つれづれなるマンガ感想文12月後半

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「つれづれなるマンガ感想文」12月前半
一気に下まで行きたい



・「大宗教学第拾四號」(1999、埼京震学舎)
・「元祖王道秘伝書」氷川竜介(1999、おたくをおもしろくする会)
・「神聖モテモテ王国」(6) ながいけん(1999、小学館)
・「マンガ批評大系 第2巻 竹内オサム、村上知彦編」(1989、平凡社)
・「週刊少年チャンピオン」4+5号(1999、秋田書店)

・「マンガ批評大系 第1巻 竹内オサム、村上知彦編」(1989、平凡社)
・「週刊少年チャンピオン」3号(1999、秋田書店)
・「ヤングマガジン アッパーズ 2000年 1号」(1999、講談社)
・「げんこつボーイ」(2)(4) 牛次郎、結城剛(1977、集英社)
・「宇強の大空」(1) 梶研吾、岡村賢二(1997、集英社)
・「ザ・グレイトバトルIII」 ときた洸一(1993、講談社)



【同人誌】

・「大宗教学第拾四號」(1999、埼京震学舎)

すっかりコミケのデンジャラス系ではおなじみであろうサークル埼京震学舎(最強神学者)の新刊。
いつもながら、カルト宗教を中心とした時事問題を題材に、短い文章でのバシッとした決め打ちあり、替え歌あり、やや長文のコラムあり、で世間の変なところを笑い飛ばす本です。

「政治と宗教の話はしない」というのが一般社会であたりさわりなく生きていく術であるとすれば、「政治と宗教を題材とした同人誌をつくる」ことにはかなりの勇気が必要だと思います。
私自身も政治・宗教的な面に同人誌で触れざるをえないときがあると、もともとのヘタレが災いしてどうしても玉虫色の発言にならざるを得ない。この辺が我々WAIWAIスタジオの限界ですな。トホホ。
対するに「大宗教学」では、それがギャグという文脈であれある程度まとまった文章であれ、自分の立場をきっちりと表明している。そんなところを尊敬します。

なんにしても、や●み●るレベルの浅さではなく、物事を笑い飛ばすときにも深い教養に裏打ちされているところに、コミケでもたくさんのお客さんを(しかもコアなファンを)獲得できる魅力が本書「大宗教学」にはあるのでしょう。

あとがきには同人誌を続けるか、やめるかの悩みを経て続けることへの決心が綴られていますが、年齢も30近くなると同人誌やオタク的なことに関わり続けるかどうかの時間的・心情的・物理的分岐点がだれにでも来るわけで、その辺の悩み→決心への過程には私自身も深く考えさせられるところがありました。
(99.1231、滑川)



【同人誌】

・「元祖王道秘伝書」氷川竜介(1999、おたくをおもしろくする会)

マンガではないが、「パターン」という考えにおいて関係があるのでここに感想をあげます。

「よくあるパターン」を単なるパターンとして退けず、そこに意義を見いだそうと
「アニメや特撮の物語や設定で、かくあるべき堂々たる王の道」として「王道」という言葉を本書では使った。
そしてその「王道」について、イロイロ書いてある本です。もともと86年頃のアニメックに連載されたコラムだったそう。

たとえば「大ケガをした人はたいてい血液型がRhマイナスである」とか、主人公のかつての親友が「おれはおまえの才能が憎かった」とかいって敵側に寝返って登場してくるとか、敵の戦闘員のコスチュームを奪って潜入したヒーローが「全員整列だ! みんなマスクを取れ!」と言われて正体がバレてしまうとか。そのような「王道」がギッシリつまった本になっている。

こういうモノを読むとき、「あったあった! そんなパターン」と笑ってしまうんだけど、それと同時に、何かワクワク感がある。読んでいるときに、この「王道」を使用してもっとも優れた作品が思い出されるからだろうか。それとも、その「王道」に、初めて接して感動したときの子供の頃を思い出すからだろうか。
いや、何といってももともと私は「そういうのが好き」だからだろうと思う。

とにかく本書には適当に思いだしては指摘する「あるあるネタ」を超えた何かがある。それは、
「パターンとは、元々は過去の名作のエッセンスなのです。それを無批判に何も考えないで引き写すから、パターンは形骸化し、作品の息吹をくもらせてしまうのではないでしょうか。自分なりに消化し、新しい解釈を加えたり組み合わせたりすることで、別の作品を生み出す核にもなり得るものだと思うのです。」(本書P34)
……とあるように、筆者のパターン、「王道」をいかに新しいものにするか、という行為に対する熱意と愛情があるからではないかと思う。
エンターテインメントが好きな人には、だれでも「こうこなくっちゃ!」とパターンを歓迎した経験と、「なんだ、またこのパターンかよ」とガッカリした経験双方があるはずだ。その愛憎(「憎む」ってほどじゃないと思うけど)相半ばする感覚が、本書ではとてもよく表現されているのではないかと思う。

