6月の花嫁と5月病をひきずっている新入社員(男)

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一気に下まで行きたい

2000年

6月30日(金)

♪なんでだろ〜なんでだろ〜なんでだなんでだろ〜
(よく知らないまま、テツandトモの踊りで)

めっきりイヤなことが起こって、振り払っても振り払っても頭から離れない。

だが、28日に探し回った茶色いシャツは出てきた。
「探すことをやめたとき〜 見つかることもよくある話で」
というのは本当だったのだ。

なんか今月の日記は全体的にピリッとしなかった。「どういう基準が……?」と疑問を持たれる方々も多いと思われるが、それも含めて人生だ。

コンビニに飯を買いに行ったら、バカそうなカップルの女の方がBUBKA8月号を指して「エッチな本だから中身が見られない! 代わりに見て!」と彼氏におねだりしていた(何か探したい記事があったらしい)。

あのなー。見たいなら自分で見なさいよ。自分の手で!! 「エッチだから」ってツラか。

私は買いました。BUBKA8月号。本誌の「モーニング娘。」に関する推測記事? はおもしろいなー。「モーニング娘。」自体には興味ないけど、裏事情みたいのはおもしろいです。

6月29日(木)

音日記8
「向かいの家」のブロック塀づくりはまだ終わらない。
私の自分探しの旅もまだ終わらない(これは嘘)。
最近のセメント塗り作業は、セメントをこねるのにモーターですごい勢いで回転する「何かのマシン」を使っているらしく、それがすごくうるさい。
それと、左官屋さんが暇つぶしにかけているラジオもうるさい。
……まあ「ひまつぶしにラジオ」ってのはわかる気もするけどね。

コミケチケットの受け渡しのため吉田等と新宿で会う。

正直、今年前半で明らかに私の同人誌即売会のスタンスは変わったね。あ、スタンスは変わってないけど気持ちがどこか変わった。
なんつーか、ダウナーに(じゃ、いつもと同じ?)

バトルウォッチャーをチラッと覗いたら、某即売会「オリ*ナル*」の主催者のナニガシも「2ちゃんねる」で何かと話題になっているというし、なんつーか、どんなふうに話題になってるのか、本人が参加しているかどうかもわからんのだけど「さもありなん」と思いつつ別にその話題を追いかけない、という自分の態度も見つつ、21世紀をむかえるにあたって「そうなのだよなあ」などと雨の商店街に出て珈琲館でホットドッグを食してみたりするわけだ。

もちろん、ヤルときはやりますけどね。

6月28日(水)

明け方、茶色いシャツが見あたらないことに気づき、異常なまでにそのシャツを探し出さねば気が済まなくなる。
近所迷惑も省みずゴソゴソと音をたてつつ部屋中ひっくり返すが、何も出てこなかった。

「美女と野球」 リリー・フランキー(1998、河出書房新社)読了。
題材は多岐に渡ったエッセイ。笑わせ中心で怒りも泣きも入っている。オススメ。

……で、この著者って元ツッパリなんだよな。私の持論として「ツッパリを中心に世界は回っている」というのがあり、それは何もリーゼントにしたりボンタンはいたりということではなく、「ツッパリ魂」というべきものが世界を支配しているのだ。
……ということがまたしても証明された。

ビル・ゲーツみたいに、メガネ坊やにしか見えないような覇者もいるが、なーにヤツだって陰で「ティーンズロード」とか読んでるに決まってんだよ。

私は歴史には疎いが、おそらく文明っていうのは最初「ツッパリ君」が暴力で人々を支配し秩序を作り上げていく過程でできていったのだと思う。
しかし豪傑ばかりではなく、のび太くんみたいのも多数存在する。のび太くんがいなくてはツッパリもパンを買いに行く人間がいないと困るので、その辺の調停として保険とか公正な裁判とかができていったんだと思う。

などといった真実はともかく、著者のパンクやオタクに対する愛憎相半ばするキモチなどが全体通してにじみ出ていてその辺も興味深い。

6月26日(月)

病院行って、あまりの蒸し暑さに参る。
病院近くの、かなりうまいラーメン屋の店名が変わり、中の店員も変わっていた。
そしてまったく普通の、あまりおいしくないラーメンに変貌。がっかり。

どうも違う買い物を優先させてしまい今まで買えなかった「日本残酷物語」を、池袋のジュンク堂で全巻ゲット。買おうと思っていつの間にか5年くらい経ってた。

池袋のジュンク堂、はじめてじっくり回ったがなかなかイイ店。ただしタレント本と芸能人写真集が非常に少ない。コミックのところは見なかったが、「サブカルチャー」のところにマンガも少し置いてあるのが便利。

夕方、コンビニに弁当買いに行く。この間の店員が態度悪かったところ。
じいさんが店員に話しかけていたが、店員そっけないことこのうえなし。
客とのコミニュケーションが希薄だと指摘されるコンビニだが、お客さんの方から話しかけるところをよく見かける。お客は果敢にもコミニュケーションに挑戦している。

でもダメ。ここの店員やっぱり愛想悪い。元酒屋で、夫婦モンがかなり熱心だった記憶があるが、最近どうよ? ちゃんとバイト教育してんのか?

……と、知り合いでも何でもないが呟いてみる。

6月27日(日)

焼き肉食った。5年ぶりくらい?

6月23日(金)

朝、雨の中コンビニにパンを買いに行くと、新入りの店員(男)が超態度悪い。

ちなみにこの間、DPEの写真をウチの店のシャッターの中に突っ込んだ男は、大怒りされてから連絡もせずにバイトをやめたそうだ。ふざけんな。

パンを買いに行く途中に、いっつも壁の工事でうるさい「向かいの家」をジロジロ眺め、正面からやってくる犬の散歩人(女)の犬をジロジロ眺めたら「おはようございます」と言ってきた。
そして「向かいの家」の中に入っていった!
犬の散歩人(女)は「向かいの家」の住人だったのだ。
しかしそれならなぜ、私はこの人の顔を知らないのに、相手は私の顔を知っていたのだろう……。
きっと野口五郎に化けてうちを探っているに違いない。
野口五郎の顔では目立つから、探偵を雇って。そんな二度手間もしかねない勢いのバルセロナの夜に、ときどき二人は感じ方の違いでケンカしてしまうけれど、きっとそうに違いないと思ったバルセロナの夜(中途半端な佐野元春調)。
夜じゃなかった、朝。

「うわさの謎」 川上善郎、佐藤達哉、松田美佐(1997、日本実業出版社)読了。
「うわさ」とか都市伝説の本が私は大好きだ〜。でも同好の士がいないし、何といっても「うわさ」なナマモノなので、実際にだれかから入ってくるのがいちばん面白いのだが、もともと情報キャッチ能力が希薄なのでそういうこともあまりなくなってしまった。また、オトシバナシというか「ネタ」のように生成されている欧米のうわさとは違い、日本のものはお話として完成したものが多くはない(探せばあるんだろうけど私にとっては)も、一時期離れちゃった理由。

本書は、大学の先生が書いているので「うわさはなぜ広まるのか」等の学問的アプローチが強く、うわさを集めたネタ本ではない。
そのフィールドワークや考察にはそれなりに興味深いものがあるのだけれど、ひとつだけ疑問を呈しておきたい。

「第3章 うわさの社会学 エイズのうわさの被害者はだれだ」では、エイズにまつわるうわさの性質や伝播のしかたなどから、エイズにかぎらず重い病気や性病などのうわさが「病気は外からやってくる、自分だけは安全でいたい」という囲い込みの意識の反映であり、それと同時にその病気に関連がある(と思われる)人々を排除する傾向がある」と指摘する。そこまでは同意できる。

