あんた
やっぱりアマチュアだあっ!!(by刃牙)

一気に下まで行きたい

1999年

9月30日(木)

政治的な? レビューにウンザリ。

映画のレビュー系のサイトを見ていて、「オースティン・パワーズデラックス」に星2つ(少ない)、「スター・ウォーズ ファントムメナス」に星5つも付けている人がいて、心底ウンザリした。

「オースティン・パワーズデラックス」については、「映画パロディがイマイチ」、「メリハリとしてのまじめなシーンがほとんどない」ということが批判の理由らしい。
が、まず「パロディ」なんて映画を何百本も見なければわからないんで、「知らない人が見ても面白い」くらいにまで醸成されているべき、と私は思っている。
この間、本屋でオースティンパワーズの本を見ていた女の子がカレシに

「これって映画をたくさん見ていないとおもしろくないんでしょ?」

と実に懐疑的に語りかけていた。
もちろんマニアしかわからないシーン、「ニヤリとさせられる」っていうふうに表現されるところがあってはならないとは言わない。
だがそういうシーンが「ないからつまらない」と言うのはそれこそコドモの発想である。

「エヴァンゲリオン」が、それを論じるにあたって、同作に多大な映画・アニメ・SFなどの引用がされていることを無視して、ひたすらにテキストのみの読解に走ってしまった評論が散見され、「全体の流れ」を見落としているという批判があった。
それ自体はしごくまっとうな批判である。しかし逆にいえば、「アニメのことなんか何も知らなくても論じられそう」な「ある意味でのわかりやすさ」をよくも悪くも同作が持っていたこということである。ある種の敷居の低さ。

(何かと「エヴァ」を比較に出している自分だが、とくに熱烈なファンというわけではなく、その内容と作品をとりまく狂騒がいちばんわかりやすい例だからあげているだけなんだけど)

何がいいたいかというと、「オースティン・パワーズ」のような映画において「あれはあの映画、これはあの映画」といちいち出典を数え上げるのもマニアにとってはたまらない楽しみであったとしても、同時に「ロクにスパイ映画なんか見たことがない」人にも訴求力があってこその、日本でのヒットであったと、私は思いたい。
(これは「オースティン……」にかぎったことではないパロディ映画全般のこと。だから映画のワンシーンのパロディが頻出するらしい、予告編で見た「裸の銃をもつ逃亡者」は面白いかどうか不安である。)

いちおう念のためにつけくわえておくけど、別に日本人向けにつくられているわけでもないだろうから、「その国のヒトならわかりそう」でこっちが無知ゆえにわからない部分も、当然あると思うけどね。

「マジメなシーンがない」というのもよくわからない批判ではある。これは映画の背景にある向こうのヒトのコメディのパターンや、作品テーマにもつながる問題だからあまり半可通のまま語りたくはないのだけれど、「60年代的なモノが80年代にはダメダメになってしまった。その復権」ということであれば、前作で「責任のある自由」を主張してシメた、あれが語りたかった、あれが中心となって映画全体が組み立てられている、とはちょっと思えない。
作品全体を引き締めているとは思うが。

それと女スパイとの恋愛シーン。これがシリアスではない、ということなのであれば、それは完全にお門違いだ。
だいたい、「ひょうきん族」のコントだって「みなさんのおかげです」のコントだってしんみりしたシーンくらいあったのだ。
これは物語にメリハリをつける程度の役目しかなく、その描写がなかったからといって、「物語全体のバランス」以上のことに言及できる部分ではないだろう。
それに今回、確かに主人公と女スパイの間にはそれほどシリアスなシーンはないが、だからといって物語のバランスをいちじるしく欠いているわけではない。

さて、やっと「スター・ウォーズ ファントムメナス」の話。
論者は「ところどころに散りばめられた伏線を、次回作ができる3年もの間あれこれ推理できる我々は幸せである」なんて言っている。
こうした言い方は、あまりにも贔屓のひき倒しであると言わざるを得ない。

「あらかじめ次回作を想定されてつくられる映画」が過去どれくらいあったかはしらないが、逆に言えば「3年待たなければろくすっぽ何もわからない映画」ではないか。
アメリカではどうだか知らんが、同作の公開初日には多くの若者が映画館につめかけていたらしい。もちろん、前3部作公開当時の(日本での)熱狂を知らない子たちばかりだろう。
「あの伝説の」作品の続編が見られる、自分たちがその熱狂をリアルタイムで知ることができる、そういう期待があっただろうと思う。

だがそうした期待に答ええるできになっているかというと、はなはだ疑問。
もちろんこれは「日本の若者向け」につくられた映画ではないにしろ、「スター・ウォーズ」という「商品」新しい消費者の開拓、という意味がその製作に込められていることは確実だとすると、「こんな中途半端なものつくっちゃって……」と嘆息するのが普通というもんだろう。ドマニアを除いて。

「抑えた演出」とも評していたが、ドンパチやる映画に「抑える」ことなんか必要ないっての! 本作を見た後、どこのシーンが思い出されるか? というと、個人差はあれ「ポッドレースのシーン」やクワイ・ゴン・ジンとダースモールの戦闘シーン、あるいは「戦闘の前のしんみりしたやりとり」の数々ということになろう。

これらはSFアクション映画では必須のものではあるが、「敵か味方か、正義か悪か」わからない人々の右往左往、という部分を「抑えた演出」で描いて見せるのだったら、あの壮麗な、ワクワクするような音楽もやめ、思わせぶりにカッコいい宇宙船が出てくるのもヤメにしていただこう。人間の陰影を描くなら、何もあそこまでCGを使って奇妙なクリーチャーやロボット戦闘を描く必要もあるまい。

それは「SFアクション映画的ワクワク」とは対照的なものではないだろうか。
いやまあそういうのに取り組んで大傑作ができる可能性を、全否定はしないけどさ。

何も善人と悪人のはっきり区別のつく勧善懲悪モノだけをつくれ、と言っているのではない。ただ本作に関して、「善と悪の不明瞭さ」を「深さ」だと評価する向きにも、個人的には疑問である。
だったら1本で終わらせるなりしないと、どうにも納得がいかない。

「次はない」と思いながらつくるのが普通じゃないんかなー。「次があるから」って伏線バラまかれるのは、結論を先送りされているようでイヤんだけどな。それは「次回作まで何とも言えない」という言論封殺のテではないかとすら、被害妄想的に思ってしまうよ。

そしてまた「スター・ウォーズで3年は食おう」っていう政治的なモノがあるんじゃないかなどと、レビューを見ると勘ぐってしまう。

9月27日(月)

古本屋さんをほろほろと回ったナリ。
知り合いの方々と、先日、「営団線1日乗車券」を使って古本屋さんを回ろうということになり、行きました。
私、おかぽん、小杉あやさん、吉田かずのりさん というメンツ。

台風でも、その逆の超猛暑でもなかったのは、時期的にはよかったかもしんない。

・午後1時、新宿紀伊国屋前集合
1時に全員集合!!