ところで、スケバン刑事IIについて「王道的ワンダーに満ちていたのであった。」という表現があった。確かに「スケバン刑事II」は非常にぶっとんだ作品であった。が、それと同時に「王道」に忠実な作品でもあった。「王道」に忠実でありながら、ぶっとんだ作品。それはいったいなんだろう、とつねづね考えていたら、「王道的ワンダー」という言葉に出くわした。

そうなのだ。「王道的ワンダー」というのが「ぶっとび」に重要な要素なのだ!!
と、何か一人目からウロコがボロボロとおちた状態になりました。

話は変わって、コラム的に「1986年という年」という文章が入っている。
86年は、スペースシャトル爆発、チェルノブイリ原発事故が起こった年で、ファミコンが大ブームになりつつあるとき。アニメ・特撮については滑川はウスいのですが本文では「終わった感」があったという。アニメ雑誌ジ・アニメとマイアニメ、アニメックの休刊があり、富沢雅彦氏の急逝、翌年に「王立宇宙軍」と「聖闘士聖矢」だというから、ウスい私でもひとくぎりついた感覚というのはわかる。

滑川的には、確か86年にはおニャン娘クラブもすでに解散してアイドルシーンにはペンペン草も生えなかった記憶があるし、そこら中で「終わった感」はあったのではないかと思う。
これは小浜逸郎も言ってたと思うが文化的には1975年がひとつの区切りになるが、その約10年後の1986年ももしかしたら区切りになるのかもしれない。……というか正確に言えば、1983年頃からいろんなものが終わり続けていった、というのが滑川史観です。もちろん、何か新しいことも始まっていくんだろうけどね。

話を戻すと、とにかくサラリと読んで笑った後に、深くいろんなことを考えさせられる本でした。とくに「王道」を愛する人、ジャンルパロディ好きな人は必読でしょう。新しい表現は「王道」をいかに新しく見せるかにあるのだろうし、ジャンルパロディってのはこの「王道」をいかにひっくり返すかにあると思うので。
(99.1231、滑川)



・「神聖モテモテ王国」(6) ながいけん(1999、小学館)

少年サンデー連載。謎の宇宙人ファーザーと、その息子として同居している少年・オンナスキーが毎回「こうすればモテる!」とない知恵絞っては失敗を繰り返すギャグマンガ。

掲載誌ではネタ切れなのか休載が続いたりしたようだが、「ファーザーがモテると思ったことを行動し、それが失敗する」という1話完結のパターンは強固に守られている。
ジャンプだったらとっくにトーナメントに突入していたりする頃だよネ。

いつも読んですごいと感じるのは、ながいけん独特の言語感覚。

「宇宙開闢時に、神の死骸の大きいかけらが 浄化を恐れて宇宙を否定した。彼は因果律を修復不可能な程に破壊して、時を外に開くため、行動を起こした。」

……ファーザーの宿敵・ブタッキー(勝手にファーザーがそういっているだけ。いつも2人のかわいい女の子を連れて歩いている男で、とうていモテそうにないブタ顔なので「ブタッキー」とファーザーが命名した)の正体はこう説明される。当然ファーザーの口からでまかせなのだが、収拾がつかなくなったSFアニメの説明にも使えそうだったりして。
他にも、ファーザーのセリフにはどこかで聞いたことがある文章をつなぎ合わせたコラージュのような奇怪さがあり、まったくもってすごいと思うのだった。

また今回は大王(ファーザーの部屋の隣に住んでいる悪の秘密結社みたいなヤツ)の部下のパターンどおりでない行動とか意味深なセリフ、ファーザーを「楽しそうだ」とポツリと評するブタッキーなど、伏線めいたところが見られるけどどうなんスかね!? サンデーを読んでいない私にはわからないのだった。

第5話「マンガ家でもてようとする」のファーザー描くマンガ内マンガ「電光石火供えガイ」は「マンガ内マンガ」ファン(!?)必読。「うわっ、この戦闘シーン、夢に見そう。」というナオンの素朴な感想に爆笑してしまった。

でもこうして見るとつくづくうすた京介の「マサルさん」同様、「あらかじめパターンどおりに終わることを許されない」というギャグの宿命のようなものを感じますよ。「さようなら、ドラえもん」のような「最終回」は作中ですでにやってしまっているしね。
(99.1230、滑川)



・「マンガ批評大系 第2巻 竹内オサム、村上知彦編」(1989、平凡社)

滑川ニュッピーのあと出しジャンケン的感想文
【評論】

本書は、主に70年代以降の作家・作品を扱った批評のアンソロジー。
批評は当然その当時の時代性をおびているワケで、それに現在から私ごときが論評をくわえることは、あと出しジャンケンになってしまうのだが……。