しかし、都市伝説「エイズの世界へようこそ」についての考察には疑問が残る。
「エイズの世界へようこそ」とは、以下のような話である。

「街で美しい女性に出会い、仲良くなった男はホテルでこの女性と一夜をともにした。翌朝、目を覚ますと彼女はいない。男がバスルームへ行くと「WELCOME TO AIDS WORLD(エイズの世界へようこそ)」と真っ赤な口紅で描かれていた。」(本書116ページ)

この話について筆者は、この話の主人公は女性でなければならなかった、この話は「不特定多数の男性と性的な関係をもつ女性」を危険な存在として、「不健全な他者」として排除する「神話」になっている、とする。

「そして最大の問題は、このうわさが『不健全な他者』を囲い込んで作り出し、その人々を排除する『神話』となっていることにあるように思うのです。『誰とでも寝る女』を作り出し、彼女たちにエイズのもつ社会的意味を付与して排除する一方で、『誰とでも寝る男』は決して囲い込まれないのです。しかし、そもそもそれが可能なのは、エイズが『不健全な他者』という社会的な意味を担っているからです。」 (本書132ページ)

この「神話」という意味が私の勉強不足かちょっとわからないのと、全体の主旨がニワトリが先かタマゴが先か、都市伝説が原因だと言いたいのか結果だと言いたいのかわかりにくいのだが、まあ40パーセントくらいは同意できる。うわさが差別意識を反映し、再生産することはよくあることだからだ。

また、エイズ患者が薬害などによる感染者と性交渉によって感染した者とで、差別されてしまうという現状もあるだろう。この辺りの事象は確かに問題だとは思う。

しかし、それが「WELCOME TO AIDS WORLD」という都市伝説と完璧に結びつくかというと、どうもそういう気もしないのだ。
このうわさの主人公が「女である」ということ、ここには理由があるともいえるし、ないとも言えるのではないか。本書ではブルンヴァンの、「より古い都市伝説との類似性」の指摘に疑問が投げかけられていているが、それと同じことが本書の説にも言えるのではないかと思う。

都市伝説の解釈でいつも疑問に思うのは、「いったいどの辺りまでが正しい解釈か」、「どの辺りまで掘り下げればよいか」ということだ。「潜在意識がどうのこうの」などと言い出したら解釈の泥沼にはまってしまうし、表面をなぞっただけではダメだろう。
たとえば同書に載っている「当たり屋チラシ」(当たり屋グループがやってきたので運転に注意しよう、と当たり屋の車種やナンバーが書いてあるチラシ)は、論者の言うとおりひとまずは「交通事故の加害者になる恐怖」を反映していると言え、もう一歩踏み込めば、特定の地域の人間を無意識に差別しているとも言える(ナンバーは特定地域に集中している)。

ところが「WELCOME TO AIDS WORLD」はどうだろうか。男だったら、ひとまずは「ゆきずりの女と寝たときに起こった恐怖」、「何が起こるかわからないからフリーセックスには注意しろ」という教訓(だから、116ページに掲載されている「この話をどう解釈するか」のアンケート結果は設問の出し方に甚だ疑問が残る。都市伝説は意味が多層的なので、解釈が一人の人間の中でも複合的であり、アンケートを受けた人間の間で解釈がまったくズレてしまう可能性があるからだ)を受け取るだろう。もちろん女性の場合はまた解釈が異なるかもしれないが。
だが次の段階、もう一歩踏み込んだ段階で「だれとでも寝る女」を排除する、という意味合いが無意識にあるかどうか。
はっきり言うと、この話にはないと思う。
筆者はこの他にも、日本では「貞節を守る女」と「だれとでも寝る商売女」というダブルスタンダードがあるとする。確かにあるだろう。だがそれがこの話に関係しているか、というと、他を探した方がいいと思う。他にもっとある。

「どこまで遡れるか」も私は学問的には知らないが、この話は「赤ちゃんだと思ったら妖怪だった」(子泣きじじい)、「美しい女だと思ったらろくろっ首だった」、あるいは善玉キャラ(?)だが「つる女房」まで連想させる。
「美女が妖怪だった」という話はたくさんあるので、その変形ではないかと思うのだ(恐怖についての構造がそうなっているということであって、エイズ患者が妖怪であるということを私は言いたいわけではまったくないので念のため)。

もちろん、「なぜ美女なのか」について性差別的な意味あいがあるのかもしれないが、それは伝説・民話と合わせて総括的に論じなければならないテーマだろう。

6月20日(火)

「−改訂版−大予言の嘘」 志水一夫(1997、データハウス)読了。
占い(天中殺、大殺界、占星術)、ノストラダムスの大予言などについて、真偽を検証した本。

オカルト・神秘主義批判の本は個人的に大好きで、何冊か読んでアウトラインを掴むとだいたいそういった現象について「真偽の見分け」がつくような気がしてくる。なんというか「ものの見方」がわかってくるから。だが、個別具体的な事例について検証することはかなわない(「胡散臭いものには近づかない」という教訓を得るので、そもそも近づかないし)。
しかしまたいくつか批判本を読んでみると、その具体的な反証にうならされたりする今日このごろ。
本書も、「占いや予言に振り回されている人をどう説得するか」に主眼が置かれ、個別の占いについて理系的・文系的双方のアプローチによってモロモロの「嘘」を暴いていく。

しかし不可思議なものを全面否定しているかというとそうでもなく、占いのカウンセリング的な効用についても書かれている(この辺、微妙なスタンスだと思われるので実際本書を読んで確かめてください。私がここで要約するとそれこそウソになってしまうような気がする)。

また本筋以外のところも味わい深いのがオカルト批判の本のすばらしいところで、本書では「天中殺」の和泉宗章(後に自らの占いを全面否定する)や「大殺界」の細木数子(大金持ちになる)の「人生」や「キャラクター」に興味が沸いてしまった。

何でも十把一絡げにしないでひとつひとつ資料を積み重ねて検証していく姿勢や、単なるセンチメンタリズムではなしに不思議な部分を認めるときは認める(もちろん認めないときは認めない)という真摯な態度、表面的には「嘘」と判明しても、その「嘘」がどのように生成されていったかにまで踏み込む深さがこの筆者の著作の特徴だと思う。
「占いや大予言なんて、嘘だってわかってる」って人にもオススメ。読むといくつもの再発見がある。

6月19日(月)

ひどい二日酔いとなる。いつもおんなじことの繰り返し。アホか私は。

6月18日(日)

吉田等と電話で連絡取れる。コミケについて、および近況報告。

研修があって、その帰りに今週は飲むまいと思ったがやはり力学(ちから・まなぶ)と飲んでしまう。
1週間もバカばなししないとストレスが溜まってしまうというか、イキオイでかなり飲み過ぎてしまった。
おかげで、帰って夜中に目が覚めたら目玉が乾ききってしまっていた。

話題としてはお互いにベロベロに酔っぱらっていたので覚えていない。
「人間には人権のように『ひがみ権』が必要だ。ひがむことしかできない立場の人間には、せめてひがむ権利くらい与えてくれ」といった力学(ちから・まなぶ)の提案について活発な議論を戦わせたことは確か。
それにしても最近の力学(ちから・まなぶ)はヒマこいてる私よりよっぽど創造的な思考をしている(と思うのは私だけか?)。

6月17日(土)