・新宿〜古書畸人堂
(以下古本屋の印象は新田の個人的なものです)
マンガは少なくて、「近所の古本屋さん」みたいな感じなんですけど、幻想文 学系の棚とかあって、そこには高そうな本が並んでました。
あとマンガでは最近作の全巻揃いとかがいくつかあった。
新田的重要物件である「絵を描く犬」(マンガではない)が置いてあったのがショック。
なぜなら、買ったけどまだ読んでないから(口絵を見ただけでお腹いっぱいという話もあるが……)。
私は、なんかアイドル本のムックを買いました。

その後、新宿御苑前の「模索舎」に行く予定でしたがみんな気分的に却下し(古本屋さんではないし)、

丸の内線で四谷まで言って、そこから南北線に乗り換え、市ヶ谷から有楽町線で江戸川橋
(だったと思う。その後酔って忘れた)。

・江戸川橋〜ナイキ漫画館
アオシマの合体マシンのマンガ「レッドホーク 連合艦隊」が1500円。買わなかった。
あと個人的には、コロコロ・ボンボン系を漁りつくしたのと、比較的ウチから近い古本屋では唯一、「グリーンアロー出版社」などの麻雀劇画を取り扱っているところなんだけど、このテのはほとんどがスカだということがわかりつつあるので、手をつけず。
昔のロリコンマンガとかもあった(牧村みきとか)。
あ、あと10年くらい前の月ジャンがあったな。個人的に、表紙の「瞳ダイアリー」(たぶんエロコメ)が気になるぞ。

それから歩いて早稲田まで行ったんだっけ???(その後飲んだので忘れた(爆))
早稲田から東西線で、高田馬場。

・高田馬場〜ブックオフ
「古本の価格破壊」でちょっとテレビなどで話題になっていたところ、確かに旧作で部数の多いものは100円とか、異様に安い。
それと、新刊書籍がかなり早い時期に店頭に並ぶ。
でも講談社、集英社、小学館など以外ではそんなに安くない。
ここでも私は何冊かゲット。

ここで見た、「お人形に着せるピンクハウスの服の作り方の本」はその精密さにおいてすげかったです。

高田馬場は「コミック・パニック」などもあったけど、この時点ですでに午後3時を回っていた(早い)ので、あと1件くらいかと判断、高田馬場は今回はもういいか、ってコトでロッテリアで一休み。
ここで思わず「店でぜんぜん仕事の話が通じない」と口走ってしまったが、後から考えるに自分でよほどショックだったらしい……(笑)。

それから東西線で中野へ。

・中野〜まんだらけ
やはり大きいだけあって、何度言ってもなんかしらある。
個人的にはいがらしゆみこ「おませな人魚姫」を100円でゲットできたのがラッキー。
また、いがらしゆみこはレディース系も数冊売っていた。買わなかったけど。
現在探索中の「硬派!! 埼玉レグルス」「吼! サムライ」の作者が描いた野球マンガ)も2冊あった。

その後、池袋へ行く予定だったがことさらどうしてもいかなければならない理由がなかったので、中野に腰をおちつけることにする。
……っていうか、私はこれだけの行程でもかなり疲れたので、個人的には「もう酒飲みたい」と思いました。
(なぜちょっと池袋に行きたかったかというと、私としてはムック「歌謡曲一発屋伝説」が欲しかったのです。あと竹田青嗣の本も探していた。でもお金がないからいいや、とも思った)

中野といっても咄嗟にイイ店が思いつかなかったので、映画館の「中野武蔵野ホール」のむかいにある「おかじょうき」とかいう居酒屋で飲む。
「中野武蔵野ホール」では人形アニメをやっていましたな。

その後「お茶を飲もう」ということになり、どこだか忘れた〔酔って忘れた(爆))が線路ぞいの店で「チャイ」とかいう飲み物を飲む。
この段階で記憶がはっきりせず(爆)、あと薩摩揚げみたいなものを食べたり、カルーアミルクのようなものを飲んだりした(が、酔って記憶がはっきりせず(爆))。

11時頃、解散。

以下、感想。
やはり午後1時から夕方までだと、3軒回るだけでもタイヘンでした。
本を眺めているだけでもけっこう疲れるしね。
移動に時間がかかる以上、大きめのところを回るか、神保町などの一極に集中したところを回った方がよいみたいでした。
もし今後があるなら、最初から「3軒」と決めて行った方がいいかも。

・「おかじょうき」は少し高いと思いました……。むかいの「中野武蔵野ホール」で映画を見たあと、入って映画の感想を言いあう……ってタグイの店じゃないような(そんな店だと想像していたんだけど)。
刺身の「おつくり」メインの店って感じで。
イヤ、「おつくり」も4人で割ればそんなに高いものではないのか。わからん。
気のきいた店を知らなくてごめんなさい参加者のみなさん……。

・「中野武蔵野ホール」では、むかし私はおかぽんと「妖精王」というアニメを見たことになっているが、まったく記憶がない。
「つまらなくて腹が立った」という記憶もないので、おそらくものすごく箸にも棒にもなアニメだったと思われます。

実はいつになく泥酔していました(笑)。
もし不穏当な発言があった場合、遠慮なく文句言ってください(汗)。

まあ記憶をたぐると大丈夫だとは思うんだが……(汗)。

9月24日(金)

しつこくSFについて考える
……しつこくSFについて考える。
SFマニアと話をしたとして、なぜ「言葉が出てこないのか」の個人的重大要素を忘れていた。
「私には理系知識がない」
ぐあー。こりゃ致命的だわな。

SFってのを「理系知識を使ったゲーム」だと考えると、根本になる部分がおぼつかないんだから、
こりゃダメだわおれ。

いわゆる「バカSF」とか「壮大なホラ話的なSF」ってのがあって、私はそういうのは読めば大好きなんだが、もとになっている理科、科学の知識がおぼつかないんで「どの程度バカなのか」をはっきり言いにくいのだった。
そうだったのか!!(笑) エウレカ!!(笑)

しかしまあSF小説が日本で急速に衰退してしまった理由というのも、逆にわかる気がしますね。
つまり、「SF」の根本には、いかなバカな、科学理論に従わない話を書こうと、根本には「科学知識」への執着というか愛情というか。そういうものがあるんではないかと思う。
ここにこだわりがあるかどうかが、「SFかどうか」へのこだわりにつながるんではないか。

よくアメリカ50年代がSFの黄金期だと言われますが、これは庶民の「科学が何かやってくれる」という考えがSF小説の「科学へのこだわり」とシンクロしていたからで(話が逆か。「やってくれる」という気持ちがSFを生み出したのか)、現代日本での私も含めた一般人は、「科学してるかどうか」ってのにほとんどこだわりがないから、「SFでなければならない」理由が見いだしにくい。展開するものがホラ話であれ、リアリティであれ。

小説におけるリアリティ、あるいは逆に「飛躍」のジャンプ台的なものが、SFでは「科学」「科学的発想」だけれども、私も含めた一般人にはその「ジャンプ台」に対するこだわりがない。
だから「ホラ話」が好きな人も必ずしもSFにはいかない。「ホラ話」のホラたるジャンプ台は別に科学でなければならない絶対的な根拠がないからだ。

ホラーやファンタジーの「リアリティ」OR「飛躍」のジャンプ台は何か別なものにある。ホラーはばくぜんとした「いかにもありそう」という感覚だろうし、ファンタジーの場合にはまたなんか別のモノがあるんだろう。

