだ!!
むしろ、「テスト勉強ぜんぜんやってない」とか言いながら95点とるイヤミな生徒みたいである。

かといってだ。「大ざっぱの世界」には何があるかというと、「大ざっぱでいいのよ〜」とかいいながら70年代っぽい髪型&服装の女性が現れて、自給自足の「自然の村」みたいなところに行ってみると、そこにも非常に細かい気配りで野菜を育てている、すごく細かいことにうるさそうな男(五十代始め・赤塚真人に似ている)がいて、そいつにさんざんいじめられるんだろうなあと思う。

・自分らしくデラべっぴん
あとは「大ざっぱであることがOKな特殊な立場」の人間がいるだけだ。
「にんげんだもの」の人とか。なんだよありゃ。落書きか? もうちょっと細かく書けよ。スクリーントーンはれよ。重ねろよ。削れよ。パソコンで自作のトーンつくれよ。
まあ相田みつをが何と言ってたか知らないが、とにかく「大ざっぱであることがOKな特殊な立場の人」が、「人間って、もうちょっとおおらかに、細かいことは気にしないで生きた方がいいんじゃないのかなあ」とか、オーバーオールでギター抱えて言ったりする。
そいつは本を出して売れている。中身は文字が大きくてスカスカ。そいつがオーバーオール来て、夕日を眺めている写真かなんかが5、6点入ってる。
で、1500円くらいする。
かみさんもけっこう美人で、田舎に大きな家を建てて住んでいる。落書きみたいな絵を描いて、個展を開き、ウン十万で飛ぶように売れる。髪の毛を紫色に染めた金持ちのオバハンが「この大ざっぱなところが、忘れていた何かを思い出させてくれるのよねェ」とかなんとか言って。

インタビューを受けても大ざっぱ自慢。「ボクってねえ、大ざっぱなんですよ、何でも。この間もこういうことがあって……」ちょっとしたおもしろ話。司会者が「でもそういうのっていいですよね。それが○○さんの人柄ですよ」とか言う。

店も出す。「自然の良さを出そうとした」とかなんとか言って、きったないバラックみたいのの中に、そいつのビーズでつくったヘタクソなアクセサリー、筆ペンで書いた色紙、マッキーで描いた絵。
「居酒屋のトイレのドアに、ノリで描いたモノを頼んではがして持って来ちゃいました」とかいう、居酒屋にとっては迷惑このうえない、はがされたドアが立てかけられている。そのドアには、田舎の温泉まんじゅうの箱に書かれているような、筆で描かれたこれまたヘタクソな絵が描かれている。

店員はけだるそうな茶髪のにいちゃん。やっぱりオーナーに憧れているらしく、いかにもだらしのなさそうなアホな感じ。しかし抜け目なく、そのにいちゃんが金をごまかしたり失敗したりしないように、なんかコンビニの指導員みたいなヤツももう一人店員としてついている。

店内には「癒し系」に憧れる、デブデブ病の女、歯ぐきが10センチくらい出ている女、二十代後半らしいがオカッパ頭の男、デカいリュックを背負っているが他人の迷惑を考えない少年、ヒマだから覗いてみた近所のオヤジ(痩せぎすで黒縁めがねでジャージ)、全身黒ずくめの女、などが客で来ている。

おれの怒りは店内に入って頂点に達したので、梶井基次郎よろしくこの店にもっともふさわしくない、UFOキャッチャーでとったバルキリーのおもちゃ、古い「コミックバンチ」、「デラべっぴん」、「月刊井川遙」、「ゆうパック」の箱、「ユニクロ」の紙袋などをあちこちに置いて、店を出た。

もちろん、そんなものは何の影響も与えない。家に帰ってテレビを付けたら、再放送の「渡る世間は鬼ばかり」がやっていたので急いでチャンネルを変えようと思ってリモコンを探したら、テーブルの上にあった紅生姜の入った皿をひっくり返してしまった。

おれの心は少しずつ死んでいき、心だけならまだいいが、何かもっと大切なものがまた失われた気がする。そして、かなり時間が経ってからでないとそれが「何か」がわからないのだ。

4月7日(日)

心が死んでいた。最悪の状態だった。ちくしょう。煮るなり焼くなり好きにしろ。
と思ったが、やっぱり耐えきれなくなって、夜中にうちにあったあり合わせの酒を飲んでしまった。そうしたら、夜中に一気に気分が悪くなった。