江戸川乱歩 少年探偵「二十面相の呪い」読了。
「二十面相の呪い」「黄金の虎」所収。
これで「少年探偵」シリーズはひととおり読み終わった……ハズ。

・「二十面相の呪い」
シリーズ随一の駄作。……と書こうと思ったが、「小学六年生」連載でドラマかなんかの開始に合わせての企画だったらしく、原点回帰としてはこれでいいのかもしれない。
「駄作」と断じたい理由は、「少年探偵」のツボである導入部の不思議さとダイナミズムが、密室での事件が発端となっているためあまりないこと。なおタイトルは連載当時の「おれは二十面相だ」の方が絶対イイと思う。
呟いてみよう。「おれは二十面相だ」……やはりこちらの方がイイ。

・「黄金の虎」
「怪人二十面相は怪盗というより子供と遊ぶのが好きなのだ」という評論はよく目にしたが、何のことはない、乱歩自身がまさにそうした作品を書いているのね。本作がそれ。「子供と知恵比べをして遊ぶのが趣味のお金持ちの変わり者」、「魔法博士」が登場、お宝「黄金の虎」を明智小五郎の許可のもと、少年探偵団と取り合うゲームを開始する。
「黄金の虎」をとったりとられたり、なかなかワクワクします。
それにしても頭がよくて変装の名人でインテリ風、しかし悪いことはぜんぜんやらない「魔法博士」を二十面相はどんな目で見ていたのか。「もったいない……」と思っていたんだろうな。もっとも、「殺人は犯さない」ポリシーを持つ二十面相を、影男や蜘蛛男は「もったいない……」と思っていたんだろうけどね。
小林少年の素性をバクロ? する新保博久の解説は、ほとんどが児童文学者の本シリーズ解説者の中にあって、ミステリ評論家の面目躍如ってところか。

6月16日(金)

今日も休み。
昼寝をしたら、架空のSFマガジンの「架空のマイナーな昔のSF小説を紹介する」という架空のレビューを読んでいる夢を見てしまった。何なんだろう。文章の夢を見たんだよね。

音日記7
「向かいの家」は、ブロック塀づくり。
セメントをこねてブロックを積み上げるだけかと思ったら、何やらガンガンとすごい勢いで何かを叩いていた。
宇宙人に交信するための儀式と判断。号泣する。

6月15日(木)

休み。

「コミティア」、「コミックレヴォリューション」申し込み。

ウチはDPEやってんですけど、夜中に自宅に電話がかかってきて、「間違えてヨソの写真をシャッターのポストに入れてしまったので開けてほしい」って写真屋さんが言ってきた。
ウチは休みのときにまで写真を届けてくれなどと言ったことはなく、オマケに間違えてヨソのを入れるという二重の間違いに、ちょっとあきれ。
わざわざ電車乗って1時間かけて店に行かなきゃならないし。

よそは知らないが、ウチのシャッターのポストはただ穴が開いているだけなので、写真入れたらストンと床に落っこちちゃって汚れる可能性もあるし、あきれ。

反面、ドジでならしてきた私が他人のドジを怒れる状況にちょっと優越感(笑)。
そんなこと思ってっからウダツが上がんないんですけどね。ちなみに直接叱ったのはウチの親と、写真を間違えられた店の人でした。

まあきょうび、あんまり怒って逆ギレされて刺されたりするのもアホらしいとは思うが。

夜中に吉田等にコミケの件で電話するも、つかまらず。
電子メールに慣れてると、電話がめんどうくさくなる。

「桃の天然水」のCMで吉井玲と一緒に踊っている村田洋子失踪したらしい。

6月13日(火)

なんか今月は長文が多い。
緩急付けたいので短文が欲しいところ(自分で書いてて何言ってんだか。「な〜に言ってんだか!!」(なんかのCMより) そう言えば、吉井玲のやっている「桃の天然水」CM第2段もイイねえ。

あとやっぱり推敲しなきゃ絶対にダメだと自分で思った。毎日更新してみようと思ったけど、どうしても一晩経つと直したくなる。っていうか直さなければなるまい。

コミケの通知届く。(日)東「K」54b。

江戸川乱歩 少年探偵「鉄人Q」読了。
さすがにこの辺になるとパターンが読めてきて、なんと言っていいかわからなくなるが、引き込まれる導入部、数々の大仕掛けなど読んでソンはない。いかにも先のことを考えずに書いて、後からトリックを考えているところがモンキー・パンチの「新ルパン三世」に近いテイストである(「新ルパン三世」は、トリックを肩肘はらずにマンガ的「オチ」として表現しているところが「金田一少年」などにはない洗練された雰囲気を感じる)。
セットや着ぐるみを全部ホンモノとカン違いしてしまう「少年探偵」世界の人々はお人好しなのか、それとも二十面相が優れた特撮技術を持っているからなのか。

江戸川乱歩 少年探偵「仮面の恐怖王」読了。
さすがに「またかよ」と言われるのを作者が恐れたのか、本作ではかなり早い時期に明智小五郎が捕らえられ、かなり早い時期に恐怖王が明智に倒されひどい目に遭い、かなり早い時期に恐怖王は二十面相と見破られ、最後には「魔法使い」の異名をとる二十面相も思わぬ事故にはなすすべもないという、何やら現実的な結末を迎える作品。

アイ〜ン星人−その華麗なる血統−
以下に書いていることは全部想像や憶測です。

第1章 ラーメン屋にて
昨日、晩飯を食うために近所のわりとおいしいラーメン屋に入ったのだが、そこのテレビに映っていたのが「新宿ラーメン戦争」みたいな、ラーメン屋がしのぎを削ってうまいラーメンをつくろうとする番組。
新しいチェーン店のために、新しいラーメンをつくろうとする料理長みたいな人が、1年半かけてもオーナーのOKが出ず苦しみ続ける姿が描かれ、雇われ人の悲哀みたいなもんがにじみ出ていて食っていたチャーハンが不味くなった。

その番組にチャンネルを合わせたラーメン屋もラーメン屋で(つまり私が入ったラーメン屋ね)、お客が私しかいなかったのでヒマなのか、腕組みして真剣にその番組を見ていた。参考にでもするつもりなのだろうか。場所的にいっても地元民しか相手にしないたぐいの店だと思うが……。

最近は人生の世知辛さを売り物にするテレビ番組が本当に多い。中嶋ミチヨが数万円で1カ月暮らすとか。あるいは役に立つ豆知識のようなもの。ご家庭のちょっとした裏技とかココアが身体にいいだのゼンマイが痔に良いだの(ゼンマイの話は私がデッチ上げたウソです)。

第2章 「世知辛いドキュメント」と「ご家庭に役立つ裏技」たち
バラエティー番組はそれこそ世につれ、だしビデオも残らないので正確なことは言えないが、15年程前はここまで「世知辛さがウリ」「役立つ豆知識」的番組が多くはなかったように思うが(ちなみに私は役に立たない豆知識は好きです)。

思い出すだけだと「底抜け脱線ゲーム」だの「びっくり日本新記録」だのはとりあえず世知辛さや実用性とは無縁であった。
「世知辛さ」で思い出すのは、最近あまりないが曇りガラスの向こうに相談者を配し、声の変わるマイクで話させゲストの芸能人が深刻な人生相談をするというものだが、現在の電波少年系の番組のように「世知辛い」状態をムリヤリにつくり出し、それを連続ドラマ的に見せていくというのはなかったと思う。

ドキュメント風の番組というと、中嶋ミチヨがン万円で生活するとかそういうしみったれたモノではなく、先代引田天巧の脱出マジックとか矢追純一の宇宙人もの、川口浩の探検モノとか、現実離れしたものが多かった。現在で言うと、今もやってるのかどうか知らないが山本太郎が発展途上国へ行く「世界ウルルン」が川口浩に比較的近いと思われるが、川口浩は「泣かせよう」という気なんかひとつもなかった。