日本では高度成長期には「科学」へのキモチがあったし、サイバーパンクがウケたのは科学理論はともかく「コンピュータ」というものに私も含めた読者が日常接することが多くなったことが一因だとすると、再びSFが活性化するとしたら、やっぱり私も含め多くの人が「やっぱり科学なんだ」「科学でなければならないんだ」という気持ちが起きるとき、なんじゃないかと思う。
そんな日は再び来るのか。来るとしたらやはりコンピュータがらみか、宇宙開発か。

わかんねーけども。

9月22日(水)

救世主降臨なるか?−なかなかねぇ……。
「ヒーザーン」 ジャック・ウォマック(1990、1992、ハヤカワ文庫SF)
近未来、アメリカは経済的にメタクソになり、内戦が続いてボロボロの状態に。
それでもまだ世界ではましな方、っていう絶望的な状況だ。

巨大企業・ドライコの権力者サッチャーは、エルヴィス・プレスリーがいつか蘇るという奇妙な信仰の持ち主だが、スラムみたいなところで奇形の子供達(なんでかは忘れたが化学実験だかなんだかによる)に独自の宗教観を教えている男、レスター・ヒル・マキャフリィに目を付ける。
彼には救世主としての才覚があると思わせたし、実際に超能力を使うことができたからだ。救世主をビジネスに使おうと考えるのがサッチャーのやり方である。
これにドライコの社員の変死事件がからんで、物語は進行する。

語り手はサッチャーの部下であるユダヤ人女性・ジョアナ。彼女はサッチャーの非人道的な振る舞いに反感を持ちながらも、「レスターの救世主化」と「社員変死事件」に関わっていく。

個人的感想を言わせていただくと、とにかく重苦しいディストピア小説。読んでいて暗澹たる気持ちになった。もちろん、ただダークな気分にさせるだけの話ではない。
「ポスト文字」という未来的言葉遣いを創造し駆使しつつ、テンポもよし、サイバーパンクの文脈で語られる作品としては読みやすくもある。また「救世主」や「神」の概念が現代に通用するかどうかというテーマについて、安易な戯画化に落ち着かず、またそれでいてパロディ的なニオイも漂わせ、絶望と哀しみを描き、必ずしもそれだけではないことを表現しようと試みて、成功しているように思う。

しかし個人的にはあまりにも重苦しい小説ではあった。
いつの頃からか物語では「救世主」ってのは軽々しく出てきてはいけないことになっており(もちろんギターの音色に上を見上げると崖の上に立っていて「トウ!」なんって言ってジャンプして着地したりしてもいけない)、昨今の(つーても19世紀くらいから? もっと前?)大半のお話は大きく大きく迂回しながら救世主(狭く言えばヒーロー、広く言えば超越的なもの)を出現させること(あるいはさせないこと)、その迂回のさせ方に工夫を凝らさなければならないとされている。

本作もそのバリエといってしまえばそれまでだし、またそれで片づけるつもりは毛頭ないが、なんつーか中間管理職的に言えば
「きみ、まあその、言いたいことはわかるけどもね、もうちょっとその……なんだ、ユーモアとかおかしみとか、なんかそういうものはないのかね。銘菓ひよこを食べるかね。ミッキーマウスは出ないかね。出ていたらウチの娘も読むんだが」と思った。

そういう泣き言を言いながら、私は毎日暮らしているってこと。

9月16日(木)

なごみレベルの個人的基準
癒しブームである。ヒーリングである。
アニメ「りりかSOS」も「ヒーリング」がテーマだったって知ってた???
最近、なごみレベルが格段に落ちている。個人的に。
何を見ても腹が立つし、何を見ても悔し涙が出るしまつ。

本来なら温泉へ行ったり、海外旅行でリゾート地へ、なんてのが大がかりな癒しの方法なのでしょうね。
でも私はそういう趣味は持ち合わせておらん。
だいいち行き帰りがメンドクサイし、金がかかるのが業腹だ。

「テレビ見てなごむ」ってこともない。いちばんてっとりばやいのはテレビなのに。
これはむかしナンシー関も指摘していたことだけど、他人の夫婦ゲンカとか、わざわざ不愉快なシーンを見せる番組が多くなったような気がする。
……といっても、これは感覚的な話で、むかしも不愉快な番組っていっぱいあったけどね。

むかしやってたテレビ東京「スターどっきり」のパクリ番組は、「だまし」のストーリーが「ウソでした〜」ってバレてもちっとも笑いにつながらないものばかりで、種明かしをすると、だまされたタレントも視聴者も悪夢から覚めたような不快感に襲われる番組でした。

それと、お笑いでも「罪のないの」ってあんましないですね。
もともと「罪のあるの」も嫌いじゃないんですが、なんかこー、「くっだらねー!」って言って手放しで笑えるものがない。
「悪意に満ちた笑い」だけがものすごく突出して進化しすぎて、他がなくなっちゃったような気がする。だけど、「ブラックな笑い」って気持ちが充実していないと、笑えないこともあるし、かえってダークになってしまうこともある。

なんつーか、ヒステリックな気持ちになることあんだよね。
かといって、寅さん見たからどうっちゅうこともないしねえ私は。
(でももうちょっとたくさんは見ようとは思っているけど)

「クレヨンしんちゃん」って、意外にヒーリング系かもしれないとか思いつつ。

やはり、藤子・F・不二雄は偉大でしたよ。
そして「本当の無意味」を追求している人たち。
劇団「ナイロン100℃」の「ウチハソバヤジャナイ。」は本当に無意味で、でも安易に厭世的になってないところがよかったなあ。

「なごみ」、オレ的な世紀末最後のテーマですよ。

9月15日(水)

ネットにおける議論の研究(その1)
インターネットもこれだけ普及したので、私の中でのニフティ(パソコン通信)の意味も変わった。
フォーラムとしては1ジャンル1フォーラムでなくなってひさしいし、ニフ外でもいくつも「シュミの掲示板」が出ているから、だれでも好きな、気のあったところに行けばいい。
むかしみたいなイヤな方向の論争、バトルはもうあんまり起こらないだろう、などとたかをくくっていたところもある。

だが、最近のイロイロを見ていて、議論について思うことを少々。

・その1「データの検証問題」
まず素朴なギモンなんだが、「データの検証」をみんなどの程度やっているのだろうか!?
ネット議論の大前提として、元になるデータが正しいかどうか、あるいは自分の論を展開する中で、その立脚点となるデータが正しいと証明しうるか、これは相当に重要な問題だと思う。
プロの研究者は、その「信頼性」をギリギリのところまで追いつめ、検証していくという方法を取るのだろう。
んだからまあ、個人的には、ネット上であれ何であれ、「専門家同士の論争」の、データの信憑性の問題については、がんばってもらうしかない。

問題は、「一見、シロウトでも参加できそうな問題」、「イデオロギーがらみの問題」、「生活に関わる問題」である。
これらはいずれも、ネットにおいて大量のギロン者を出現させる。
もちろん、「シロウトが参加できそう」だからこそである。

だが素朴なギモンとして、「シロウトに厳密な一次資料の信憑性を証明することが可能か?」となると、
ほとんどムリだと思います。

みんな忙しいんだし、そんなことばかりやっていたら日が暮れてしまう。
そもそも、専門家でないかぎり、
ある話題についての「信」の根拠は、おおかたは実は一次資料の信憑性や自身の論理的検討などによる結果というところには「ない」。