・超少女の寓話 荒俣宏

77年。「昔少女マンガ家を目指していた」という筆者が、少女マンガの独自の発展によって男はとうてい描くことのできない、「少女の心を持った女性にしか描けない少女マンガ」の出現によって、完璧にその希望がうち砕かれた……、というストーリーから70年代の少女マンガの隆盛を論じるもの。
実体験から普遍的な通史へと至る文章はうまい。アンソロジー全体の「解説」でも少し触れていたが、ではかつての少女マンガ……大雑把に言ってコンサバな少女マンガに憧れていた男性はどこへ行ったのか、というと、あまり性愛サイドではないロリコンブームの一端を担ったり、プロになれないまでも自分で「理想の少女マンガ」を描いていたりするのではないだろうか。
同人誌即売会でも、「創作少女」ジャンルに買いに来る男性は意外に多いというし。
あるいはこっぱずかしい少年ラブコメや、ギャルゲーの中に息づいているのかもしれない。

むろん、男性少女マンガ家は皆無になってしまったわけではないし、その現在の在り方にはまた論じる切り口があるのだろうけど、この荒俣宏の文脈で言うならば「男の子の少女趣味」は死に絶えることなく、まさ〜に忍者武芸帳の影丸のようにどこからか来てどこかへ行くのだった。
「少女まんがの読み手にまわるような女々しい境遇だけはせめて避けようと努めていたぼく」というのが筆者の本心か、読者への照れ隠しかは知らないが、そういう一文があることはこの文章が77年に書かれたことを再認識させる。

・ソフィアの涙 少女マンガの内的世界 秋山さと子

81年。ユングなどを引き合いに出して少女マンガを分析しつつ、その特異な発展に時代の変化を見る。
ここでの少女マンガの「善し悪し」の基準はとりあえずは有効だとは思うが、……まあ他のあらゆる批評にも言えることだけれど、何かを持ち上げると必ずそれが終わってしまったときに語るべきことが何もなくなってしまうという弱点を持つ。
マンガ批評が常に「昔のマンガは面白かった」という論調に傾きがちなのはそのせいだ。しかし本当に、マンガというのは時系列につまらなくなっていっているものなんだろうか?

・海を前に少女は冒険を志す 閉ざされた空間からのロマンティシズム 高取英

78年。少女マンガの変化を、最も早く敏感にとらえた文学少女たちの熱い思いを、男性である筆者が感じ取った、エッセイ的な文章。彼の出会った女性たちは、公に発言することもなく何らかの理由で沈黙していった。
常に何かのムーヴメントがあるとき、発言の場を得るものとそうでないものが出てくる。本作にあるように、「ほんとうに語るべきは、彼女たちであるにもかかわらず。」
ぜんぜん関係ないがまんだらけの社長の自伝でも、まんだらけがデカくなるかならないかのときに、田舎に帰った友人の話が出ていた。そういうのを聞くとシミジミする。中央部で生き残ってきた人の戦いの記録は大切だが、そこからリタイヤしていった人がいったい何を考え続けてきたのか、それはそれで気になるものがある。

・樹村みのりの風と光 竹内オサム

樹村みのりの作品におけるキャラクターをいくつかのパターンにわけたり、作品の分析をすることによってその「よさ」を解析しようというもの。樹村みのりの作品、ひいては物語を借りた「表現一般」がなぜ論文調の文にない魅力があるのかが簡潔にしるされていてイイと思った。

・夢の中の日常 大島弓子 村上知彦

79年。特定の妄想的な視点から出発する大島作品から、実際の現実が果たして本当の現実なのか? という問いかけをする。この文章は発表時点で有効だっただろうが、20年経って、虚構だの現実だの、その区別だの、なんてどうだっていいこと(と言っちゃ問題があるのか?)について論じなければならなかったのかと、今は思う。強固な現実があった時代は「いいこともあったし、悪いこともあった」ってそれだけじゃないのか。
そして大量の情報に囲まれ虚構と現実があいまいになっている今後も、「いいことはあるし、悪いこともある」のだ。

・元祖天才バカボンの鉢巻き 上野 瞭

77年。「バカボンのパパの鉢巻きはいったい何についての決意なのか?」という疑問から、それは「『良識』を行動の基準にすまいとする決意」なのではないか、という結論へ持っていく。
権力がどうの、体制がどうのという文体はややアジり調で一方的なサヨク的な観点に首を捻ったし、第一結論がむりやりすぎる。しかし、最終的に「バカボンのパパもでたらめなのだから、コレデイイノダ!(大意)」とする結びは、なんだかにくめなくておかしい。

・山松ゆうきちのギャンブルまんがには、人生があるのだ! 椎名誠

やっぱり文章がうまいので引き込まれる。私は山松ゆうきちがどんなレベルでどんな具合に評価されているのかまったく知らないが、こんな短い文章からも椎名誠のユーモアとバーバリズムとトホホな感じがにじみ出てくるので面白い。
「山松ゆうきち」というセレクト自体に、「こんな面白いマンガがあるんですよ」という発掘的意味があるのかどうかが気になる。