第3章 「それは秘密です」
記憶を頼りに書いているので偏りが出ないよう、「泣かせ」についても思い出してみる。
「泣かせ」目的の人気番組としては桂小金治が司会の「それは秘密です」(ちなみに私の亡き父の高校の後輩だってそうだ)があげられる。
たいていメインには、「生き別れ」だった親子とか兄弟が再会する。コレが10年20年は当たり前、という世界で、「泣き」の深刻さとしてはおそらく先の戦争がらみだと思われシャレにならないものがあった。コレにコメンテーターとしてデビ夫人が出ていたが、今とたいして変わりないことをしていたね。

しかし現在のように「泣かせ」的イベントを捏造して「泣かせ」に入るということはしていなかった、もしくはつくりものと視聴者に気づかせなかったのだと思われる。 この間なんかの番組で、V6のだれかがクレーンの免許やアーク溶接の免許取得に挑戦してがんばって泣いたりしていたが、悪い意味で無意味もいいとこだと思う。もはやそこには挑戦の理由すらない。なんつーお手盛り感覚。いい加減にしてほしい。

現在のような「お手盛り感動もの」が流行り出したのはいったいいつの頃だろうか。
「天才たけしの元気が出るテレビ」が感動ものに走ったり、「電波少年」が当たったりしたあたりからだろうと思う。それと「アサヤン」。たぶんどれもつくってる人同じなんだろうな……。

「ご家庭に役立つちょっとした知識」ブームはやはり「おもいっきりテレビ」が端緒なのだろう。オウム騒動以来ワイドショーを自粛して始まった「はなまるマーケット」も一役買っているかもしれない。「ためしてガッテン」とか「伊東家の食卓」とか、後はそんなのばっかりになった。

ふと思い出したが「東京フレンドパークII」は、その非実用性においてむかーしの番組のテイストがする。まあそれだけに何で続いているのか不思議な気もするが……。

また「筋肉番付」もかなり無意味っぽいが、「びっくり日本新記録」に比べるとかなりシステマティックで、非常に競技的、すなわちアソビがあまりない。
視聴者参加クイズ番組の減少も今となっては個人的に驚くが、非常に競技性の強いガチンコ勝負の「パネルクイズアタック25」だけが残っているということと関係があるのかもしれない。あ、あと「クイズミリオネア」とかいうのが始まりましたね。こちらもかつてのクイズ番組のような気安さよりも緊迫感を優先した番組になっている。

昔の方がテレビが面白かった、という気はサラサラないが、「浮世離れした面白さ」はなんだかなくなっているように思う。

そんなおり、また「おはスタ」の話をするのであるが。

第4章 「おはスタ」考
最近、「怪人ゾナー」(なぞなぞを出す怪人という設定のキャラクター)とベッキー(コスプレした外人ぽい顔をした女の子、コスプレの理由不明)とKANA(宇宙人という設定の女の子)3人が「パラパラ」のユニットをつくる、というのでちょうどパラパラについて漠然と考えていたこともあり大喜びで見ていたのだが、「怪人」だの「宇宙人」だのという架空の設定を人間が演じ、ゆるいドラマ性を持っているバラエティー番組、というと最近ではこの「おはスタ」と「明石家マンション物語」しかないのではないかと思われる(深夜番組については知らない)。

もともとそうした「キャラクターを演じつつ半分ドラマ、半分バラエティーのような展開をする番組」に強い需要があるかどうかは知らないが、私は好きである。というかかなり好きだ(でもなぜか「明石家マンション物語」はそんなに見てない)。
最近はナインティナインのように何かを演じていても「本人性」のようなものの方が強い番組が多い。これは「笑う犬の冒険(だっけ? 生活?)」のように完全なコントの連続というのとも少し違う。あくまでも大筋はバラエティーなのだが、出演者が何かを演じているというもの。
たとえば「ひょうきん族」の「タケちゃんマン」において、クライマックスの戦うシーンで「タケちゃんマン」と「ブラックデビル」を演じつつバラエティー的に物語が進行していく感じも同様かもしれない。
一人がいろんな役を演じ分けるとまたニュアンスも変わってくるが、基本的に一人がひとつのキャラクターを貫く。理由はわからないがなんかそういうのが好きなのである。

第5章 不良番長
映画で言えばかぎりなくバラエティーに近い
「不良番長」シリーズがオススメだ。
私が見たヤツではラストに死んだはずの主演の梅宮辰夫山城新吾が立ち上がり、「次回はドコソコで大活躍しまーす」と言うと、画面の両側から「終」の字の「糸」と「冬」と書いたパネルが迫ってきて二人の前でパタンと合体し、「終」の文字を形成し、そのパネルに丸い穴が2つ開いていてそこから2人がそれぞれ顔を出して「さいなら〜」とやるものであった。

第6章 アイ〜ン星人
我ながら素晴らしくまとまりのない文章になったのでまとまりを付けると、たけしと志村けんがやっていた「タケシムケン」という番組で、すぐ終わってしまった
「アイ〜ン星人」というコーナーがあった。これは「いったいいつの時代の宇宙人だ!?」という格好をした志村けんと安西ひろこが、田舎町に現れて「アイ〜ン」などとやるウットリするくらい無意味なコーナーだったのだが(つまり今までさんざん言ってきた「ある種の役柄でバラエティーをする」というもの)、ここで安西ひろこが「牛乳が大嫌いなのにムリヤリ牛乳を飲む」というシーンがあった。
ところが先日見た安西ひろこがどこやらの外国に行ってうまいものを食ったり「いい景色〜!!」とか叫んだりする旅番組に出ていたとき、彼女は「牛乳が大好き」ということになっていた。真相はどちらなのか。知らなくてもイイが、オチ的に疑問を提示してみた。

第7章 そして伝説へ
また最近失われたものとして「手抜きのアイドルコント」、「芸能人水泳大会」、「ビデオ録りの30分ドラマ(特撮でなし、ゴールデンで)」などもあると思うが、次回の講釈で。

6月12日(月)

・映画「ミッショントゥマーズ」(2000、米)
カラー 113分31秒
監督:ブライアン・デ・パルマ
出演:ゲイリイ・シニーズ、ティム・ロビンズほか

サイト「SFオンライン」において、

>>SFファンはもうぜったいに見なければならない映画なのだが、同時に、
>>なんとも困ったことに、SFファンであればあるほど、この結末には
>>がっかりさせられること必定。

などと書かれているではありませんか。「ぜったい見なければならない」にも関わらず、「絶対がっかりする」SF映画とはなんぞや!?
というわけで、本格的に面白そうな「人狼」や、ただ水野美紀が見たいだけの 「千里眼」をさしおいて、見に行ってきました。

あらすじは、火星探査船の乗組員が火星で謎の死を遂げ、ソレの調査のためにもう一台ロケットが火星に旅立つ話。乗組員救出のために火星に訪れた彼らが見たものは……? みたいな。簡単に書けば。

感想:おれは好きだね!! ……まあ条件付きで。
たとえるなら「まさかコイツが犯人じゃないだろうと思っていたら、ホントに犯人だったのでかえって驚いた」ミステリーを読んだときの印象に近い。
ラストの当惑と驚愕は、「なんでこんなモノに何億もかけたのか!?」というア メリカ社会そのものへの疑問へつながっていくことうけあい。
しかしさあ、これでいいんじゃないのかなあ!?