それは大半が「どうでもいいこと」だから、気づかないだけだ。
みのもんたやどっかの学者先生が「ココアはいい」と言ったんでココアブームが起こった。だが実際にココアのどの辺がよいのか、別の資料などを漁って自分でナットクした上でココアを購入した人など、ほとんどいまい。

たいていの場合、物事は自分の常識に照らして、ほとんど「即断」といっていいほどの速度でその「信」の度合いが決定されていく。

だから、ネット上での議論の「ずれ」は、専門家とシロウトとの間で起こることは多い。政治問題や医療、健康に関する問題、環境問題、なんかがわりとそうかな。

その2「イデオロギーの問題」
データの信憑性が疑われた場合、論者は大きく説得力を欠くことになる。それでないにしたって、「データ云々より、イデオロギーだ」という議論も同時に行われる。

(私が言う「イデオロギー」とは、論者の「基本となる考え方」程度の意味である)

ある場合は
「確かに多少の間違いはあるかもしれない。だが立脚している問題提議や、根本的な考え方には見るべきものがある」という主張になるし、
またある場合は
「枝葉末節のデータにこだわる前に、まず俯瞰的に主張の妥当性を見るべき」という主張になる場合もある。

だがこれはおかしい。

とにかく、まずデータの正確さがある程度論者の間で認知されていることが大前提だろう。上記の両者とも、「データの検証問題」を回避していると私には感じられる。
思い出して見てほしい。大学の卒論を書くときの手順を。まず「データの正しさ」が根本問題だったのではないか。そして、その上に理論を構築する。それが順序だ。
すべての主張は、そうして成り立っている。
だから、「論証できるかどうか」は超重要な問題であることは疑いないはずである。
そこからはじめて「イデオロギーの問題」が出てくる。

だが逆に、データの真偽がわからない場合、読解の際に「イデオロギー」を指標とするのも事実である。
というか、それと、自分の中の常識と照らすこと、あるテキストの中での論理的整合性を見ること、それらから総合評価して、ある主張に対しての価値を決めるのがたいていの「普通の人」がやっている作業ではないかと思う。

つまり、「データの検証」の問題と「イデオロギーによるデータの読解」の問題は別次元のものであり、たいていの場合はこれらがごっちゃに論じられてしまうのである。
では、それらがきちんと整理されている場合はどうなるか。
これがまた、不毛な平行線である場合が多い。

その3「オレンジ問題」
それでは信頼すべきデータが整ったとき、どんな「議論」になるかといえば、たとえばけっきょく「オレンジにはみかんもはっさくもネーブルも夏みかんもある。」
だがその中で「ザボンはみかんではない」としたり、「みかんそっくりの模型も外見がみかんと寸分違わなければみかんである」としたりといった、ようするに「オレンジの種類の中で、それらを同じ『オレンジ』と見るか、ひとつひとつを『違う』と見るか」そんな違いを問題とすることにつきるような気がする。

これを個人的に「オレンジ問題」と呼んでいる。

よほど重要なことでないかぎり(たとえば、今、この議論に決着を着けないと死んでしまうとか)、これらの「みかんはオレンジと同じか否か」という判断基準の問題は、不毛なことが多い。
ここまで来れば、視点の違いにすぎなくなり、多くは平行線だからだ。

まずはそんなところかね。

9月12日(日)

だれが読んでんだこの文章!?
最近、HPのテキストの一文の長さについて悩んでいます。
私自身も、あまりにも長文は読まないから。
以前、論争の経緯をアップしていたところがあって、話の厳密性を高めるためにものすごい長文がアップされていたんだけど、テキストに落として読んでもとうとうギブアップ。
でもこれ、書籍の形式だったら読み通せたかもしれない。

それと日記問題ね。どうせ「王様の耳はロバの耳!!」って言っているダケなんだけど、それにしたって読まれるために書いているんですよいちおう。
でもどうしたら面白いと思ってもらえるのか……ワカンナイ。

あと日記に限らずとも、悪意に満ちた文章の方がウケはいいんですよね。
だれかを名指しで批判したりとか。
「●●なんてクソだ!!」
って言ったりとか(言ったことないけど)。

だけどなんか世の中にギスギスをバラまいているようでイヤだ。
……っていうか最近、「その暴言、どんな党派性から出てるの?」ってなこと考えちゃって(笑)。だれがだれに暴言吐いて、だれに吐かないか、仁義みたいのができてんじゃん。

それを突き崩してくれるような意見を探しているんだけど、私も含めて(だって私は「ふぬけ」だから、って開き直っちゃいかんが)なかなかいない。

映画「仁義の墓場」みたいなめちゃくちゃなヤツは、たいてい本当に壊れてたり、いまだにネットでも自宅でしゃべっているように思い込んでいるアホだけだったりもするんだけどね。

9月10日(金)

書いて後悔することがあるが、「SFはよっぽど通じゃないと楽しめない」なんて書くんじゃなかった。でもこれはボクのひがみ根性だから、仕方がないよネ。スター・ウォーズだってSFなんだよなホントは。
それと、ダウナーな気持ちになっているときはついつい小説とか映画の感想などをくそまじめに書いてしまうんだけど、後からイヤ〜な気持ちになってくる。
なんかさー、そんなことマジメに書いているときじゃないんじゃないかなー、などと思うからだ。

それにさ、「やーい、やーい」とか言われたら、イヤじゃん。「やーい、何書いてんの」って。でもあれか。イイオトナで「やーいやーい」って言うヤツはいないか。
いや、ここに書くことによって、どこかのあまのじゃくが「やーいやーい」って言うかもしれない。
でもいいや。そんなことを考えることすらもめんどくさくなってきたから。

昨日食い過ぎて気持ち悪くなった。
今日も間違えて食い過ぎてしまった。
だから泣いた。

そこでポエムを贈りたい。
あなたに、チェルシーをあげるように……。
そして東鳩オールレーズンを思い出の朝に食べるように……。
ゲ! レーズンだって!?
実は、私はレーズン嫌いなのれす。
そして、オーバーオールを着たイルカ(人間の方)のイラストを描くのれす。
(説明をすると、こういう「〜れす」とか「おてまみください」などのフレーズが20年くらいまえの雑誌「りぼん」などに書かれていたような気がするから。
「オーバーオールのイラスト」は本当にあったかどうか忘れた。)

むかし、レーズン入りカレーってのがあったが、今もあるのか。

「レーズン入りカレーがあるなら、巨峰入りのもつくれ」って主張したのは
すぐ退陣した某総理だったそうだが、
すいません、そんな事実はありません。
考えてみれば、あやまってばかりの人生だった。

あやまりすぎて、プラモデルの枠の部分(何という名称か?)にもあやまっている自分に気づいたとき、心の中に「ドラゴンボール」的なエネルギーが芽生え、
私はレーズン入りカレーをむさぼり食った。
だが自分がレーズンだと思っていたのは、プラムだった。
プラム。このいかにも「シャレてございます。西洋のデザートでございます」的な果物が日本に入ってきたのがいつだたったか、文献が散逸してしまい定かではないが、少なくとも去年にはすでに入ってきたものと思われる。