・望遠鏡と顕微鏡 畑中純について 村松知美

87年。これも文章で読んでしまう。さすが、って感じだが、当時は「文学からマンガを見下す」文章が多かったそうだ。現在、文芸批評がらみの文章ではほとんどが「マンガに負けないように文学もどーのこーの」というもので、それに対して「文学はマンガとは別モノ。ましてや売り上げ部数の差を提示して反省して終わりなんてとんでもない」という文章も目にした。時代も変わったもんだ。

・溶解するオブジェ 諸星大二郎小論 米沢嘉博

「コミケット」という何でもアリアリを主旨とするイベントの主催者のわりには、意外なほどバッサリと斬るものは斬る。その辺に驚いた。しかしそれはゴーマンとかそういうのとはまた違うような気がするんだけど。

・高橋葉介マンガづくし 由良君美

82年。「マンガを物語や神話のアーキタイプを伝えるテキストとしてみる見方」で書いた文章。むかしはこうしたモノをずいぶん感心して読んだクチだが、最近では「ポッと出の表現ジャンル」が「過去とつながっていることを世間に納得させるために」有効である以上のことはあまり感じない。過去の物語から何らかの影響を受けていることはむしろ当然なんだし。

・老婆、童女と化す 田辺のつるの場合 本田和子

83年。「田辺のつる」論ではなく、筆者の児童学の論考のイントロダクションである。
解説では「学者、文化人の本来の研究そのものがマンガによってインスパイアされる時代の到来」として評価しているが、さらにあと出しジャンケン的に現在の視点で考えるならば、私も含めた読者の多くは「学者がマンガを取り上げてくれた」的なありがたみを感じていたことも忘れてはならないのではないか。
現在、「学者がマンガからインスパイアされた研究」が「マンガやマンガ読みにとってどのような影響をもたらすか」まで考えなければならないのではないかと思う。

・成長の儀式 大塚英志

88年。あだち充の「タッチ」を、民俗学の視点から成長の通過儀礼の物語として読む。そしてマンガ作品が民俗的儀礼の代償として成立しているのではないかと推論する。
当時から最大の疑問だったが、本当に現代には通過儀礼は存在しないのか。そりゃもちろん「民俗的な」通過儀礼は存在しないかもしれない。だがそれは現在が民俗社会ではないんだからむしろ当然のことではないのか。
わざわざ「タッチ」を論じた(いわゆる「ブンガク的」なマンガ作品ではなく)という意義はそれなりにあるにしても、「現在は通過儀礼なき社会」という大前提には疑問があってしょうがないんだけど。

・都市崩壊を夢見る少年たち 大友克洋「AKIRA」をめぐって 川本三郎

87年。「都市に生きる人々、とりわけ子供たちの発揮する新しい世界感覚」ついて書いたもの。AKIRAについての文章はアニメ化されたあたりで散発的に目にしたが、なんだかよくわからないものか、謎解き的なものがほとんどだった。
もともと都会育ちの私には「都市に生きる人々」なんて言われてもピンと来ないし。
「AKIRA」って不良のマンガでしょ。それもピンと来ない。
ここで川本三郎は「タフな不良と脆弱な子供」をまるでチーマーとオタクのように(もちろんそうは書いてないが)対比させているが、コトはそう単純ではないのは、10年後の未来からやってきた私にはわかるのだった。ふっふっふ。




……本書「マンガ批評大系 第2巻 竹内オサム、村上知彦編」全体の解説には、
「一見して明らかなのは、評論がよって立つべき前提としての、研究史や年譜、書誌等の基礎研究、資料の不整備だ。継続してまとまった評論、研究をとりあげる「場」のないことも、その一因といえるだろう。だからこそ同じような『発見』が何度も繰り返されるし、錯誤もまた繰り返される。実りある相互批判も育たない。」と書いてある。ダダモレ状態である。ふう。

そんなことを横目に、私はゴロ寝するのみなのであることよ。ごめんちゃい。
(99.1229、滑川)



・「週刊少年チャンピオン」4+5号(1999、秋田書店)

・「BM ネクタール」 藤澤勇希

日本の食料問題を解決するためにつくられたBIO・MEAT、B・M
地震により破損したゴミ処理場から逃げ出した「それ」は、下水道に逃げのび生き続けていた……。
「ブタが逃げ出した」と思ったらそれは地下に棲息するBMだった。
どうやら発見者の近所のオバハンは食われてしまったらしいが、完のクラスメート・ウソつきでいじめられっこの女の子香ノ宮さんがそれを目撃してしまう。徐々に浸食をはじめるBM……という展開。
今回はじめて「BM」の姿が明らかになる。不定形で不気味なバイオ生物という印象。
ストーリーはパニック映画の序章、って感じで盛り上げる。
今回読んで、ある程度のレベルまで行く作品だと感じるが。どうなるのか。