やっぱり心は死んでいた。

4月6日(土)

体調がよくないので、力学(ちから・まなぶ)と映画「ミスター・ルーキー」を見に行くつもりだったが、ナシにしてもらった。
友人同士、酔狂の基準が一致しないというのは悲しいものだ。たとえば吉田等は当然「ミスター・ルーキー」を金をもらっても見たくないと思うし、そのくせIWA JAPAN プロレス(WWFを1万倍安普請にしたような団体。いや、そこがいいんだけど)の「男は辛いのよ」というDVDを買ったりしている。そして私に「買え、買え」という。

4月5日(金)

出かけようと思ったら、家の前に置いておいた自転車がない。
盗まれた。

仕方がないので、自転車屋に自転車を買いに行く。
時間がかかって、イライラする。
店に入ったら、まったく面識のない小学校二年生くらいの男の子が私に寄ってきて、私の手を握って「ワーイワーイ!」とはしゃいだ。あまりに唐突だったので、不機嫌だったんだけど笑ってしまった。そしてその子は一緒に来ていたママにたしなめられていた。何だ?

買った自転車で図書館へ行ったら、「新・魔獣狩り」の続きが借りられっぱなしだったので、イライラして本屋で借りようとしていた巻を買ってしまう。

家に帰り、夜になったら、親が近所に乗り捨てられていた自転車を探し出してきた。
なんか、見つけだされたことがかえってショックで、よけいイライラした。

親が「バーカ、バーカ。お前が自転車屋で大枚はたいて自転車を買った後に、私はカンで探し当てたんだ。お前はバカでぶきっちょで、いばりんぼうでメチャクチャなやつなんだ。」
と言ったら、すかさずさまぁ〜ずの三村が「どんぐりと山猫かよ!!」とツッコんだ。

まあ、本当の「どんぐりと山猫」はちょっと違うんだけどね。

それと、この間香川県のある保育所で、1歳くらいの子が虐待で死んだ事件をやっていたテレビを見てしまった。

うわ〜ダーク。最低。

テレビを見るかぎり、この園長、ちょっとタクマ(←池田小学校で小学生をたくさん殺したやつ)的基地外という印象である。

というのは、子供を「ブン投げてふんずけた」とか自分で告白してるし、話し合ったときの録音テープでは「私も何十年も保育をやっていますけど、喜んでいただけたのはほんの少しの人かなぁと……」とか平気で言ってる。
自分のやったことを取り繕う、というのはまだしも人間的な行為だと思うよ。普通の小悪党だったり、ある種の信念(スパルタ教育であるとか)の持ち主だったら、開き直りも含めて、「いろいろ言われるけど、たくさんの人に喜ばれてここまで来た」とか言うでしょ。この保育所長はそうじゃない。もう「自分は喜ばれてない」って言ってんだもの。

このヒトの場合、自覚してるんだよね。タクマが、池田小学校に飛び込んだのは「他人を巻き込んだ一種の自殺」だと自覚しているのと同じ。
それと、過去に「いじめで保育所をやめさせられている」っていうんだけど、「いじめられてやめた」とか、「いじめでやめさせた」というのならわかる(実際、いびり出された保母もいたらしいが)。でもさあ、「人をいじめたからやめさせられる」ってことは、職場でヘゲモニーを取らないまま人をむやみにいじめていたということでしょ。
まあ、職場で隠然と権力握ってヒトをいびるというのもゾッとしない話ではあるが、日常にありうることではある。でも、周囲から「そりゃまずいんじゃないか」みたいな批判がありつつ、職を失うまで人をいじめ続ける、こういう人間のありようというのは、恐い。

このテレビを見ていてもうひとつイヤだったのは、子供が虐待を受けていた親子の親の一人が出てきてて、「自分の子供が虐待されたのを知ってはいたけど、園長が恐くてやめさせられなかった」、「自分も園長から暴行を受けていた」って言うんだよ。で、この園長、「やめる」というと自宅にまで来て引き留めたという。
ほとんどホラーの世界。