「だって、プラムが日本に入ってこなければ、プラム入りカレーもできないはずだろう? 兄さん。」
って、ちょっと推理小説っぽいセリフだと思いませんか。
「しかし、プラム入りカレーというのは日本にはないんだ。」
……男は言った。
「でもぼくは食べましたよ、たしかに」
抗議する少年に、男は悲しげに首を振り、言った。
「あれはボクが『こくまろカレー』にプラムを入れただけだったんだ。ニセモノだったんだよ!」
「ウソだ! ウソだ!!」
ショックを受けた少年は走り出し、崖下に転落した。
奇跡的に一命をとりとめた少年の名は、「麺造」。
後に、かぼちゃの丸煮相場で大損をすることで、有名になる男であった。
さらにラーメンチェーン店「麺造」に、「自分の名前を使われた」と訴訟を起こすほどの知恵もなく、汚い格好で店を訪れては小遣いをせびっていた。5000円くらい。

9月8日(水)

私が映画でウテナを見ているということは、当然、同時上映の
「アキハバラ電脳組 2011年の夏休み」
も見ているということである。

……まあ「最終上映のウテナだけ見る方は割引」なんてやってたところもあったが。

「ウテナ」が1年に渡るテレビシリーズを、1時間半にリニューアルしたのに対し、「アキハバラ……」は完璧な続編……というか後日談である。
だからテレビシリーズ以上のことが起こるわけでもないし、ファンサービスに徹した楽しい映画だった、という感想がいちばん妥当なところだろう。
何度も書くが(このHPに書くのは最初か?)、「アキハバラ」は私の周囲では親の敵といわんばかりに評判が悪かった。確かに絵はヒドいときが多く(ほとんど動かない回とか)、デザイン的にもキャラクター的にも演出的にもなんかのパクリ(はっきり言ってエヴァンゲリオン)を思わせる部分もあった。「秋葉原はあんな街じゃない」という批判も聞いたことがあるし、私自身、つばめ(林原めぐみが声をやっている、某アニメソックリのキャラクター)のキャラ造形には疑問を感じざるをえない部分もある(ああ似たような感じではバッタモノの印象を受けてしまうではないか。いや、まあ、バッタモノといえばバッタモノなんだけどさ)。

だがそれらを差し引いてなお、「ナントカな子ほどかわいい」という意味でもいとおしいし、まともな作品評価としてもテレビ版「エヴァンゲリオン」よりはよほどまとまっていた、と私は感じている。
(なぜエヴァと比べるかというと、本当に影響を受けているかどうかはともかく本作は「エヴァ以後」の作品であることに間違いはないし、ある意味もっとも最初の段階で手がつけられた「ニセエヴァ」ととらえられないこともないからだ。「ニセ」なんていうとファンやスタッフは不愉快かもしれないが、私にとって「ニセ」とは「解釈」の一種であるのだ)

……といっても、本作は何か新しいことを提示してみせたわけではない。
簡単に言うと、「腐りきった人類を滅ぼそうとする天才科学者」が、いたいけな少女に説得されるというだけの話だ。構造的には、どのような世界の理不尽に対峙しても「私がイヤだからイヤなのっ!!」と叫んで奇跡を起こし、すべてをチャラにしていった「セーラームーン」のシリーズとそれほどは変わらない。

主人公のひばりは、秋葉原の日常において、自分にとっての希望、自分にとっての新鮮さ、自分にとっての幸福を何かまったく理不尽な方向で踏みにじられることに抗議しているだけだ。
だが、これを昨日私が書いた流れで、「公的に、計画的に多大な犠牲を出して人類延命を図ろうとする権力者」と、「個的な幸福に固執する少女との対決」と受け取ると、たちまち陳腐な「お代官さまなんとかしてくだせぇ」ばなしになってしまう。
ちょっと違う。

ひばりが訴えているのは、G・K・チェスタトンの「木曜の男」で主人公が言っていた、「毎日、決まった時間に決まった電車がホームに入ってくることは、すばらしいことだ(大意)」ということであり、敵? の「王子様」が行おうとしているのは、まさしく「木曜……」での主人公に思想的に敵対するアナキストの行動原理である(なーんつってな。ホントかね?)。
不愉快なことも含めた、毎日の同じこと、つまらないこと、取るに足りないこと、そうしたことを新鮮に受けとめられるか、そこに不都合があるならどのように足下から改善しうるか。ひばりはコドモなのでそうしたことをデフォルトで信じ込んでいることに、「敵」は真剣なショックを受ける。まぁ「敵」もコドモらしいのでそれはそれでいいのだが。

「セーラームーン」のシリーズは、(まあどれがどうと具体的には忘れたが)うさぎの超庶民的なワガママが、彼女が救世主であるがゆえにすべて通ってしまう、というムリヤリな結末が多かった。これは敵側にも私怨があるためにうさぎ側とのディスコミニュケーションがきちんと解消されないこと、うさぎの幸福な未来が決定されていること、うさぎ自身が自分の考えをきちんと言葉で説明できないことなどに起因していると思うが、うさぎの行う

(たとえるなら)「50円のアイスが欲しいが、アイスを受け取ったらその50円も返してほしい」

というムチャクチャな言い分(だってそういうの多くなかった?)は、象徴的なレベルでも、「戦い」が犠牲を伴うものだということを呆れるほどあからさまに隠蔽すると同時に(あ、「あからさまに隠蔽する」とは「すっとぼける」ということか)、「でもこれ見てるのコドモだから、まあいいや」な気分にもさせられてそれはそれでいいんじゃないの、ではあるのだったが……。

ひばりの勝因は、敵が「王子様」という「話せばわかりそうな人」だったこと、結局「言葉で説得した」ということに尽きる。なんだかよくわからないけど、スペクタルな感じはしたし、ひばりはコドモなんだし、何より光宗信吉の音楽が盛り上げるからすべてはOKなのだよ……。

さて、「人類は破滅すべきではないのか?」というブッソウなテーマは、いつの頃からか(近視眼的に見れば「ノストラダムスの大予言」が流行った70年代中頃からか?)SF作品の「定番テーマ」になっている傾向がある。

そのたびに、「滅ぶべき」<>「まだ希望はある」というどちらのベクトルにぶれるかでその作品の結末は決まる。本当はそれだけのことなのだが、コトがパソコンショップつくったり電車の中で何かをまいたりする輩が現れ、その思想的基盤が、どうやら信じがたいことに私がアニメやマンガなどで慣れ親しんできた悪役キャラの考え(と言ったって、そのテーマをめたくそ真剣に考えていたわけではなかったが)「人類は破滅すべきか否か、そう破滅すべき、オレラを除いて」だとは思いもよらなかった。

思いもよらなかっただけに、扇風機に「あ〜〜〜〜〜」とか言いながら見ていたアニメも、ちょっと監視(言い方は悪いが)するようになってしまった。
そういう視線においても、ひばりやすずめたちがつるんで毎日楽しそうに過ごしていること、ひばりがすずめたちとの友情に亀裂が入ることを考えてまでつばめと仲良くしようとしたことなどは、きちんと結末の伏線になっている、と私は考える。
まぁほっといたって、ひばりくらいの年頃はすべてが新鮮に輝いて見え、箸が転がっても面白い年頃であるから、今後、どんどん自分たちの生活がイメージとして色あせていくと感じたとき、どのような「思想」を持ちうるかは(こういうとこが私の……バカなところなんだけど)興味のあるところだ。実際、敵側に回った「電脳しびれ組」の面々は、「窮屈で退屈な日常」にガマンができなくなったクチであったが。