・「ルーンマスターゆうき!」 雄雛愛覚

「戦慄! 悪魔のパズル」後編。算数や理科が得意な小学生の女の子・ゆうきとルーンモンスターとの戦い。
体育館に子供が17人も入れるしきりをつくって、それをマスに分け、何匹ものモンスターが監視するというパズル。
モンスターの監視を突破して、中心にあるカギを取り子供たちを開放する方法は!? という解答編。

パズルをつくったルーンモンスター・アズ男爵に荷担した少年が報いを受けて、毛をむしられたウサギに変身するところはグロテスク〜。だがそれを見て驚いている犬のゴルビーは場違いにカワイイ。
パズルは、それの構築に前編かなり時間をかけたわりには解かれる展開があっけない。そして前編を読んでいないとよくわからないのもキツイ。何か早くも人気がなくなるようなイヤな予感がするんだけど、一般読者と私の好みが乖離することはむしろよくあることなので、座して展開を見守るしかない。私は好きです、あいかわらず。

・「バキ」 板垣恵介

今度は実戦空手の雄・神心会に場面をうつす。な、なんと愚地克己と烈海王が登場だ!!
前回のトーナメント編のときに、さんざん貼られた伏線を全部チャラにされて一撃のもとに中国拳法に敗れ去った克己、ずーっとずーっと気になっていたのだが、まさかこんな展開になるとは。チャッカリしているのか、現代っ子なのか、彼流の敗北に対する解答なのか、実に面白い展開になっている。刃牙に負けたせいか、どことなく影のある烈海王もステキだ。
しかし、今回の死刑囚が出てくる展開では、前回の強者たちが総じてヤラレ役なので、今後の展開が心配だ。むやみにケガしたり死んだりしないように。

・「フジケン」 小沢としお

とつじょ、マンガを描いて賞をとり、賞金を得ようと考えたフジケン。いきなり描いたこともないマンガを描きはじめる。
個人的に、こうしたギャグとかコメディ的なマンガで「マンガ内マンガ」が出る話は大好きだ(「浦安鉄筋家族」の恐怖マンガ家「十三階段ベム」が出る回のように)。
今回も、フジケンは最初っからサインペンみたいので描いていて、そのドヘタぶりが期待できたのだがまったく想像どおりであった。
しかしあっけなくて少々物足りない気もする。このネタなら前後編にしてもいいくらいだ。フジケンの描いたマンガも短いし。

・「がんばれ酢めし疑獄!!」 施川ユウキ

4コマギャグ。おもしろい。ネームが絶妙。

(99.1228、滑川)



・「マンガ批評大系 第1巻 竹内オサム、村上知彦編」(1989、平凡社)

滑川ニュッピーのあと出しジャンケン的感想文
【評論】

批評のスタイルとか傾向というのは、そのときどきで流行みたいなものがある。また時代状況とも切り離しては考えられない。だから、現在からそのときどきの批評に対してどうこう言うことは、それを考えなしに行えば単なるあと出しジャンケンに過ぎなくなる。
もちろん、そうした文章もまた時間が経つにつれて古くなってゆくのだが。
しかし、知識も文才もない滑川としては、その批評が書かれた時期からほんの少し後の時代にいる、すなわち未来人であることだけがとっかかりでもある。
……ということで、アンフェアを承知のうえで現時点からの感想文を書き殴る所存。

本書は、現れては消えてゆく「マンガ批評」を、今日のマンガの全体像との接点を失っていない点を最重要として作品の選定をした、アンソロジーである。
個々の作品解説については、巻末の竹内オサムの文章が的を射ていると思うが、蛇足ながら興味のあるところだけツラツラと感想を書いてみる。

・生活者の心情 のらくろの「滑稽」と「悲哀」 竹内オサム

「のらくろ」の戦争責任を問う教条的な批判に対し、そのアンチ・ヒーロー的性格を提示してみようとした作品。「のらくろ」をリアルタイムで楽しんだ世代ではない筆者が、資料を調べて「のらくろ」のキャラクターについて考察した興味深い論考だと思った。
この筆者の主張、すなわち初期の間抜けな一平卒だったのらくろは、アンチ・ヒーロー的側面を持っていた、という考えには同意する。のらくろが出世するごとに作品の精彩を欠いていくというのも本当のことかもしれない。
しかし、読者の大半はのらくろの出世を望んでいたのだろうし、その「出世していく」というのが物語のダイナミズムにひと役買っていたのかもしれない、とは少し思った。たいして読んでないからただの予測でしかないが。

また、「のらくろの戦争責任を問うという教条的批判」については、その後も戦争や派手なアクションをテーマにした作品については多かれ少なかれ常に似たような批判が浴びせられてきた。
それに対する反論の方が、はるかに批評としては多面的であったとは思う。思うが、「教条的批判」についていまさら考えてみるというのも、また一興ではないだろうか。果たしてヤマトは、ガンダムは、戦争賛美ではないにしろ明確に「反戦」をテーマにしたものだろうか、とか。