SFオンラインのレビューも含めた感想は「火星へ行くまではイイが、後がダ メ」ということでしたが、わたしとしては「火星に行ってからがオモシロイ」。

SF考証はしっかりしていて、現時点でもっともありそうな火星探査を映画化し ているということだが、そんなもんこちとらちーともわからないわけですよ。知 識がない。
すると気になってくるのは人間の描写なんだけど、ミッションがリアルなのがウ リならなぜどんな危険が待ち受けているかも知れない火星に、何の武装もせずに 旅立っていくのかとか、また準備にもほとんど時間をかけていないのはおかしいとか、夫婦ものの宇宙飛行士がいるんだけどコイツらが仕事しながらイチャイチャしたりキスしたりするのがヘンだとか、アラがいっぱい目立つ。
あんなにヘラヘラしている宇宙飛行士なんていないだろ絶対(夫婦もののコトね)。

「SFオンライン」で語られていた、隕石みたいので機体が傷つけられてそれを宇宙空間で修復するシーンも、どんなに考証がリアルか知らないが、あんな「機転」で(ネタバレになるから書かないが)危機一髪逃れるってのも(繰り返すが知識のないものとしては)ヘンに見えるし、なんかねえ、「あー早く火星に着かないかなあ」とかって思いましたよ(笑)。

それより温室で植物を栽培しながら1年も火星で暮らしていた生き残りの宇宙飛行士とか、火星に出現した「アレ」の謎を解く過程とか、そっちのが数段オモシロイ。

そして衝撃のラストへ。
昔のSFって、みんなああだったじゃん? 見た人、何で怒るのよ? ってボクは不思議です。
そして、当惑したりガッカリしているSFファンを見ながら、なんかほくそ笑んでいる自分がいる(笑)。
あ、そしたらおれSFファンじゃないのかな。

6月11日(日)

今日も雨。店から帰る帰り道、CDウォークマンのカバーがないことがわかり、帰り道はずーっとCDウォークマンのカバーについて考えていました。

そしたら家の坂の上で猫が2、3匹かたまってニャーニャー話しているんだか叫んでいるんだかしていた。町田康の小説に、あまりにヒマなので近所の猫を観察し続けるという話があるが、私も最近近所の動物について比較的詳しくなりましたよ。

茶色猫、黒いけど鼻と足だけが白い猫、白くって尻尾の先が丸くなっている猫なんかがいる。
それと、ものすごくフワフワの毛並みをした人間よりでっかい犬がいて、それが通りかかったら「それなんていう犬なんですか!?」と飼い主に話しかけている女の子がいた。
私には犬の散歩している見知らぬ人に声をかけるなど思いもよらないので、そんなコミニュケーションがあるんだなあ、と思いました。
そのフワフワした犬は、「名犬ジョリィ」みたいな犬だと言えばわかってもらえるでしょうか。
別にわかってくれなくてもいいんですが。私が飼っているわけじゃないし。

「未来戦隊タイムレンジャー」
15話から主題歌にテロップが入った。最初はイマイチかと思ったこの曲、ちゃんと英語の意味がわかった方がより良さを感じられると思う。だから妥当な処置。

第14話「デッドヒート」
井上敏樹脚本。レーサー志望だったタイムブルーのライバルが怪人として出現、かつての親友が「おれはおまえの才能が憎かった!」と言う王道パターンだが、「おまえはおれの才能を嫉妬していたんだ!」と敵怪人に言わせ、ラストに「本当はおれがおまえの才能を妬んでいたのかもしれないな……」と言わせるというのはシブい。
井上敏樹の脚本は、シブくてユーモアもある、という印象で名前を見つけると楽しみにしています。「仮面ライダークウガ」で、「未確認生命体に憧れる青年」が出てきたときも良かったしなぁ。

第15話「狙撃手を探せ」
メインライターの小林靖子脚本。「ヒーローの秘密を追い求めるパパラッチ(森山ホナミ)」という王道、さらにホナミがタイムイエローとブルーを取り違えて好きになってしまうという王道。一見新味がないかと思わせつつ、狙撃手とタイムレンジャーのバトルや、ホナミと同じ女性なのに彼女の想いに気づけなかったユウリ(タイムピンク)が自己嫌悪になるところなど、シブい展開を見せる。
「脚本が女性だから繊細」などとありきたりなことは言いたくはないが、武上純希脚本に飽きてきたところだったので、ユウリという女性キャラのシブみや一貫性にはどうしても新味を見てしまうなあ。

第16話「そばにある愛」
山口亮太脚本。売れないダメそば屋を助けてやろうとついつい関わってしまうタイムイエロー。究極のそばを求めて試行錯誤するが、それに文句を言いながらアドバイスをしてくれるのが何の説明もなくタイムブルーであり、敵も「不味い料理屋で暴れ回る」というグルメな怪人で、ラストの対決ではその怪人に最高のそばを食わせるという新田的に大喜びの展開。
うまいそば屋の味を探りにヨソの店に来ていたイエローとダメそば屋が店を出ていったとたんに、一緒にいた怪人が正体を現し暴れ回り、すれ違いになるなど、ちょっとした演出がキイている。この素晴らしさは山口亮太? それとも監督の坂本太郎のもの???

第17話「ねじれた正拳」
山口亮太脚本。しかしこれは前回とうって変わってちょっと疑問な回。自分の空手教室の熱心な生徒が、いじめっ子に復讐するために空手をやっていると知ったレッドは、「復讐のために空手を使うならもう教えられない」と言う。
少年をいじめていたのは「群竜会」という不良集団だったが、恐喝を続けて総額3億円もの金を子供たちから巻き上げていたりと、5000万円恐喝事件があってからまったくシャレにならない金額設定になっている。さらに、群竜会を恐れた担任の先生も力を貸してくれないというのも妙にリアル。結局「群竜会」は悪の組織ロンダーズが糸をひいていたというのはお約束。まあタイムリーすぎてシャレにならないってことはよくあるが、もしこの「群竜会」が本当に不良少年のつくった組織だった場合、何の解決策も提示されていないということに私はかなりマジで不満を感じる。

6月10日(土)

雨がソボ降る中、飲んじゃいけないと思いつつ、力学(ちから・まなぶ)とまた飲む。
飲んで話したことをすぐ書くのはなんだか申し訳ないんだけど、すばらしいので書きます。

「モテ太り」
力学(ちから・まなぶ)のつくった新造語。「モテるヤツばかりがどんどんモテていき、豊かになっていく」ことを表した言葉らしい。「焼け太り」というのは「焼けたのに太ってしまった」というマイナス→プラスの意外性を表す言葉であると思うが、この「モテ太り」は「プラス→プラス」というハタから見ていてまったく業腹な現象を表現しつつ、「焼け太り」を連想させることによって使用者の嫉妬心をも表現する恐ろしい造語である。

「中学十七年生」
「自分は未だにガキみたいな趣味」と言った伊集院光に対し、「32歳」とか言うから大人に思われてしまう。「32歳児」ならいい、とみうらじゅんが言ったというエピソードを聞いて力学(ちから・まなぶ)が触発されつくった新造語らしい。「おれは中学十七年生」などと使う。
ちなみに私の人生は「子供っぽい」のとはちょっとニュアンスが違うので、
「なまけ十段」
という言葉を賜った。あ〜あ、いくら不良でもがむしゃらに頑張ったらそりゃ反則だよ。やっぱり怠けなきゃね。

どうもここんとこ「H計画」以来のヒットが出ず、伸び悩むオレ様。「H計画」についての説明はメンドクサイのでいつか思いついたら書きます。

この日は「ぼくが大統領だったらカステラを主食にします」とかなんとか言ってはみたんだけど、イマイチピリッとしませんでした。

6月9日(金)