……というわけで、ホンとしては私はテレビ版「エヴァ」よりはまともだったと思っている。テレビ版「エヴァ」がそのいびつさにおいて魅力を放っているとしても。

9月7日(火)

「新ゴーマニズム宣言」。
いまだに賛否かまびすしいマンガだ。
最近、すっかり追いかけなくなってしまったが、私も「旧」の頃は熱心に読んでいた方である。
さて、以下のような文章があったので、コメントしたい。
最新刊6巻(全部は読んでません)
「小林よしのりVS金美鈴 『公』に関わって知る『個』の自立」
……の中に、以下のような文章が載っていた。

「それがいつのころからか、バラエティーだろうとアニメだろうと、大人が嬉々としてテレビを見るようになった。たとえば、いままた「ウルトラマン」が流行っていますが、自分が子どものときに「ウルトラマン」を見たからといって、ウルトラマンの模型を買ってきて、子どもと一緒に楽しんじゃ駄目なんですよ。大人はオモチャなんかで遊んじゃいけない。 子どものようにお菓子は食べないし、お菓子があれば、それは子供が食うもんで、大人はそんなもの食えるかって構えなきゃいけない。いまも昔も、心の底では、アニメが見たかったり、オモチャで遊びたかったりする人はいるんです。だけれども大人だからヤセ我慢をしなくてはいけないんですね。 わしが子どものとき父親に映画の「ピノキオ」に連れていってもらったんですが、そのとき心のなかで、「父ちゃん、すまないな」と感じていた。「きっと父ちゃんは全然面白くないんだろうけど、わしのためにわざわざ連れてきてくれてるんだ」という意識が明確にあったわけです。「きっと父ちゃんは美空ひばりとか大川橋蔵の時代劇を見たいのだろうけど」と(笑)。ここに父親の権威の芽生えがあるんです。「公」と「プライベート」の話で言うと、まずヤセ我慢をしなければ、「公」という感覚は身につかないんです。「公」の言葉を吐くというのは、ここでは「ウルトラマン」が好きでも、そんなもの見られるか、という態度をとるということなんですね。」
「新ゴーマニズム宣言第6巻」99年4月1日(小学館)P187より引用
(対談の初出は「諸君!」98年11月号(文芸春秋))

……まああくまで「たとえ」だとは思うが、あえてすっとぼけて「大人が子供の遊び道具で遊ぶこと」について考えてみよう。
「親」と「子」の線引き、「親」の権威復権。あるいは教師の権威復権。そうしたことに私は基本的には異存はない。
ただし、ここではあえて「すっとぼけて」みる。

庶民はいつだて、バラエティやアニメ的なモノは見てきていた。
内容的には、「子供向け」「大人向け」という表示がしてあるだけで、時代劇や西部劇の作劇方法は子供向けアクションマンガと何ら変わらないものもある。ただ、昔の大人は「子供向け」という「表示」には敏感だったはずだ。小林氏はそれを言っているのだろうと思う。
しかしそれは「権威付けのためのヤセ我慢だったのか?」というと、それは一要素でしかなかったと思う。おおかた「世間体が悪い」「ガキじゃあるまいし」とでもいう感覚がかつての親たちの行動規範だっただろう。

だいたい、「ピノキオ」ではなくて「美空ひばり」や「大川橋蔵」だというのがおかしい。これらはすべて、似たようなものだ。ただ「レッテル」として「子供向け」、「大人向け」の違いがあるだけである。物語構造はそう変わらない。
(ただし、内容云々以前に、「父だから同じエンターテインメントでも父向きのものを見る権利がある」と主張することは、まぁスジは通っているだろう。ただし、そんなもの、「父はマグロが嫌いなので家族全員にハマチを食べさせる」程度のことでしかないが)

戦前、戦後を通してあらゆる文化の継承がぶったぎられてしまったように感じる。

しかしそれは違う。
マンガで言えば、あまりにも洗練され、アメリカナイズされた手塚治虫。そして後続の石ノ森章太郎や藤子不二雄。ロック、ポップス。「SF特撮映画」。これらは戦前世代と戦後世代との隔絶の象徴であったように思える。
そして大枠では「ガキ文化」であったことも、小林氏発言の動機になっているだろう。

だが実際、ことはそう単純ではない。
なぜ戦後爆発的に「ガキ文化」が増殖したかについてはだれかが考察しており、それなりの功罪を結論づけているだろうが、それが小林氏が感覚的に感じ取っている(と思われる)「大人のガキ化」と直結するかというと、それはあまりに短絡的に感じる。

たとえばマンガにおいて、戦前〜戦後の「ガキ文化」のつなぎ手になった一人に、梶原一騎がいる。マンガは、「正史」として手塚からの流れがあまりにも多く言及され続けてきたが、その洗練度合いはむしろ「ガキ文化」の大枠ではむしろ異質で、実際には強く厳しい父・やさしい母・努力する主人公・ライバル・必殺技、などの基本パターンは戦前からずっとつながってきた。これらを継承した梶原一騎の方が、エンターテインメントとしては伝統的なものだった。

だがオトナは「大川橋蔵」は見た。「あしたのジョー」には眉をひそめた。「黄金バット」は見なかった(と思う)。
そこに権威が芽生えるかというと、かつては芽生えたのだろう。だがはっきり言って現在では芽生えないと思う。

ガキ文化の構造にちょっと目を向けてみれば、大人のエンターテインメントの方が、多少血の量とオッパイの出るシーンが多い(笑)というだけのことに気づかされてしまう。
そこには権威など、私はないと思う。
(どうせ権威づけるなら、こむずかしい海外の純文学を読むなど、高踏的な態度に出るほかはないだろう)

「ウルトラマン」で父の権威を保つ法? 私は子持ちじゃないから、机上の空論では簡単である。
オモチャをどの程度買い与えるかに厳しい制限を設けること。
オモチャで遊ぶ時間にも制限を設けること。
以上が大前提。

別に一緒に遊んでもいい。
子供が少し大きくなったら、「なぜウルトラマンなのか」について話し合ってみてはどうだ?
子供が見る「ウルトラマン」と大人が見る「ウルトラマン」はまったく違うものだ。 ここで、あえて戦略的に「反戦テーマ」で語ってみてもいい。
特撮技術のむずかしさを語ってもいい。
「ウルトラマン」がつくられるにあたって、だれがどんな努力をしたかを語ってみるのもいいのではないか。
ただ超人と怪獣が出てきて、もみあっているだけの作品ではないということを、子供は知らないかもしれないが自分(親)は知っている、ということを充分に示せばよい。

おまえ(子供)のウルトラマンと、自分(親)のウルトラマンは違うということを、示せばいいのだ。

もともと小林よしのりというマンガ家は、たとえば「ウルトラマンが流行って子供たちに大流行。でも父親はシブい顔をしている。しかし陰ではこっそりだれよりもウルトラマンが好きだった……それが見つかって大慌てする父親」というような展開のマンガを描いていたような気がするんだけどなあ。具体的にそういう作品を思い出したわけではないし、展開としてはもう少しめちゃくちゃにはなりそうなんだが。
「公」と「個」には、はっきりわけられないボーダー部分があり、そこがきっちり機能していないと、たいへんに窮屈な世の中になる。
マンガはいわばその調整役だったはず。

私の「新ゴー宣」に対する興味は、本来「公には『読んでいる』、と言えないマンガ」を生業としている小林氏が、なぜあえて「公」ということを言い出すようになったか、だ。「マンガを面白くするため」? それは大きな動機には違いない。「すでに茶化しても笑えないほど父の権威が失墜してしまったから」? まあそう感じるのもあながち間違いではない。ではそこでなぜ「公」の復活を、「マンガ家」がやらなければならないのか。

「公」と「個」のテーマは、すでに「大人もマンガを読むようになった」という現状を否定してはいまいか???
「自分の作品だけはよい」というゴーマニズムか???