・サザエさんの性生活 「家」の権威主義と娼婦 寺山修司

けっこう有名な文章らしい。人から内容だけ聞いたことがある。「セックスのことなんて知らないわ」ってな顔をして生活しているサザエさん一家の偽善ぶりを、「なぜここまで憎まなければならないのか」というほどに追及した(?)一文。
まあ本気というよりひらめきでそのまま書いたんではないか、と思う文章だが、有名なだけあって面白い。筋肉少女帯だったか空手バカボンだったかの曲に、この一文にインスパイアされたものがある。

時は経ち、コミケ。サザエさんパロ同人誌は腐るほど見た。ああしたツラリとした、過剰な性もバイオレンスもない世界は、ネタにしやすいらしい。
「ミスター味っ子」の、味っ子のお母さんと味っ子とのエロパロを見たときは、子供心にショックを受けたけど。何にしろ、あらゆる「セックスなどないことになっている世界」は、エロパロ同人誌において陵辱され続けてきたのだから。
ソレらと、寺山の憤りの類似と相違について考えたら面白いかも。……っていうかだれかやっているかも。

・葉緑素を持った女陰 手塚治虫マンガにおける変容譚をめぐって 小野耕世

「ロストワールド」の「植物から進化した少女」などをとっかかりに、「変容する身体」から手塚作品のセンシュアルな部分を指摘しようと言うもの。
個人的に手塚治虫は肉体変容に執拗なまでにこだわったヘンタイだと思っており(それが悪いというわけじゃない。これも手塚天才の証である)、それにとどまらず手塚マンガはヘンタイ博覧会って感じだが、この文章発表当時(79年)は、その指摘についてここまで紙数を費やさなければならなかったのか、と思う。その辺あまりに遠慮がちには見える。

また、ヘンタイ的なものは洗練された手塚マンガの対極である貸本マンガなどでもたくさんあったと思うが、当時「手塚はよくて貸本系はダメ」と思われていたのか、あるいは鋭い読者は見抜いていたのか、あるいは同じヘンタイでも手塚は洗練されているということで免罪? されていたのかなど、個人的疑問を喚起する文章でした。

・手塚治虫論 PART4 ヘルマプロディトスの夢 中島梓

こちらは78年。少年愛とか、男女の性役割について敏感な中島梓なので、小野耕世より筆致にためらないがない。
また「解説」によると手塚キャラクターにおける両性具有的在り方への指摘は彼女のオリジナルではないということだが、やはり「少年愛」とか「やおい」とかへのコダワリを持った分、なんというかオタク文化が開花するその予感に満ちた文章になっている。
だが、これは「中島梓だからできる」ことなのではないかという気もしていて、手塚マンガはあらゆる変態性を立脚点として評価できる性格を持っているため、オノレの嗜好のみで突っ走るとトンデモナイ珍論に帰結してしまう危険性もある。
中島梓はその辺お見通しのようだけれども。

・コドモとマンガ 中原佑介

59年に書かれた。「マンガは俗悪だからダメなのではなく、その中で、探求心や空想力を刺激するしかけに乏しいものがよくないのだ」ということで、「スーパーヒーローが出てくる安易なマンガ」が「想像力を喚起しない」、テレビドラマのマンガ化(今で言うメデイァミックス?)がマンガの可能性をせばめている、等の論陣をはっている。

「探求心や空想力を刺激するしかけが乏しい」マンガは確かにつまらないかもしれない。
だが、主人公がスーパーヒーローで絶対的に強いと、どうしようもなくつまらない作品に成り果ててしまう、という考えには少々疑問を持つ。それはマンガではないが主人公がバカみたいに強い(そして本当に頭もバカっぽい)英雄コナン・シリーズを見てみれば明らかであろう。

・子供のためのマンガから 独断的俗悪マンガ論 山口昌男

60年。手塚治虫、白土三平を持ち上げ、横山光輝、杉浦茂をけなす。
そして手塚はヒューマニスト、白土は残酷な面も持ち合わせている、と区分。
現在でも「通説」となっていることどもの雛形がここにあると考える。
雑誌系マンガと貸本マンガとの読者層の違いが書いてあったのは勉強になったけど、この「通説」を問い直すことからすべてが出発するのだと思われてならないです最近。

・かつて劇画は生き死をその本体としてあった 戦後意識の惨めな展開と劇画  権藤晋

69年。60年代初期の劇画を、戦後の奈落の底に咲いた「非文化」として捉えようとする。
すなわち劇画マニアのための劇画ではなく、貸本屋に通った生活者の心情表現としての劇画、という視点は興味深い。が、その内容はあまりにも閉塞していて、暗い。そりゃ時代が時代なので息苦しいのはわからんでもないけど、この後、逆に世の中は経済面ではどんどん明るくなっていくはずだ。
閉塞感とはカンケイなく、また何か新しいことが始まっていく、ということを、トシとると考えさせられたりする。