ビッグ錠の「一本包丁満太郎」を3巻くらいまで読んで、あまりの面白さに全巻買おうと「書泉ブックマート」に行くが売っていなかった。半年前は売ってたんだけどな……。
ヴィンテージの扱いも受けていないし、長編作品は後の方になるほど入手がむずかしくなるので、古書店で全巻セットを買うしかないかもしれない。

その後、小池一夫、神田たけ志の「御用牙」を読む。私は、小さい頃劇画っぽい絵一般が恐かったのと、小池作品にまつわる独特の哀しみのようなものがシブすぎていまいちついていけなかったのだが、今読むと滅法面白い。
劇画誕生の経緯については概略程度しか知らない私だが、以前別の劇画家(さいとうたかをと同世代)のインタビューを読んでいたら「手塚治虫は大好きだったけど、ロケットが爆発してシーツをパラシュートみたいにして脱出しちゃったり、恐竜に食べられたらタマゴになって産み落とされたり、そうした『マンガ的表現』がすごくイヤだった」とある。

私も辰巳ヨシヒロが提唱していた「劇画」と後の「劇画」の意味合いが違うことくらいは知っているので、こうした一種のリアリズム志向みたいなものが劇画黎明期にあったことは別に驚きもしないが、その後の梶原一騎や小池一夫が描きまくった作品の「どの辺がリアルでどの辺がマンガっぽいか」ということの基準の変遷や、「劇画とマンガ」との描き手と読み手の意識の違い、などは、まったく知らないだけに興味深いものがあると思ったりしました。

金で買えないもの、それはノリと運である
「金で買えないものはない」、とヒトは言う。
コレだけではさまざまに読みとれてしまうが、現在、とりあえず飢えて死ぬことはない日本でのこの言葉には、「愛だって金で買えるんだ。ケッ」という気持ちが混ざっているだろう。
なぜなら、この場合「金で買えないもの」の裏の意味は「愛」だから。
「金で買えないものはない」と言い放つとき、それは同時に「愛も金で買える」ということを意味している。
貧乏人にそう簡単に結婚相手ができますか? 愛だけで飯を食っていけますか? というような意味だ。そりゃ確かに貧しくても恋人がいたり結婚したりする人はたくさんいる。だが金さえあれば、ちょいゴリラに似ているそこの娘さんの縁談話も、今よりはうまく進むかもしれない。そんな話。

そんな話はもうたくさんだ。わかった。わかったよ。あんたのいうことはとりあえずは正しい。あんたってだれだか知らないけど。
通常、「金で買えない」と思われている不定形なモノ、「愛」だけではない、「学歴」、「誇り」、「幸福」、どれをとっても「そりゃ金があった方が有利に手に入る」ものばかりだ。
だが本当に金で買えないモノがあるのだ。

それは「運」と「ノリ」である。
いわば金で武装するということは、不運に対する防衛だとも言えるわけだ。それは防衛であって、運を良くするという意味ではない。あるいは「運がいいから金持ちになる」のであって、その逆はない。
「ノリ」というのは説明がむずかしいが、本宮ひろ志が言っていた「肝」も含めた無形の政治力のようなモノである。なんとなくノリがいい。あのノリについのせられちゃった。ノリで結婚したようなものですわたしたち。
前述の本宮ひろ志の作品も含め、「ものすごい肝っ玉の男が天下を取る」マンガは数多い。これらはすべて「度量」とか「器量」、「肝」というふうに表現される。
しかし本来「ノリ」とは、そんなマンガに出てくるようなカッコいい、スタンド能力みたいな確固たるモノではないと私は確信した。「ノリ」とはもっとつかみどころのない、その人間のまといつかせている「雰囲気」のようなものだ。 こればっかりは金ではどうしようもない。

なんかのやくざ映画で、小林稔侍が刑務所でオカマを掘られそうになるところを、菅原文太に助けられる。以後、小林稔侍は出所後も菅原文太の舎弟となる。
このあたり、少し不思議に思った。本当のムショ暮らしのことなんか知らないし知りたくもないが、新入りは一律にオカマを掘られる運命にあったのだろうか。菅原文太もその洗礼にあっていたのだろうか。
この映画の場合、私はそうではないと確信した。おそらく小林稔侍(もちろん役の上での)が「ノリ」を保持していなかったがゆえに、オカマを掘られる運命にあったのである。
実際のやくざ社会ではもっと微妙な機微があるのだろうが、任侠映画の多くは1時間半の中にきわめてシンプルに「ノリ」の有無について語っている(……っていうか深作欣二のシュミかね単なる)。

別の映画では、川谷拓三が出世したいがために自分の女を鉄砲玉の渡哲也かなんかに抱かせる。この場合、イイ女を所有している、「持てる者」は川谷の方だ。だがこんなはからいは物語上まったく無意味で、女はヤられ損、鉄砲玉の渡哲也は血みどろになって死ぬ。これを川谷拓三(もちろん役の上での)がバカだからだの、お人好しだからだの言っている人はもうそれだけで「ノリを持てる者」であるばかりか、「川谷拓三的存在」について論理的説明を加えるというあやまちを犯そうとしている。

「ノリ」は金で買えないがゆえに、ノリの悪い金持ちは金持ちばかりの金持ち社会でもあまりいい目には遭わない。「いかにもいい目にあってなさそうな金持ち」はアメリカ映画のコメディなんかによく出てきそうな気がするが、忘れた。
そして「ノリの悪さ」に対する呪詛は「ルサンチマン」の俗流解釈によって罪悪のように扱われ、のび太くんはだれもいない真夜中の十字路に寝転がって「一度やってみたかった」と呟くしかない。「お金はないけど元気ハツラツ」な「ど根性ガエル」のひろしと比べるとなんという違いであろうか。

すなわち、金で買えないものは愛ではなく、愛を手に入れるための「ノリ」なのである。
「運」については、また今度。

6月8日(木)

「ごきげんよう」のゲストの杉田かおる。
ウルトラマンの話題になったとき、「ウルトラマンの後ろのチャックを開けると中から汗だくの男の人が出てきてセクシーよね」って言ってました。それと「デブ専は卒業した」とも言ってた。
つまり「汗だくのデブ」が好みだということなのだろう。現在の「あけすけ」なキャラクターにイメチェンしたときは、そのありきたりな感じにかなりガックリしたが、さすがに芸歴が長いからかそこらへんの一山1円のヤツらよりはマシか。

日本テレビの「スターものまね」で小泉今日子のマネをした元マラソン選手や、「太ってる」と言ったときより数倍太ってた斎藤こず恵よりはマシかということである。

音日記6
「向かいの家の工事」は、ブロック塀をつくりやがるらしくブロックを山と積み上げ自慢そうに……って別に自慢してねえよな。スイマセン。

6月7日(水)

「ごきげんよう」のゲストが大槻ケンヂ
「UFOを医者から止められた」というもはやネタ化した話をしていたが、最近「超常現象全部はダメだが、UFOだけはいい」ということになったらしい。医者からUFO解禁。
その話題を出したとき、小堺一機が「どういうふうに興味があるの? UFOを見たことがあるとか?」と聞くと、大槻ケンヂはバカにしたのと拒否の入り交じった表情で、
「そういうんじゃないんだな〜」
と言った。そして「どういうふうに好きかを説明すると、2、3時間しゃべらないといけなくなっちゃうんですよ」と続ける。

私はこの「そういうんじゃないんだな〜」の表情に考えさせられるものがありましたよ。ああいう態度がとれないと、トッピな趣味を世間的に認めさせることはできないんではないかと思って。
大槻ケンヂ、歌やエッセイなどはわりと「泣き」の要素が入っているんだけど、実際はそこらの毒舌をウリにしている人よりよっぽど冷徹な人なんじゃないかと思うね。 そうでないと客観的にモノなんて見れないけどね。
おれも見習わなければならん。あ、もう遅いか……。