ガキ文化(広義のサブカルチャー)の台頭、戦後から一貫して崩壊し続ける秩序、「公」と「個」の意識の希薄化……確かに重要なテーマではあるが、私には現在のような方法論(それがアンチテーゼであるとか道化を演じて人々の覚醒をうながすとかいう戦略であったとしても)に効果があるとは、どうしても思えないのだ。

イイトシをして、マンガやアニメやおもちゃが好きな人がやることはただひとつ。
毎日、きちんと働いて、あるいは勉強し、一般常識を守り、「他人さまに迷惑をかけるな」なーんて消極的な教訓ではなく、「普遍的な」倫理や道徳について考え、日々悩み、行動すること。これしかない。
そして、もちろんそこには「ユーモア」がなければならない。
「ゆうもあ大賞」のユーモアじゃないよ。ときにはサボったり、休んだり、といった潤滑油的な要素、精神的な余裕のようなもの。
そこに、「おもちゃ」や「アニメ」が入ってくるかもしれないのだから。
そういうことさえできていれば、アニメを見ようが何をしようが、いったいだれに文句を言われるすじあいがあるのか?

かつての「公」と「個」の成立の歴史から現在を見るならば、(もう完全に小林氏の話からはすっとんじゃっているけれども)「どのように厳しかったか」ではなく、「どのようにときにはずっこけることでシステムを保っていられたか」の考察が必要になると、私は思うけどね。

9月3日(金)

大事件発生。もうだれも愛せない。
やっとコミケとコミティアも終了して一段落したというのに……。
なんかもう、今年後半ヤル気しなくなってきた。
すごいガッカリ。
明日になるのがおそろしい。
死ぬ。

9月2日(木)

「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」
見てきました。
実はテレビ版の「続編」と思い込んでいたので、いざ見たら上映開始当初はとまどいましたが、要するに1時間半にまとめるためにリニューアルした感じで す。
以下ネタバレありです。ご注意を。

(映画の基本ストーリー)
天上ウテナは、女子なのに男子用の学生服を着ている女の子である。鳳学園に転校して早々、かつての恋人である桐生冬芽に出会う。ウテナはどうやら冬芽と別れた過去をふっきろうとして男装し、転校してきたらしい(この辺りはもういっぺん見ないとわからん)。

ウテナは同じ頃、「薔薇の花嫁」たる姫宮アンシーと出会い、そして「デュエリスト」の証である指輪「薔薇の刻印」を手に入れる。
「薔薇の刻印」を手に入れた者は、「薔薇の花嫁」獲得のための決闘の資格がある。
薔薇の花嫁を獲得した者は、奇跡、永遠、あらゆるものを手にすることができるのだ。
「女の子を決闘でだれのものにするか決めるなんて……」怒ったウテナは最初の決闘でデュエリスト西園寺に勝利し、この戦いに巻き込まれてゆく。

(感想)
予想以上によくできていた。前回「日記」に書いた、テレビ版の結末の据わりの悪さを、すべて払拭したような出来になっている。
思いきって登場人物やエピソードをガッサリ削ったり、象徴的な部分にもかなり手が加えられている。
盛り上がるところには「絶対運命黙示録」テレビ版主題歌がかかったりとツボも押さえているし、クライマックスも戦いモノとして面白かった。
シュールな演出や美術に惑わされていると「わけのわからない作品」としか見れないが、よくよく見ていれば非常にシンプルな物語だということがわかる。

テレビ版もシンプルはシンプルだったが、黒幕である鳳暁生の「思わせぶりな感じ」や「自分がやっていることへの確信」が、実際の「決闘ゲーム」のウテナやアンシーの生き方にとっての「バカらしさ」とのバランスをいちじるしく崩しているため最終回が妙になっていた。今回は「あること(ネタバレになるので)」を思いきってやったおかげで、さらにシンプルになった。
このため、クライマックスの「外の世界へ出る」という行為も、安心して見ていられるわけだ。

(「外へ出よう」というテーマ)
さて、いくらネタバレを避けようとしても、「ウテナ」の基本テーマが「外へ出よう」であること抜きには一行も書けないので、ここはあえて明記しておきます。
「閉塞した世界を抜け出し、新天地へ出ていこう」というテーマは、むか〜しからあり、「ウテナ」に限ったことではない。
最近では「おはスタ」内で放映中のアニメ「ムチっ子物語」の1エピソード(笑)。お母さん探しの旅を続けるテントウ虫のハナコが、お菓子がいくらでも食べれてゴロゴロしていられる世界に落ち込んでしまう。「ずっとここにいたい」と思うが、母探しの大望を思い出し、そこから抜け出そうとする。
すると、「蜘蛛の糸」のようにいままでダラダラしていたその世界の住人たちも脱出を図ろうとする。
……これなどは典型的なパターン。

この「外へ出よう」テーマは、さまざまな位相で語られてきているいわば近年の「定番」テーマである。素朴に考えれば「少年(少女)の成長」を象徴したものであると言える。

だがそれゆえに、ともすれば「定番」として「堕落」してしまう場合もある。演出の方法にもよるが(「定番」をきっちり描くことはそれなりにむずかしい)、「『外へ出る』とは一体どういうことなのか」ということを押さえていないと、説教臭い「大人になれ」という主張のみが残ったり、楽天的な結末を無邪気にくっつけることになりかねない。

テレビ版「ウテナ」は、アンシーが自閉して自滅していきそうな雰囲気をかぎとったウテナが、大ボスを鳳暁生と認識したことで「外への突破」に大義名分ができたが、当の大ボスである暁生があまりに不明瞭なキャラクターだったため、最終回になんだかよくわからない感じを残してしまった(と、私は考えている)。
あのラストでは、暁生は自閉的な世界で満足する男、というイメージであり、一方の「人々を操る陰謀家」というイメージとどうにも矛盾するのだ。

映画版「ウテナ」では、その点を大幅に改変し、「『外の世界へ出よう』という意志はウテナとアンシーが過去と決別することによって内在的に現れる。
やっぱりこうでなくてはいけない。
その後も「外に出る」ための戦いがあまりに勢いよく描かれるので、観客はカタルシスを持って映画館を出ることができる……と思ったんだが、まあ他の人の意見はいろいろみたいね。

……というわけで私としては大満足だったのだが、この「外へ出ようテーマ」は「ウテナ」に限らず非常にあぶなっかしい、ということはつけくわえておこう。

本編見て、うまくノレた少年少女たちはみな感動すると思う。そして自分も自分たちにとっての「外へ出よう!」と思うことだろう。これはエヴァを見て形而上学的な議論をするよりよっぽどイイ。
しかし、「物語」は受け取る人によって非常な差異をもたらす。当然だが、あなたの「外」が私の「外」とはかぎらない。だいたい「外」って何なのか。「内」は何なのか。「外に出なければならない」理由は何か。「外に出たら」本当にイイことがあるのか。