・「ようこ」たちの世界 作家論<矢代まさこ> 有川優

78年。矢代まさこの「ようこシリーズ」における作品論の後に、より作家性を強調しはじめたその後の矢代まさこのマンガが、やきなおしやテーマの表現方法がストレートなものが多いということを懸念している。
この原稿発表時点で、矢代まさこは職人気質なのか、逆に作家性をアピールしたいマンガ家なのか、読者側にもはかりかねるところがあったのだろう。

・真崎・守の闇 斎藤次郎

73年。非常に難解。ただし、「写真はコピー」、「マンガはオリジナル」という論理展開は、当時は知らないが現在ではあきらかに古い比較だろうと思う。それを言うのが主旨ではないにしても、前提としてはちょっとまずいんではないか。

・知る限りの上村一夫 関川夏央

上村一夫の死に際しての文章。個人的には、関川夏央という人がこれほどまでにマンガのクリエィティビティというか、作家性というかにこだわりを持っている人だということを知らなかった。「事件屋稼業」しか読んだことないんだけれど。

・佐々木マキ・ショック・1967 村上春樹

村上春樹の小説のイラストで、若い人には知られているマンガ家・佐々木マキについてのエッセイ。
佐々木マキの、イメージだけを喚起するような60年代後半の作品を通し、当時10代だった村上春樹は「表現することもないのに表現するにはどうすればよいか。それはスタイルを確立することだ」と考えたという。
村上春樹のおしゃれ文体に流されがちになるけれど、これは重要な指摘だと思う。

「表現したいことがないのに表現したいという欲求をどうすればよいか。」
これには確かにスタイルの確立が必要だ。少しズレるが、あるスタイルで着飾ることもそうだろう。
あるいは「よくあるパターン」で小説なりマンガなりを構築して書いてみてしまってもいい。
村上春樹がそこで考えるのは「オリジナルなスタイル」を考案することだったのだと思うが、だれもがそんな才能に恵まれているとはかぎらない以上、おのずと浮上してくるのは「既存のどのようなスタイルを選ぶのか?」ということになる。
佐々木マキや村上春樹みたいにカッコよくスタイルを確立させた人間は滅多にいない。
後は私も含めみんなサルマネをしている。サルマネはイタイ。

だがね、その「イタイ」ところに何か真実があるような気がする。
(99.1222、滑川)



・「週刊少年チャンピオン」3号(1999、秋田書店)

・「BM ネクタール」 藤澤勇希

超絶野球マンガ「球鬼Z」の藤澤勇希、今週から新連載。
近未来、日本の食料問題を解決するためにつくられたBIO・MEAT、B・M
それはゴミ処理場でゴミを食い続け、増殖し続ける人間に食われるためだけに生まれてきた新生物だった。ある日広域ゴミ処理場が地震により損傷、B・Mが外に逃げ出してしまう。一般人はまだそのことに気づかない。
主人公は、小学生の悪ガキ麻綾完(まあや・かん)らしい。その他、彼の同級生の顔見せがあったので、もしかしたら彼らを主役とした「エイリアン」みたいなパニックものになるのかもしれない。第1回目でなんとも言えないけど。

・「ルーンマスターゆうき!」 雄雛愛覚

「戦慄! 悪魔のパズル」前編。算数や理科が得意な小学生の女の子・ゆうきとルーンモンスターとの戦い、今回は、説明がめんどうだが体育館に子供が17人も入れるしきりをつくって、それをマスに分け、何匹ものモンスターが監視するという空間をつくった怪物・アズ男爵が登場。
マスの各列を必ず7人になるように子供を移動させて自分(ゆうき)も中に入り、9つにしきったマスの中心に入らなければならない、という……要するにパズルゲームをマンガにしたらこうなる、という衝撃の展開だ! すばらしい! すばらしすぎる! 理科と、数学のクイズもアリの世界なんだー。すげえよ。ぜったい応援するぞ!
小学生のゆうきは算数・理科は得意のかわりに国語は苦手らしく、
「『共存』!? 何言ってんの 『共存』って何?」って言うところがカワイイ。
それと、先週は気づかなかったけどブーツがカワイイ。

・「おやつ」 おおひなたごう

おやつくんをおとしいれようとする「ニセおやつくん」が登場。読者投稿とはいえ、その中途半端なデザインに脱帽する。「アタマにツノがある」とかそんな程度のニセモノぶりじゃないんである。ああ、ニセモノとはこういうものを言うのだな、と思ったことよ。
(99.1216、滑川)



・「ヤングマガジン アッパーズ 2000年 1号」
(1999、講談社)