6月6日(火)

音日記5
向かいの家の工事は「もう少し細かいところをやる」というダークな情報が入ってきたが、おそらく「細かいところ」というのはプラモデルのパーツをはずした枠(何と言うんだっけ?)を火であぶって紐をつくったりとか、グフのムチみたいなヤツを自作したりとか、そんなタグイだと思い込むことにする。

少なくとも、午後はやっと静寂が訪れそうだ。
長かった。静かになるまで。つまらないことで嘆いてくるのが情けなくなるくらい、「静か」ということが自分に大切だと知った。ある程度静かなら、もう何もいらない気さえする。あとは「都こんぶ」でも舐めながら、「涙をふいて」を歌っていればよろしい。

6月5日(月)

5月20日(土)の日記で、「バキ」において花山VSスペックは「一撃必殺VS連打」ではないのではないか、と書いたが、なんか結果的にはそうなってましたな。
しかし、それは現象面のみのことであって、「どちらが優れているか」というバキにつきものの「イデオロギー闘争」になってはいないことは確かだろう。

たとえば「気合いのみVS技術」とか、「近代空手VS中国拳法」などの思想的な違いを大きくクローズアップしたものではないと考える(確かに、花山が一撃必殺だってことを忘れてましたが)。

私は花山の技としては「あまりにも握力が強い」という「握撃」の方が好きなんです。最近あんまり使わないけど。

5月14日(日)の日記に書いた、「コミックレヴォリューションで見かけたオタクカー」は通称「ベルカー」といい、路上駐車で問題になっていることを知る。ありゃりゃ、それはいけないねえ。
でもさ、掲示板見ると(しっかしここの掲示板は見にくい)、「『女神さまっ』のペイントもやめてくれ。同じセンスのように見られるから」的なコトが書いてあったけど、気持ちはわかるが違法でなければそれくらいはやらしてやれや。
「ダサいかダサくないか」って、若い頃は死活問題のように感じるが、結局言語化しがたい生きざまのようなものに帰結してしまうので最近どうでもいいんだよなー。いくら話し合っても平行線だしね。

世間一般的な「ダサいかダサくないか」で言えば、広義のサブカル的なものって全部ダサいってことになるんだし。もちろん返す刀で一般庶民もダサいってことになるし。「おしゃれかどうか」ってことに戦々恐々とすること自体ダサいって見方もあるしな。

もちろん「これだけは許せねえ」ってこともあるとは思うが。

6月4日(日)

ひさびさのオフ会
ニフティーサーヴのコミック創作館のオフ会。
1年ぶりくらいかな? 創作館の人々と会うのは……。
「神戸屋」という、パンやサンドイッチの販売とレストランを両方行っているところに集まった。
ココは「制服がかわいい」と聞いていたが実際かわいかった。アンミラの制服を青くして、スカートを長くした感じ。アンミラより落ち着いていていいし、何より料理がおいしい(アンミラは高くてあんまりうまくない。ケーキはおいしいらしいが食べたことない)。

待ち合わせの時間前に、オモチャ屋で2000円の「ニセアイボ」が売っていたので買おうかどうしようか迷ったが、けっきょく買わなかった。
ソックリすぎて魅力に欠けたしなあ。
「プーチ」のような正統派? 以外のアイボのニセモノはけっこう出たが、やはり「メガバイト」の重量感には勝てん。

オフ会は、いろいろマンガを描くことについて話をして勉強になった。
個人的には、最近ちっとも描いてないどころか、心が折れまくってアイディアも出てこない。
むかしはヤケクソになって描いていたが、そんな力は到底なくなった。描く前から完成作品のダメダメぶりが頭に浮かんで、何もやる気がなくなる。
ああ、ヘタレと言わば言え。ガックシ。

音日記4
・「大工メ〜ン」
ちみっちゃいドアの前のコンクリを固めるために、ミキサー車を呼んでレイヴしていましたよ。

・「ビン倉庫」
どうやら倉庫に収納するものに新しいのが加わった(タンクみたいなやつ)ので、1日に2回、トラックが来るようになったことがうるささの原因らしい。

・「近くの病院」
毎朝、打ち水をするようになった。半分隠居みたいになっているかららしい。まあ水の音は別にいいけど。

・「一人で叱る人」
電車内で遭遇。よくいるタイプの「一人でしゃべってるおばさん」なのだが、その声がCDウォークマンを突き抜けるほど大きい。しかし、彼女の隣の席の女性も、本を読んでいる男性も、案外平気そうであった。
私はうるさくて耐えられず、ヨソの車両に移動。

あ、下の文章、特定の人間を指しているわけではないのでそこは明言しておきます。
(加賀まりことチェキッ娘は別ね。)

6月3日(土)

どんな世界にも「出たがり」の人はいる。彼は運が良ければ芸能人にでもなるんだろうし、そうでもなければ宴会部長としてみんなの人気者になる。そういう人はわりと自分のプライバシーをあけすけにしゃべってしまい、それでまた注目を集めたりする。
もちろん何から何まで筒抜けでいい人などありはしないが、一般的な「私生活を秘密にしたい人」に比べると、その許容度はおそらく格段に広い。
「内気だったから児童劇団に入り、そのまま芸能界へ入りました〜」なんて言っているヤツがおそらく本当に内気だったことはない。もし彼が児童劇団に入らずとも、将来「おれって内気なんだよなー」などと言いながら自動車のセールスマンをしつつ叶姉妹の妹の方みたいな女をコジャレたバーでくどいていたりすることを考えると、人見知りの激しい私はあまりの羨ましさに座り小便してしまうくらいです(ここで「私は叶姉妹の妹の方をくどきたい」という意味に受け取った人は誤読ですので、現代文ゼミに出るようにしてください)。

何が言いたいかというと、インターネットの日記というのはいろんなことが筒抜けになってしまう(というか「している」)わけで、プライバシーを公表することが何らかのメリットになる職業ならともかく、私のように「商店街の不気味な男」としての役割を担うものとしては、その不気味性も若干薄れてしまい、あまりいいこともない。
いちばん困るのは、「号泣した」と書くと本当に号泣したと思われ、「絶望した」と書けば絶望したと思われるということか。もちろん、絶望とまでは行かずとも、不愉快なものは不愉快ではあるのだが。
「音日記シリーズ」(いきなりシリーズ化している)などは私の日常のささいな不愉快さの記録としてはライフワークであり、手塚治虫でいうところの「火の鳥」。すいません、言い過ぎですね。しかしまあ、全方向的に「絶望している」と思われるのは困るんですな。

おそらく、ソレを経験しているときには確実に絶望しているが、せめて文章化するときには客観化していたい。秋吉久美子さんみたいな女優になりたい。でもなぜか回ってくる役はVシネマで拳銃ぶっぱなして半裸になる役。ああ、水野美紀の映画「千里眼」見たいなあ。でもきっとアクションはヘボなんだろうな……ワイヤー使ってるらしいし……。いや、ワイヤー・アクションは悪くないと思うがその使い方がなー……。というふうに願ってやまないのである。

スーパー加賀まりこブラザース
で、今回の絶望物件と言えば「加賀まりこ」であろう。「回復! スパスパ人間学」という、実際見るまでは「スパスパ」だからタバコに関係あると信じて疑わなかったら実は昔のNHKの「ウルトラアイ」みたいな科学エンターテインメント番組に、コメンテーターとして出演。
経緯は飛ばすが「ホラー映画を恐いと思いますか?」の質問に、「つくりものだから恐くない。第一、文学的でも芸術的でもない」とコメントしたことには心底驚きました。