でも「ホラー」とか言って笑ってられない。まずこの親。たぶん、園長はこういうヤツを見抜く目は持っていたんだろう。ちょっと強く言えば、しぶしぶ言うことをきく親。
一緒にしては被害者に失礼かもしれないが、スナックのマスターで、常連客と自分の女をかたちだけ結婚させて保険に入れ、風邪薬を大量に飲ませて殺そうとした事件があった。
あの風邪薬を飲まされていた男。
あるいは、「カレー事件」でマスミ容疑者に砒素うどんを食わされていた居候の青年。
ハタから見れば「何でそんなことをされるの?」って思うんだけど、従ってしまう人間がいる。なんだか受け身的な人間。世の中、そういうのを見抜くのがうまいヤツが、こういう受け身的な人間を使う。これは恐いことだよ〜。

幼児虐待死の事件については、この園長がどういう人間だったのか、何か他に恐怖材料(ダンナがやくざだとか)があるのか、地域として他に保育所はなかったのか、などの調査でもっと「タクマ的人間、受け身的な人間」について掘り下げられると思う。が、だれもやんないだろうな。

妻が強姦されて殺されて、幼い子供も殺された青年が、犯人を死刑にしろとずっと言ってますよね。で、あの「正義はぜったい自分の側にある」という態度に反感を持った人も多いと思うんだけど、前にも書いたけど殺した方も相当のタマだからね。獄中からの手紙とか、読んでて本気で腹立つよ。
私はさあ、言い方は悪いけど、教育もなくて、衝動的にやってしまって、でくのぼうみたいなやつが犯人だったら、ここまで腹立たない。けど、手紙の文面読むと、意外に学があるんだよあの犯人。文面からわかるから。
タクマ容疑者もそう。彼の文章はわからないけど、お見合いパーティで医者のフリをしていてあやしまれなかったというから、それなりの知的な佇まいはあったと思うんだよ。
それがイヤなんだよな、すごく。

反対に、ミヤザキツトムの本もいくつか読んだけど、私、あの人に教養はあまり感じないんだよね。ここら辺微妙なんだけど、微妙だとふまえた上で、やっぱりあの人教養ないと思うわ。

以上、日本犯罪者列伝、終わり。

4月4日(木)

「絵を描く犬」 写真・文 斎藤忠徳(1998、ぶんか社)について、書いて当HPへアップ。実は以前のHP日記に簡単な書評を書いたことがあるのだが、一度もっとちゃんとしたものを書いてみようと思って、ずっと犬の学習能力について調べたり、この「絵を描く犬」自身のことについて調べていた。
結果、タイムリミットが来て、けっきょくそういう「芸」ができるかできないかは私の知識では判断できないとわかり、レビューを書いてHPに載せた。文字数を気にせず、わからないことは「わからん」と書けるのは、自分のHPを持っている者の特権のような気がした。

マジックとか芸というのは、それ自体ありえるかどうか(その背景として主張される超能力とか霊とかではなく、現象そのもの)を言いきるのはむずかしいことがわかった。現象のみであれば、ほとんどどんなことも可能だから。CGとか。

しかし、これ以上「絵を描く犬」にわずらわされずに済むかと思うと、ホッとする。

異様にめんどくさかったが、国会図書館へ行く。
もう本当にめんどうくさく、いつもよりたどりつくまでの時間が倍に感じた。
調べたら、それなりのことはわかった。
だが私の日常は基本的にミジメなので、そのことによっていささかも華やいだ気分にはなれないのである。

なぜかイライラしていて、図書館の食堂でどっかのじいさんが食堂のおばちゃんとダラダラしゃべってるのを横で聞いていて、すごくイライラしてきた。

イライラしたので、帰ってドカ食いして、寝る。

4月3日(水)

昨日、店に私がいない間に大きいトラブルがあったらしく、お客さんがギャーギャー苦情を言ってきたらしい。
そうしたら今日もその人が来て、ギャーギャー言って恐かった。

家に帰ると、注文していた本が宅急便で来た。資料的な意味あいで購入したものだったが、思ったとおり知っている以上のことは書いていなかった。

いつだかにやってた「フードバトルクラブ」の録画を見る。今回は早食い。
早食いでも「白田がダントツ」とわかってしまったので、今後番組に何らかの工夫が加えられるかもしれない。

人間の限界ギリギリまでせまるFBCに対し、テレチャンの大食いはこの間のように、マッタリ路線に行っている。この間の選手は全員、おそらく5キロくらいまでしか食べられないと思う。今までの大食い番組が、「10キロ食えて大食い」としていたのに比較するとあきらかにレベルダウンなんだけど、私はこの路線は間違っていないと思う。「強さのインフレ」には背を向けるのも、ひとつの生きざまである。