「ムチっ子」の場合はまだ単純なのである。ハナコは母探しという大義を放り出すことができなかった。「内」では自分の望みを達成させることができな い。

ところが「ウテナ」はもう少し複雑である。「薔薇の花嫁」を獲得できれば、少なくとも鳳学園という閉鎖空間の中では「奇跡や永遠」が得られるはずなのだ。だがそれをふりきってまで「外の世界」に出なければならない理由はどこにあるのか。

実は、テレビ・映画双方でもこの辺の理由は難解で象徴的なカタチでしか提示されていない(と思う)。
テレビ版では、自閉世界はアンシーにとって永遠に宙づりにされた地獄であり、それを救うには外に出るしかなかった。
映画版では、ウテナとアンシーは「内在的に」外に出なければ、と気づく。これはシンプルでいい。だが「外の世界」がどうなっているのかはまったく描かれていないし、「鳳学園」は捨て去るにはあまりに居心地のよさそうな世界のようにも見える。

「外に出る」ことが正当化されるのは、「それがかなり低レベルな望みも含め」自分自身にとって快楽でなければならないときだと、私は思う。金が欲しいとか、夜中にゆっくりテレビが見れるとか、家族と楽しく過ごせるとか。
「外に出ることが正義」だからではない。「外に出ること」に観念的に固執することは、再び自らを閉塞させることになる

「ウテナ」は、テレビ版・映画版ともども、この辺りの「外に出る理由」についてちょっと難解なことになってしまっていると思うが、とどのつまりは「その方が最終的に自分にとってイイから」というしごく単純な製作者側の「確信」に基づいているからだと思う。「外に出た方がイイから」は、現代ではとりあえず「公理」のようなものであるのでかまわない。だからこそ、「ウテナ」は一見難解ではあるが実はわかりやすい作品になっているのだから。

しかしですな、「目からウロコが落ちたのか、目にウロコが入ったのかわからない」と言ったのは星新一だったかだれだったか。「外だと思ったら内だった」「出たと思ったら返ってた」などということも人生にはよくあることなの だ。

「ウテナ」は「外に出ようテーマ」としては出色の作品であると思う。そこまではいい。だから、21世紀には「外とは何か? 内とは何か?」まで意地悪く突き詰めた作品を(もちろんカタルシスを伴ったままで)を見てみたいと思
うのは、私がひねくれていてトシを取っているからでしょうか。

なお、パンフ1500円は、高い。

9月1日(水)

「8月の日記のあらすじ」は、私が大学時代(91年)に、力学(ちから・まなぶ)
がサークルで発行した「島田荘司読本」というコピー誌の冒頭に載せられていた詩を改訂して抜粋したものである。

島田荘司は、念のために書いておくと推理作家です。
この本、普通の研究本と違い、虚実ないまぜになっているというファンにあるまじきヒドい本だ(笑)。

まず序文に島田荘司の経歴が書いてあるが、全部ウソである。
代表作が「おっぺけたらいぶね・バージンブルーのサリーは栄光を百日でつか んだ」
ってなんだそりゃ。
いえね、むかし「サリー」っていうチェッカーズみたいなバンドがあって、それが「栄光を百日で掴んだ」って言ってたんだよね。百日で消えちゃったんだけど。

内容も、だれ一人島田作品の本質には触れておらず、それをサカナに勝手放題言っているという相当なもの。私が滑川ニュッピー名義で、探偵「御手洗潔」にひっかけて「オタクについて」と「才能があるやつが勝つ」という実にダークネスな短文を書いているのが自分で笑ってしまいます。三つ子のルサンチマンは百まで、ですな。

……考えてみりゃ、この数年後、後輩がマジに島田荘司にインタビューに行っている(はずだ)。……ぜったい見せられないなこんなの。

「スター・ウォーズ」見てきた
「スター・ウォーズ エピソード1」を見てきた。
日本語吹替版。
私自身はまったくといっていいほどスター・ウォーズに思い入れはなく、確か「帝国の逆襲」は見ていないんじゃなかったかな。スイマセン。
で、「エピソード1」は「おもしろい」「つまらない」「おもしろいとかつまらないという問題ではないんだ」など議論百出。こうなったら自分の目で確かめてみるしかない。

結論。
つまらなくはない(けっこう面白い)。
ただし、(以下少々ネタバレ)
・アナキンが出てくるのが遅すぎ!!
・登場人物多すぎ!!
・ダース・モールが中途半端!!

……ってなところだろうか。
むかし少年サンデーかなんかに、「32ページの読みきりマンガの場合は、なるべく主人公を最初に登場させること」とあった。後から出すと、短いページ数では主人公にインパクトを与えるのがむずかしいからだ。
映画の場合はマンガの「32ページ」の「長さ」よりは長いとは思うが、それにしてもアナキンが出るのが遅い。
そこに至るまでの政争も非常にまだるっこしい。
もし、この映画が小中学生対象ならば、ぜったいアナキンを最初に登場させるべき
だったと思う。

たとえば(以下はボクの考えたはじまり方)。
2人のジェダイの騎士が辺境の惑星にやってきて、アナキンの家に身分を隠して住み着き、「実は……」と切り出す。そこでポッドレース。お約束だが、これならアナキンの視点でジェダイの騎士を描けるし、宇宙へ出ていきたいという憧れも描ける。
ここで本当はC3POも出す必要はなく、三枚目ならジャージャー・ビンクスがいる
のだから、こいつとアナキンの友情も描く。
……政争はその後説明しても遅くない。
でないと、いかにも脚本を映像で「消化」しているようにしか見えなくなってしまう。

他にも、「この作品に続編ができるのは確実である」「この作品以前の三部作を観客が見ているのが当然である」と思わせる説明不足や思わせぶりな伏線が目についたが、それはただでさえ「長い」と感じさせるホンをよけい冗長なモノにすると思いました。
でも面白いことは面白かったけどね。

欲しい新刊
1|スペクトルマン(2)  一峰大二/うしおそうじ(角川書店)
6|ガンプラ甲子園(2)  帯ひろ志(講談社)
9|G−taste(3)  八神ひろき(講談社)
12|ミライザーバン(1)(2)  松本零士(講談社漫画文庫)
16|犬っこももちゃん(仮) 桐島いつみ(あおば出版)
16|グラップラー刃牙(42)(完) 板垣恵介(秋田書店)
16|バロン・ゴング・バトル(9)(完) 田口雅之(秋田書店)
上|アストロ球団 完結編(5) 遠崎史朗/中島徳博(太田出版)
中|バチ・ガミ 平井和正/余湖裕輝(大都社)
中|宇宙戦艦ヤマト(3) ひおあきら(ソノラマ漫画文庫 )
中|さらば宇宙戦艦ヤマト(1) ひおあきら(ソノラマ漫画文庫)
20|二十一世紀科学小僧 唐沢なをき(文藝春秋)
28|超速スピナー(5)  橋口隆志(小学館)
29|メイドロイド雪乃丞 井荻寿一(実業之日本社)



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