「餓狼伝」快調。グラビア、川村亜紀(巨乳)。
次号では13歳美少女・末永遙(おはガール)がグラビアだというが、本誌の主要読者はいったい何歳なのか、謎。

・「鋼 〜HAGANE〜」 神崎将臣

謎の組織「赤い海」に宮本武蔵のDNAを注入されてしまった美少女・薬師丸 鋼の戦いを描いたアクションマンガ。DNAを注入されてしまった者は「寄生者(キャリアー)」と呼ばれ、そのDNAの能力を発揮することができる。武蔵の他にも、ジェシー・ジェイムズだかワイアット・アープだか(忘れた)とか、フーディーニだとかのキャリアーが登場、今回は「黄飛鴻(ウォン・フェイホン、中国拳法の達人で映画「ワンスアポンナタイム・イン・チャイナ」の主人公)」のキャリアーが登場した。

この「キャリアー」というアイディア、あと3歩くらい飛躍すれば「ぶっとびマンガ」的なスガスガしいいい意味でのバカらしさを獲得できると思うんだが……。
ところで本作は、キックまがいの空手が多い中(意味不明)、気持ちいいくらいまっちょうじきなパンチラアクション・マンガだ。いや、パンチラというより、ヒロイン・鋼のお尻狙いのショットが多いんである。しかも山口譲司みたいに「ソレを描くのが主旨」ではない、だが絵的には「私はオシリ星人です」と言明したマンガのように思える。キックまがいの空手が多い中(意味不明)、ある意味スゴイ、スバラシイと言えよう。

ぜんぜん関係ないが、吉井玲のグラビアにはお尻狙いのモノが多い。

・「PERIDOT」 こばやしひよこ

こちらはナイスバディな女の子の「身体の見た感じの柔らかさ」を描くのに命賭けているように思えるアクションもの。小池一夫とか原作だったら面白いかも、と思う。

・「地上最強宣言 牛肉」 丘咲賢作

まず「牛肉」という名字に脱帽した。「地上最強の空手家」を目指す牛肉を主人公にしたギャグマンガ。顔はブルース・リー似か。

・「ゾンビ忍者 バクチカ」 梶原 崇

途中から読んだのでよくわからないが、こちらもタイトルでヤられた。スバラシイ。

・「成りたがり」 河田雄志

「宇宙教師センセイダー」が、生徒たちに「東京タワーを支え続けた少年」という感動的なホラ話を本当だと言い張りしゃべり続けるギャグマンガ。初見だけどおもしれー。やっぱイイよなこういうの。
(99.1216、滑川)



・「げんこつボーイ」(2)(4) 牛次郎、結城剛(1977、集英社)

たぶん週刊少年ジャンプ連載。作画の結城剛は高橋よしひろ。吉備真備を開祖に持つ古武道・殴流古礼法(なぐりりゅうこれいほう)を使う殴段四郎(なぐり・だんしろう)が、「上様」と呼ばれる武道を用いた暗殺集団のドンと戦う様を描く。
「試合の結果ではなく心の鍛錬を目的とする」という風に、「古礼法」の目的を勝敗以外のところに置いている点が、勝敗にこだわる格闘技マンガの中にあって逆に新鮮。「上様」は「鋼鉄製のツメやキバを着けた」ネコを使って人を襲う。こういう動物キャラは普通ザコのはずだが、本編では「上様の次に恐ろしい存在」として描かれているところがちょっとスゴイ。しかもマタタビですぐやられるし。
主人公は最終回でアメリカへ旅立つ。定番ですな。

最終巻の4巻には、「作者の親友」和田辰美という人の読みきりが載っている。
イキナリ他人の読みきりが単行本に載るというのは、今読むと驚くことは驚く。
(99.1216、滑川)



・「宇強の大空」(1) 梶研吾、岡村賢二(1997、集英社)

月刊少年ジャンプ連載。宮本武蔵があみだした戦場格闘技・武蔵裏天流を使う少年・大空宇強の戦い。
使う技は日本古武道系。最初にフルコン系空手と異種格闘技戦を行うのは定番だが、グレイシー登場以降、決まって疑問となる「胴タックルされたらどう返すか?」などの素朴な疑問は不思議とあまり感じない。ものすごい超人同士の戦いとして設定されているからだろうとは思うが。
「投げられたら天井に張り付いてしまう」というのは、絵が劇画調なだけになかなか新味だと思う。
(99.1216、滑川)



・「ザ・グレイトバトルIII」 ときた洸一(1993、講談社)

コミックボンボン連載。ガンダム、ライダー、ウルトラマンなどのSDキャラみたいのがスポーツしたり戦ったりするマンガ。「バトルベースボール」、「ザ・グレイトバトルIII」、「バトルドッジボールII」収録。
スーパーファミコンのゲームのコミカライズじゃないかと思うが、わからな〜い。
「コンパチヒーローワールド」とサブタイトルが付いているが、「コンパチ」ってなんだかわからな〜い。
うへへっ。(99.1216、滑川)

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