「テレチャンのマネ」と言われてもしかたのないFBCだが、「早飲み」を入れたのだけはオリジナリティとして評価していいのでは。
1.5リットルのペットボトルのスポーツドリンクを、人間が4秒で飲める、と初めて知ったよ。

それと、こういうところに出てこなければならないお笑い芸人はなんだかヒサンだ。とくにドロンズの痩せてる方。

あと「筋肉バトル」は、戦隊ヒーロー役の青年がたくさん出ていたことより、「なかやまきんに君」がマジメキャラになってしまっているのが心配だ。
まあなかやまきんに君が一点突破しようと思ったら、「オンエアバトル」よりこっちなのかもしれないけど。しかしあの気持ち悪いキャラクターが失われてしまうかもしれないと思うと、残念だ。どうなるなかやまきんに君。
「なかやまきんに君」と3回も書いた。満足した。容易に「カワイイ〜」とか言われて日常に取り込まれそうな三瓶より、なかやまきんに君だ。これで5回書いた。
まあ5回書くほどじゃないが。

・「新・魔獣狩り」(3)土蜘蛛編 夢枕獏(1995、祥伝社)読了。

4月2日(火)

火曜日ということで、荷物がなかなか来ないし、来たら来たでたくさん来るので、イライラ。しかも集配係がいつもの青年ではなく、「毛利さん」だったし。
「毛利さん」、毎日来ているときにはべつだん気にならなかったが、たまに来るとどことなくエキセントリックな感じがして、だんだんわずらわしく思えてきた。

突然、髪を赤茶色に染めてきて、「毛利さんがスーパーサイヤ人に!!」とか思ったが、当然、一緒に仕事をしている親はスーパーサイヤ人を知らない。「毛利さん」本人に言うわけにもいかない。 そういうことを考えつくこと自体、ミジメだなあと思って店の外を見ると、いかにも中流って感じの奥さん方がコドモを乳母車に乗せて歩いていた。いいよなあ幸せ家族。また「隣人13号」読み返そうかな……ニヤリ。

なぜか腹具合がおかしく、何回もトイレに行った。

夜から新宿ロフトプラスワンで「オタクアミーゴス」2日目「雑談編」。
ネタいっさいナシのトークのみ。いやー……やっぱりすごいよなあ。ヒトへのツッコミもするけど、自分をネタにしてもぜんぜん平気というのが。まったくカッコつけないという点では、昔のピエール瀧が3人いるような感じであった。

ここで売られていた新刊本を買って帰る。

4月1日(月)

エイプリルフールだが、「ちゆ」とかのエイプリルフールネタは、ちょっとうざかった。
「ちゆ」は、本当に12歳の子がああいうことを言っているんだ、と思いながら読むと楽しいということだったが、私に言わせればやっぱり松田純は年をごまかしていたし、何人かのグラビアアイドルは整形パイだし、また何人かのアイドルはDJか若手俳優と付き合っているし、相撲では星の貸し借りが行われ、木村政彦は力道山にボコボコにやられてしまうのである。

それが現実だ。ま、整形パイはどうでもいいんだけどね。

それをも超えようとするホラを吹こうとするなら、それなりの心がけと準備が必要ななはずで、4月バカ程度では私の心はひとつも満たされない。それにしても「四月馬鹿」って書くと本当にバカみたいでちょっと楽しい。
横溝正史の「恐ろしき四月馬鹿」という小説を買って読んだら、普通に面白かったばかりでなく(内容は忘れたが)、「恐ろしきエイプリル・フール」と読むらしい。
二重にガッカリした私は、少年の背負った、ポスターの飛び出した巨大なリュックを電車内でぶつけられ、よろけてかたわらの女の人(なんかファッションに豹柄が混ざってる人)にぶつかったら、ものすごく大きな音で舌打ちをされた。しかし、それにも歯を食いしばって耐えた。

夜から新宿ロフトプラスワンで「オタクアミーゴス」初日「濃ネタ編」。
すごく面白かった。内容は、いちいち書くのがめんどいので省略。ネタに対する批評の多くの部分が創作者的な観点だ、というのがすごいところだと思う。
モー娘。について「トミノさんがやってるのは、LOVEマシーンまでなんですよ!!」という形容に大爆笑。
ガンダムとモー娘。と、両方知らないとわからないたとえ。

・「新・魔獣狩り」(2)孔雀編 夢枕獏(1993、祥伝社)読了。



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2002年3月の日記
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