まあ私自身が日々いい意味で「おバカなもの」を集めすぎて麻痺しているということもあるのだが、「娯楽的である」、「娯楽大作」というような言い方が、1点の曇りもない誉め言葉となっている現在、ゴロリと「この作品は文学的でも芸術的でもないからダメだ」と言い放つ人間(しかもそれなりの地位を持つ)の存在は、私を絶望的な気分にせずにはおかない。

むかし、エンターテインメントの地位が低かったり、理解が薄かったりという時代でもなく、きっちり反論すべき必要性すら感じさせない現代だからこそ、こうした言い方は非常に気味の悪いものと映るのである。
もっとも、こういうことを「言いそうな人」というのは容易に想像ができる。
有名人では西部邁や村上陽一郎がこういうことを言いそうだ。無名人としては、イナカで予備校教師してそうな50代の元文学青年。元文学青年の方は「たいへんだったんですねえ」とでも言いながら開いたグラスに酒を注いでやればよろしい。

西部邁や村上陽一郎は別に私の目の触れるところに出てくるわけでもないし、本業とは関係ないからまたイイのかもしれないが(それに私はこの二人が嫌いってわけではないし)、加賀まりこ、「温泉ナンタラ殺人事件」とか出てるくせになー。
いわば「私は『温泉ナンタラ殺人事件』は文学的でも芸術的でもないと思っているが、生活と世のしがらみのために仕方なく出ているのよ!!」と公言しているということか、さもなくば「ホラー」というものに頑ななまでに理解がないということになり、このような「加賀まりこだから」という言いったくれを許した段階で、彼女はデビ夫人レベルに無意識のうちに落ちてしまったと私は判断するがまだ青いのでしょうか。
「デビ夫人的」な芸能人は、自分の座標軸を何らかの権威に定め、やってることがぜんぜんそれに依拠してないという共通点を持つと思うが、加賀まりこの場合はその座標軸が「文学的、芸術的」ということだったのだろうか。

今あえて、チェキッ娘問題を斬る!!
もうひとつは、「チェキッ娘に対する同業者および業界関係者のアレルギーは大変なものがあった」という一文で、BUBKA7月号のアイドルコラムに書いてあったのだが前後の文章からするとガセではないだろう。
そのアレルギーの出所は「おニャン子のマネだから」ということらしいのだが、そりゃいくら何でもあんまりだと思う。だって「モーニング娘」の基本コンセプト自体がきっと「おニャン子」のマネだったんだろうし、「あれが売れるなら、本家の作曲家とか呼んでイロイロやれば売れるだろう」って考えるのが人情だと思うんだけどなあ。

チェキッ娘が売れなかったのは、プロデューサーの政治力がたいしたことなかったか、「DAIBAッテキ」というチェキッ娘主体の番組がつまらなかったかのどちらかが理由ではないかと思うんだが。いや半可通の予想としては。
それと、女の子の支持を取り付けられなかったのも大きい。「ASAYAN」って見てないんだけど、聞くところによるといろいろ試練を設けて女の子の「モーニング娘」への加入に対し必然性を演出しているらしい(違ってたらゴメン)が、チェキッ娘のオーディションの方は一世代前のアイドルのように、実に必然性が希薄。

「アイドルの必然性なんて、かわいいことだけ」と言いきる私のようなヤロー(しかもロートル)ならともかく、チェキッ娘は旧来の「男の子にウケそうな女の子っぽさ=おんなのこ性」をウリにし、さらにそのグループ自体にも設立の必然性が感じられなかったのだから、「おんなのこ性」を売り物にするアイドルに反感を持ちかねない同世代の女の子の支持は、そりゃ受けられないだろうと思う。
「おんなのこ性」をウリにすること、への反動が椎名林檎ブームにつながっていると私は思うので。いや、椎名林檎だって色気は重要要素かもしれないけど、それが「チェキッ娘」の醸し出すものと異質なのは見ればわかるでしょ。
まあこの理論からすると何で優香がウケてるのか説明できないんだけどね。同性にも支持されているかどうかはわからないが反感は持たれていないと思うので。
しかし女子高生が優香で癒されているとも思えんし。

同文章を読むと、他のアイドルもチェキッ娘には否定的だったというが、う〜ん、私から見るとたいして変わりないと思うんだけどなあ。

ああ、またテレビのことばっか書いて終わってしまった。

江戸川乱歩 少年探偵「灰色の巨人」読了。
宝冠が盗まれ、少年探偵団の捜査は暗礁に乗り上げるものの、サーカスの少女がショーでそれを被っていたことから芋ヅル式に灰色の巨人が捕まってしまう話(だったと思う)。隠しておけばそのままお話はモヤ〜としたまま尻すぼみで終わったと思うのだが。
コレか「魔人ゴング」の時代には「チンピラ別働隊」は5人ほどに減少しており、理由は「世の中がよくなったから」。まったくムカシの小説ってやつぁ屈託ってモノがない。

江戸川乱歩 少年探偵「魔人ゴング」読了。
二十面相は「人は殺さない」というが、じゅうぶん死にそうなことしてるじゃん! とツッコミを入れたくなる話。しかしオープニングの派手さはやっぱりいいねえ。
明智のキメぜりふ、「おまえは二十面相だっ。それとも四十面相といった方がいいかね。(大意)」というのは非常にシマリが悪いけど、やっぱり乱歩は四十面相って名前にこだわってたのかなあ。

江戸川乱歩 少年探偵「悪魔人形」読了。
二十面相は「人は殺さない」というが、じゅうぶん死にそうなことしてるじゃん! どころか、殺人を犯そうとした話。
ルミちゃんがさらわれ、「甲野ルミの棺」が送り届けられ恐怖と悲しみにおののく両親。しかし中にはルミちゃんソックリの人形が入っていた。普通なら悪趣味ないたずらにだれもかれもが大激怒するだろうが、
「あらまあ、お人形さんでしたの?」
「棺なんて書いてあるもんだから、すっかりだまされちゃった。」
「でも、この人形、なんてルミちゃんによくにているんでしょう。かわいいわね。
などと言っている女中さんはすっかり他人事(さすがに両親は心配顔ですが)。
ラストの種明かしのあまりのガッカリ具合は、ガッカリを通り越して超次元へと疾走する、ある意味傑作。

6月2日(金)

音日記3
「家の工事」は、まだやってる。住人どもはすでに引っ越してきて、さわやか新居生活を送っているというのに、向かいの我々はまだうるささに悩まされている。 なんかしんねーけど家の周囲に土をまいて、その上にコンクリートを固める作業をしてる。

「ビン倉庫」は、観察しているとどうやら倉庫自体の目的が変わってきているらしく、通常の「ビンケース」以外に、ビールの入ったタンクのようなものを運んでいて、朝8時頃から午後3時くらいまでやっている。

やる気なし!
急速に何もかもやる気がなくなって、寝てても寝過ぎて眠れなくなったがマンガを読む気もテレビを見る気もしない。あ、ビデオに録っておいたSRSだけ見た。私は佐竹雅昭を応援するぞー。それと番組アシスタントの長谷川京子と、当然内藤陽子も応援する。あ、喜多嶋舞のお母さんじゃない方の内藤陽子ね。

ほんとにやる気ねーよー。

なんか、マンガを読んだりホームページを作製したり、そんなことばかりして遊んでいたのでアタマが情報を処理しきれなくなりやる気がなくなったのかと思って、脳内の情報を整理すべく1日ボーッとしていたのだが、けっきょく何のやる気も起こらなかった。

それと身体がすごくダルい。肝臓が悪いか糖尿病だったらどうしよう……。



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